2022年2月26日土曜日

私と薬学6 田辺製薬・薬理研とホパテ誘導体、GC-MS

1981年4月6日、田辺製薬入社式。
この年採用した新人は空前絶後の232人。
大学院17、大卒125、短大20、高校66、中学4。

当時は男女雇用機会均等法もなく、女子はそのまま配属され(短期の研修はあったのかな?)、大卒以上の男子は「紀北青年の家」で5日間の新入社員研修を受けた。そのあと大阪工場のとなり加島寮に滞在し、2か月近く工場実習をした。

5月末、関東に移動、大宮の独身寮に入る。
6月1日、埼玉県戸田市の東京工場に併設された薬理研究所に配属された。
1981-06-05

田辺製薬は本社が大阪、生産拠点は西日本にあったが、1937年世田谷区代田、梅ヶ丘駅近くに放射能化学研究所ができ、1941年それが東京研究所となる。
1958年埼玉県戸田橋近くに工場用地を取得、1960年に東京研究所が世田谷から移転してきた。
1964年には東京研究所を、有機化学研究所、生物研究所、発酵化学研究所に改組する。
1973年、生物研究所を廃止し、薬理研究所、RIセンター、安全性研究所(大阪)を新設した。

RIセンターは佐藤善重氏を中心に、放射性物質の生物学研究への応用としては国内最高レベルを誇った。そのため、皮肉にも、スモンキノホルム説を唱える東大白木教授らがキノホルムの脳内移行を調べたいという、敵方の実験を担当せねばならなかった。

その後、発酵化学研、RIセンター(代謝研)が廃止され、微生物研究所が新設された。
発酵研の廃止は、1975年から78年にかけてのどこかである。
廃止理由は、合成の有機研、薬効評価の薬理研が車の両輪になり、気管支拡張薬イノリン(トリメトキノール)、鎮咳薬アスベリン(チペピジン)、鎮痙薬セスデン(チメピジウム)、冠血管拡張薬ヘルベッサー(ジルチアゼム)など独創的医薬品を出したのに対し、新薬開発に貢献しなかったから、と聞いた。発酵研は奥田朝晴、鈴木真言、矢島毅彦ら、名の知られた研究者も多く、その分、基礎研究に過ぎたのだろうか。

さて、1981年私が入ったときの薬理研究所は
阿部久二前所長が専務で戸田にはいらっしゃらず、所長が清本昭夫、副所長・中島宏通氏であった。

阿部さんは昭和16年3月(この後は戦時下、繰り上げ卒業となっていく)東大薬学を出たあと海軍短期現役士官の薬剤官として戦艦日向に乗り込んだ。戦後、海軍の医官、薬剤官の親睦会である桜医会の役員としても活動された。田辺在職中は雲の上の人だったからお話しする機会もなかったが、引退されて久しい1995年、思い切って電話した。誰の紹介もなく、面識もなかったからしどろもどろに田辺の社員であること、海軍に興味を持っていることなどを受話器越しに伝えた。その結果、荻窪のご自宅にお邪魔してお話を伺うことができた。彼はのちに桜医会の会長となられたが、元医官でなく薬剤官がトップに立つとは異例のことである。

清本さんは私が入社して1年ほどで大阪の研究企画室に移られたから、ごく短期間であったが、よく若者にも声を掛けられた。堂々たる体躯で海外研究者とも渡り合い、一方で昼休みのバレーボールもどきの遊びにも加わって、カリスマ性のあるリーダーだった。月例報告会で、上司がホパテ誘導体研究の進捗が遅れているのはGC-MSの限界だと言い訳されたら、「ホパテはいま1日1億円くらい売れている。数千万円なら新しい装置を買いなさい」とその席で(予算も立てていなかったのに)ゴーサインを出されたのには驚いた。大阪では取締役となられたが応用生化研の千畑一郎氏とライバル関係だったのだろうか、苦労されたようである。力を発揮されずに途中退社されてしまった。

清本さんの後を継いだ中島さんは、阪大の助手から途中入社された学者肌の方だった。確か奥様が華岡青洲のご子孫だったとかで、青洲の使った手術道具をお持ちという話を聞いたことがある。粘菌の世界的研究者で学術雑誌の表紙を飾ったこともある。後年私が江橋・遠藤研に内地留学することになったとき挨拶に伺ったら研究計画を聞いて、「いやー、私が代わりに行きたいですねー」と羨ましがられた。

1981年の薬理研は
1部(部長 佐藤匡徳) 循環、呼吸、消化器、腎などの内臓疾患を対象
2部(竹山茂之)糖尿病、高脂血、血液、免疫・アレルギーなど生化学的疾患を対象
3部(針谷祥一)代謝など薬物の体内動態を調べる
4部(藤田哲雄?岡庭梓?)毒性、病理部門
敬称略
となっていて、私は第3部に配属された。

一般に薬理と言えば、薬効薬理だから、所内でも1部のことを薬理、2部は生化学、3部はADME、と通称で呼んでいた。
3部の主な業務は、1部2部で見つかった有望化合物の体内動態を明らかにすること。
重要な仕事であるが、受け身的な部門であることは否めない。

しかし有機研から東大江橋研、アメリカ留学を経て3部の主任研究員になられた大橋元明さんは、カルシウムとカルモジュリンに関わる新しい創薬を始めようとされていた。それはもちろんADMEの仕事ではない。部下の我々にも3部でしかできない技術(RIや分析など)を使って創薬を始めることをすすめられた。
チームリーダーの菅原さんはホパテのプロドラッグを探索されており、入社したばかりの私は彼の下で働くことになった。菅原さんも大橋さんも東北大理学部中西香爾研の出身である。

ホパテというのは商品名で、一般名はホパンテン酸hopantenic acidである。
この名前は、ビタミンの一つでもあるパントテン酸より炭素が一つ多いこと(homopantothenic acid)から来ている。スモン問題で倒産寸前までいった田辺製薬をヘルベッサーとともに救ったドル箱医薬品だった。

1978年に、軽い知恵遅れのこどもの言語障害やぼんやりを改善する薬として承認された。ところが、治療薬のなかった老人の認知症にも使われ始めると、大きな利益を生むようになった。私が入社した1981年で年商360億、1日1億円売れるという大型医薬品だった。

本来この化合物はγアミノ酪酸(GABA)の誘導体として、阪大小児科の西沢義人教授が考えた。GABAは1950年代に慶応生理学教室の林髞(はやし たかし)教授らによって哺乳類脳内で抑制性物質として働くことが示されていた。しかしGABAは神経伝達物質であるから、血中に入っても脳まではいかない。
そこで西沢は1957年、ビタミンであるパントテン酸がGABAより炭素が一つ小さいβアラニンとパント酸がアミド結合したものであることに着目し、GABAをパント酸に結合させた。すなわちGABAをパントテン酸に似た誘導体、すなわちホモパントテン酸にして、パントテン酸輸送体に乗せて脳に運ぼうとしたのである。

パントテン酸

ホパンテン酸

1964年から田辺製薬は西沢教授と共同研究を開始した。その結果、予想と異なりホパンテン酸は脳に入ってもGABAを遊離せず(プロテアーゼでアミド結合は切れず)、その脳神経系に対する作用メカニズムは全く謎となった。

とはいえ、ホパテの売り上げは伸びている。
(1983年2月には小児だけでなく成人脳卒中後遺症への適応も追加承認された)
そんな中、会社はさらに誘導体を作ろうとした。
すなわち、経口投与で血中、脳内のホパンテン酸濃度を高めようとした。

ホパンテン酸もパントテン酸も水溶性であるから、腸内の輸送体によって血中に入る。そこでプロドラッグを作りたい。すなわちホパンテン酸の2つのOHをアシル化、COOHをエステル化し、脂溶性を高め受動輸送で血中に入れることを計画した。血管内で加水分解されホパンテン酸に戻れば血中濃度が上がるだろう。ただしあまり脂溶性を高めてしまうと消化管で溶けなくなり吸収されない。

そこで様々な誘導体を合成してもらい、ラットに投与して脳内と血中のホパンテン酸濃度を定量した。測定はガスクロマトグラフィー(GC)で分離したあと質量分析計(MS)に導くGC-MSを使った。

内部標準物質としてパントテン酸を使ったが、もともとパントテン酸は血中にもあるし、GCにおける保持時間がホパンテン酸と異なり、検量線を書くと低濃度のホパンテン酸がうまく測れない。そこで重水素ラベルのホパンテン酸を合成し内部標準とした。これなら生体サンプルからMSに入るまで、全く同じ挙動を示す。
この時点で私が入社、プロジェクトに参加した。




d2ラベル体を標準物質に使う場合、マススペクトルのm/zでMとM+2のピークの高さを比較する。しかし検量線を書くと、やはり低濃度でずれてしまった。
低濃度では吸着の影響で低く出るのだと一般には考えられていた。
しかし日々の業務は単純だったから、頭が考えることを欲していて、なぜずれるか、考えてみた。






計算してみると、このずれは、ホパンテン酸の炭素に同位体、C-13が含まれ、これが2つ入ったものが内部標品のd2と重なるためであると予想した。直線だと思っているものは双曲線ではないか?
今ならパソコンで理論式をフィッティングさせることもできるだろうが、当時のGC-MSは直線に最小二乗法でフィッティングさせることしかできなかった。

そこで私は検量線を完全な直線とするため、完全に重ならないように重水素を6つ入れたホパンテン酸を内部標準物質とするべく、ラベル体の合成を試みた


その結果、d6-ホパンテン酸を標品に使うと、理論通りきれいな直線ができた。
今見ても見事である。

・誰も気が付かないところに問題点(テーマ)を探す
・仮説を立てる
・実験で証明する

私は研究者として最低限の資質はあったようだ。

・・・しかし何かが足りなかった。
まだ若かったせいもあるが、大局観というか、野心がなく、のちには指導者としての資質もなかった。

そもそも、検量線が直線にならなかったら、低濃度用と高濃度用の2本の検量線を作ればいい。高価な重水素ラベル体など必要ない。
もっと、ホパンテン酸の脳内結合たんぱく質を探索するとか、大きなテーマに向かうべきなのに、目の前の重箱をつついていた。

(続く)
次回は薬物代謝研究について


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