(前回からの続き)
田辺製薬の薬理研究所代謝部門でホパテ誘導体を研究している、と言っても実際は、毎日血液あるいは脳サンプルからホパテを抽出して、GC-MSの試料入り口にシリンジで注入しているだけだった。暇だから抽出法の改良とか、測定値処理ルーチンのプログラミングとかしていたが、いずれにしても些細なことだった。
要するに飽きてしまった。
学生時代に実験していたのと違って給料もらっているのだから文句を言ってはいけないのだが、そこまで考えが回らない。日払いアルバイトならいくら単純作業でも全力でやるが、銀行振り込みだと給料もらっているという意識がない。有難味がないから、ただ毎日の仕事内容で判断してしまう。1年も経つと会社を辞めたいと思うようになり、いろんな人に相談した。しかし誰もが、もう少し考えろ、という。
退職せずに他の仕事をさせてもらうことを考えた。
所属する体内動態部門は、標識体を合成して、投与し、体内分布をオートラジオグラム(ARG)や組織定量でみたり、尿に排出されるまでの時間、量をはかったり、代謝物の構造決定、定量などをする。1日GC-MSの前に座っているのでなく、周りの人がやっているこういうこともしたかった。いろんなことをすれば飽きずに会社勤めができるのではなかろうか。
1983年、ちょうど大橋研の中で杉原重孝リーダーがアメリカ留学から戻られ主任研究員となって独立することになった。
他の仕事もやりたいと希望を出すと、それが通り、2年ほどお世話になった菅原洋一リーダーのもとから杉原研に移籍した。その1年前に臼木さんが菅原グループに入られ、私のやっていた仕事はすべてマスターされていたので、特に問題はなかった。
以前から杉原さんの下にいた中野さんは、上司の留学中から学位論文の仕事をするため一人で実験されており、杉原研は安藤英広さん、長栄操さんと私の4人で出発した。
杉原さんは毎日五時半になるとラケットをもって液剤工場の卓球場に急がれた。
東北大の農芸化学で大学院まで脂質代謝を研究なされ、入社してからも脂質と薬物のリンパ管輸送を会社業務の間に、あるいは業務が終わってから実験されていた。とにかく仕事をまじめにされ、また実験しながら掃除機を率先してかけていらした。
安藤さんはわざと頭が悪いふりをしていたのか、「金がないなら知恵を出せ、知恵がないなら汗を出せ」と自分に言い聞かせているのか、動物ケージ洗いなど肉体労働を率先してやっていらした。
さて、最初の仕事はコレステロール低下薬のTA-1801だった。
東大の獣医学科を出られた1年先輩の安藤さんはARG、組織内濃度定量など動物実験を担当され、標識化合物の合成、代謝物の精製単離構造決定など化学関係は私が担当した。
ラットにC-14の放射性薬物を投与して尿を集め、酢酸エチルで抽出、TLCで展開、フィルムで感光させると黒いスポットが4つあった。それを見て杉原さんは「うーん、ちょうどいいな~」と東北弁(花巻?)で仰った。4つより多いと手間が多いし、少ないと物足りないということらしい。
4つのうち1つ(M1)はTA-1801(エステル体)が予想通り加水分解されたものだから実質は3つである。代謝物の数が杉原さんの言うような、「ちょうど良い」というどころではなかった。この3つは奇跡のようにすべて興味深い代謝物だったのである。
まずM4。
これはM1のカルボン酸がグルクロン酸抱合されたものだった。
GC-MSですぐ分かったが、これは当時結構珍しかった。
グルクロン酸抱合自体はよくある代謝物で、多くはフェノール、アルコールのOHやアミンのNHにグルクロン酸が結合する。当時、カルボン酸のOHにグルクロン酸が付くことは理論的には考えられるのだが、実際はあまりなかった。おそらく抱合体が加水分解されやすく、室温で尿を採取したり、無神経に精製したりすると分解してしまったのだろう。
もっと大きな(興味深い)問題は、TLCで分離したと思われるM4のGC-MSをとると、単一物質でなく、ピークがいくつかあり、どれも分子量が同じだったことである。TLCでの挙動も一緒であることを考えられると、これらはM4の異性体であろう。すなわち、M4のカルボン酸がグルクロン酸抱合されることでアシル基が活性化され、グルクロン酸のOHに順番に転移していったものと考えられた。これは大発見だと思ったのだが、論文を書く段階になって調べたら、前年1982年に報告例があった。
これは分子内転移だが、もし生体高分子のOH,NH,SHなどが近くにあれは、アシル基はそこに結合することになる。M4は胆汁排泄されることもわかっていた。つまり胆のうがある種は、胆のうが危ない。当時ラット、ウサギ、犬の3種類で動態を調べることが標準プロトコールであったが、ウサギは胆のうがある。そしてヒトもある。
研究者というのは自分の仕事をなるべく意味のある、立派なようにする癖があり、私も声高に言いたいところだが、公式には言わなかった。可能性の段階で懸念を言えば、大げさになり、異常に慎重な人を心配させることになる。
そもそも大企業は石橋をたたきすぎて潰してしまう傾向がある。熱意をもってプロジェクトを進めるより会議で批判するほうが簡単だからだ。会議で評論家然とする人のほうが出世する。
TA-1801の場合も実際、しっかり見ている毒性部門から報告があってから言えばよいと思った。結局この化合物は開発中止になったが、その原因が何であったか、私は知らない。
またM2,M3は、M1のフラン環が開いた化合物だった。
フラン環はベンゼンと同じように芳香環で安定と考えられていた。
どうやって開いたのだろう?
ベンゼンは酸化代謝されるとエポキサイドができて、その三角が開けば水酸化体(フェノール)ができる。その経路をフランもたどれば、自然と酸化されM2(カルボン酸)ができる。(下図左)しかしこの経路でM3(アルコール)を作るにはM2を還元せねばならない。
そこで水酸化体でなくアルデヒドを通る経路(下図右)を考えた。
これを証明するにはフラン環5位の水素が保持されるか、抜けるか証明すればよい。
TA-1801を重水素硫酸D2SO4で加熱した。もちろん溶媒のメタノールも重水素化していなくてはならないから、そこそこ金がかかった。すると奇跡的に5位のみの水素が重水素置換された。そしてこれを投与するとM3に重水素が保持されていたのである(GC-MS, NMRのC-Dカップリング)。これはM3がM2より先にできたことを示す。
ここでアルデヒドの生成は有毒かもしれない。
アシル基転移といい、アルデヒドといい、薬物代謝は解毒機構と知られていたが、逆に有毒である可能性が強く示された例である。
こうしてM4のアシル基転移と、フラン環の新しい代謝経路ということで、TA-1801の代謝で論文を2本もかけた。
第一著者として自分で書いた初めての論文だった。
論文を書くことは業務とは関係ない。しかし製薬会社の研究所というのは製造業としては珍しく、研究者が論文発表をしていくことが伝統となっているありがたい職場だった。
1983年2月 薬理研3部
(この写真で思い出した。高橋主任は退職間際に免許を取られた。この階段から荷物を入れるときに業者の車が邪魔になった。ドアが開いていたので数メートル動かそうとされたらブレーキとアクセルを間違えられ、建物に暖房スチームを送る管に激突してしまった。優しい方であったが、お元気でいられるだろうか)
(続く)次回は東大の薬理に内地留学
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