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20221004 京成線の車窓、青砥駅と高砂駅のホーム
2022年10月1日、退職後のアルバイトは通い始めて半年、すっかり慣れた。市民農園での菜園アドバイザーは楽しいが、けっこう疲れるから、いつもはまっすぐ帰る。
しかしこの日、13時から16時までの仕事が終わって、京成高砂から隣の青砥まで一駅歩いてみることにした。
葛飾区は昨年、さだまさしの出た中川中学と木根川橋を自転車で見にきたことがあったが、区の西南の端っこを短時間かすめただけだった。
高砂も青砥も京成では数少ない特急停車駅であり、葛飾の中心(といってもどこか分からぬが)を歩くの初めてである。
2022‐10‐01 16:21
高砂駅の手前で、ヨーカ堂の東の踏切をわたる。
この日気づいたが、大量のケーブルが道路の上空を横断していた。
ふつうは地下を掘ると思うのだが・・・。
夕日を背に、車両基地と私の伸びた影をとる。
柴又線(上の高架)、北総線、京成本線のほかに車庫への引き込み線が走る。
ここはすぐ警報機が鳴って落ち着いて写真も撮れない。
16:23
遮断機は上がったばかりなのに再び下りた。
右のABCさんの洋服は199円からある。二つの意味で掘り出し物がありそうだが先を急ぐ。
イトーヨーカ堂に入って通り抜けた。
ここだけ別世界のようにおしゃれである。以前ここで弁当を買おうとしたが、いくつも並ぶレジが混んでいて買う気が失せ、コンビニに行った。
16:25
高砂駅北口がたいそう狭かったから(前のブログ)、南口を見に来たら、こちらは道路の先がいきなり駅の入り口だった。本当に京成の駅はどこも駅前広場がない。
「駅の高架化を早期に実現しましょう」と垂れ幕があるが、駅(改札など)はすでに高架なのだから、開かずの踏切解消のため「線路の高架化」であろう。
村社というのは旧曲金(まがりかね)村のこと。明治の地租改正のとき農村地帯であった曲金村は名前のなかった小字に、謡曲から取った明石や高砂など8つの地名をつけたという。それが1932年の葛飾区成立のとき、金が曲がっては縁起が悪いと、京成の駅名にもなっていた高砂が昇格、これが1960年代の住居表示でも残った。
実に静かなお祭りであったが、社殿の前に人がいて、いくと舞台で女性が踊りを舞っていた。
社殿の後ろに火の見櫓と京成の線路がある。
神社では立ち止まらずに先を急いだ。私の散歩は速い。
川の手前の道路際にお寺があった。
16:32
この半年、電車からいつも見ていた大光明寺。
二階建ての門が独特。
その門の前に看板が見えた。寺の縁起(由来、沿革)でも書いてあるかと道路を渡る。
16:33
門の前の看板に近づいたら寺の沿革などを記した案内板ではなく、「大光明寺設立協力者芳名」がびっしり記された金属板だった。こういうものは門の内側に設置すればいいと思うが。
しかし、よく考えると「設立協力者」というのは変である。
帰宅後調べたら、ここは江戸時代から続く極楽寺で、廃寺となり、平成となって、庫裏や門などそのままに「大光明寺」が設立されたらしい。
ここの葬儀場はいまだに「極楽寺会館」という。
要するに、外から見れば、最近になって名前が変わった寺ということになる。
中川と並行して堤防下に単線の線路が走っている。
総武線の新小岩と常磐線金町を結んでいる。
新金貨物線といい、最大で1日数往復するらしい。
地元葛飾区では1950年代から旅客を乗せてほしいと要望しているらしいが、実現すれば短いわりに常磐、京成、総武の3線がつながり、便利になるだろう。
ここで新中川(左、東)が中川(右)と分かれる。
16:36
左から中川、新金線、大光明寺。
大光明寺(極楽寺)が高床式になっているのは洪水を心配してのことだろう。
16:37
中川にかかる高砂橋から上流を見る。
線路橋のむこうに、立派な慈恵医大葛飾医療センターが見えた。
慈恵医大は都営浅草線の大門から乗れば青砥まで乗り換えなしで来る。
ここは戦前から東京慈恵医大附属中川堤診療所があり、戦後は付属青砥病院と改称、2012年に新病棟が完成、今の名前になった。16:40
高砂橋から下流方面をみる。
つい、スカイツリーがみえると画面に入れてしまうが、位置情報として貴重。
蛇行する中川はしばしば水害をもたらし、戦前の1939年に中川開削・改修を目的として東京府中川改修事務所が設置された。しかし戦争激化のため1945年4月に計画は中止。
しかし1947年、カスリーン台風によって東京東部が再度浸水、1949年に中川改修事務所は再開され、中川放水路の開削が本格化。1963年に完成。
1965年3月、荒川放水路と同様、一級河川に指定され河川名を「新中川」に改称された。
16:42
高砂橋は斜張橋である。
(斜張橋という言葉を作ったのはお隣の90歳、伊藤先生)
中川の上流(写真左側)は、足立―葛飾の境、八潮・草加・越谷―三郷・吉川の境を流れ、武蔵野線吉川駅の北、吉川橋の上で元荒川と合流している。中川はさらに北上、古利根川と合流、幸手権現堂堤、加須を通り羽生まで行くらしい。なお、元荒川は熊谷南部で荒川から分かれている。
下流(右)は、新中川と別れた後、旧中川と呼ばれ、蛇行しながら南下、さだまさしの通った中川中学のわきで荒川放水路で分断されるもなおも続き、総武線平井と亀戸の間をとおり、江東区、東大島駅の南で再び荒川放水路に合流する。
16:43
文京区の地形的魅力は坂道とすれば、葛飾区は川であろう。
アイデア次第で名所ができそうな気がする。
中川とは荒川(隅田川)と江戸川の中間という意味だろうが、それは地図を見て初めて分かること。地元の人は他と区別するため、例えば「東の大川」などと呼んでいたのだろう。埼玉の上流の人に至っては、地図を見てさえ「中川」に意味がない。しかし名前はないと不便だからお上がつけた名前でも定着する。
さて、橋を西に渡り切ったが、車道を直進せず旧中川に沿って歩く。
河川改修工事をやっていて、フェンスが高く川が見えない。
そこで、フェンスの内側の手すりによじ登って写真を撮る。
16:45
遠くから見て船に思えたのは工事の足場だった。
遠くの橋は「あおとばし」と読めた。
はて、漢字はどう描くのだろう?
京成電鉄の駅は青砥だが、周辺の地名は青戸である。
戸は、渡し場・船着場・埠頭つまり湊(水門、みなと)のことであり、江戸、水戸、奥戸、松戸、登戸、坂戸も同じである。
一方、青戸7丁目の葛西城址のあたりに鎌倉時代、青砥藤綱の屋敷があったとされ、京成の駅名はここからとったという。しかし、青砥は青戸からとったかもしれず、また逆に砥はすり減るという意味で縁起が悪いとされ、書くのに便利な戸になったとも考えられ、そうなると湊・水門説も怪しい。
16:51
「青砥」橋の上から蛇行する旧中川をみる。
スカイツリーがあるとつい地図を頭に浮かべてしまう。
よく考えたら、この橋は初めてではなかった。
15年前の2007年9月30日、葛飾区の体育館エイトホールでダンスの競技会があり、JDSFラテンD級で92組中10位、スタンダードは88組中2位の準優勝だった。
この日、朝は青砥駅からタクシーに乗ったが、帰りは青砥橋を歩いて渡った。
しかし雨の日で、景色を見る余裕もなく、全く覚えていない。
16:52
青砥橋から高砂橋をみる。
橋の北詰の道路標識は、右:柴又、直進:高円寺、亀有、とある。
高円寺? そんな寺は葛飾で聞いたことがない。
そうか、この広い道路はぐるっと西に回る環七通りであった。
17:00
青砥駅到着。
高砂同様、駅前広場はない。
やはり駅最上階のホームの高さはビルの5階6階に相当する。
線路高架下は駅ビルのユアエルム青戸になっている。
1989年開業だから2007年はこの景色だったということか。
17:02
南口にも来たが何もない。
タクシー乗り場すらない。
2007年はどこで乗ったのだろう?
別ブログ
20210925 さだまさしの荒川、木根川橋と四ツ木橋
20210926 さだまさしの中川中学、白鬚神社と水道路の今
20220313 65歳からの職探し5 菜園アドバイザー
これでブログは1001本。
1000本目は記念となるものを書こうと思っていたが、いつの間にか通過してしまった・・・
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