2021年9月26日日曜日

さだまさしの中川中学、白鬚神社と水道路の今

9月8日、墨田区の白鬚神社に来たときさだまさしを思い出した。

帰宅後調べたら、さだが歌ったのは葛飾区のほうの白鬚神社だという。
墨田、葛飾方面はまったく土地勘がないから、「木根川橋」(1979)の歌詞も大して関心がなかった。

木根川橋から水道路ぬけた
白鬚神社の縁日は
アセチレンたいてあんずうめ売っていますか
(略)
木下川薬師の植木市の日には
今でも必ず雨が降りますか
もんじゃ焼きのコツ忘れちゃいませんよ
(略)
あの頃チャリンコ転がしていった
曳舟、押上、浅草の不思議な胸の高鳴りと
荒川土手の忘れちゃいけない毎度毎度の草野球

9月11日、自転車で木根川橋まで来た。
国土地理院1963‐06‐26撮影
上から四ツ木橋(国道6号)、京成線、旧四ツ木橋、水道橋

木根川橋の竣工はこの写真のあと、1969年(昭和44年)2月。

ウィキペディアによれば、さだまさし(1952年4月生まれ)はバイオリン修行のため、長崎の小学校を卒業した1965年、単身で上京した。
葛飾区にすみ、この木根川橋近くの中川中学に通った。
そのあと中学3年から市川市にうつったが、卒業までは京成で四ツ木まで越境通学した。
高校は市川から国学院に行ったため、葛飾から離れた。
すると彼がここを去った1968年3月はまだ木根川橋はなく、歌のモデルになったのは旧四ツ木橋ということになる。(前のブログ)


2021-09-11 17:10 木根川橋

文京区からはるばるママチャリで墨田区北部をうろうろしたあと、せっかくだから、と荒川の木根川橋を少しだけ見ようとした。しかし幸か不幸か、新四ツ木橋の西側、すなわち墨田区側では堤防道に降りられない。仕方なく長い橋を渡り切り、葛飾区側の堤防を走らざるを得なかった。
その結果、さだの「木根川橋」の舞台、橋の東側まで来てしまった。

もう夕方5時過ぎ、一人帰ることを思うと心細くなってきた。
しかし、せっかくここまで来たのだ。
まっすぐ橋を渡って帰宅することはせず、さだまさしの過ごした街をみてみよう。
堤防を葛飾区側におりた。

17:13
いきなり目についたのは、
浸水時は3メートルになるという電柱の表示

ちょっと住宅地に入ってみる。
道は狭く、まったく区画整理されていない。
江東の各区は都心から離れているのに緑がない。坂と寺社が少ないからだろうか。
(ただし河川敷などもあり、公園は23区平均より広い)
17:17
珍しく住宅街の緑、というより放置された藪。

17:20
左に何やらゆかし、小さなお堂。
この道こそ歌われた水道路(すいどうみち)だろうか、と思うも少し曲がっている。
自転車で少し走るも木根川中央公園のところで引き返す。

再び住宅街に入ると石柱に出くわした。
「やくしみち」と読める。その方向に自転車を走らせたらまた堤防のほうに戻ってきた。

17:27
木下川薬師 (きねがわやくし)
写真右上は荒川東岸の首都高中央環状線(ということは王子のほうへ行く)。
薬王院浄光寺は夕方で門が閉まっていた。
どっちみち見る暇はないからいいけど。

なんでこんな町はずれの川のそばに寺が?と思うが、本来は西北約600mのところにあった。それが荒川放水路の流路にあたっていたため、大正8年(1919)5月、現在地に曳屋されてきたのである。ということは、あの「やくしみち」の石柱もどこかから移設したのだろうか。

木下川、木根川は木下川薬師から今葛飾の地名に思えるが、墨田区側にも(別ブログで述べたように)木下川小学校があった。すなわち、荒川放水路で木下川村(上、下)が両区に分断されたのである。
ちなみに木下川は昔木毛川と書いたらしい。きげがわの音がいつしか木下川となり、きねがわと訛って、木根川となったのであろう。

ま、とにかく「植木市の木下川薬師」は見つけた。
さあ先を急ぐ。

実は例の石柱からここへ来る途中、白鬚神社参道という案内板を目ざとく見つけていた。
急いで戻り、細い道を入っていく。
17:28 王子白鬚神社
しかし、「アセチレンたいてあんずうめ売っていた縁日」など開けないほど狭い。
これも荒川掘削で移転してきたのだろうか?
白鬚神社は近江の大社だが、末社は各地にあり、墨田区白鬚橋東詰めのほか、葛飾区にも王子白鬚、渋江白鬚、四ツ木白鬚と、3社ある。
さだまさしの神社は「木根川橋から水道路ぬけた白鬚神社」である。

参道を戻ろうとすると神社の隣の木根川小学校で作業されている70歳くらいの男性(用務員さん?)がいた。フェンス越しに、

「すみません、水道路の近くの白鬚神社ってご存じですか?」
「ああ、渋江白鬚神社だ。こちらは木下川村の鎮守、あちらは渋江村の鎮守」
「どうやって行くんですかね?」
半袖下着シャツの彼は蚊をパチンとたたきながら
「うーん、水道路まっすぐ行って、○○って葬儀屋知ってる? その裏なんだけど」

そんな葬儀屋知ってるくらいなら、道を聞きません・・・・

「その水道路って、このすぐ裏の、入り口にお堂があって木根川中央公園のあるまっすぐな道ですかね?」
「あれは昔、どぶ川があって、それを埋めた跡だ。水道路はもっと向こう。」

この方、地元のいろんなことをご存じのようだが、時間がないのでお礼を言って自転車にまたがった。

そうだ、水道路に行く前に中川中学に行ってみよう。
木下川薬師・浄光寺の向こうに学校らしきものが見えていたから。
17:33葛飾区立中川中学校 
堤防に面して裏口のようだ。

17:35
浄光寺のやくし幼稚園のほうを回り、路地に入ると、こちらが正門らしい。
屋上の看板は多分左から読むんだろうな。右は浄光寺の墓地。

さだまさしの通った60年代は木造だったようだが、曲を作った1979年には
「先生、俺たちの木造校舎すっかりなくなっちまったんですねぇ」
と歌の中のセリフにしている。
「あの暑い夏にローラー転がしてならしたテニスコートの上にプールなんかできちまって」
は確認する暇もなく、ここも自転車にまたがったまま写真だけ取ってUターン。
中川中学の木造校舎 1963
十字の印のところにプールができた。

17:38
急いで水道路に行く途中、京成タウンバス新小岩駅行きの停留所「水道橋」を発見。
しかし今や水道橋はない。
国土地理院1975‐01‐20撮影
1970年代になって、荒川を越える水道橋が撤去された。(河川敷に跡がある)
送水管は荒川の下をくぐっているのだろうか?


さて水道橋バス停のそばにまっすぐな道があった。

17:39
東京都水道局の管理地あり。水道路に間違いない。

帰宅後、グーグルで水道路をみてみた。
きれいに町に割れ目ができている。

google2021
下の川は荒川に沿って並行する綾瀬川。
左下が木根川橋、右は河川敷まで渡る東四ツ木避難橋である。
遠くのほうから右上にかけて中川の蛇行が見える。

ちなみに水道路は中川(写真手前)を越え、その先は住吉小学校の北西などを通って、江戸川べり、柴又帝釈天の金町浄水場(上)まで続いている。
金町浄水場から墨田区、江東区に浄水を運んでいた。
世田谷区の荒玉水道道路を思い出す(別ブログ)

とにかく急いで水道路を自転車でゆく。
あった。東四ツ木セレモニーホール。
ここで左折

17:42 渋江白鬚神社

境内は誰もいない

17:43
今でも縁日が開かれるのかな?
さだまさしの詩にはアセチレンの香りがよく出てくる。
「ほおづき」が思い浮かぶ。

見るべきものを見たので、後はひたすら自転車をこぎ文京区まで帰る。
水道路は、まっすぐ(これは当たり前)わき目もふらず過ぎた。
17:50
きねがわばしに戻る。
写真の時間で分かるように1分刻みの忙しさであったが、40分経っていた。
正面にスカイツリー。
いつも東に見るのが西にあるとは、はるばる来たもんだ。

17:51 橋の上から
中川中学から一番近い河川敷グラウンド。
彼は野球が好きなことは間違いないが、どのくらい遊んでいたのだろう?
バイオリンの修行で上京し、吹奏楽部にも入ったから忙しかっただろう。
しかし途中でバイオリンで生きていくのは諦めたようだから、友人たちとここで泥と汗にまみれたのかな。
さだまさし 時のほとりで(新潮文庫 1980)

「木根川橋」は、ソロになって4枚目のアルバム「夢供養」に入っていた。

 1st 1976年11月「帰去来」
    線香花火、異邦人、童話作家、絵はがき坂、指定券、胡桃の日、、、、

 2nd 1977年7月風見鶏」
    最終案内、つゆのあとさき、飛梅、きみのふるさと、セロ弾きのゴーシュ、もう一つの雨宿り、吸殻の風景、桃花源、晩鐘

 3rd 1978年3月私花集アンソロジィ」
    檸檬、天文学者になればよかった、案山子、秋桜、加速度、主人公、

 4th 1979年4月夢供養」
    ・・・・タイトル見てもメロディが出てこない。

最初の3枚、「アンソロジィ」まではシングルで出た曲もすべて入り、好きな曲も多かった。友達に頼んでカセットテープにコピーしてもらい、一人アパートで下手糞なギターを弾きながら毎日歌っていた。

しかし、そのあとは、天まで届け、関白宣言、道化師のソネット、防人の詩などヒット曲はシングル盤のみで、LPに入らなかった。だから4枚目のLP「夢供養」には有名な曲が一つもない。カセットへのダビングも頼まなかったこともあり、曲に伴う思い出もない。
その後私は就職し、さだまさしも違う方向に進んだようで、すっかり関心なくなった。

ところが、「木根川橋」の歌詞だけは記憶に残っている。
木根川橋、水道路、白髭神社、木根川薬師、そして曳舟・押上・浅草・荒川土手。
これだけ地名が入る歌は珍しい。
ただ、「無縁坂」の不忍(池)、「檸檬」の湯島聖堂、聖橋のような土地勘がなかった。

©シンコーミュージック 1978

話は変わるが、一時期あれほどさだまさしの歌が好きで、かつ月刊明星、月刊平凡も読んでいたのに、彼が中学時代葛飾区に住んでいたことは知らなかった。昭和50年代は、地元民やごく一部の人以外の一般ファンは皆知らなかったのではないか? 本人も周囲も秘密にしていたわけでもないのに広まらなかった。

それが今やウィキペディアに載っている。
その気になれば相当細かいことまで簡単に調べられる。情報、知識の価値がネットで大きく変わったと感じる。
もはや記憶力より検索力、構成力が大事なのに相変わらず学校のテストが暗記重視なのは教育関係者の怠慢であろう。

 

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