2022年11月19日土曜日

八戸の根城、南部師行像と中世の館

青森県に来て八戸に泊まった。

この日は盛岡に行くので、朝食を急いでとって八戸城跡の三八城公園を見て、八戸の中心街に出た。祝日の朝ということで人は少ないが、デパートやホテル、銀行が並び、青森県で人口第二位、中核都市の実力の様子は分かった。

ここから西へ、根城を目指して足早に、ひたすら歩く。
この城は南北朝時代に築かれ、江戸時代初めに廃城となった。日本の城はほとんど戦国から江戸時代初期に作られたもので、中世の城が残っているのは珍しい。

やっと根城に到着。
ホテルから歩いて60分、市役所前から36分たっていた。

市街地から来て根城公園の一番手前、八戸市博物館の前に騎馬像がある。
7:57
南部師行像

50分前に見た八戸城の座像、南部直房とは時代も系統も違う。
ここで南部氏について書いておく。

南部氏は甲斐源氏の流れをくみ甲州巨摩郡南部郷を領していたが、頼朝の奥州平泉攻撃(1189年)に従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、それによって南部光行が陸奥国糠部五郡の土地を給され、1191年家臣数十人とともに入国したと、家伝では伝えられている。
しかし拝領を支証するものはなく、そもそも戦国、江戸大名の多くは家伝、系図を自作した。
司馬遼太郎は、むしろ鎌倉時代のある時期、甲斐の冒険心に富んだ集団が船で乗り出し、はるばる八戸に上陸、奥州に入植したのではないかと推察している。

室町時代、奥州南部氏はいくつもの氏族に分かれ、三戸南部氏(宗家)のほか、一戸氏、八戸・根城南部氏、七戸・久慈氏、四戸氏、九戸氏などがあった。彼らはいずれも南部光行を祖とするが、奥州で分家したわけでもないらしい。

博物館前の騎馬像、南部師行は光行から4代後で、甲斐にいたが南北朝時代に奥州に下向したとされる。八戸に根城を築き、八戸氏・根城南部氏を称した。この系統は安土桃山時代に三戸南部氏(宗家、のち盛岡に移動)の家臣団に組み込まれ、江戸時代初期に宗家によって遠野に移ったことで根城が棄却された。

根城がなくなった八戸にはその後、宗家の分家として八戸藩ができ、新たに八戸城が築城されたことは前のブログで書いた。

根城は中世の館というが、大きい。
一族郎党が菜園ごと暮らせたのではないか?

馬淵川の河岸段丘が西の沢で切れこまれ、北と西が崖になった角に本丸が築かれ、そこに至る前に中館、岡前館、沢里館、東善寺館があり、それぞれ堀に囲まれ、曲輪を形成している。館はたてと読み、中世までの城、すなわち領主の住んでいた場所を表す。
てくてく歩いてきた国道104号が東西に貫き二分するほど、広い。
この国道の北側が保存史跡になっている。

7:59
現在の八戸市街地に一番近い東の端に市立博物館があり、旧八戸城東門が移築されていた。しかし根城とは関係なく、ややこしいから移築すべきではなかった。

門をくぐると空堀がある。
本来、門は堀の内側にあるものだが、これは移築されて公園の入り口を表すだけだから仕方がない。
7:59
今はこの程度の深さだが、発掘するとかなり深かったらしい。
8:00
堀を渡ると右手、崖の手前に森がある。
根城の鬼門、北東に東善寺跡という石柱があった。
8:00
東善寺跡
東善寺は南部師行により甲斐国に創建され、居館であった根城の城内に移された祈祷寺であった。その後、根城南部氏の遠野への所領替えに伴い、かの地に移されたという。
真言宗豊山派といわれるととたんに廃墟のロマンから現実的になってくる。
林に入っていくと墓があった。
墓までは寺と一緒に移せなかったということか。
しかし、時間がなくてしっかり見なかったが、石はそれほど古くはない。
南部氏、東善寺とは関係ない後世の墓もあるのかもしれない。

8:02
それにしても広い範囲がよく保存されている。
1990年代まではリンゴ畑だったという。
江戸時代初めに廃城となり、長い年月に農地になってしまったのか。


多くの城下町は江戸、明治と連続して市街地を形成したから、たいてい城跡は役所や学校、公民館などの用地になった。
ここは江戸時代の城下から離れ、周りに土地もふんだんにあったことから建物が立たなかった。八戸市は一帯を買い上げ、1994年この公園に仕上げた。
弘前といい八戸といい、城下町であったこともあるが、関東の同規模の都市より文化度が高い。

8:03
中館跡

根城(ネジョウ)とは湯桶読みの変な名前である。日本の城は松本城にしろ姫路城にしろ、独立した地名があってそこに城(ジョウ)をつけた。
独立した「根・ね」とは何か? 地名とは考えにくい。これは南部氏が最初に八戸に上陸したあと根拠地にしたことから、ネジロだだったのではないか?もともとは御屋敷、御屋形と呼んでいたのが、ほかに合わせてネジョウにしたか。

8:04
ここで便意を催した。
弘前城や駅などとともに青森県の公共の場所はゴミ箱がない。それはいいことなのだが、トイレがないのは緊急のときに困る。ジョギングの格好をして散歩していた人に聞くと笑顔で答えてくれたのだが、言葉が全く分からなかった。私より若い人なのに衝撃だった。
彼は本丸のほうを指さしたのだが博物館同様、この時間は空いていない。
しかし聞いたことのない言語という初体験のショックで便意がひっこんだ。

8:05 本丸前
現在、本丸主殿や納屋、馬屋などが復元されているらしい。
見たかったけど開くまで待っていられない。

8:07
八戸の一番の目的地だった根城も、滞在わずか10分。
ほぼノンストップで歩き過ぎただけ。
それでも満足した。
ネットで見るのと実際に歩くのでは大違い。
財産としての記憶になった。

8:10
国道104号に出て、本丸うらの西ノ沢をみる。昔はもっと深かったのだろう。

市の中心、市役所からJR八戸駅までは、6.6km、1時間23分、
朝からすでにここまで、半分歩いてきた。
ここから八戸駅まではあと3.3km、43分。
もう見たいものはないのでバスに乗ることにした。

馬場というバス停前の自転車屋の小さなご老人に八戸駅に行けるかどうか聞く。
訛りはあったが標準語だった。
青森は美男美女が多い。

南部バスだった。
南部というと我々は盛岡を中心とする岩手を思うが、南部バスは八戸を中心に営業している(2017年、岩手県北自動車に事業譲渡した)。

八戸と青森・弘前が他県のように違うのはこういうことでもわかる。

8:27発。
乗客にキャリーケースを持った若者がいる。
休日で盛岡、仙台あるいは東京へ行くのだろうか。
8:38
バスは八戸駅到着、
終点到着のアナウンスのチャイムはウミネコの鳴き声だった。
海はだいぶ遠いけどね。
(続く)

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