2022年11月13日日曜日

青森ベイブリッジと青函連絡船

11月1日夜、新宿から高速バスにのり10時間、朝、目が覚めると弘前駅東口。

特に用がなかったが、どこか行きたくなって思いついたのが青森県だった。

午前中駆け足のように弘前市内を見たあと、13:06発の電車で青森に向かった。
一つ目の駅が撫牛子。「ないじょうし」とはとても読めない。アイヌ語としてもなんでこの漢字か?
13:19 
弘前を出てまもなく、稲刈りの終わった一面の田んぼの中に、少しリンゴ畑も見える。
品種改良、技術進歩の成果だろうか、きれいな赤い実がたくさん生っていた。
場所的にコメからの転作であろう。
13:50 
青森駅着
JR奥羽本線、弘前から37km、43分で680円。
思ったより近い。
上野―桶川(38.5km、43分、682円)とほぼ同じ。

青森駅は、いかにも奥羽本線と東北本線(現青い森鉄道)の終点を表すように、地図上での線路は「人」の形をしている。

青森は南部八戸と津軽弘前の中間というイメージがあったが、弘前にずっと近く、鰺ヶ沢とともに津軽藩の外港として津軽の一部であった。

1983年9月29,30日に札幌で生体成分の分析化学シンポジウムがあり、林田さんと参加した。学会が終わって私は休暇を取り、ひとり札幌、白老、洞爺湖と3泊観光して、11月3日函館まで来た。五稜郭、立待岬など見物したあと夜青函連絡船に乗って青森にわたり、深夜の青森から列車に乗った。
このとき青森市内には出ず、改札すら通った記憶がない。船と列車がほんとうに「連絡」しているようで、その場所を見るのが、今回の青森訪問の目的だった。
13:52
ホームの端まで来て確かに線路はここで終わっていたが、連絡船(桟橋)との関係ははっきりしない。こ線橋は立ち入り禁止になっていた。
青函連絡船は私が乗った5年後、1988年に青函トンネルの開通によって廃止された。34年も経って当時の施設が残っていないのは仕方がない。
1975年の青森駅
ウィキペディアに連絡船盛んな頃の航空写真があった。
確かに鉄道駅に船が接岸している。

ホームに見るものは何もないので、とにかく津軽海峡を見ようと外に出た。

14:02
青森駅前ビーチ
連絡船関連の敷地だったのか、新しい商業施設(土産物店)ができていた。
A-ファクトリーという。Aは青森だろう。
上空の斜張橋は青森ベイブリッジ。

14:04
海のほうに歩いて行くと陸奥湾が広がる。
メモリアルシップ八甲田丸と青い海公園とを結ぶ海上遊歩道がある。青森ラブリッジと名付けられ、1993年に完成、名前通りデートコースとして人気があるらしい。

頭上の青森ベイブリッジに上がる階段があった。
吹雪除けなのか、螺旋的な階段は壁に囲まれた部屋になっており、しかしエレベーターはない。朝から弘前を歩き回った老人にはきつい。

14:06
ベイブリッジまで上がると、片側2車線の自動車道。
海側は景色がよく見えた。

14:06
八甲田丸とそこから鉄道への連絡橋が下にある。
遠くに目を転ずると、左は津軽半島、写真右にほんの少し見えるのは下北半島だろうか。
するとその向こうは北海道か。

14:07
右のほうには陸地がある。下北半島かな?
津軽半島と下北半島に挟まれた陸奥湾は、夏泊半島によって西の青森湾と東の野辺地湾とに分かれる。
すなわち、ここから見えているのは下北半島でなく夏泊半島かもしれない。

グーグル
夏泊半島とも思えるが、山の高さからやはり下北半島かな。
地元の人に聞けばいいのだが、近くには誰もいなかった。

再び地上に降りて、八甲田丸のほうに行く。

14:09
青函連絡船戦災の碑
戦時中は旅客船4隻、石炭など軍事物資を運んでいた貨物船10隻の合わせて14隻が就航しており、1945年7月14日、このうち修理などの3隻を除いて、11隻が津軽海峡または港にいた。アメリカ軍の大空襲で11隻すべてが沈没、400人近い乗員乗客が犠牲となった。

連絡船が全滅して、戦後もしばらく急遽各地からなんとか集めた船で人も貨物も運んでいたが、当然旅客設備もなかった。ようやくGHQから許可が出て新造、1947年から48年にかけて就航した車載客船4隻が、洞爺丸、羊蹄丸、摩周丸、大雪丸であった。
なお洞爺丸は1954年9月26日、洞爺丸台風によって転覆・沈没し、死者・行方不明あわせて1,155名を数える最大の海難事故となった。
14:11
青函連絡船は別れの紙テープが舞う旅客輸送船が思い浮かぶが、物資を運ぶ貨物船のほうが多かった。
貨物は自分で歩いてくれないから、鉄道車両のまま船に乗せられれば運ぶ手間がなく都合がよい。
そのためレールのついた架道橋が機械遺産として保存されていた。

記念に残された八甲田丸に行く。
14:13
中は記念館になっている。時間がないので入らない。

帰宅して青函連絡船に乗った1983年の手帳をみてみた。
奇跡的にメモが残っていた。
9月30日 札幌 法華クラブ 5100円
10月1日 札幌10:00発
白老 民宿おぎた 4300円
2日 白老8:30発、壮瞥10:30着
洞爺湖観光ホテル 3500円(会社厚生制度で割引価格)
3日 洞爺8:13発 長万部乗り換え 13:30函館着

そして「19:40十和田丸」という文字が。
14:14
青函連絡船の旅客輸送は1973年がピークで499万人を数え、その後航空機とフェリーで利用は減っていく。末期には年間200万人だった。
14:17
見送りの岸壁はこの高さか。

私が乗ったときは、平日、夜ということもあり、閑散としていた。しかし男女3人に見送られる高校生らしき男がいた。出航するとき彼らは何か歌い始めたが、知らない歌だったのか何の歌だったか思い出せない。

あのシーンはずっと夜中だと記憶していたのだが、メモによれば午後7:40出航だった。当時の所要時間は3時間50分で、23時半ころには青森に着いていた。
そして深夜 0:02発の上野行き夜行急行「八甲田」にのっている。

14:19
八甲田丸の向こうに海上保安庁の巡視艇「おいらせ」がいた。
5382トンの八甲田丸と比べると大分小さい350トン。
よく見ると乗組員(海上保安官?)が、棒をもって捕り物の訓練をしていた。
ゆっくりした殺陣の練習みたいだった。

八甲田丸は太いロープで岸壁につながっている。
14:20
このロープを伝わってネズミが入れるな。いや、人間だって乗り込める。
と、手に持ってゆすったら、ロープは驚くほど大きく揺れたが船は揺れなかった。

14:20
津軽海峡冬景色 歌謡碑

何か碑があったので、正面に回ってみる。
ああ、石川さゆり、名曲だったな~、と思ったら、突然「じゃじゃじゃじゃーん」と大音量でイントロが始まった。人を感知して自動的に始まるらしい。「上野発の夜行列車降りた時から、青森駅は雪の中~」。音質もいい。私だけのために歌ってくれているのに、時間がないので立ち去った。それでも石川さゆりは流れていた。

14:26
Aファクトリーの前を通って広場のほうに戻ってくる。
赤い建物がある。「ワ・ラッセ」という。隈研吾のように外壁の外に板をたてに並べているが、金属板なのか、ところどころ曲げて壁に変化を与えている。いかにも外国人の設計のようで、帰宅後調べたらオランダ人建築家の作品だった。
14:27
ワ・ラッセの中はねぶた祭りの展示館だった。
そういえば掛け声がラッセ、ラッセ、ラッセラーだったな。

ここも中を見ず、青森駅に戻る。

八戸行きはJR東北線ではなく青い森鉄道である。
スイカを使えず、自動券売機にも八戸などはなく、窓口にいく。
まだ明るかったので八戸の海が見えるかもしれないと、八戸の先、ウミネコで有名な鮫駅まで買った。2560円。ガラガラの電車は14:37発。

初めての青森市の滞在はわずか47分だった。

(続く)

前のブログ


0 件のコメント:

コメントを投稿