12月3日、三重県に来た。
伊勢神宮外宮のある伊勢市から田丸、松阪を軽く見て、津から近鉄の急行にのって北の四日市に向かっている。
朝の予定では津から四日市へ行く前に途中の鈴鹿に立ち寄る予定だった。
鈴鹿というのは鈴鹿サーキットと鈴鹿峠しか知らない。しかし鈴鹿峠は鈴鹿の西の亀山のさらに西で、いまの鈴鹿市と関係ない。これはどういうことかと今回気づいたが、鈴鹿峠から亀山市域、鈴鹿市の西部まで鈴鹿郡だったことが分かった。鈴鹿市の中心は神戸藩の藩庁があった河芸郡神戸であったが、市名として鈴鹿を採用したらしい。
とくに用事もないのに来ると、その県が大分身近になる。
公益法人・国土地理協会のHPから
黄色は平成の大合併を経た自治体で、その中の青文字は消滅した旧市町村名。
さて、津と四日市について。
私にとって津は一音節の地名からして親しめなかったのか、三重県というと四日市のほうが良く聞いたし、目にした。
実際、2006年平成大合併の前まで津は人口15.6万人、全国最小の県庁所在地だったのに対し、四日市は中京工業地帯の一角として発展し、2006年時点で人口30万を超えていた。
今回目的のない三重県訪問でも四日市が一番見たかった。
12:21
電車が四日市に近づき、塩浜駅の手前、鈴鹿川を渡るときタンクや煙突がいくつも見えた。地図を見れば「昭和四日市石油」と書いてある。
12:33
近鉄四日市駅
駅ビルに入るテナントはお洒落で名古屋や東京と変わらなかった。
三重県一の都会と分かった。
四日市というと我々が子供のころ学んだのは石油コンビナートと四日市ぜんそく。もちろん単語だけが社会科の教科書に出てきた。旅行でもっと知ろうと思っても見物しようがない。大規模工場のそばに行ってもフェンスと植え込みなどで中は見えないようになっている。(グーグルストリートビューで確認)
近鉄四日市駅の西口に「四日市公害と環境未来館」というのがある。コンビナートの航空写真や各企業の資料などもあるだろう。ここに行こう。
だだっ広いだけの通りを歩いてもつまらないので北側に入ると屋根のついたアーケード街だった。
再び中央通りに戻る。
戦後、この海軍燃料廠の跡地に1960年建設されたのが日本初の石油化学コンビナートである。石炭と違って石油、液体製品はパイプで輸送できるからナフサなどを原料とする化学工場が集まれば効率よい。
12:35
「そらんぽ四日市」
お洒落な町だ。5階建ての複合施設ビル「そらんぽ」は空と散歩から名つけられたというが、逆に大気汚染などを想像させてしまう。しかし空は晴れ、風も芝生もきれいで他の市よりも環境は良い気がした。マスコミや教科書が大げさだったのか、長年の各企業の努力の結果なのか、分からない。
そらんぽは屋上にドームがみえ、このビルにはプラネタリウムと市立博物館も入っている。
市立博物館では四日の市や東海道四日市宿、四日市湊など歴史の展示もあり、見ごたえありそう。
12:37
ところが入口まで行ったら「そらんぽ四日市」は12月1日から8日まで整備休館だった。
がっくり。
この瞬間、四日市で何を見たらいいか分からなくなった。
そばに都ホテル四日市の高層ビルがあり、最上階まで上がれば東の海沿いのコンビナートが鳥瞰できるかもしれないと思ったが、商業施設でもないホテルに入ることは憚れ、また廊下に窓があるとも思われない。
これから東のJR四日市駅のほうに行き、そちらの商業ビルのほうが工場群を見やすいかもしれないと東口のほうに出た。
12:45
近鉄四日市駅東口
駅前に円形の歩道橋?デッキを作っていた。
駅入り口はすぐそば。
不思議なことに改札のある駅ビルとつながっていない。
上がって下がってまた上がるような歩道橋を何で作るのだろう?
これから作るのかもしれないが、すでにデッキ部分は完成に近く、この円型デッキの愛称も募集していた。まさかモニュメント? それならわかる。むしろモニュメントのほうが使い方に無限の可能性がある。
12:47
近鉄四日市駅から東に1.2キロメートル離れたJR四日市駅をまっすぐ結ぶ中央通り。
戦前から工場が集まり米軍の空爆重点地域となり、9回にもわたる空襲で市街がほとんど焼けた。そして戦後の復興計画でつくられた幅70メートルの道路がこれである。
市を通過する幹線国道などではない(じっさいJR四日市駅側は行き止まりになっている)から交通量は少ない。イベントをするのに便利だろう。
この広い道路の地下は駐車場になっていて、2025年9月の集中豪雨で浸水し、280台が水没した。駅前、浜田町5番地くすのきパーキングというからこのあたりである。そのつもりで見ると、工事中の車両の中に濁水処理装置というものがあった。工事現場などで出た水を川に流すときに泥などを除く機械である。
12:51
四日市は大企業の工場が多いから、市民の購買力もそうとうあるかもしれない。
そういえば妻の友人の何人かは三菱油化(現三菱化学)につとめ、四日市に転勤して定住した。
しかし、平日の昼ということからか、駅ビルほどの活気はなかった。
12:58
近鉄四日市方向をみる。
70メートル道路を目の前で横断するのは国道1号線。
ちなみに前のブログで書いた国道23号線は、JRの東、海側を南下している。
13:00
四日市市総合会館
当然のことなのだが、市市と重なることが新鮮だった。
ついうっかり一つを書き忘れそう。
ちなみに、飯山線で私も馴染みがある新潟県十日町は、明治22年の市町村制の施行時に十日町村となり、1897年町制施行したときは十日町町でなく正式に十日町だった。そして平成の2005年に十日町市になっている。これは上越線の六日町でも同じで、六日町村から六日町になった。しかし六日町市にはならず、南魚沼市になっている。
四日市市役所
さて、四日市に戻る。四日に市が開いたからだが、鈴鹿峠を越える商人たちがここを行き来し、室町時代には市(すなわち地名)と湊ができていたらしい。
江戸時代は、ほとんどの期間、幕府領であり陣屋がおかれ、北勢地方の行政の中心だった。東海道と伊勢街道の分岐点でもあり、尾張の熱田と10里の渡しでもつながり、大きな宿場町として栄えた。
明治になると四日市港が整備され、関西鉄道が開通。
明治30年(1897)には早くも市制をしいた。
昭和になると第二海軍燃料廠が塩浜地区にできた(第1は横須賀、3は徳山、4は福岡、56は朝鮮、台湾)。
1942年4月のドーリットル空襲は空母から出た陸軍機が東京を爆撃し中国に逃げる途中、四日市に爆弾を落としていった。
コンビナートというこの華やかな言葉はやがて、四日市ぜんそく、光化学スモッグという単語に結び付き、公害の元凶のようになっていく。
・・・・
さて、四日市空襲の副産物というべき70メートル道路を歩いている。
人も車もいないとちょっと寂しい。
イベントをしょっちゅうやるわけにもいかないから、両側に図書館とか博物館を集め、ワシントンDCのザ・モールのようにして、リスでも放し飼いにすれば子供たちも集まり、中央分離帯も憩いの場になるのだが。
13:03
向こうの先にJR四日市駅が見えてきた。
13:07
JR四日市駅
近鉄四日市駅と比べ、この廃れた感じの殺風景さに驚いた。
駅ビルに上がれば石油コンビナートが見られるかもしれないという目論見は外れた。
代わりにグーグル鳥観図を載せておく。
塩浜地区の石油コンビナート
塩浜のあと午起地区、霞ケ浦地区に第2、第3のコンビナートができた。これらは海軍施設の跡ではなく、白砂青松、海水浴場の地であった。
13:10 JR四日市発
13:27 桑名着、250円。
(続く)
20251215 伊勢4 津の三重県庁、国道23号と藤堂の安濃津城
20251212 伊勢3 松阪城と三井発祥の地
20251208 伊勢2 田丸城と付家老、万石陪臣
20251207 伊勢1 夜行バスと近鉄で神宮外宮の門前まで
















0 件のコメント:
コメントを投稿