12月3日、伊勢に来た。
名古屋から近鉄で伊勢市まで南下し、伊勢神宮外宮の入口をちらりとみて、すぐJR参宮線で少し戻って続日本100名城の一つ田丸城にいった。
慌ただしく見て9:02 再び列車に乗って9:34 松坂に到着。
9:36
松阪駅
駅名を見れば大阪と同じく、坂でなく阪である。
MATSUSAKAと濁らないことも分かる。
カルイサワのように世間と地元の読みが違うのはそれだけ知名度が高いということか。(軽井沢は今は地元でも公式にザワになっている)
2001年に伊勢神宮に来たとき、松坂に降りたようなメモがある。
「右わかやま道、左さんぐう道の石柱」「道はまっすぐでない」と古い手帳に書いてあるが記憶にない。乗り換え時間に少し外に出たくらいだったのだろう。
ここは田丸と違って都会であり観光案内所があった。
地図をもらいに行くと女性二人のうち、一人が熱心に案内してくれた。
「今日は水曜だからみんな休みなんですよ」
と、小津清左衛門家、長谷川治郎兵衛家など松阪商人の旧宅、原田二郎旧宅などに赤鉛筆でバツ印をつけていく。みんな知らない人だし、立ち寄る時間もないので気にならない。
三井家発祥の地だけ見たいと思って歩き始めた。
9:44
大きな寺が多い。城の防備の為に集めたのだろうか。
道も所々で曲がっている。
9:46 伊勢街道に出た。
電柱などはなく、道は広いが古い建物も残っている。
この道は参宮道ともいうが、地図によいほモールと書いてある。四五百商店街と書くらしい。お城のある丘を四五百森(よいほのもり)といったらしいが、語源は知らない。
この旧伊勢街道を駅から離れるように西北にすすみ(名古屋の方向)、商店がなくなって昔ながらの道幅になったところに「三井家発祥の地」という記念碑があった。9:50
三井高利にはじまる三越(三井越後屋)、また三井財閥についてはこのブログでも何度か書いた。
松阪は伊勢商人、松坂商人のふるさと。
伊勢神宮の巨大な需要だけでなく、全国からの参拝者で情報が集まるのが商いに向いていたこと、また江戸開府と同時に進出し、同郷のものを番頭や丁稚などとして引っ張り、のれん分けしたことが松阪商人の発展を促したか。
松坂屋は1707年に伊勢松坂出身の太田利兵衛が江戸上野に開いた呉服店が始まりだが、1768年名古屋発祥のいとうや呉服店が買収、名前だけ残した。
かつおぶしの「にんべん」の商標である“イ”の文字は創業時の屋号である「伊勢屋伊兵衛」に因む。江戸川柳「江戸名物は伊勢屋、稲荷に犬の糞」も伊勢商人の繁栄ぶりを表しているだろう。
9:52
三井家旧宅の手前の交差点に豪商ポケットパークという無料休憩所。
きれいに掃除が行き届いていた。
その前に「左 大手筋、右 さんぐう道」の石標柱。
ちなみに、2001年のメモに「右わかやま道、左さんぐう道」とあった石道標の場所は今地図を見ればこのさんぐう道を南西(神宮寄り)に行った先の、駅前通りとの交差点と思われる。24年前は時間がなくて駅からまっすぐその場所に来ただけだったのだろう。
ちなみにデパートや野球選手のようにマツザカといれると松坂に変換され、駅名のように濁らないマツサカといれると松阪になる。こんなこと知っても今後役に立つことはないが。
9:54
松阪市役所。
人口は15万人で三重県4位。国道166号に沿って奈良県境まで細長く市域となっていて
面積は県内2位である。
9:55
表門前に到着
想像以上に立派な石垣に期待が膨らみわくわくする。
日本100名城の一つである。三重県ではここだけ。
9:56
これほど立派な城でありながら城主が頭に浮かんでこない。この城は蒲生氏郷(1556-1595)が築いたのが始まりという。
彼は上杉景勝が120万石で入る前の会津90万石の大大名だったことが知られるが、その前はここ伊勢松坂にいた。
近江の名門六角氏の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれ、六角氏が衰退すると、信長に人質として出され、父子ともに信長に仕えた。武功を重ね、本能寺のあとは秀吉に仕え、小牧長久手のあと、1584年、故地の近江日野から伊勢松ヶ島に12万石で加増転封した。
松が島は交通の要衝だったが海が近くて城下町としての発展に限界があった。そこで1588年、氏郷は4キロメートルほど南の四五百森の丘に松坂城を築き、松ヶ島の家臣や商人を移住させ城下町を作った。
しかし小田原征伐の後、1590年、奥州の伊達抑えのため、会津42万石に加増転封(のちの検地で91万石)となった。
大大名となったが、文禄の役のあと、享年40で没し、子は宇都宮12万石に減封された。
以後、本城のある和歌山から松阪まで藩士が行き来するようになる。そのとき整備された道こそ、2001年のとき石柱を見た和歌山街道である。今の国道166号を通って奈良県境の高見峠を越え、大和に入って紀伊半島内部を東西に横断する形で紀ノ川流域に入る。ここでは当然この名で呼ばれず、伊勢街道と呼ばれた。伊勢参宮や熊野詣で、大和への海産物の輸送にも使われ大和街道とも呼ばれた。
石垣を見上げながら城内を上がっていく。
9:57
松阪市歴史民俗資料館(展示替えで休館中)
ここは明治44年から1978年まで飯南郡立、松阪市立図書館だったらしい。
二階が小津安二郎松阪記念館。
小津は東京深川生まれだが、父親が子供は環境のいいところで育てたい、と父の故郷の松阪に一家転居、小津は2歳から19歳までここで過ごし、この城址の図書館に通ったという。彼の東京物語や晩春などしっとりした感じは、東京でなく松阪の影響を受けているだろう。
9:58
伊勢の紀州藩領は18万石程度で、
・田丸6~7万石は、代々久野氏を田丸城代にして管理させ、
・白子3~4万石は、現鈴鹿市の白子・寺家、鈴鹿川流域の宿場町・港町・農村地帯を含んだ大きな領域で、白子代官所(のち奉行所)が支配、管理した。
・松坂7~8万石は、和歌山からくる松坂城代が管理支配した。
(ちなみに松坂から松阪に変わったのは大阪と同じ明治になってからで、それまでのことは松坂と書いても間違いではない。)
9:59
本丸跡
田丸と同じように石垣以外何もないのがいい。
1982年に市民から天守閣を再建してほしいとの要望もあったが反対する意見も多く、「天守閣問題」は取り止めとなったという。ないほうが良い。
天守閣は落雷の火事で焼失することが多いが、この天守は1644年に台風で倒壊したという。どうも、和歌山から派遣されてきた城代と家来衆にとって、この城は持て余し気味だったらしく、天守以下の櫓や門などの建物は手入れされず放置されていたらしい。倒壊後、もちろん再建されず、その必要もなかった。
10:01
天守台のそばに鳥かごのような網があった。
鯉でも飼っていて鳥よけかと思って覗いたら深い井戸だった。
網は平らなほうが作るのが簡単だと思うが、このドーム型は意味があるのか。
10:02
時間がないのですぐに下城し始める。10:03
土の斜面がほとんどなく、すなわち樹木が少なく石垣が目立つところは安土城(の下のほう、大手道あたり)に似ている。
蒲生氏郷は安土城の築城にもかかわった。自分の出身地近江には石垣積みの技術者集団、穴太衆がおり、彼らの力も大きかったであろう。
時間がないので急いで二の丸を経て裏門から出た。
10:03
裏門を出たところに便所があり、その前に「松阪開府の祖・蒲生氏郷」と書かれた幟が立っていた。
築城開始して2年で会津に去ってしまった人を顕彰することには違和感があるが、観光地にするには誰か英雄が必要なのだろう。まあ、築城したのは彼だし、城下町を作ったのも彼である。
しかし駅まで15分かかる。
左に石垣、右に民家を見ながら歩みを速め、来るとき入った表門にむかう。
すぐ近くに本居宣長記念館、文久3年に建てられた紀州藩士の御城番屋敷、明治41年築の旧三重県立工業学校製図室などもあったが、それどころではなくなった。
20251208 伊勢2 田丸城と付家老、万石陪臣
10:05
ところが立派な石垣を見ると立ち止まって写真を撮りたくなる。
車が続いて通り過ぎるのを待っていたら時間をロスした。
これは列車に間に合わないかも。
いい爺さんが走り始めた。
汗だくになって力を使い果たし、なんとか駅に到着。
ぎりぎり1分あり、改札を通ったが電光掲示板に津新町に行く10:15分発の電車がない。田丸から津へ行く上り列車は改札に一番近い1番線だったから、そこから乗ると思っていたが、電光掲示板にない。
もう行ってしまったのかと駅員に聞いたら、それは近鉄だからずっと向こうの6番、7番線だという。
慌てて階段を駆け上がるも、階段を下りときにドアが閉まった。田舎の列車は余裕があるから時間が正確である。
呆然自失。
この瞬間に以後の計画が狂った。
津新町ー(歩き)ー津城ー(歩き)ー津ー(列車)ー鈴鹿ー(列車)ー四日市ー桑名、という計画だったが、鈴鹿(神戸城)は諦めねばならない。
次の列車を見たら1時間近く先だった。
松坂城の石垣に見とれすぎた。
これは鈴鹿どころか、さらに加えて四日市、津のどちらか1つも諦めねばならないかもしれない。
わずかなミスから大ピンチだ。
10:26
ふとホームから駅の外をみると、倉庫の壁にツタが張っていて、きれいに紅葉していた。
ツタの蔓は見事なほど等間隔ですべて平行に伸びていた。左右に曲がったら隣の蔓に当たって交差すれば壁と接着できなくなる。だからこの何本もの平行線は隣にぶつからないよう間隔を懸命に守った結果だった。
これを見て少し落ち着いた。
頭を久しぶりに使った。急ぎながらも落ち着いて考える。
近鉄の有料特急が間もなく鳥羽のほうからくる。それに乗れば城の最寄りの津新町は止まらないが津には止まる。そこから戻るようにして津城をみて、津新町駅から列車に乗って四日市に行けばよい。
10:32
特急券520円は余計にかかったが、車両にほとんど乗客はおらず、貸し切り状態。
おかげでパンを食べることができた。この日は今後ゆっくり食べる暇があるかどうか分からないから助かった。
千駄木でとれたミカンも食べていたら、県庁所在地の津に到着した。
(続く)
20251207 伊勢1 夜行バスと近鉄で神宮外宮の門前まで
伊勢松阪
地図は上が南西、ずっと行けば吉野の山々に行く。
つまり大手門は北東の伊勢湾を向いていて、前を通る伊勢街道は、左(北西)が津、名古屋方面、右(南東)が田丸、神宮方面である。
























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