夜行バスで三重県に来た。
12月3日、名古屋から近鉄に乗り、伊勢市駅での乗り換え時間で神宮外宮の入口を見たことは前のブログで書いた。
次に、伊勢市駅からJRで戻る形で、今回の目的地の一つである田丸に来た。
この地名は2年前まで知らなかった。
2年前、和歌山城に行ったとき、紀州徳川家の55万5千石はいったいどこから穫れたのだろうと考えた。
紀州は木の国、ミカンのとれる斜面はあっても、米作の適地は多くない。一番の穀倉地帯、紀ノ川流域4郡では24~30万石と推定されている。有田、田辺などを含む紀州全体でも37~38万石程度とされる。残りは遠く離れた伊勢の松坂、田丸、白子だという。
そして今年の1月、クルーズ船が三重・和歌山の県境、新宮に寄ったとき、新宮城(丹鶴城)を訪ねた。ここは紀州藩の付家老・水野氏3万五千石の居城だった。
付け家老というのは家康の晩年の子たちが御三家として独立するにあたり、後見役として付けた譜代大名のことで、大名でありながら家臣として仕えた。
紀州徳川家では、水野氏のほかに安藤、三浦、久野氏がいた。この久野氏が伊勢の田丸1万石の城主だったということで田丸城を知る。1万石というのは陣屋程度しか持たないものだが、田丸城は続日本100名城の一つになっている。
そして今回、伊勢に来るにあたり、その田丸城を見に来たのである。
伊勢市駅を8:17に出発、
JR参宮線で田丸駅着 8:28
8:32
田丸は田丸城しかないと思っていたが、地元が一番の観光目玉として売り出しているのは、すなわち小さな駅前ロータリーに設置されたモニュメントは「熊野街道出発の地」であった。熊野からはずいぶん離れているが世界遺産の威力は大きい。
真面目に書くと、田丸は伊勢神宮の西に位置し、神宮を参拝した人がついでに熊野に行くとき、ここを通って紀伊半島の東側の海沿いを南下した。この道を熊野街道・伊勢路といった。しかし道路はつながっているから、熊野に通じるからと言って「出発の地」というのは無理がないか。
また大和から伊勢神宮に向かう初瀬街道は、名張、津、松坂を経てここ田丸で熊野街道伊勢路とぶつかる。今と違って昔は交通の要衝だった。
モニュメントは熊野古道の世界遺産登録の3年後に建てられたが、人形に独特の味わいがある。
しかし当然のことながら駅前の道案内に「熊野」あるいは「熊野街道」の方向を指す案内板はなく、田丸城址、村山龍平生誕地、玄甲舎の3つのプレートがあった。
プレートの指し示す向きに歩くとすぐ城山の森がみえた。
8:35
外堀の中に保育園があった。
よく城内に高校がある場合があるが、戦前に旧制中学を置くほど田丸は明治以降発展しなかった。
ここまで駅から3分。
そもそも駅が近いということは、城の周りに大した城下町がなかったことを示す。
あるいは武家屋敷、宿場町は反対側にあったか。
8:36
保育園の隣に残る内堀
8:37
内堀に沿って歩くと城の入口
8:38
これを見ると内堀はごく一部しかなく、山をめぐる外堀の一重だったようだ。
山上に本丸、二の丸、北の丸がある平山城である。
8:40
上がっていくと学校らしき建物があるが、ひと気がない。
この先は上がれないのでいったん坂を下がると本丸への道は続いていた。
8:41
蓮池という。
濠の役はなく、庭園にしては石がない。
籠城したときのために鯉を養殖できるか。
8:43
田丸城は南北朝時代、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、ここ玉丸山に城を築いたのを始まりとする。北畠親房は清華家の公卿(正二位・大納言)でありながら村上源氏の流れをくみ源氏長者になるなど武将としても働き、足利尊氏と対立してから神皇正統記を書いた。室町時代は北畠氏(庶流)が伊勢国司をつとめ、ここを本拠地として田丸氏を名乗った。しかし織田信長の伊勢侵攻で、次男の織田信雄が伊勢北畠氏の養子となり、その田丸城を大改築した。
その後、蒲生氏郷、稲葉氏、藤堂氏の支配下になるが、1619年、駿府から紀州に移った徳川頼宣の領地となった。紀州徳川家の付け家老として駿府からついてきた久野氏は1万石を与えられ、居城ではなく城代として田丸城に入った。そして代々、田丸領6万石を管理し、明治まで続いた。
8:43
石垣の反対側、山の中腹は三の丸。
坂を上がってくるときに見えたのは玉城町立玉城中学の裏側だった。
しかしこの先に道路があるわけでなく、なぜ正門を坂を上がったすぐの東側に作らなかったのか、理解できない。
そして1955年東外城田村、有田村と合併したときに玉城町(たまきちょう)と改称した。玉城は田丸城の別名、玉丸城からとったものかもしれないが、こじつけのように苦しい。そのうえ、城も駅も、役場の所在地も江戸時代の地域名もすべて田丸である。田丸町のままのほうが町の実態を表していて自然である。
田丸城
紀州藩は一国一城令の例外で、紀伊、伊勢の二国で
和歌山城、
松坂城(紀州家伊勢領18万石を統括)、
田辺城(安藤氏、3万8千石)、
新宮城(水野氏、3万5千石)、
田丸城(久野氏、1万石)の5城を保持した。
ここに安藤、水野、久野は付け家老である。付け家老は本来は1万石以上の大名であるのに、御三家の家老すなわち陪臣のようになってしまった。明治維新ではこれが問題となる。しかし水野、安藤、また尾張徳川家の成瀬、竹腰、水戸徳川家の中山の計5家は明治政府から独立大名として認められ、廃藩置県でも独立県となり、明治17年の華族令で男爵になった。
しかし、他の付け家老は、万石以上陪臣が男爵という内規があったにもかかわらず、最終的には授爵されず、紀州の三浦家(紀伊貴志1万5千石)も田丸城代1万石だった久野家も士族のままだった。三浦家は明治33年に男爵となったが、久野家はついに士族のままだった。
ちなみに、久野氏は遠州の国人で、家康が関東に移ったとき下総佐倉に1万3千石を与えられたが、刃傷沙汰から1000石まで改易された。関ヶ原で功あり、田丸城代となる前に8500石まで復した。
8:44
三の丸から本丸に上がっていく。
建造物が何もなく高い石垣だけが目立つ正面入り口は安土城址を思わせる。
8:45 本丸。
織田信雄の時代に三層あった天守台の石垣が残る
当時の立派な石垣のほかはすべて喪失した。
今はベンチすらない。観光地化、金儲けしようとしていない点は、なかなか良い城である。
8:46
本丸からの眺め
交通の要衝として初瀬街道、伊勢街道(熊野道)がよく見える。
本丸から三の丸を見下ろす。
玉城中学校がみえる。
8:48
年に一回の歴史講演会の演者の記念植樹。
天皇陛下や大統領が来町して植樹したなら分かるが、講演しただけで城跡に記念が残るのは演者として嬉しいだろう。同時に玉城町の素朴さも感じられる。
何の木か知らないが、ミカンでも植えたら良かった。三の丸の中学生に管理させ、年に一度の郷土学習の日に講演を聴きながら食べさせたら良い。
8:49
二の丸(左)と本丸の間の空堀。
二の丸から帰り道に降りることはできないので、ここで引き返す。
8:55
大手門跡から外堀と町役場をみる。
登城前に保育園から内堀に沿って歩いた道は、玉城町役場の裏だった。
役場は紀州藩同心屋敷跡に建つ。
大手門跡の右には駅前の案内プレートにもあった村山龍平記念館がある。
朝日新聞の創刊に参加し、のち社主、社長。
田丸城の敷地は玉城町有であるが、村山龍平の寄付金をもって旧・田丸町が払い下げを受けたものらしい。時間がないので寄らず、急いで駅に向かう。
8:59
駅について上りホームへの跨線橋を渡る。
田丸の城山が見えた。
予定通り、9:02発の列車で松坂に向かう。
(続く)
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