12月3日、三重県に来た。
伊勢神宮外宮のある伊勢市から田丸、松阪を通り、戻るようにして県庁所在地の津についた。
近鉄の津駅は改札出口が2つあり、県庁のある方が表だろうと西口に出たら思いっきり裏口だった。
10:48
近鉄の津駅西口
橋上駅なのに西口と東口は改札を出たら行き来できないというまさかの構造。
10:50
津駅西口広場
ロータリーの向こうの森は三重県護国神社。
その先に幕末の11代藩主藤堂高猷の別荘だった偕楽公園、さらには県庁などもあるが、松阪で失敗したことから行くことを自重した。
その代わり、ちゃんとした県庁所在地の駅舎を見たい。そのために東口に行こうとすると幸い地下道があった。
10:56
津駅 東口
「津駅」とだけ掲げられている。
田舎の小学生のころ、人より早く全国の県庁所在地を覚えたが、「つ」というのは言いづらく、変に思っていた。やはり日本語の地名は2音節以上ないとおかしい。紀伊も木の国として「き」だったら言いづらい。馬、梅も中国では単音でも日本語にするには「う」がいる。
日本のあまたある市町村で、音でも一文字は津だけであることからも、その異常さが分かる。
かつては伊勢湾に面して良港があり、伊勢国安濃郡だったから安濃津(あのうつ)と呼ばれていた。戦国時代も江戸時代も安濃津であったが、省略して「津」とも呼ばれていたらしい。廃藩置県では安濃津県となっている。しかし明治5年、県庁所在地の町として正式に「津町」となった。
ちなみに「津藩」という言葉があるが、藩は幕末以後の言葉で、津藩士(これも言いづらい)という言葉はなく、藤堂家御家中である。また津藩、津城は明治以降の津市に引きずられており、廃藩置県のときのように安濃津藩、安濃津城のほうが正しい気がする。
10:58
国道23号線に出た。
19,20は長野県を通る中山道、甲州街道である。続く21は岐阜県土岐で19から分かれて岐阜市、関ヶ原を通って米原まで、22は名古屋熱田の1から岐阜市21までつなぐ。
その流れで、23がこの中京地区にあるのは不思議ではないのだが、少し書きたい。
お伊勢参りの江戸時代、国家神道の明治以降、伊勢神宮は今とは比べ物にならないくらい大きな存在で、明治国家では「東京より伊勢宗廟に達する路線」が国道9号とされ、大正9年施行の旧道路法に基づく路線認定では「東京市より神宮に達する路線」が国道1号となったことは3つ前のブログに書いた。
戦後、1952年、新道路法により旧東海道にあたる東京―大阪が国道1号になったとき、この路線は分岐点の四日市から伊勢神宮の宇治山田までの本来の伊勢街道だが独立して国道23号になった。
しかし、本来国道というのは2つ以上の都道府県に渡る道路であり、異例と言える。そんな声があったかどうか知らないが、1975年、国道1号のバイパス的存在だった豊橋から名古屋までの名豊道路、名古屋―四日市の名四バイパスが、国道23号に追加された。
11:04
三重県栄町庁舎、三重県合同ビル
そもそも縁もゆかりもなく、もちろん用もない三重県に来たのは、兵庫以東の都道府県のうち県庁所在地に立ったことがないのが三重県だけ、というのが理由だった。
他のところで県庁を見たわけではなかったが、その理由で来たからには県庁が少し気になっていた。
11:05
向こうのほうに見える茶色のビルが三重県庁の本庁舎のようだ。
三重県の県域は明治4年7月の廃藩置県で大小さまざま県ができたが11月に統合され安濃津県と渡会(わたらい)県になった。双方とも県名に郡名が入っているが、安濃津は県庁所在地の地名である。ところが安濃津は翌明治5年3月に県庁を不平士族のいた安濃津から三重郡の四日市陣屋に移し、県名も郡名の三重県に変えた。
翌明治6年、県庁舎が手狭なこともあり、将来の渡会県と合併をみこして南部の津に県庁を戻した。ところが県名はそのままにされ、所在地と関係ない郡名が県名になったという珍しい例である。
県庁の遠景を撮って、すぐ国道23号の南下を再開する。
11:09
安濃川(あのうがわ)と塔世橋(とうせばし)
この川は安濃津城の北の防御線だった。
11:12
それにしても歩道が二車線道路のように広い。
調べるとやはり、津は終戦前の7月24日と28日に無差別爆撃を受け、市街地のほとんどを焼失した。戦後の復興で国道23号は幅員50メートル、片側4車線の、地方としては広すぎる道路になった。
11:21
津城
江戸時代、この濠の幅は今の3倍くらいあったようだ。
11:22
津城丑寅櫓
丑寅櫓から入ったところにある昔の地図を見ると、現在残っているのは本丸だけで、先ほど見た濠も、北側の広かった内堀のごくごく一部だけ残したものであることが分かる。
本丸の大きさから比べると、広すぎるほどの内堀はほとんど埋められ、NTT、警察署、高山神社などになっている。内堀を埋めてしまったくらいだから、その外の二の丸は当然市街地、官庁街、国道23号などになった。
築城したのは藤堂高虎である。
黒田官兵衛、加藤清正とともに築城3名人の一人と言われ、多くの城の縄張りをした。
その本拠地ということで期待して来たが、その能力をうかがわせるものは城内の案内看板の地図のほかはほとんど残っていない。
11:22
二の丸の外は伊勢街道の通る東が町屋、北側に武家屋敷をおいた。
城下は北と南を安濃川、岩田川、東を伊勢湾で守られ、さらにその内側に広い二重の堀をめぐらしているところはさすがだな、と思う。
しかし県庁所在地の平城ということが不運だった。
11:23
狭い本丸は鳥の糞が目立った。海鳥だろうか。
藤堂高虎(1556₋1630)は父とともに近江浅井長政に仕えたが、浅井氏滅亡後は浅井氏旧臣に仕えたり浪人したりしていたが、1576年豊臣秀長に見いだされた(300石)。戦功を重ね、1585年1万石の大名となった。このころ秀長の居城として和歌山城で最初の築城をしている。
秀吉の下でも武功を重ね、1595年伊予宇和島で初めて城もち大名となった。7万石。その後、秀吉の死去(1598)の直前から家康に接近し、家康の家臣がわからない上方情勢が分かる武将として重宝された。
関ヶ原後は宇和島、大洲の8万石のほかに今治12万石を与えられ、今治の新城の天守閣はそれまでの望楼型から層塔型にかわるもので、その方式は以後の見本になった。
1608年、伊賀10万石、伊勢10万石など22万石に加増転封され、安濃津藩主となった。これは大阪の豊臣方に近い伊賀に監視の謀臣を置きたい家康の戦略だったといえる。大坂冬の陣の後、伊賀、伊勢鈴鹿郡や三重郡など5万石加増され、家康死去の際は枕元に侍ることを許された。高虎は長命し、秀忠の時代に5万石加増され32万石の大大名となった。
高虎は上野の山に屋敷を拝領し、敷地内に東照宮を建立したが、のち、ここは寛永寺となった。また東照宮別当として寒松院を立て、藤堂家墓所もあったが、明治後、上野動物園の敷地になった。
明治以降の藤堂家は千駄木の近く、駒込染井に屋敷を持ち、立派な墓所も染井霊園に隣接しているから、このブログでもなじみ深い。
11:30
藤堂高虎像
豊臣恩顧の大名でありながら早くから家康についた。福島正則や加藤清正が三成憎しというだけで東軍についたのと違い、損得を計算していたことから、日本人好みではないが、今の価値観で当時の人の行動を評価できない。ましてや地元であり、津城初代を建てるのは当然と思われる。
騎馬像の向こうにスーツ姿の男性が集まっていた。タバコを吸うためにこの場所は貴重であるらしかった。
11:31
本丸の西に、広大な濠の「中の島」のようだった西の丸が公園として残っている。
その向こうの二の丸跡にたつ津市役所が見えた。
津市というのは明治22年4月に日本で最初に市制施行した31市の中の一つで東海3県では津だけだった(名古屋は明治11年に郡と同格の区になってしまい、市制は少し遅れて明治22年の11月である)。
しかしその後の発展は緩やかで、平成大合併の前まで津は人口15.6万人、全国最小の県庁所在地だったが、2006年県下最大の広さとなる、面積7倍にもなる大合併で27万人となり、山口市が最小になっている。
慌ただしく城址を出て、西に向かった。
11:45
近鉄の津新町駅に到着。
新町というがJRの津駅と違い、こちらのほうが城下町としては古い。
江戸時代は伊勢街道や町屋が城の東で、武家屋敷だった西側は以後寂れ、市街地としての発展が新しかったということだろう。
この駅は参宮急行電鉄が南から伸びてきてできた駅(1931)で、JR津駅(1891)より新しい。だからといって新津駅とすれば、一文字の津が全国的に珍しいことから、それはそれで紛らわしい。
11:46 上が東。
昔は上が北だったが、最近は地図に向かっている方角を上にする。
住宅の向きを見れば東西南北がすっと分かった昔とちがい、ビルばかりとなった今はこのほうが便利である。
11:53津新町発
12:27近鉄四日市着 680円
(続く)

















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