2022年1月26日水曜日

私と薬学2 生薬学教室、同級生と山本芳邦氏

学部全体70人一緒の1年間を過ごし、4年生に進級した1978年4月、我々は各教室に配属された。

毎日徹夜が続くと噂された生化学系、全員同じようにいくつものフラスコで反応を仕掛けている殺風景な有機合成系、それほど好きでない動物実験をやる薬理系、今一つテーマにぴんと来ない物理化学系、どれも是非やりたいというものがなかった。
結局、私はあまり特徴のない(バリバリ研究しているイメージのない)生薬・植物化学教室を選んだ。植物という文字が入っていたからかもしれない。

この教室は、東大薬学の前身、医学部製薬学科が明治10年(1877)の東京大学設立と同時にできたときの3講座すなわち、衛生裁判化学(丹波)、生薬学(下山)、薬化学(長井)のひとつである。
創立100年後に我々が進学したときの各教室の序列(たとえば紹介順)もこの3つが先に立っていたが、145年後の今、東大薬学の公式サイトでは各教室の名前も変わり(生薬は天然物化学に)、研究室紹介も分野別に並べられ、明治からの序列は消えた。

1978年4月
教室配属されたばかりの4年生5人
飯島洋、渋谷雅明、平尾哲二、一人おいて成田有子氏

さて、配属された4年生5人はテーマを与えられる前に、基礎教育のプログラムを受けた。
1年前の学生実習の分析と同じように、混合物を各自渡され同定しろ、というのである。1年前は未知混合物をTLCで分け、Rfと染色状況で推定しただけだったが、今度は混合物をカラムで分離して結晶単離し、融点、MS、IR、NMRなどのデータを取って構造式に到達せよというのだ。

この部屋は明治以来、生薬などの成分すなわち天然物の構造決定をしてきた研究室だから(下山を継いだ第2代の朝比奈泰彦は、クロロフィルの構造決定でノーベル賞を取ったヴィルシュテッターのところに留学し、帰国後生薬中のフラバノン類の構造研究などで1943年文化勲章を受章、1951年、52年の2回ノーベル賞候補にもなった)、そういった天然物化学の研究で必要な精製単離と機器分析の知識、技術を最初に習えということだ。

一人一人違う未知物質の同定はミステリーを解くようで、学生がやる気を出し、競争心も煽る。かつ実用的な知識、技術の習得において教育的効果も高いということで、他の研究室でも行われていた。たとえば毒性薬理学教室では、我々のように精製分離して機器分析、構造決定するのではなく、決められた候補物質の中から5つの試料を渡され、それらの腸管収縮や、ラットの血圧、心拍数への作用を見る。どのくらいの濃度で、どのような作用をみせたか観察し、教科書の記述と比較しながら、どれがどの候補物質か決める。もちろんこの過程で、標本作成や動物実験の基本を学べるようになっている。

4年生の教育では当然、座学もあった。
「Biosynthesis」(著者忘れた)という天然物の生合成に関する本を5人で輪読した。外国人かと思うほどきれいな英語を話される三川潮教授と、ブリティッシュコロンビア大から帰国された筆頭助手の海老塚豊先生が指導してくださった。

ところで各自購入したBiosynthesisは海賊版だった。今でこそ洋書は丸善、紀伊国屋などのネットでほとんどのタイトルが安く手に入るが、当時は高価でしかも注文してもなかなか届かなかった(注文したことはないけど)。
もちろん海賊版は違法であるから、きれいなオリジナルカバーはついておらず、真っ黒な表紙で製本され、無地の紙カバーで背のタイトルは隠されていた。私はBiosynthesis全4巻の他にもMerck IndexやC13-NMRの本などを買った。メルクインデックスなどはオリジナルより製本がしっかりしていた。
しかしBiosynthesisなど日本で何冊売れただろう? 危ない仕事の割にはほとんど儲からなかったのではないか? 海賊版出版も大学の先生に懇願されて続けていらしたのではなかろうか? 我々に本を持ってきてくださった彼が帰った後、博士課程D2の野口博司さんから、「ばれると彼の手に縄がかかるから絶対に外に知られないように」と言い含められたが、むしろ悪いのはこちらだろう。

さて、我々4年生5人は基礎教育が終わると助手あるいは博士課程の先輩のもと、各テーマに分かれた。

5人のうち、飯島は船橋高校出身、松戸から通っていた。成績もよく、三川ー海老塚ー藤井、とつながる、主流の生合成酵素の精製をテーマに与えられた。M1のとき、教授の勧めで1年カナダに留学したが、ちゃんと修士課程を2年で終えた。彼は私の文字(丁寧に書いたとき)をかわいらしい、といつもほめてくれた。

渋谷は駒場のころから渋谷区富ヶ谷に住み、千代田線で通ってきていた。福島高校では水泳で県の代表になるような選手で、研究室でもブルワーカーで鍛えていた。1977年9月二食の地下で学内水泳大会があり、3年生だった私と渋谷が面白そうだと出た。私はしょっぱなの50メートルバタフライで力尽き(4人中4位)、残りの平泳ぎ、自由形などもさえず。一方渋谷は出たすべての種目で優勝、入賞した。彼のとった大量の賞品は同じものが多数あったため、ナップザック、髭剃り、折りたたみ椅子などをおすそ分けしてもらった。

平尾は静岡学園出身、平尾昌晃の甥?にあたり、ギターがうまく、絶対音感があってどんなの歌でも伴奏できた。当時は数少ない車もちで、本田シビックにみんなで乗せてもらい野球やテニスに出かけたものだった。五月祭のとき二人で声をかけた東京音大の二人のうち、かわいいほうと付き合うことになったとき、私にすまなそうにした。しかしそれは彼女が平尾のほうを気に入ったからで、仕方がない。その後、彼は教室旅行などでも私に相手が見つかるよう気を使ってくれた。もてる男は、成田恵一(留学)、福田祐士(伊藤忠)、中垣俊郎(厚生省)など大学院に行かず外へ出る傾向があり、彼も修士に行かず就職した。

唯一の女性、成田さんは千葉高出身。天然ボケというか、常にどこか抜けたところがあり、樹脂を洗っている大型ビーカーの中に腕時計を落としたりしていた。食堂で昼食の後、生協でアイスクリームを買おうと、二人で冷蔵庫を覗き込んだことがある。彼女の胸が私の腕に当たっていたので、ぐにゅっとひじを動かしたらひっぱたかれた。

・・・・
生薬はスポーツが盛んだった。
テニスは先代教授の名を冠した柴田杯が毎年行われ、真っ白な装束で固められた柴田承二先生はじめ、斎藤洋先生、山崎幹夫先生らも参加された。我々は準備と称して前の日から検見川に入り合宿所で模造紙にトーナメント表を書いたり、宴会するのがテニス以上に楽しみだった。

そして一番は野球。
薬学部内のトーナメント戦のほか、東京薬科大糸川研、昭和大庄司研、千葉大との定期戦、さらには理学部高橋研や、薬学内の他の部屋との臨時の親睦試合もあった。

生薬では、暗くなったらできない、という理由で午後の一番いい時間に御殿下グラウンドに出かけ、ノックを受けた。ほかの部屋が春、秋の研究室対抗トーナメントの前日にキャッチボールするだけなのに対し、生薬はシーズン中ほぼ毎日4,5人はグラウンドに出た。

我々5人が4年生で教室配属になったのと同時に、千葉大から山本芳邦さんが博士課程に入学された。彼はルックスが良いだけでなくスポーツ万能で、すぐにエースとなり教室野球チーム「生薬OL学園」の黄金時代を築いた。(OLはPLをもじったつもりだったが、女性すなわち永井豪のハレンチ学園を連想させてしまう)

教室に入ったばかりの1978年5月
千葉大薬学、坂井・相見研究室との対抗戦(検見川グラウンド)。
2イニングだけピッチャーをやらせてもらい、三振も取った。
おや、敵のセカンドランナーは昨年明治薬科大学を退職された齋藤直樹氏(当時M2)ではないか。
前年まで千葉大を引っ張っていた山本さんがこちらに移ってしまったため、この年は圧勝だった。
山本さんは、このブログの「忘れられない人」シリーズで独立させてもいいくらい話があるのだが、ここで書いてしまおう。

彼はハンサム、スポーツ万能だけでなく関西にある香料会社の御曹司だった。教授の客が外国から来るときは成田まで車で迎えに行くよう頼まれたし、話もうまくて大きな宴会の司会は彼に任せれば万全だった。
こう書くと非の打ちどころのないような人だが、けっこう間抜けな失敗もされる人間的な人で、みなに愛された。バレーボールでスパイクした後、相手のコートに転がり込んでしまい、オーバーネットどころかコート侵入、審判に反則を取られないよう慌てて四つん這いで戻ってきた姿は他の研究室の人々も大笑いした。

私は修士課程の2年間、彼の隣の実験台で公私ともに指導を受けることになる。
バレンタインになると千葉大の下級生から郵便で送られてきたチョコレートを私に自慢した。スチュワーデス相手の合コン(彼が企画した)では、我々が全く彼女らを満足させる話ができず手出しできなかったのに、彼は彼女らの一人を送っていき、電車の中でそっとキスしたと嬉しそうに話された。
すでに結婚されていて、奥さんのご実家が持っていた目白の一軒家に住んでいらした。
同じ目白の学習院を出られた奥さんは、このころ、ご自宅をケーキとお茶を出す店にされた。Mari’s Dessert Houseといい、当時は閑静住宅街にある隠れ家的な店は珍しく、雑誌でも紹介された。優雅にケーキとお茶で当時破格の1000円もしたから、普通の喫茶店のような忙しさ、暗さはなかった。客としては一度もいかなかったが、クリスマスパーティなどには呼んでもらった。

検見川で奥さんもご一緒にテニスでもやった帰りだったか、車2台で奥様のご実家に寄ったことがある。みんなでお茶だったか、夕飯(チャーハン?)だったかごちそうになったが、駒込駅のそば、大きな家が並ぶ一角で、今思えば本駒込の大和郷だった気がする。奥様のご実家は何をされていたか知らないが、軽井沢と伊豆に別荘があり、伊豆にお呼ばれした。ホテル川奈でお茶を飲むなどは彼女がいなければ経験できなかった。麻雀旅行だったのだが、奥様は途中で買われたアジでたたきを作ってくださった。山本さんがみそ汁を飲んで「あ、インスタンドだな」と指摘したが、我々はインスタント味噌汁なんてハイカラなものは飲んだことがなかった。彼女は今も目白のあの場所でスペイン料理文化アカデミーを主宰されている。
ピッチャー山本、ショート小林
背景は七徳堂(東京都選定歴史的建造物)

私が人集めした合コンを、山本さんの知る銀座の店ですることになった。なんでも支配人が彼の父親と海軍で一緒だったという人で、途中あいさつに来られた。相当高かったと思うが「山本香料のおごりだ」といって全部払ってくださった。

彼の話はいくらでもあるのだが、仕事の話をすると、私がM2の終わりごろ、修士論文の最後のところでペニシリンを上手に分解してNMRを取る必要がでてきた。このとき彼が鮮やかに予備検討をして助けてくださった。遊びだけでなく研究、実験の達人でもあることが最後で分かった(最後というのは冗談)。

(続く)
次回は
私と薬学3  生薬学教室と助手のポスト

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