2022年1月23日日曜日

私と薬学1 東大薬学部と学生実習


薬科大を定年退職するにあたり、日本薬学会のYAKUGAKU ZASSHI(薬学雑誌)から研究内容を総説として書いてくれと言われた。
おそらく毎年何人か書いているのだろう。回想も交えて研究哲学がつづられていることもあるかもしれないが、たいてい真面目に専門分野のことを詳しく書いてあって読んでもあまり面白くない。ふつう一人が生涯あげられる業績というものは、他人が興味を持つほど大きくない。

それにYAKUGAKU ZASSHIに書いても何人読むか?
ネットで活字が氾濫する今、会員にタダで送られてくるファルマシアだって読まれない。読まれないものに書いても仕方がない。

断ろう。
第一、面倒だ。学内の退職記念講演も辞退しようと思っている。東大など都市部の大学と違い、久しぶりに同門の研究者とか集まるわけではないし、教え子も来ない。

まず、退職後も薬学の世界にいるなら別だが、4月からは朝のスーパーの品出しとかフリーターをしながら、千駄木菜園で野菜を作る老後になる。いまさら研究の話をしても何のメリットもない。
薬学とは完全に離れ、今までの交際もなくなり、一人老後を生きていく。

振り返らずに前だけを見ていく、といえば格好良いが、要するに義務でもないことをするのは面倒くさい。

しかし、この機会に、つまり定年退職にあたり少し考えた。
薬学の周辺にいて45年になる。この仕事で生活し、家庭を持ち、社会とつながってきた。私にとって薬学は決して軽くない。自分の人生そのものといえる。どうしてこういう人生になったのだろう?

そもそも信州から出てきて大学に入ったときは、まだ家業(私は専業農家の長男)が頭にあり、薬、薬学など、考えたこともなかった。それが教養学部の成績の関係からたまたま薬学部に進学してしまい、流れに任せたら製薬会社に就職した。

企業の研究所にいたときは薬とか薬学は意識しなかった。農学部や理学部の人と出身学部など意識せず、純粋にサイエンスが一番だった。ところが転職して薬科大学に来ると、とたんに薬と薬剤師国家試験が前面に出た教育、世界となり、すっかり薬学部が嫌になったと同時に、日本の薬学が心配になった。

希望をもって薬学部に進学して45年、その間のことを思い出しているうちに、頭がボケないうちに書き留めておこうと考えた。

とくに定年を待つだけの今は、一番ひま。
冬は野菜つくりも仕事がない。ちょうどよい。

・・・・・・・・・

薬学部に進学、修士課程を終えて企業の研究所に就職、その間、東大医学部薬理、シンシナチ大学、京大シミュレーションプロジェクトでも研究に従事した。
その後、薬科大学に転職。教育にも携わった。
その間のことを書いていく。 


1 東大薬学部と学生実習

もともと薬にも薬学にも興味はなかった。
東大は本郷での専攻分野を決めるにあたり、2年生の秋に各人希望を出す。応募者が定員以内なら問題ないが、人気のある学科すなわち応募者が定員を超えた学科は、教養学部での成績順にとっていく。
私は理学部の植物学教室に行きたかったのだが、8人しか枠がなく、最低点が読めなかった。留年覚悟で応募する気もない。薬学部は70人だったから毎年最低点が一定していて、私の持ち点でも入れそうだった。構内図を見たら隣が看護学校だったし(のちに全く関係ないことが分かる)。

すなわち薬学は、どこかに行かなくてはならなかったから決めたに過ぎない。化学は嫌いではなかったし、体と健康の勉強でもして、田舎に帰って後を継ごうと思っていた。農業のことは父に聞けばいいから、大学では違う勉強をしようと思ったわけだ。

2年生の冬学期はまだ教養学部だが、進学先が決まったことから週に2日、本郷まで行き、薬学の先生の講義を受けた。それまでの駒場の講義は、例えば線形代数は行列をいじくりまわすだけで何の役に立つかわからなかったし(役に立たなくてもいいが学問としてのストーリーが欲しい)、物理化学の熱力学ではエントロピーなどの式を変形していくだけで、教員も平たんに話すばかりで、分かりやすく説明しようとか面白い話をしようとかいう熱意が見られなかった。進学振り分けの点数を取るためだけに出席するような授業だった。当然さぼる。

しかし薬学の先生は、教える相手が自分たちの後輩になることが分かっているからか熱心だった。同じ物理化学でもエントロピーは実例をあげ熱力学と統計力学の両面から説明し、量子力学も化学構造、機器分析スペクトルと関連付けてくれた。

参考書もいくつかすすめられた。
レーニンジャーの生化学は大型本、上下で8800円もして貧乏学生には高かったが(当時生協の定食は230円、アルバイトは時給400円)、図が素晴らしく、1ページ1ページ、大切に読んだ。井本稔「有機電子論」は、薬学に決まって2か月後の年末、帰省の車中で読んだ。共立全書で小さかったため旅行バッグに入ったからだ。これらは試験のために読んだのではない。なんとなく進んだ薬学だが、初めて勉強が面白いと思った。

当時の薬学は水野伝一教授が学部長で、岡本敏彦、田村善蔵、坪井正道先生らのベテランに加え、野島庄七(1975就任)、三川潮、粕谷豊、古賀憲司、広部雅昭(以上1976)各先生が教授になったばかりで活気のある時代だった(ほかの時代を知らないけど)。清水博、福田英臣の両先生は1977年就任だから我々の本郷進学と同時である。
本郷に進学した3年生は1学年70人、毎日午前講義、午後実習である。
講義は出席自由だったから寝坊したら出ずに図書室で現代化学や科学(岩波)などの雑誌を読んでいた。NMRの理論や、阻害薬が複数ある時の受容体結合などで分からないことがあると講義に出ずに図書館で一人考えていたこともあった。私は赤羽浩一氏に誘われ、薬学のボート部に入ったから、早朝、戸田で練習する長期合宿中は、ずっと午後の実習だけの期間もあった。

試験も大してなかった気がする。あっても追試なしの全員合格。それまでの駒場と違って点数も関係ない。
ある教科は問題用紙を配ったら教員が「あまり騒がないように」といって帰ってしまい、全員ノートや資料を見たり、佐瀬真一氏などは濡れた傘を広げて干していた。

必ず全員合格させるのは、勉強などは自分で必要と思ったときにすればいいという学部としての哲学があったからか、あるいはそういうシステムで上がった人が教員になることで伝統になっていたからか。あるいは単に教授が面倒だったからか。
もっともらしい理由は、午後の実習で実験台が72人分しかなかったことである。一部に物が置いてあったから70人ぎりぎりで、留年されると次の年が困るのである。

その、午後の実習は、4月、分析から始まった。
最初に教わった「薬包紙1枚は0.3グラム、水一滴は0.05ミリリットル」は、今でも覚えている役立つ知識だ。
先日、終活の片づけで、当時の返却されたレポートが出てきた。

各自、尿を分析するという課題があった。
自分の尿をトイレでビーカーに取ってくるのだが、女子はハンカチを巻いて隠して持ってくる人が多かった。自分の尿が極端に色が濃いとか泡立っているわけでもなかろうに、うら若き乙女には、やはり恥ずかしいのだろう。
私の学年(1979年卒業)は女子がとくに多く、男52人、女子18人だった。それまで1969年卒から75年卒までの7年間の学年は、ずっと計ったように女子は5人しかいなかったが、76年から12人、13人、13人と増え始めていた。
さて、私の隣の黒阪泰子さんはとても可愛らしかったが、気は強かった(個人的感想)。彼女の叫び声が聞こえ振り向いたら、川村氏か木村氏の尿が操作中にはねて彼女の白衣についたらしく怒っていた。

課題は、自分の尿を前処置して、TLC(自作)で展開、馬尿酸と尿素を分離検出すること。いま当時のレポートを読めば、私の尿には課題の2物質のほかに、未知の大きなスポットがあった。
未知のスポットに関する考察が面白い。
当時の本駒込の古い4畳半アパートの記憶が鮮やかによみがえり懐かしい。

「・・・体の異常で出たものでなく、ある物質を口から取り入れて多量すぎて尿に出たものと判断した。私の下宿には冷蔵庫がないため一度買ってくるとどうしても大量に食べてしまう。この実験の前に大量に食べたものは、鶏卵、わかめ、キャベツなどであった。特に卵は悪くなりやすいと考えられるので一食に3個ずつ食べていた。わかめなどは尿がアルカリ性になっていたことに関係があるだろう。もう一つ、私の下宿の水道は管が古いのか、始まりのバケツ一杯ぐらいはかなり鉄分を多く含むようなのである。この物質をさらに究明するため、・・・・」
さらに究明するため、私は加温濃縮して再度分析している。

また、金属イオン24種のうち、各自、未知の6~7種を混ぜたものを渡され、ペーパークロマトグラフィと発色試薬のスプレーで同定せよという課題もあった。
私は6種類のうち、5つ当てて1つ間違っていた。

ポリアミドの薄層プレートを各自調整し、渡された未知アミノ酸混合物を二次元クロマトグラフィーで同定する課題もあった。
分析レポート末尾のサインは中村洋先生のようだ。
汚い字の全8枚を隅から隅までよく読まれて、こちらのつぶやきのような疑問にも丁寧に答えてくださっている。45年後の自分とはえらい違いで、自分のレポート採点の態度を少し反省した。

1年間の実習書

有機合成の実習はガラス細工から始まった。今実習書をみれば、1日目はガラスの性質を学びガラス管の選択、切断やバーナー、ふいごの整備。融点測定用毛細管を作る。その後、スポイトやU字管を作り、5日目までにT字管をつくり、最終9日目までにリービッヒ冷却管を作る。

合成実習で反応フラスコと冷却管などをつなげるとき、われわれ実習生は高価なすり合わせ器具は使わせてもらえなかった。ゴム栓に穴をあけ自分でガラス管をまげ、自作のT字管とゴム管でつなげていく。
水浴、油浴(金盥に食用油?)だって電熱器でなくガスバーナーで加熱した。分析のところで述べたように、TLCのプレートだって自分で作る。物がないというのは頭と手先を使う良い訓練になる。(薬理のマグヌス実験の記録もペンレコーダーではなく、煤紙を貼ったドラムだった)

私はガラス管をゴム栓に押し込んでいる最中にガラスが割れ、手にけがをした。そのとき代謝学教室の渡辺先生がサルファ剤を振りかけたことは、「忘れられた奇跡:サルファ剤と~」の訳者あとがきに書いた。

有機合成化学は東大薬学が最も自信を持っていた分野である。
秋から始まったこの実習のテキストは英語だった。
シクロヘキサノールからアジピン酸とテトラメチレンジアミンを各自つくり原料とし、それを四塩化炭素と水の界面で重合させて4-6ナイロンを作る。
これは最終産物が目で見えるから、各反応が最後までうまくいったかどうか、機器分析しなくても分かる。
何段階もステップがあるから70人のうち出来たのは数人。長崎大村の尾崎一成氏もその一人で、ビーカーからナイロンのフィルムをひも状にして、ゆっくりと巻き上げていた。精密機械のような実験技術を持っていた彼は、家業を継ぐため、1年半後に千葉大医学部に再入学し薬学を去った。

薬学に進学してまだ半年で70人全員が一人一人このテキストで有機合成している。
当時は何とも思わなかったが、少し驚いた。

講義は出なくてふらふらしていても、実習はみなしっかりやった。
内容もよく吟味され、研究室配属前の基本技術を、すなわち分析、物理化学、合成、微生物、動物実験などを1年で効率よく学べるようになっていた。

実習は基本的に一人で課題をやるのだが、物理化学などで7人のグループでやるものがあった。大人数だとちゃんと予習してきた優秀な人(わが班ではブレインと呼んだ)が中心になって課題をすすめ、私や駒野宏人氏はよく分からず手持ち無沙汰でぶらぶらしていた。そんなとき先生が回ってくると慌てる。國枝卓氏は本当はこっちの仲間なのに、先生が来るとさっと洗い物をもって流しのほうに行き、やり過ごしたものだった。
その年の駒野からの年賀状は「今年はテイルを脱してブレインになろう」と大きく書いてあった。

学生実習室の外には、小さな木造平屋建ての「学生実習器具管理室」があった。ガラス器具を壊すたびに、そこの大友善四郎さんという「おじいさん」にもらいに行くのだが、孫のような我々を相手にいつも優しくわけてくれた。
12月には本駒込の二葉荘を出た。行き先がなかったので農学部裏、異人坂上の向が岡寮の6畳二人部屋に厄介になった。年が明けて坂下の根津の向こう、谷中真島町にアパートを見つけたとき、大友さんから器具管理室の前にあったリヤカーを借り、國枝に手伝ってもらい引っ越した。

そんな楽しい70人一緒の1年を過ごすと、4年生になる前に配属教室を決める。
いつも使う講義室の後ろの黒板に教室名が書いてあり、各自行きたいところに自分の名前を書いていく。
「1教室は5人まで。一人もいかない教室があってはならない」という二つの条件があり、我々学生が自己調整するのである。成績順などという野暮なことはないが、やはり人気の部屋がすぐいっぱいになるし、だれも行きたがらない可哀そうな教授の部屋もある。
そんなことになっても大丈夫。じゃんけんがあるし、修士課程に行く予定の者は、1年は他の分野で修業しようと、犠牲的精神で人気のない部屋に名前を書き、ちゃんとうまくいく。
(今、工学部の建築はこれと似た形式だが、機械学科は15研究室あれば15希望まで書いて成績順で決める。しかし第15希望なんて、この部屋だけは行きたくない、という研究室ではないか。日本薬科大の研究室配属もこの方式だが、よくない)

さて、4年次にむけた研究室配属。
私は進振りから1年たってもまだ植物に未練があったから生薬・植物化学教室にした。この部屋はいつもはたいして人気がないのだが、この年は珍しく上限いっぱいの5人が名前を書いた。

裏紙にあった当時のメモ

(続く)
次回は
私と薬学(2)生薬学教室の人々

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