農家の長男だったので、大学を終わったら長野に帰らなくてはならない。
それなのに、薬学部に進学して、大学院まで行ってしまった。
似た立場の同級生、高山尚志は潔く、学部を終えたら栃木・大田原保健所に就職した。
修士課程に進んだものの、うんと研究がやりたかったわけではない。
将来どうするか?
面倒なことは後回しにして毎日だらだら過ごしていた。
さすがに博士課程は考えなかった。
そのまま研究室に残り助手(定員2)になれるのは、助教授になったり出ていったりするまでが7,8年とすれば、3,4年に一人という計算になる。すでに1学年上の藤井勲、木内文之の両先輩、同級生の飯島洋、渋谷雅明両氏が進学を決めていた。私が行ったら5人になり、とても残れると思えない。第一、博士まで行ったら田舎にますます帰りづらくなるだろう。
百姓をやらないとすれば、就職は県庁か寿製薬か。
M1(修士課程1年目)が終わる3月、長野高校の名簿をみた。
この名簿は発行されたばかりで、その少し前に、長野高校出身で東京外語大在学中の女性に、自分の学年と一つ上の学年をコピーさせてもらったもの。
同学年のものは就職1年目、1学年上は2年目で、長野県庁に努めている人も何人かいたが知っている人はいない。
1年上で本藤珠美さんという方が寿製薬にいた。千葉大薬学部出身だから話が合いそう。思い切って電話して3月2日、話を伺うべく長野駅の近くでお会いした。ちょうど長野電鉄が地下に入る工事中のころで、入り組んだ仮路地の喫茶店だった。
しかし彼女は自分の寿製薬を薦めず、行けるならもっと大きな会社のほうがいいという。
残るは長野県庁。
どうせなら役所の中心のほうが面白いだろうから行政職で受けることにした。
4月、最終学年M2になって問題集を買った。上級試験模範解答集。シリーズになっていて全10冊。その中の法律職編Iを買って、勉強し始めたが非常につまらない。ほかの教養試験編、行政職編、経済職編は立ち読みした程度。
ほとんど勉強しないまま試験日の7月20日が近づいてきた。そんなとき山本さんが同日にスチュワーデスとの合コンを企画した。試験は受かる気もしなかったし交通費ももったいないので結局合コンを選び、長野での就職は消えてしまった。
M2になって同級生は夏前にみな就職を決めていく。
さすがに焦った。とりあえずみなと同じように製薬会社に就職して、数年間かけて県庁なり教員なり、転職、帰ることにしようと思った。
就職担当の広部雅昭先生のところに行くと、教授室のソファーをすすめられ、短パンに汚い脚だったから座るのに恐縮した。そして先生は「長野ならキッセイ薬品があるよ。小林通洋君を知っている。いい会社だよ」と紹介された。しかし松本は実家から通えない。
8月になって、三川先生が「きょう、田辺製薬から求人が来たけど」と実験室に入ってこられた。教室の先輩、中野浩三郎氏が「誰かひとりいませんか?」とスカウトに来たらしい。聞けば荒川をわたった埼玉戸田に研究所があるという。川口からバス。薬学ボート部で2年、その後も運動会で2年通ったボートコースの近くだから、すぐ分かった。
埼玉は信越線沿線の信州出身者にとって親しみがあり、叔父も浦和にいた。給料はあまりよくないけど、どうせ将来の景気はわからない。しかし立地は将来も変わらない。武田、塩野義、藤沢など関西に行く気はなかったが、関東でも三共、第一、エーザイをみれば、どこよりも長野に近い。
何より、近年誰も就職していないことが気に入った。
関東の製薬大手は人気があって、山之内や第一などは同級生もすでに何人か決めていたから、あとから入っていくのは悪い気がした。また、1年上、2年上に東大がいっぱいいるところは将来の出世を考えたら避けたほうが良い。(と、今では笑い話のような心配までした)。
そのころ田辺に東大から行かなかったのは、スモン問題のせいである。
難病スモンの原因が、田辺製薬などの製造販売したキノホルムのせいだとされ、社会的大問題になっていた。助教授の秋山さんは友人の矢島毅彦氏が田辺をやめて東邦大に移ったばかりで、「あそこは優秀な人がどんどんやめて混乱している。やめたほうがいいんじゃないか」と心配してくれた。
しかし田辺の研究所はレベルが高いということでも知られていて、合成分野で田辺の人(溝口さん?)が非常勤講師で講義されていたし、「あそこはいい薬を開発したんだけど、今出すとスモンの補償金で取られてしまうから隠しているんだ」という噂すらあった。
8月8日、戸田の研究所の見学に行った。
中野さんは薬理研究所第3部(代謝部門)で、奇遇にも駒場寮の1年先輩で獣医学科に行かれた鈴木龍夫氏もいらした。部長室で針谷祥一氏と面談すると、やはりスモンの話になった。すると彼は「諸君!」という文芸春秋社の雑誌をとった。1980年3月号、『スモン病、田辺製薬の抵抗』宮田親平という長い記事がある。「これが一番まともに書いてあります」と私にくれた。
帰宅後、読んだ。
それまでスモンにはたいして関心がなかったのだが、きちんと科学的に書かれた文章は、「正義を振りかざし」何が何でも患者の味方をする(ふりをする)マスコミと違って、まじめに問題を論じていた。どう見てもスモンはキノホルムのせいではなかった。無知なくせに正義の味方だとうぬぼれ、権力を振りかざす馬鹿なマスコミと比べると、冷静に科学を前面に出し、権威、権力に対抗している田辺に好感が持てた。迷わず田辺に就職しようと決めた。
やがて田辺のほうから入社試験の案内が来た。
10月31日から11月4日まで大阪。西中島南方のビジネスホテル・ミツフに泊まり、大阪工場で筆記試験と内海工場長による面接。試験は漢字テストなど簡単なもの。面接は故郷信州についての世間話。本社でも面接があり、松原社長ら重役を前に大学院修了者17人の集団面接だった。形式的な入社試験で、3つ合わせても1日で終わるような内容である。これは他社を受験させないため一定期間束縛するのが目的だった。
工場での面接は、食堂が控室だった。
17人勝手に好きな席にだらんと座ってテレビを見ている。呼ばれたら一人一人出ていき、終わったら戻ってくるのだが、前後の待ち時間が長く、日本シリーズなどをみて過ごした。西本監督の近鉄対古葉の広島、鈴木啓示と山根・江夏の時代である。
また、期間中に休日があった。何もすることがないので私の発案で石原秀平氏、石毛徹夫氏を誘い学園祭にいった。梅田に行ってピアを立ち読みしたら神戸女学院があった。我々もまだ学生だったのである。
後日写真を送ってくれたのは池藤園美さんという方。同封のメモは素晴らしく美しい文字で「就職試験はいかがでしたか」とだけ書いてあり、いかにも良家の娘さんという感じだった。住所は「徳島市」としか書いてなかったから、お礼の手紙は出せなかった。
今と違って就職活動はおおらかだった。
当時の研究所は部単位で新人が欲しければ、出身大学にスカウトに行く。私も二年後に農学部博士課程にいた友人をスカウトに行った。あるいは所長、部長が友人の教授に頼まれる。ほとんどそれで決まった。1988年になっても、私が学会で九大の桐野豊先生に(1990年入社予定の人を)頼まれた。上司だった長尾さんに話すと「来年度は豊作なんだよな・・・・」と言いつつも、ちゃんとその学生は入社してきた。
コネばかりの当時は高卒も含め、私大、国立もいて多様性に富んでいたが、ネットで誰もが応募できる今は、一見平等、しかし逆に旧帝大の大学院卒ばかりになってしまった。
就職試験が終わり、ボート大会、狭山人工スキー場、山本Maris desert House でのクリスマスパーティ。その間に老人研に行ったり、泊まり込みで実験したり忙しかった。就職試験で知り合った石毛氏を訪ねて飯田橋・東京理科大の研究室を自転車で訪ねたりした。廊下のすぐ裏が崖の壁だった。
年が明けるとサッカーの天皇杯決勝に田辺製薬が出ていた。
二部リーグのチームが一部リーグを次々と破り決勝進出するのは奇跡であり、三菱重工に0‐1で惜敗したものの、「一枚岩の団結」で倒産の危機を脱した会社はお祭り騒ぎであっただろう。実家で親や叔父とテレビを見ていて私も誇らしく思った。
田辺はキノホルムは絶対スモンの原因ではないと主張し、社会から猛反発を食らった。マスコミに叩かれるだけでなく田辺製品のボイコットも起き、倒産寸前までいった。
しかし陣頭指揮をとっていた平林社長(内海工場長との雑談面接のやりとりで上田出身だったと知る)が数年前に急死し、労働組合出身の松原社長になると和解路線に転換した。
見舞金は出すが、キノホルム原因説は受け入れられないとの方針、発言に患者側、社会は猛反発したが、やがては収束、全国各地の地方裁判所で急速に和解が成立していった。
その最中、直後での、私の就職、サッカーの天皇杯進出だった。
田辺としては、危機を脱し、明るい希望に満ちた正月だった。
(この年の新人採用は空前絶後の232人)
帰省から戻ると再び忙しく実験。
3月に入ると10日、修士論文発表会
3月15日、田辺製薬大宮寮の鈴木さんのところに遊びに行く
17日、赤羽浩一氏のご自宅で、全員修士に行ったボート部のお別れ飲み会
20日、教室の追いコン、紅白戦
21日、田中成田結婚、弓町教会・学士会館。
29日、谷中引き払い、荷物を叔父宅に
29日、新宿北の家族、駒場クラス会も6人だけ。
30日、車で長野へ。東京での私の6年間の学生生活が終わった。
・薬学部への進学、
・大学院への進学、
・長野でなく埼玉への就職。
以上、3つとも重大な事件だったが、長野の父へは事後報告だったか、いちおう聞いたか記憶にない。いずれにせよ、そうかと言ったきり、反対もされなかった。
その後、ずるずると埼玉の田辺製薬に勤め続けていると、群馬大工学部を出た弟が長野の会社に就職した。彼は東京の花王に行きたかったみたいだから、申し訳なく思った。その後、どちらが家を継ぐかはっきり話し合うこともなく、自然と彼は家に入った。私は何も言わず、ずるい人間だった。
本家の長男として生まれ、小学校高学年の3年間は岩船部落のお祭りの獅子舞の大役に選ばれ、村を将来背負って立つと思われていたのに、都会に出てしまった。
本来自由に人生を決められたはずの弟の将来を奪ってしまった。今更何も言えないが、頭が上がらない。
(続く)
次回は、田辺製薬代謝部門で、ホパテ誘導体のことを書く予定
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