2022年1月28日金曜日

私と薬学3 生薬学教室の人々と助手のポスト

このシリーズ、第1回は薬学に進学した3年生での学生実習をかき、第2回は4年生で教室配属されたときの同級生と山本芳邦さんのことを述べた。

さて、生薬学教室では野球が盛んだったことを前回書いた。
毎日、バットを担いで御殿下に皆を引き連れていったのはD2の高木重和さんだった。生薬はもともと入ってくる人が多くなく、大学院に進学する人も少なかったから、彼の下にはM1の藤井さん木内さんしかいなかった。それが1978年4月、一挙に4年生5人と山本さんが来たものだから毎日嬉しそうだった。
彼は、キャッチャーで4番、どっしりと太っ腹で、飲みに行くといつもおごってくれた。高木さんの1年上のD3の嶋田寿男さんとは仲が良くて、嶋田さんはいつも「おい、高木、払っておけ」と言っていた。

本郷三丁目の駅近くにラ・メールというスナックがあり、高木さんと二人で行き「長崎は今日も雨だった」を歌ったりした。カウンターの中に可愛らしい女性がいた。東郷さんと言って東大看護学校の学生でアルバイトだという。上野公園に行く約束をして後日、3人で不忍池のボートに乗った。さらに後日、私単独で彼女を呼び出し、図書館前噴水広場の東、今は文3号館ができてつぶされてしまった藤棚の下でおしゃべりした。しかし今一つ盛り上がらず、その後、会うことはなかった。
1979年3月

いつも明るく過ごされていた高木さんもD3になられた。ある夏の日、教授室から浮かぬ顔をして戻ってきて「おい小林、公務員試験について教えてくれ」という。聞けば、博士課程を終えたら厚生省管轄の国立衛生試験所に行くよう言われたらしい。
みな博士課程を終えたら研究室に助手として残り、助教授、教授を目指したい。ところが助手のポストは2つしかない。助手の在任期間が8年とすれば、4年間でたった一人しか残れないことになる。

海老塚豊助手の2学年下は、人材豊富で大塚英昭、木下武司、佐藤俊次、古川淳(以下、敬称略)の4人が博士課程に進み、大塚さんが医学部生化学教室、古川さんが応用微生物研究所8研に助手のポストを得て、木下さん、佐藤さんが残って助手となった。ゆえに我々が入室したときは、海老塚さんが留学から帰られたので助手は3人。まもなく木下さんがニューヨークに留学されたが、まだ二人。この年博士課程を終えた嶋田さんは、入る余地がなく帝京大助手に赴任された。

その年の忘年会だったか送別会だったか、湯島で飲んだあと、歩道に「秋山歯科」「野口眼科」という看板が並んで立っていて、酔った嶋田さんが蹴った。野口博司さんと嶋田さんは同じ年で、大学受験の時に東大紛争で入試がなくなった。嶋田さんは1浪、野口さんは2浪して東大に入られている。近いうちに佐藤さんが留学すれば野口さんが助手として残れるから、悔しかったのだろう。それにしても「秋山歯科」から連想される助教授の秋山敏行先生は嶋田さんとは全く関係ないはずで、看板とはいえ蹴られたのはとばっちりである。

嶋田さんは博士課程の最終年度、4年生の私の面倒を見てくださった。
最後の3月ごろだろうか、赤門前のすし屋に誘われごちそうになったとき、私に修士を終えたら帝京に来ないかと誘ってくださった。「博士号は取らせてやる」「女子学生はみんないい子でかわいい」という。
そして「小林と俺は6歳違う。教授の斎藤(保)さん、高井さん、みんな年回りがちょうどいいんだ」と言われた。ご自身の年回りで運命が決まったのがよほど悔しかったのだろう。

さて、高木さんの場合は、同級生の野口さんが残され、自分は出されるわけだから、前年の嶋田さんとは少し違う。年齢が野口さんより2年下ということよりも、助教授の秋山敏行さんについていて三川教授のテーマでなかったことも大きい。半ば予測されていたことだが、当日になって慌てるところが楽天家の高木さんらしかった。

その助教授の秋山さんは、三川潮教授と8年しか違わず、先代・柴田承二先生のきょうだい弟子であり、三川先生の部下ではなかった。だから独立しており、自然秋山さんの部下を三川さんが採用するわけがない。
秋山さんはニンジンサポニンやステロイドの研究をされており、そのグループは博士課程1人、4年生1人、留学生1人を従えた4人構成だった。
このころ、東大薬学は100MHzのNMRを導入した。それまでのNMR(60MHz)の周波数スキャン方式(実際は磁場をスキャン)と違い、さまざまな範囲の周波数を含む矩形パルスをあたえ、得られる自由誘導減衰をコンピューターに取り込み、フーリエ変換して周波数スキャンと同じ波形を得る。すなわちFT-NMRであった。その原理がよくわからず、たまたま口にしたら、秋山さんはさっとその場で図を書いて説明してくださり、その頭脳明晰さに(失礼ながら初めて)驚いた。
私がM2のとき、他大学から卒業研究で池田さんが来て秋山先生のテーマを手伝った。その後、彼女は私と結婚したこともあり、秋山先生は西武新宿線鷺宮のご自宅に二度ほど呼んでくださった。一度は長女が妻のおなかにいた時、二度目は1才の時だった。
彼は東大教授になれないことが分かっていたから、製薬企業に転出された。そこではアマゾンや東南アジアに植物採集に出かける仕事も任され(許され?)、楽しまれていた。植物がお好きだったのか、その後高知の牧野富太郎植物園に転職された。

さて、嶋田さん、高木さん、佐藤さんが出られたあと、助手は海老塚さんと野口さんになり、人事の悩みはしばらく去った。

海老塚さんは我々が入室する前に留学から戻られ、教室全体を整備している最中だった。開かずのロッカー、戸棚などをあけ、代々たまった書類、ガラクタの処分。戦前の先生らが留学先から持ち帰った試薬とか、ガラス器具とか、使えない、使わないものを捨てた。私はガラス器具を五月祭で一つ10円で売ったが、他大学からたまたま来た先生は、これはお宝だ、といくつか持ち帰られていた。海老塚さんは教授に代わり、教室運営全体に目を配る立場であった。
一方で野球はファーストを守り、「グラブが少しでも触れたのなら、取れるはずだ」という名言を残された。また、ちょうど猛暑で水不足が話題になったとき、我々が器具を洗う姿を見て苦言を呈した。「ブラシやスポンジを動かしているときは蛇口をしめろ」。この名言は、その後45年間、私もその通りだと思い、企業に入っても実行したし、今も台所の妻を見て思い出す。しかし彼女にそうは言えない。
エーテル缶は100円

野口さんは父上が東大農学部の教授で、阿佐ヶ谷に住まわれていた。典型的な戦前からの山の手育ちではなかろうか、クラシック音楽や絵画、ワインに造詣が深く、貴族趣味であったが、外見は汚い白衣に頭は手ぬぐいを巻き、山田ルイ53世を思わせるように太っていらした。だから昼はよく砂糖のないヨーグルトでダイエットされていた。
しかし三川研の二本柱の1本として、ラボを支えた。和洋、甘いものに目がなく、後年、静岡県立大を突然アポなしで訪ねた時、冷蔵庫から美味しそうなスイーツがさっと出てきたのはさすがである。
私の修士論文では内容ではなく、図における構造式の配置具合、白黒のバランスが絶妙だと(芸術的見地から)ほめてくださった。また、後年博士論文を出し口頭発表したとき、質問された先生と言い合いになった。それを聞いていた野口さんに後で「審査する人に逆らう人は珍しい」と、これまた内容でない点で面白がられた。

野口さんの下は山本さん、そして1学年あいて我々の1年上の藤井勲さんと木内文之さんだった。お二人はたぶん学年全体的に見ても多分かなり優秀な方々である。しかし魚津高校、野沢北高という田舎出身のせいか、万事控えめであられた。

藤井さんはスキー、テニス、野球、すべてスポーツ万能、実験もよくされていた。培養実験などで、私などは、失敗したらやり直せばいいと思うのだが、彼は失敗をある程度想定してバックアップも走らせ、それが無駄になったとしても、失敗が分かってからやり直すことの時間の遅れを戒めた。費用が掛からないなら手間を惜しむな、時を惜しめと。
野球で肩を痛めたとき、まじめに左投げの練習を始めたあたり、普通の秀才の発想ではない。
西武線の沿線に住んでいらした。一見クールなのだが、毎週、電車の網棚から漫画雑誌を拾ってこられ、我々も恩恵にあずかった。引っ越しを手伝いに行ったとき、弦のない壊れたギターが転がっていて、ごみ置き場で拾ったと言われる。ボディにサインがしてあったが、誰のサインか藤井さん含め全員わからなかった。

木内さんはコーラスでもやっていらしたのか、歌をハモるのがうまかった。ご自身の結婚式で親戚の方と歌われた「朧月夜」が記憶に残る。カメラが趣味で、我々みな生薬時代の写真が多いのは彼のおかげである。きちんとした事務処理で信頼されていたため、教室行事の会計とか実務を任されていた。
彼の研究テーマで、キャンパスの北の端、応用微生物研から20リットルの培養上清をいくつか南端の薬学まで運ぶのをお手伝いしたときは疲れた。その功績か、M2を終えて教室を出るとき、記念品としてバドミントンラケットをもらった。記念品価格の上限を超えていたが、木内さんの一存で買っていただいた。

その下の我々の学年5人については前回書いた。

我々の下の学年は1979年4月入室の4人。
まず、広島出身の合田幸広。彼は中学のとき広島市民球場でライトを守ったという。長身を生かし、腰痛で野球をやらなくなられた海老塚さんのあとのファーストを守った。彼の美人の奥さんは確か私と一緒に行った合コンで知り合ったのではなかったか?(記憶あいまい)。インベーダー、パックマンなど当時はやったテレビゲームがうまかった。彼は背も高いが声もでかく、私の結婚式ではエールの音頭を取ってくれた。

石川芳明は桐朋出身。合田と違って静かな男。教室でスキーに行くとき、ビクトリアとかではなく、一式をデパートでそろえた。30年ほど前、東大医学部薬理の同窓会でばったり会って懐かしかった。数年前、地域雑誌「谷根千」の大昔のバックナンバーを読んでいたとき、読者投稿欄に彼の名を見つけた。本人かどうか、どちらか死ぬまでに確認できるだろうか。

根上慶子さんは偶然にも私の高校の同級生と付き合っていた。話し方に横浜育ちのせいなのか、何とも言えない品の良さ、可愛らしさがあった。

フジキヨ(藤井清孝)は福井出身、生薬で唯一、恋人がいる学生だった。気が合って、昼は二人でメトロ(学内の喫茶店)で毎日カレーとソフトクリームを食べていた。
1980年3月
やはり野口さんはカメラでなくケーキを見ている。

1980年3月、彼は卒業を前に千葉大医学部を受験、合格した。
みんなでケーキを買ってきてお祝いした。写真の女性は翌月からフジキヨと入れ替えで秋山さんのところに卒業研究で他大学から来ることになっていた池田さん。なぜかこの日、写っている。このあと彼女は包丁だかケーキのお皿だかをひとり教授室手前の流しで洗っていた。フジキヨはその後ろ姿を見て、盛んにアタックするようすすめたが(私への最後の遺言?)、おとなしい子で接点もなく、私はその後数か月、親しく話をすることもなかった。

次の学年、1980年4月入室したのは以下の3人。
北川祥賢。金沢大付属、私と同じ昭和31年生まれ、実験台も向かいで気が合った。サザンオールスターズとビートルズが好きで、12月、ジョンレノンが殺されたときはひどくショックを受けていた。文字がきれいで文章が抜群にうまかった。彼はのちに「いとしの乗り入れ列車」を出版している。休日に二人きりで実験室にいることがあった。彼が石川県松任から送ってもらったというインスタントラーメンをビーカーで作って食べた。エビの味がして、65年の間、これほどうまいインスタントラーメンを他に食べたことがない。

小林貢。かの教駒出身だが、とても優しくて表情も穏やか、そして控えめだった。研究室が別だったから話すことは少なかったが、クラシック音楽に詳しい野口さんをして、「あいつのクラッシクの知識はすごい」と言わしめた男である。しかし全く自分からはそういう話をしなかった。

佐々木千草。福島女子高。とても可愛らしい女性だが頭が良すぎるのか何を考えているのか、本心なのか冗談なのかよく分からなかった。1991年、福島市で学会があったとき、思い切って電話して呼び出し、古関裕而記念館で会った。(だから私はNHK朝ドラ「エール」よりずっと前から小関には詳しい)。京都で祥賢と3人で会って以来10年ぶりだったが、やはり不思議な女性だった。
1980夏、式根島
この学年で特記すべきは、他大学から女子が3人も卒研でいらしたことである。東京薬科大から田村有子さん、黒岩敏美さん、東邦大から池田万里子さん。それまで女子が来ても男の中で独りぼっち、借りてきた猫のようだったのが、一挙に3人来たことで雰囲気がガラッと変わった。そこに佐々木さんと秘書の山崎麻美さんが加わり、スポーツ大会や教室旅行だけでなく、昼食や実験など毎日の空気まですっかり明るくなった。

他大学からの卒研生受け入れは、テーマとスペースはあっても人手がない東大と、リソースが少なく全員にきめ細かく指導することが難しい私大のニーズがマッチしたシステムだが、ほかのメリットもあったのではないか?
毎年、女子学生の多くは野口助手につけられた。三川教授の親心だったかもしれないが、恩恵を受けたのは彼でなく、藤井さん、祥賢、そして私だった。
(続く)

次回はようやくアカデミックな話
(予定)第4回 天然物の生合成に関する研究

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