2022年11月27日日曜日

盛岡の原敬、賢治、啄木、石割桜

高速夜行バスで弘前に朝、到着。

弘前、青森、八戸を経て盛岡にやってきた。
(別ブログ)

盛岡城を見物し、本丸下の帯曲輪から内堀(鶴ヶ池)を渡って外曲輪に来た。
外曲輪は町と同じ高さで石垣はないが、ここも城址公園(岩手公園)の一部である。

木々の間に碑があった。
2022‐11‐03 14:50
宮沢賢治碑
賢治は37歳で死ぬ1か月前にここを詠んだ散文詩「岩手公園」を病床で清書し終えたという。彼は生前ほとんど無名に近く、死後草野心平らの紹介で世に出た。

「岩手公園」は読んだことがないが、国語の教科書にあった「永訣の朝」を思い出す。
妹トシが結核で死ぬ朝、彼女の願いでみぞれ雪をお椀に取ってきた賢治が、雪に混じっていた松の葉を、熱のあるトシの柔らかいほっぺたにツンと差したように思ったのだが、今読んだらそんな場面はなかった。

鶴が池の東の縁を通って大通りに出ると、その角(桜山神社の並びになる)にもりおか歴史文化館があった。この一帯は外曲輪でも内堀と中津川に挟まれて城に近く、喜庵氏、桜庭氏、毛馬内など、一門、重臣たちの屋敷が並んでいた。

歴史文化館の前に原敬の遺徳顕彰碑があった。
14:59
原は南部家の家老の家に生まれ、明治以後の南部家の家政にも助言を行った。分家の遠野南部家が破産の危機を迎えた際にも、その解決のために奔走した。盛岡にお城を含め、南部家の遺産が多く残されているのは、彼の貢献もあるかもしれない。

この顕彰碑は故人の功績を述べたものでなく、変わっていた。
大正6年の戊辰戦役50年祭での心境(日記を基に再現)を刻んである。 

盛岡にて戊辰殉
 難者の五十年祭を
 営みける時 祭文
 を求められ余は戊辰
 戦争は 政見の異
 同のみ 誰か朝廷
 に弓をひく者あらん
 やと言って その冤
 を雪けり

 焚く香の
  煙のみたれや
   秋の風
        敬

ここ、もりおか歴史文化館は、2006年に旧岩手県立図書館が駅西口に移転した後、増改築したものである。その県立図書館設立時に原敬は一万円(いまの1億円)を寄付したという。彼は完成(1922)の前年に東京駅で暗殺された。

もりおか歴史文化館は入らず、大通りの中の橋で中津川をわたると「プラザおでって」がある。意味は「おいでください」。ここの6階にある盛岡てがみ館は、啄木、賢治、野村胡堂らの手紙を展示している。この日は無料だったが、ここも入らなかった。疲れて面倒になっている。

盛岡城で石川啄木と宮沢賢治の記念碑を見たこともあり、プラザおでっての角を曲がり、啄木・賢治青春館に行ってみた。
15:08
もりおか啄木・賢治青春館
1910年竣工の第九十銀行を保存活用したもの。
入場無料であるが、充実していた。

15:15
啄木のほうが10歳年長。二人とも盛岡中学を出て、啄木は上京後、故郷渋民村、函館、釧路、東京小石川など転々と暮らし27歳で没。賢治は盛岡高等農林に進み、主にふるさと花巻で暮らし37歳で没した。二人とも結核だった。資料館の名前が「青春館」というのが悲しい。
宮沢賢治は雨にも負けずの詩人、童話作家というイメージがあるが、大先輩啄木の影響を受けたか、中学時代から短歌を作っている。

啄木が東京で暮らした下宿は文京区が多くブログにも書いた。

しかし、賢治も文京区と関係ある。1918年暮れ、東京に進学した妹のトシが雑司が谷の東大病院小石川分院(永楽病院)に入院したたとき看病で3か月ほど近くの旅館・雲台館に泊まった。1921年には家出、本郷菊坂町に下宿し、東大赤門前の謄写版印刷所・文信社に勤め、7か月ほど暮らしている。

雨の中歩き続け、疲れていた。
展示を見ずに記念館の椅子で座ってしまうほどだったが、雨でぐしゃぐしゃになった地図を見ていて、賢治の出た盛岡高等農林(岩手大学農学部)に行ってみようと思った。途中で石割桜もあるし。二度と盛岡に来ることはないから、老体に鞭打って立つ。

そうと決めたら啄木・賢治記念館では展示資料を見ずに(見るのは歩くのと同じ体力を使うから)、外に出て歩き始めた。

もりおか歴史文化館の前まで戻り、大通りを渡って鶴ヶ池の東をいく。
池(濠)の向こうに時鐘があったが、近くまで行く元気はない。

広い中央通りに出ると並木もある官庁街。
15:24
岩手県公会堂
1927年竣工、日比谷公会堂と同じ佐藤功一が設計した。
当初は岩手県議会議事堂としても使われた。

15:25
岩手県公会堂の前庭に原敬の胸像があった。

原は平民宰相とよく言われ、自称もした。
平民とは、美智子様の皇室入りのときに使われた言葉でもあり、皇族、華族の対の意味だと思っていた。明治以後、大名、公家だけではなく、薩長を中心とする政治家、軍人、実業家まで爵位を与えられ華族となった。戊辰戦争で賊軍とされ、あらゆる分野で薩長出身者に差をつけられた東北出身者として、原は藩閥政治家がお手盛りで侯爵とか伯爵とかになるのを軽蔑、苦々しく見ながら、自分はそんなものは必要としないと誓ったのだろう。
それまでの首相は、長州の伊藤、山県、桂、寺内、薩摩の黒田、松方、山本、それから佐賀の大隈、公家の西園寺、と9人とも華族であった。

今回、原について少し調べたら、盛岡藩家老の家に生まれながら、当時兵役から免除された戸主となるためか、結婚もしていない20歳のときに分籍して「平民」に編入されていた。昔はいろんな書類に士族、平民の区別を書いた。彼は後年、宿帳にも「岩手県平民」と大書して悦に入っていたという。二重の意味で平民だったのである。

岩手県公会堂の並びは県庁、県議会議事堂、つぎは盛岡地方裁判所。
この裁判所の前庭に石割桜があった。
15:29
樹高11.0メートル、 樹齢が350~400年といわれるエドヒガンザクラ
国の天然記念物
もちろん、根っこが巨石を割るわけはなく、最初からあった石の割れ目に種が落ちたのであろう。ではその割れ目はなぜできたか? ここは南部藩主の分家にあたる北監物の庭園であったといわれ、その庭にあった巨石が落雷をうけてできたという。本当かな?
14:52
ここに来る少し前、内堀(鶴ヶ池)の東岸、もりおか歴史文化館のうらを歩いているとき、向こう側の盛岡城(御台所)の岸に大きな石が転がっていて、きれいに割れていた。
もともとここらの石はきれいに割れやすいのかもしれない。

裁判所から北日本銀行本店をすぎ、日影門緑地の角で北に曲がった。
15:34
佐藤写真館(左)とライト写真館
いずれも「寫眞館」という文字が歴史的建物の壁に浮かんでいた。今は誰でも写真を撮れるが、カメラが珍しく一家で盛装して写真館に行った時代があったのである。裁判所から5分も離れていない一等地にこうしたものが残っているのが盛岡か。
15:42
岩手医大本町キャンパス
1897年(明治30年)開設された私立岩手病院の医学講習所を源流とする私立岩手医学校は1912年閉鎖。1928年創立の岩手医専が前身校といえる。2007年矢巾キャンパスができてから、順次移転、2019年に医学部、病院も移転を完了した。(裁判所の裏の附属病院は内丸メディカルセンターとして残した)
本町キャンパスは教養部だけ残っていたのだが、その移転も終わったようで、敷地内は空き地のようだった。(しかし一部の窓に明かりはあった)。

ずっと岩手大学農学部に向かって歩いてきた。
啄木賢治青春館から農学部まで 2.6km、33分。大した距離ではなかったが、それ以前に何時間もずっと歩いている。
タクシーはぜいたくとしても、「でんでんむし」とかいう市内循環バスや路線バスを使う距離であった。しかし調べるのが面倒になっていた。
歩けば公会堂、石割桜など見ながら盛岡の町をよく知ることができる、という理由で歩き始めたのだが、古い写真館のあとは、予想外の見どころに出くわすこともなく、ただまっすぐ広い道に、足、脚が痛くなってきた。

(続く)

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