2022年11月25日金曜日

盛岡城の縄張り、明治以降の南部家当主

高速夜行バスで弘前に朝、到着。

弘前、青森、八戸を経て盛岡にやってきた。
(別ブログ)
一番の楽しみは盛岡城をみること。
しかし先に盛岡駅から東にまっすぐ、お城を横目で見ながら2.8km離れた岩手護国神社まで歩いて、お城まで戻ってきた。

まず地形も含めた新旧城下町の全体が見たい。
ちょうど大通りに面して立つお城の案内板に地図が載っていた。
2022‐11‐03 13:51
北上川は昔大きく蛇行し、盛岡城は中津川との中洲のような逆デルタの台地に作られた。
要害である。
唯一北側が開いていて、3重の濠を掘った。
一番内側がお城、その外が外曲輪(重臣が居住、今は県庁や裁判所がある)、遠曲輪(諸士や町人街、大泉寺あたりまで)とした。
「盛岡城址保存管理計画」(盛岡市平成24年)から
三重の濠の西が開いているのは、古北上川が流れていたからである。

現在の岩手公園の全体図があった。(南北は逆)
13:51
駅前から護国神社まで行く大通りは桜山神社の前を通ってお城の北部分を横断している。
本体から分離された部分は下曲輪。勘定所があった。

14:00
お城に背を向けて、鶴ヶ池(内堀)にかかる橋の上から下曲輪方向(北)をみる。
時鐘(ときがね)と岩手公会堂のてっぺんが見える。

下曲輪には時鐘のほかに商業地、飲食店などもある。
そちらは後で行くとして、南側のお城のほうに行く。
14:01
桜山神社と鶴ヶ池の間を行くと多目的広場にでる。
古絵図では御台所と書いてある。
石垣の上は三の丸
「盛岡城址保存管理計画」(盛岡市平成24年)から

14:05
台所から三の丸へ上る斜面で西をふりかえる。
見事な石垣の上は二の丸

14:07
三の丸から北側(桜山神社方面、瓦門、鳩門址)をみる。
14:08
西側
見事な石垣。昔はすぐ先を北上川が蛇行していた。

ここは信州川中島のような単なる二つ川の合流点ではなく、西から北上川、東から中津川が全山巨石のような花崗岩の塊にぶつかって跳ね返され、その南でようやく合わさったような地点だ。
八戸から出発し、広大な奥州を手に入れた南部氏が、領内でもっとも要害かつ城下町を作りやすい地として選んだのだろう。
14:15
三の丸から二の丸へ入る車門
江戸城のような見事な石垣
石材が豊富だと形もよい。

14:19
二の丸(左)と本丸を結ぶ渡雲橋(御廊下橋)

14:20 本丸跡
何もない。
木々の間に台形の墓か記念碑のようなものが見えた。
近づくと南部中尉の銅像跡。
戦時中に像を玉垣の鎖ともども供出し、台座だけ残ったらしい。
14:25
盛岡藩の最後の藩主南部利恭の嫡男、南部家42代当主(盛岡藩主家として16代目)南部利祥(1882‐1905、23歳没)は、日露戦争に従軍。翌年の井口嶺攻略戦に参加。ともに従軍していた皇族軍人竹田宮桓久王を守り、その盾となって戦死したと伝えらる。

父親が1903年に亡くなり、まさに当主だった。銅像は東条英教が建築委員長、原敬、田中舘愛橘、鹿島精一らが委員となり、五千人余の賛同を得て進めらた。

ちなみに、東条英教は盛岡藩お抱え能楽師の家系、東条英機の父である。
鹿島精一は旧盛岡藩士葛西晴寧の長男に生まれ、東京帝大土木学科を卒業、鹿島岩蔵の婿養子となり、37歳にして3代目鹿島組組長となった。
 現存する花崗岩の台座は、伊東忠太の意匠に基づいて、鹿島組が施工した。

雨の中、この説明版を一人見入っている白人がいた。日本語が読めるのだろうか。
私も海外の名所旧跡でちゃんと英語説明版を読んでいたのだが、久しぶりに海外出張した2012年のバルセロナで突然、読むのがしんどくなった。56歳だった。いまやスマホのネットで日本語の説明サイトが見られる時代、英語はまったく読まなくなってしまった。

さて、42代が戦死したため、弟の南部利淳(1884-1930)が南部家43代当主となったが、長男利貞が18歳で死去したため、一條實英を婿養子として迎え(利英と通字をいれて改名)44代、その三男南部利昭(1935-2009)が45代、44代の長男の息子南部利文(1970‐)が46代となっている。
鎌倉時代から同じ土地でずっと700年近く続く領主というのは島津、相良(肥後人吉)、相馬(陸奥浜通り)などとともに世界的にも珍しい。

江戸時代初めから10万石と言われたが、内高はそれ以上だった。江戸末期1808年には蝦夷地警備の功により、20万石への高直しが行われた。これは格式が高くなり経費がかさむばかりで領地加増を伴わないため、以後、盛岡藩の財政は新渡戸傳(新渡戸稲造の曽祖父)によって立ち直されるまで慢性的な赤字体質となった。

そもそも伊達家仙台藩62万石、改易前の最上家山形藩57万石と比べ、はるかに広大な領土を持ちながら10万石というのは、260年のうち80回も飢饉があったという、米の取れない冷涼な気候による。それを考えると、この壮大な城も領民から見れば残酷なものだったかもしれない。
14:29
本丸、南西の端。
見晴らしは良い。城下町から登りやすく、戦時には川に囲まれ遠くまで見渡せる。花崗岩の石材にも事欠かない。よくこんな理想的な地があったものだ。

14:31
本丸の発掘調査、天守のあったあたりである。
この旅行前に墨田区での発掘調査のアルバイトを見つけたけど、週5日だったので諦めたことを思い出す。

本丸から淡路丸に降りてみる。
14:33
淡路丸(腰曲輪の一部)
かつて桃山神社はここにあった。
淡路丸は桜が繁り桜山と呼ばれていたことから神社名となった。
いま全国ほとんどの城はソメイヨシノをいっぱいに植えているが、ここは年季が違う。

もちろんここも多数植えられている。
花の季節はどうなるのだろう? ベンチもゴミ箱もないが。
一列に並んだ本丸、二の丸、三の丸が一段と高く、そのまわりを腰曲輪、さらにその外を帯曲輪がまわっていて、これらが内堀に囲まれたお城を形成している。
内堀の外に外曲輪、遠曲輪とひろがり城下町を形成する。

14:36
淡路丸から南の中津川方面。
毘沙門橋ではなく下ノ橋のようだ。
ここはサケが遡上するというが、海はだいぶ遠い。
魚は全身筋肉とはいえ、もっと下流の宮城県あたりで産卵すれば楽なのに。

14:39
淡路丸から出て本丸と二の丸の間の渡雲橋を見上げる。

突然大音量で音楽が始まった。
右の多目的広場を見ると、三の丸に上がるときテントを張って準備していた若者たちだった。ロックフェスティバルでもあるのかな。

14:40
淡路丸を右に見上げながら帯曲輪へおりる。
石と石垣ばかり写してきたがほとんどの人は紅葉を撮っていた。私も初めて見上げると、紅葉は一様に起きるのではなく、枝の先端から始まることを発見した(写真)。

14:44
腰曲輪の外側、帯曲輪。
奥のほうに彦御蔵がある。
石垣の上は腰曲輪の淡路丸

改めて、関東以北では珍しい総石垣の城、東日本大地震でも無事だった石垣、よく残された縄張りの遺構。名城だと思った。

近年、観光客を呼ぼうと金沢、名古屋など当時の建造物を復元する城跡が多い。
ここは城跡にほとんど建造物がない。これほど石垣が立派だと下手なものは作れないし、また作らないほうが良い。
14:47
内堀(鶴が池)をわたり、重臣たちの屋敷があった外曲輪に出る。

内堀を駐車場や道路にせず、鶴ヶ池として保存している。さらに外曲輪も中津川のほとりまでお城と一体化した岩手公園にした。
岩手県は平均所得が低いというイメージがあるが、岩手県民、盛岡市民はお金で買えない大きな財産を持っている。そして手をかけ金をかけ、美しく保存、維持してきたということは、関東の諸県、諸都市より民度も高いと見た。
(続く)

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