以前、実家の墓と過去帳について書いた。
(別ブログ)
途中だったので、その続き。
過去帳には全部で40人。名もない人々ばかりだ。
最後に加えられたのは1965年、結婚前の20代で亡くなった叔父。
たぶん書いたのは彼の父親である私の祖父(1904‐1979)だろう。
だが、過去帳はそのあと仏壇の下に仕舞われて、開かれることもなかったのではないか?
私がその存在を初めて知ったのは、50才を前にした2006年3月のことだった。
2006年、父の前立腺がんが確定して、一週間後の3月24日、帰省して父と一緒に北信病院で話を聞いた。
浸潤が進んでいるため手術、放射線はできない。薬物療法で行くらしい。
突然父の死が現実的になったので病院帰りにノートパソコンを買い、長峰温泉(健康ランド)で初めて一緒にふろに入った。(ドラマみたいに背中を流すなんて恥ずかしくてできなかったけど)
パソコンを買った理由は、当時急激に普及し始めたインターネットを体験し、便利な世の中を楽んでもらおうと思ったからである。
翌日、ワードとローマ字入力を教えた。75才になる彼の人生はずっと農作業だけだったが、すぐ文章を打てるようになり驚いた。
パソコンを買った理由はもう一つあった。メールのやり取りを含め、父にいろいろ書き残してほしかったからだ。
そして、先祖について教えてほしいと頼んだ。
すると彼は、仏壇の下をあけ、短冊形のゴミのような紙束を2冊取り出した。ひとつは漆塗りの板に挟まれていた。初めてみる過去帳だった。過去帳というのは菩提寺にあるものだと思っていたら、紙屑みたいな書類、箱の壊れたろうそく、マッチ箱などにまみれて、何十年も放置されていた。
ちょうどデジカメを持ってきていたので中身を撮り、埼玉へ帰宅した。
その後、15年、過去帳の画像はパソコンの中に入ったままだったことは前のブログで書いた。
今回はその中身を整理する。
過去帳は細長い和紙が蛇腹に折りたたまれたもの。
写真は13日から16日まで
過去帳は月命日、すなわち1か月のその日に亡くなった先祖の戒名と没年月が書いてあるだけ。(二重の意味で名もない人々である!)
例えば、二日のところには
「影室貞光信女 享保十四己酉年、十二月」
としか書いてない。
だから40人の先祖の関係が全く分からない。
そこで、没年から大体の生年を推定し、年代順に並べ、生きた時代を知ることにした。
それにはエクセルで名簿を作らねばならない。
すなわち、
1.過去帳の朔日(1日)から順に入力。画像をテキストデータにする。
戒名は日常語でないから一文字一文字漢字変換せねばならない。結構手間取った。
2.年号を西暦に変える。
西暦、太陽暦への変換は月日も同時に考慮しなくてはいけない。しかし、目的が生年順に並べることなので、月日は旧暦のまま、年号のみ西暦に変えた。例えば上の享保14年12月2日はグレゴリオ暦で1730年1月となるが、エクセルでは1729年12月2日とした。
3.各人の生きた年数を推定する。
何人かは享年が書いてあり、江戸時代の先祖は、66,82、55才、大正から昭和戦前は83、32、51、73,70だった。童子、童女は1才、6才だった。
そこで、享年の分からない人は一律60年、夭逝した先祖は一律2年とした。
4.没年から仮の享年を引いて生まれた年を求め、生年順に並べてみる。
没年 享年 生年 書き込みメモ
影室貞光信女 享保14、12月 1729 60 1670 先祖
祖室妙参法尼 元文3戊午9月 1738 60 1679
大雲秀道信士 延享2乙丑年10月 1745 60 1686 先祖
妙参智照法尼 宝暦11辰8月 1761 60 1702
獅山良子信女 安永7戊戌6月 1778 60 1719 二
澗水定湛信士 寛政8辰12月 1796 60 1737
悟山實明上● 寛政10巳年5月 1798 60 1739
弘山関道上● 寛政11未年10月 1799 60 1740
雪吟童子 寛延1辰10月 1748 2 1747
寛雪童子 寛延元年戊辰10月 1748 2 1747
祖霊童子 宝暦二年11月 1752 2 1751
幻光童子 宝暦4戌年11月 1754 2 1753
見穐童女 宝暦10卯年7月 1760 2 1759
天外良然信士 文政7甲申7月 1824 66 1759 三 66才
中屋妙道信女 天保元年9月 1831 60 1772 三
清江玄浄信士 嘉永6丑年4月 1853 82 1772 82才
真誉貞諒信女 天保2年卯年4月 1832 60 1773 小田中イ嫁シテ
幻相童女 天明元丑年8月 1781 2 1780
春興童子 天明8年2月 1788 2 1787
桃林童子 寛政2戌年3月 1790 2 1789
桐葉童子 寛政3年7月 1791 2 1790
智空童女 寛政4子年6月 1792 2 1791
融峯恵松信女 嘉永7年4月 1854 60 1795 四
妙春童女 享和2年、正月 1802 2 1801
無到地心信士 安政2年11月 1855 55 1801 五、五十五才
霊外祖明信女 慶応4辰8月 1868 60 1809 五 安治の母
所法明以信女 明治9年5月 1876 60 1817 六、安治母
妙顕童女 文政13年丙子年10月 1830 2 1829
清光軒知勇兼足居士 大正4年12月 1915 83 1833 六 安治父、83歳
幻玖禅童女 天保6乙未4月 1836 2 1835
真相妙慧大姉 昭和3年4月 1928 73 1856 清七妻73歳
大安得道居士 昭和8年9月 1933 70 1864 安治70歳
妙全童子 慶応4辰8月 1868 2 1867 安治の二男
高室妙寿大姉 大正10年4月 1921 51 1871 安治妻、イツ 51
大應供釈数念光明士 大正6年5月 1917 32 1886 富沢治助、上田にて死す32歳
貞明童女 明治25辰4月 1892 1 1892 安治子 一才
法圓徳明童女 明治31戌年8月 1898 6 1893 安治子6才
實明狭女 昭和3年4月 1928 2 1927 袈裟太郎長女
智明禅童女 昭和4年8月 1929 2 1928 袈裟太郎次女
真法宗順信士 昭和40年9月 1965 25 1941 真25歳
●は座の2つの「人」の代わりに口と又を入れた字。座の旧字らしい。
生年の順番に並べれば各人の関係が簡単にわかると思っていたが、おかしな点が多い。
そもそも没年齢を60年に仮定したが、30代で亡くなった人もいるだろう。
それ以前に、妙全童子はメモの「安治の二男」ではなく、安治の弟だろう。メモは結構間違いがあり、安治の母が二人いたりする。
戒名が信士、信女でなく、上座、法尼という人がいる。
出家した人がよくつける戒名らしいから、菩提寺、中野更科の曹洞宗月宮院の坊さん夫妻だろうか。先祖と一緒に彼らの月命日にもお経を上げていたのだろう。
私の分かるのはここまで。
当たり前だが過去帳を書き写しただけだった。
過去帳というのは、その家で亡くなった人しか書かれていないから、生まれ育って家を出た次男、三男、女子や、配偶者の実家などはここにない。すなわち、長男夫婦と結婚前に死んだ子どもしか書いてない。つまり過去帳から家系図を作るのは不可能であった。
さて、
2006年にがんが発覚した父は、2010年2月14日に亡くなった。
その4年間、離婚して一人暮らしをしていた弟(私の叔父)の心配をしたり、甥(私の従弟)の遅い結婚、孫(私の息子)の大学合格など喜びながら、死ぬ1か月前まで一人で車を運転し通院していた。
そして家系図を残してくれていた。
我が家の系図
初代から4代までは夫婦の戒名と没年しかない。
俗名、生年、子などは不明。
過去帳どおりだから父はそのまま写したのだろう。
5代清七からははっきりしている。これ以降は長男以外がどこに行ったか、嫁さんがどこから来たか、俗名で書いてある。彼は酒が好きで、畑を突っ切り最短距離で吉田の酒屋まで行く「清七さの酒屋道」があったという。二男二女をもうけた。
6代重治郎は、天保4年(1833)11月17日生まれ
7代安治は元治元年(1864)1月23日生まれ。
と私の文字でメモがある。
父に聞いたのだろうか?
しかし彼の伝聞記憶なのか他に裏付け資料があったのか不明。
父が9代目で、弟が10代。
系図作成時子どもだった内孫(弟の長男)まで11代目として書いてある。しかし彼は、父の死後10年経って、東京に出て小学校の教員になってしまった。信州に帰ってあの家を守ってくれるかどうか不明である。
さて、我が家は本家で、まわりに4軒の分家があった。
「あたらしや」「もこのうち」「むねはるさうち」「てつおさうち」である。
我が家を中心に5軒は一つの家族のようだった。子どもたちはみんなで育てられ、全員がきょうだいのように遊んだ。あたらしやを除く4軒の敷地がつながっていたこともあり、各家の庭、納屋、畑で遊び続け、そのままご飯を食べたり昼寝をしたりしていた。
先祖代々、分家の跡取りの婚礼は我が家が仲人をすることになっていて、家族同様だったから、父は各家の系図も残してくれていた。
4軒のうち一番早く分かれたのは「新し家」。
2代・澗水定湛信士(寛政8没)の子、3代・天外良然信士(文政7没)の弟が分家した。
初代の名は不明、2代が小林兵衛、3代が千代松、4代鶴治、5代貞三、6代文四郎である。
この文四郎さんはよく知っている。
物知りで理屈っぽく、いわゆる「村の変人」だった。しかし子供にやさしく私はしょっちゅう遊びに行っていた。家には大きな水晶やメノウ、マムシ酒(要するに子持ち蛇のアルコール標本)など珍しいものがいっぱいあった。カラスを飼っていて人の言葉をまねるので新聞に出た。冬になると空気銃でスズメを撃っているか我が家でお茶を飲んでいる人だった。1984年の私の結婚式には紋付袴姿で上京して来られた。
夫人の「おみん」さんは足が悪かった。大俣(栗林?)の実家に帰られたとき、私のために大きな菓子箱いっぱいのクワガタを取ってきてくれた。
お二人には子がなく、あるとき突然、我が家に相談なく養子をとられた。その方は同居せず、すでに家庭を持っていて、また農家でなかったから文四郎さんが亡くなってから田畑を売ってしまわれた。その後、小林一族との親戚付き合いはなくなり、「新し家」は消滅した。
あたらしやの次に分かれたのは「もこのち」(向こうのうち)。
道を挟んで我が家のすぐ南にある。
「もこのうち」の系図
我が家の南に山田姓の家があったが跡継ぎがなく、絶えてしまった。そこに5代の三男・和三郎(6代重次郎の弟、天保13年生まれ)が入った。和三郎を初代として三代目の多一郎は私の祖父と同年代である。二人が幼い子どものころ裏の土蔵を作るのに、2キロ離れた江部から瓦を二枚ずつ歩いて運んできたという。私が物心ついたとき彼はすでにいなかったが、夫人の「くに」さんの葬式は雪の日だった記憶がある。その子、利徳さんは父の一つ上だった。
もこのうち(左)と我が家の土蔵(グーグル)
右の駐車場は黒川さんちが屋敷を売り払った後にできたアパート。
もこのうち(右)
昔この道は荷車が通れるだけの細い道で、左の我が家側には川と鯉のいた池があり、川に沿って竹藪があった。もこのうちには私の一つ下の紀子ちゃんがいた。
我が家の跡取りの婚礼は「もこのうち」が仲人をすることになっていた。私は東京に出てしまったので利徳さんは仲人をせず「親戚代表」として挨拶された。弟の婚礼の仲人は決まり通りに彼が務めた。彼の子、満ちゃんの婚礼は、私の弟が仲人だった。職場の上司などでなく、近所の親せきが最後まで面倒を見るという風習が残っていた。
三軒目は「むねはるさうち」。
道を挟んで我が家のすぐ北にある。
ここは小古井という家があったのだが絶えてしまい、そこに「もこのうち」の初代和三郎の二男・林之助が入った。
むねはるさうち
林之助の長女「くに」は、もこのうちの三代目・多一郎の妻となり(いとこ同士の結婚)、長女・けさ江、長男・利徳らをもうけた。ところが林之助の長男・利喜治が戦死したため、けさ江さんが母の実家に養女として入り、宗治さんが婿にきて、茂安、あけみらを生んだ。しげちゃん、あけちゃんは私の6年上、1年上で実のきょうだいのようによく遊んでもらった。
宗治さうち(右の2棟)
左の我が家のキノコ小屋は本来鶏小屋だった。
この道も昔は細くて、道の左側も宗治さうちの細長い敷地で、薪が積んであった。
雨の日、その薪の陰であけちゃんと傘をさしながらままごとをした記憶がある。
4軒目は鉄男さうち。
我が家のうら、宗治さうちの東である。
ここは小林宗九郎という家があり、そこに6代重次郎の長女(7代安治の妹)・つねが養女に入り、婿を取った。
つねを初代とすると、3代目が鉄男さで、4代目が正迪ちゃんである。正迪ちゃんは私よりずっと上だったが、鉄男さの4男、幸造さん(こうちゃん)が私の5年上で、一番良く遊んでもらった。
てつおさうち
私が胡麻のぼた餅を13個だか8個だか食べて動けなくなったのはこの家。
正迪ちゃんの奥さんのきよちゃんは年始に来られるといつも我々にお年玉をくれた。
鉄男さうち(左の松と土蔵)。
右は我が家のエノキ小屋。
手前の宗治さうちのガレージは昔なく、写真の向こう、遠くの家々もなかった。
鉄男さうちは、いまの松の場所に納屋があり、土蔵までの南側は道に沿って塀を兼ねた長い物置があった。
道の右側も少しだけ鉄男さうちの土地で、井戸と池があった。池はつねが養女に入るとき、我が家から手土産として一緒に付けてやったという。井戸の横にスグリ、グミが生えていた。あの酸っぱい味は今でも覚えている。
こうちゃん、しげちゃんは私の5年、6年上で、私が小学校高学年になると彼らも忙しくなり遊ぶことはなくなった。また、年の近いあけちゃん、のりこちゃんは女ということもあり、みんなと遊んだのは小学校低学年までだった。それでも各家に行って一人でそこにある漫画雑誌などを読んでいた。
各家はその後建て替えたが、家々の昔の間取りを鮮やかに覚えているほど、入り浸っていた。
私は本家の跡取りとして大事にされ、弟と違い、お酌取り(婚礼で新郎新婦に男女二人の子供が酒を注ぐ儀式)の役を務めたり、将来村を背負う子どもとして小学校高学年の3年間、村祭りの獅子舞をやった。(それなのに東京に出てきてしまった)
本家というのは分家を出すときに田畑を分け与えたのかと思っていたが、この系図をみると、もともとあって絶えた家に我が家から二男、三男が跡継ぎとして入っただけであることが分かる。だから土地資産は5軒とも大差なく、分家は本家を立てたり頭を下げたりする必要もない。しかし団結していくことが昔の村落社会では必要だったのかもしれない。幸い本家は代々、なぜか勉強はでき、自覚と責任感はあったようだ。
我が家は清七の時代に、堺、武士、黒川、町田(町田マケとは別)などの一軒苗字の家を親戚同様に面倒見て、岩船部落で三番目の小林マケを形成した。今でも(と言っても知っているのは1990年代だが)婚礼、葬儀や新築祝いなどは一同で集まり、女たちは全員お勝手に入り酒肴の用意をする。
(一番大きな派閥は、私の同級生町田憲一君の家を本家とする町田マケ、二番目は造り酒屋のある中島マケだった。)
しかし家々の強い結びつきも父の代まで。
我々の世代は、弟も含めすべて跡継ぎであっても農家はやめ、サラリーマンとなった。一年中畑に出ていた時代とは違い、本家分家より自分の家族、職場を優先するようになった。そして、子どもたちも一緒に遊ぶことはなくなった。
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