2022年12月31日土曜日

66歳からの職探し10 居酒屋は務まらず

8月に始めた居酒屋アルバイトは12月をもって終了した。

月曜と金曜の夜だったが、月曜は予約がないと呼ばれない。金曜も20時から東大薬学の女子が実験終わって駆け付けたら交代するから私は2,3時間の勤務。
労働時間は一か月で10~15時間くらいだった。

2022‐10‐21
店に入る前、その日のメニューをみて分からない料理をチェック、心の準備をした。

ここはけっこう繁盛して忙しかった。居酒屋バイトは高度な気配りと要領の良さを必要とする。しかし大将の要求(もてなしのレベルの高さ)は高く、私なりに頑張ったけど、とても務まらないと思った。
注意されたことを帰宅後に清書したもの。

「時給1050円でここまでやらなくてはいけないのだろうか、最低賃金なら気楽な単純作業であるべきではないか」と言ったら「甘い!世の中はアルバイトだってみんなそうなんだよ」と妻に怒られた。

もう無理だと、最初に辞めさせてくださいとラインで申し出たのは、一か月半すなわち6週間ほど務めた10月初め。
その時は、「もう少しやってみて月末に決めたら」と返され、続けたら慣れてきて11月もやってみようと思った。しかし相変わらずミスをするし注文が殺到したときの恐怖感は消えなかった。
さらに問題になったのは腰痛。
特に洗い物などは少しやっただけで背中の下が痛くなる。我慢してやっていたけど、体を壊しては何にもならない。

11月19日、思い切って腰痛のことを伝え、シフトが決まっている12月までで辞めたいとラインに書いた。健康問題ということで今回はすんなり受け入れられた。
生ビールは楽だったけど、日本酒は嫌だった。
バイトを始めたばかりのころは銘柄を覚えようとしたが、その必要もなかった。
面倒だったのは八海山などそれ専用のおちょこがあること、たいていの客はいろんな銘柄を飲むからそのたびにお猪口を変えなくてはならないこと、など。
なるべく燗酒は出ないように祈っていた。
日本酒は難しかったな~
勉強したけど、客と会話する余裕もなかった。

ここの刺身盛り合わせは、その日の仕入れに応じて8種の魚が出る。
慣れたアルバイトの人だと8種の名前だけでなく魚の特徴も説明している。
100種類ほどもあるお魚図鑑が各テーブルに置いてあり、鮮度と種類の豊富さは店の自慢の一つである。
魚ノートは作り始めただけ中断

9月のころ、先輩アルバイトの人に後ろについてもらって刺身盛り合わせを一度説明したが、その後は、店も多忙で私がやらせてもらうような余裕もなかった。

大将は厳しいけれど、すべて言うことは理にかなっていて、仕事も正確で速い。最初につかれた職場で同期の中で一番に包丁を握らせてもらったというのもうなづける。それだけ我々に対する要求も厳しい。特に何回も同じことを注意される私にはイラつき、呆れられたことだろう。

ほぐし(骨取り)に手間がかかる鯛土鍋飯が名物なように、効率、手間より客の喜びを第一とされ、テーブルセッティングなど店内の清潔感、スタッフの対応にも高いレベルを求められたのは、尊敬に値する。

料理によっては正面の方向を指示される。しかし皿を出すときテーブルの上が片付いていなくて、お客さんが受け取ってくれたりして、大将の指示通りできなかったな。
サンマの塩焼きも脂がぱちぱちいっているうちに持っていくよう細かなことにも気を配られた。

しかし、ある日、忙しい最初のお通しが「生わかめのしゃぶしゃぶ」だったことがあった。そのためだけにガスコンロと鍋、取り箸、ポン酢入り取り皿を用意しなければならない。予約は18時から、19時から、というふうに来店が集中するもので、そんなときの生わかめは、ドリンク調製、料理注文聞きと重なるからパニックになる。

普通の人はこなせても、私はもたもたするから大将の口調も厳しくなる。そんなときは奥様が実にやさしく、ありがたかった。スタッフも優秀で優しかった。

客は駒込病院、日本医大関係者、千駄木周辺の家族連れなど常連、地元が多く、比較的紳士的で支払い金額も高かった。料理をもっていくと(特に若い客は必ず)ありがとうございますと言われたし、いろんな方面で勉強になった。

しかし一番の収穫は、私の41年間の職業人生は特殊だったと気づいたこと。ベーカリー、居酒屋、スーパーの品出しを経験して、世の中が少しわかった。これからは健康第一。今までの経験、知識・技能を生かすような生き方より、社会と広く、未知の分野と付き合っていくべきだと思った。

2022年12月29日木曜日

玉ねぎのリボベジ、生ごみから再生させる

リボベジという言葉がある。 reborn vegitable、すなわち再生野菜。

野菜の切れ端、例えば大根やニンジンの頭は切って捨てるが、これらを浅く水を張った皿に置いておけば葉っぱが伸びてきて、サラダに使うことができる。
観葉植物にもなるから、やっている人も多いだろう。

しかし、あくまで芽、葉っぱが出るのであり、大根、ニンジンができるわけではない。
切れ端がそのまま元の形になるもの、すなわちプラナリアみたいに切る前と同じ形になるものとしてネギがある。(厳密にいえばネギや豆苗は、葉っぱからは再生しないからプラナリアではない)。

我が家のネギはほとんどこれだった。
冬になると鍋で使うネギの根元を捨てず、庭に植えてきた。泥ネギでなくとも、根元の部分に根の元の点々が残っていればたいてい発根、成長する。私はネギを食べたくて買うのでなく、苗として欲しくてネギを買ってきた。3年も経つとネギ畑ができた。ネギは連作障害もないみたいだから、こうなれば根っこは常に畑に残すようにして永久的にネギが収穫できる。

ところが今年、大木だった桜を切ったことから菜園の再配置を試み、ネギを移動した。半分は雨があまり当たらない軒下に植えたら枯れてしまい、半分は近くのサツマイモが繁茂して蔓のジャングルに覆われ、やはり溶けるようになくなってしまった。

そこで今年も鍋シーズンとなり、ネギ畑の再生に着手した。
2022‐12‐07
11月に谷中銀座で買ってきたネギ。
食べた順はもちろん左から。
2022-12-21
家で根っこから再生させると、どうしても低いところで枝分かれしてしまう。すると成長点に土を掛けられず、白い部分が作りにくい。

さて、長ネギはなんとか再生できるが、玉ねぎはどうだろう?

昨年、初めて玉ねぎの種をまいた。
しかし苗が育つ前に冬になり、定植したものの霜柱で根を持ち上げられほとんど枯れてしまった。

そこで今年はリボベジ、すなわち玉ねぎの廃棄する根っこを植えてみる。

2022-10-31
長ネギと違って根の部分は切り取りにくい。
四角錐型にとった。
2022‐12‐07
一株からいくつも芽が出た。
長ネギよりも分けつしやすいようだ。
2022‐12‐07
取り出してみると根が出ている。

しかし、これがいくつもの玉ねぎになるには相当時間がかかりそう。
消費を満足させるほど成長が速くない。

やはり種から育てなくては駄目なようだ。
2022-12-21
9月12日、10月12日の2回種まきした。
2,3か月経ってもこの程度までしか育たなかった。
長野の弟に聞いたら、種は密にまいたほうが育つという。
2022-12-21
とにかく定植した。
冬に少しでも育つよう、半分は黒マルチを張って保温ビニールトンネルをかけた。
2022-12-21
長ネギだけでなく、玉ねぎの根の部分は、今後も埋めていくつもりである。
一株が4つに分けつするなら、年間20株埋めて育てれば60個の玉ねぎが収穫できる計算になるが・・・・・・そんなにうまくはいかないだろう。
いま4株埋めたところで、収穫の見通しは立ってない。


2022年12月17日土曜日

ミカンと古本のちょっといい話


2022‐11‐29
温州ミカンも色づいた。
昨年64個とった。今年も同じくらいかな。
味はまあまあ。でも中の袋の皮が厚く、口の中に残る。
先日(12/11)の帰省でも4つ、葉っぱ付きで手土産にした。
いつも野菜、果物をもらうばかりの実家に農産物をもっていったのは初めて。
2022‐12‐13
こちらは夏ミカン
昨年初めて2つ生った。今年は32個を数えた。
けっこう目立つ。
4月に文京区保護樹木の桜を伐採した。
しかし、代わって門前の夏ミカンが我が家のシンボルになりそうである。

昨年の二つの実は、色づいたころ1つが枝を折られて盗まれた。
ちょうどその日は古本を無人販売で門前に出していた。
1冊30円、5冊100円にしたところ、20冊くらいなくなった。
黒い菓子箱に360円入っていたから、払わない人もいたけど、何人かはちゃんと払ってくれた。ミカンで不愉快になり、古本で少しだけ喜んだ日だった。

さて、1年経ち、残った本は箱に入ったままになっていたので、(やるかどうか分からない)大掃除を前に、今年も出してみた。
2022‐12‐07
しかし今回は全然売れなかった。
びっくりしたのは、料金投入の菓子箱が2回も開けられていたこと。1円も入っていなかったとしても、きちんと元に戻してくれればいいのに、蓋は開いたままだった。

昨年同様、お金を入れずに本を持ち去る人はいると思っていたが、まさか金だけ盗む人がいるとは思わなかった。1回は平日の昼だったから学校に行っている子どもではない。
なぜかミカンを盗んだやつも思い浮かんだ。
2022‐12‐10
3日ほど出して、売れそうもないので諦めた。
「差し上げます ご自由にお持ちください」
と書いて出したら少し減った。
山崎豊子「不毛地帯」はなくなったが、江藤淳「海は甦る」は残った。
単行本は避けられるのか。

昨年は、夜湿るかと思い、夕方になると家に入れたのだが、重くて面倒なので、そのまま大きなビニールを掛けることにした。妻は火をつけられたりイタズラされると嫌だ、というが、近隣では植木鉢や自転車なども外に出ているから、うちの本も出しっぱなしにした。

12月11日、娘夫婦と長野へ日帰りで行った。
天気予報では深夜から小雨がふるといっていたが、そんなに遅くならないので、本はそのままにしていった。ところが、雨は予報より早く降り始めた。20時ころ練馬インターを降りる前からフロントガラスに雨がぶつかる。

もう本はびしょびしょだな、と思って千駄木について、あっと驚いた。
ビニールがかけられていたのである。ビニールは門の内側にあったから、誰かがわざわざフェンスを開けて取り出し、本にかけてくれたのである。
嬉しかったので、もう紐で縛って資源ごみに出そうと思っていたのに、もう少し並べておこうという気になった。

ところが「ちょっといい話」はこれだけだった。
翌日夕方、外に出てみると、本はぐちゃぐちゃだった。タイトルが見えるようにきれいに並べておいたのに、手に取った本をそのまま放り投げるように戻されていたのである。再びがっかりした。今度の資源ごみに迷わず出そう。
まだ家の中にある未整理の本もついでに出してしまおうと思った。


別ブログ

2022年12月16日金曜日

ホウレンソウ、そら豆、エンドウ、白菜、大根の12月

ホウレンソウは難しい。
自家採取の種でも発芽率はいいし、虫の食害もないのだが、なぜが幼い苗のまま根が細くなり枯れてしまうのである。
石灰で土壌をアルカリ性にすると良い、と、よく言われるので、お菓子などの乾燥剤として入ってきた酸化カルシウム(生石灰)をまいてみた。まく前のpHも計ってないし、石灰の量も適当だから実験にはならない。
2022‐11‐06
石灰の量はこの白さが目安?

昨年遅くまいたものが比較的よく育ったので、今年も遅くまいた。
種はダイソーで2019年に買ったものと、春自家採種の2種類をまく。
  発芽は7日後の11月13日。
2022‐12‐13
12月現在、石灰の有無も、2つの種も、生育に大差なし。
遅くまくと育ちが悪いので保温ビニールで覆ってみたが、今年も正月には間に合わない。しかし、まあ、春には食べられるだろう。
来年は時期を変えて、もう少し早く何回かまいてみよう。

ホウレンソウのビニールの中は同時に春菊もまいているが、同様に発育が遅い。
2022‐12‐13
こちらの保温ビニールはサニーレタス。
10/4種まき、11月に定植。
サニーレタスは昨年初めて作ったのだが、発育遅くて春にならないと食べられなかった。
そこで今年は黒マルチをはり、ビニールで覆ったのだが、外の対照群と差なし。

2022‐12‐13
そら豆は今年初めてつくる。
11/14種を10粒埋め、11/28すべて発芽。
鳥害、ネコ害を防ぐため、この日までカゴをかぶせておいた。

2022‐12‐13
こちらはスナップエンドウ。
自家採種の種を11/13に種まき、11/20発芽(29芽/32粒=発芽率90%)。
12/2に定植。順調。

ビニールの中は大根(第3次)だが、種まきが11/1、発芽はしたものの、柿の下で日当たり悪く、育っていない。
2022‐12‐01
大根(第1次)はまあまあ。(種まき8/21-8/29。初収穫11/14)
奇形大根ができたが、これでも1.04キログラムある(葉を除いた重さ)。
上は1.58キログラム。
2022-11-18
大根は青虫がついた。12月になっても居るが、少々葉っぱを食われても大根は大丈夫。
2022‐12‐13
大根、第一次の27本のうち、10本目を抜く。
1.46キログラム
ここまで奇形を除く9本は、葉っぱを除いて1.20~1.72キログラム。
生ごみ以外に肥料は入れていないが、スーパーのものより立派である。
2022‐12‐13
白菜は種まき9/12、定植は20株を10/15。
いつも球を巻かない株が多いので、今年は保温を期待して黒マルチを張った。
そのせいか、どれも葉を巻きそうだ。

こうやって毎日、菜園を眺めながら、収穫する時期、そのあと作る夏野菜、その収穫、そのあと作る秋冬野菜、と来年のことまで考える。

そんな時、12月11日、次女夫婦と長野に行ってきた。
(別ブログに小布施訪問記あり)
婿さんがレンタカーを借りたので、いっぱいお土産もらってきた。
2022‐12‐12
長野でもらったお土産。
手前の泥ネギ、洋ナシ、しめじ、えのきだけは、アップルシティーなかの(農協のモール)の「信州中野いきいき館」(野菜直売所)で買ってもらった。新米は義妹の実家の田んぼでとれたもの。
それ以外の、左上から巨大サツマイモ、ニンニク、ピーナッツカボチャ、サトイモ(大きな株2つ)、ジャガイモ、玉ねぎ、はすべて弟が作った。
老夫婦二人暮らしでは当分買わなくて済む。

彼は60歳の定年を過ぎたが、まだフルタイムで会社に残り、週末だけでこの何十倍も作っている。ありがたいし、感心する。来年はジャガイモと玉ねぎを作ろうと思っていたが、作るのやめようかな。

千駄木菜園 (総合)目次

千駄木菜園(庭と野菜と植物)目次

2022年12月14日水曜日

小布施、市村酒造、栗菓子6店の歴史

二女は昨年2月に結婚式を挙げたのだが、コロナで長野の親族たちは出席できなかった。東京へ行った人は2週間出社できなくなるからだ。こちらから行けば近所に知られないようにしなくてはならないし(不可能)、万一発症すれば世間の批判を浴びることになる。私個人的には御用学者の専門家とメディア、責任を取りたくない当局によって国民の不安があおられた、狂気の事態だと思っていた。

この「決まり事」が現在どうなったか知らないが、全国旅行支援キャンペーンが始まり、人の流れが活発になったことから、2年近く経ってようやく次女たちはその流れに乗って、祖母や叔父のいる私の実家に婿さんを連れて行くことになった。

いつも食事する中野の福田屋が休業日のことから、実家の手前、小布施で会食することになった。朝8時に4人で千駄木を出て、目白駅前経由、練馬で高速に乗る。二女の夫が運転するレンタカーは、ナビの機能も進化していて、自動運転機能もついており、久しぶりに車に乗った私は世の中の進歩に驚いた。

小布施は雁田薬師(浄光寺)と岩松院が私の小学校の遠足のコースになっていて、結婚してからも何度か行っている。しかし今回は天気もすぐれず寒かった。懐かしいところを見てみたい気もしたが、私のペースについてこれない人々と歩くのは面倒なので、そのまま食事処に行くことにした。車中からラインで弟に連絡、ナビの示す到着予定時刻を逐一伝えた。

小布施ICで降り、リンゴ畑の間をぬうように小布施の街に入ると昔とあまり変わっていなかった。北斎館裏の東町駐車場(3時間400円)に車を止めた。シーズンオフのせいか、日曜でも高速道路同様、空いていた。

2022‐12‐11 11:45
緩やかな坂を少し下って戻ると、小布施観光の中心地、北斎館の前にメタセコイアがそびえていた。
昭和30年ころ中国から移植されたというから樹齢は70年くらいか。何度も来ているはずだが、今回初めて気が付いた。栗菓子を買いに来るだけだったから見なかったのか、3、40年前は木が小さかったのか、分からない。

建物がなくなり景色が変わったせいもあるかもしれない。写真の右、メタセコイアの枝の下にイタリアンレストラン「傘風楼」ができていた。小布施堂が経営する高級ホテル「桝一客殿」の宿泊客はここで朝食を食べるらしいが冬季は休業する。

北斎館(1976~)は前を何回も通っているが、記憶にある展示が映像や写真で見たのか、実際に中に入ってみたのか分からなくなっている。昔、中学の同級生・町田憲一と見に来たことがある。彼がここを設計した長野市の宮本忠長設計事務所に就職したからだ。
11:47
北斎館の前に今上天皇が皇太子時代に来られた行啓記念の碑があった。
まだ新しい。
でも全国訪ねられた場所全てに建てられたら、日本中が記念碑だらけになるのではないか、と余計な心配をしていたら、「兄さん」と呼ばれ振り向くと、すれ違った車に弟夫妻が乗っていた。
11:47
北斎館の向かい、すなわちメタセコイアの西側は笹が植わった広い空間になっていた。昔は何が建っていたか思い出せない。

笹庭の向こうに北斎の絵が壁に描かれた建物があった。(写真右)
また新しい美術館かなと思って近づいたら、市村酒造(小布施堂)の工場だった。
周囲との調和を図った建物に感心した。

今日会食する和食レストラン蔵部(くらぶ)も枡一市村酒造の経営で、この笹庭に面している。
車を停めに行った弟たちを待っているのも寒いので、向かいの桜井甘精堂で栗菓子の詰め合わせ商品をみていた。

弟夫妻が来たので予定より早く蔵部に入る。
中は天井が異常に高く広大な空間で驚いた。奥の広い個室に案内された。
大きな樽が並んでいた酒蔵を、長野オリンピック(1998)のときに改装、レストランにしたらしい。

個室と言ってもこれだけ広いとエアコンもあまり効かないのか、足元に石油ストーブが2台、置いてあった。ファンヒーターではなく、今では見かけないやかんを上に乗せるタイプで懐かしかった。
12:00
前菜から野菜がメインで、刺身は信州サーモンと大王イワナ、てんぷらは青胡椒とキノコ3種、煮物は大根、メインは信州牛、デザートは栗アイスと、徹底的に信州産にこだわっていた。海産物など県外のものは一切使わないぞ、という郷土愛の強いであろう小布施堂の意地が見えた。

これで税込み5500円のコースとなると東京でも普通にあるだろう。しかし他ではありえない高い天井と黒を基調とした空間、そして給仕する女性の応対がとても丁寧で、十分満足した。

それにしても市村酒造・小布施堂には歴史と古い建物はあっても、これほどおしゃれなレストランが作れるだろうか、と帰宅して調べたら、FONZという飲食店の運営を専門とする会社がプロデュースしたようだ。星野リゾートと同じように軽井沢に拠点を置き、東京、鎌倉などで店を手掛けている。
食後は枡一市村酒造・小布施堂の敷地を素通りした。
市村家は宝暦5年(1755年)創業の造り酒屋で、ほかの商品でも財を築き松代藩、幕府にも献金した豪商。しかし明治維新で家業が傾き、塩問屋・なたね油・お茶をやめて酒造業のみとなった。そして明治30年代に栗菓子の製造を始め、大正時代(1923)に小布施果實加工株式会社(小布施堂の前身)を設立した。

現社長は市村次夫、副社長は市村良三。
二人はいとこ同士で、良三は小布施町長を昨年まで4期16年務め、次夫の父・市村郁夫も3期目の途中1979年に任期途中で死去するまで小布施町長だった。地元の名家、名士である。
13:57
市村邸の元母屋
昔、一人で帰省したとき弟と家を見せてもらいに来たことがある。
もちろん外見だけだが、今のように解放されておらず、通りからたまたま門の中に家人だか従業員だか見えたので声をかけ、この場所まで入れてもらった。
屋根を見上げながら「瓦は一度に変えずに、少しずつ変えて古さを一定にするんだ」とか、二つある玄関をさし「右のほうは善光寺の上人さんとか偉い人が来た時だけ使ってきた」とか教えてくださった。
母屋の北は精米蔵だったが、いまは改造して「えんとつ」というカフェになっている。有名な小布施堂モンブラン「朱雀」の専門店である。予約や持ち帰りはできず朝から並ぶしかないのは、新栗から1か月限定の「栗の点心・朱雀」。いまは「モンブラン朱雀」が一年中ここで食べられる。また「朱雀モンブラン」は秋冬限定でデパートやネットショップで買えるらしい。

えんとつの西側は小布施堂本店レストラン。
13:59
小布施堂本店レストラン
ここは以前からからある。昔、帰省したとき叔母たちと昼のコース料理を食べに来た。当時としては珍しく地元の野菜を使ったおしゃれなレストランで、大きな丸ナスを切って味噌をつけただけの皿にみつ子おばさんは「ナスもここで食べるとえらいうまいなぁ」と感心していた。
酒樽とモンブランが並んでいる。

市村家は小布施の有力者であったこともあり、街づくりに熱心だった。
むかし「栗の産地ではなく文化も発信できるような栗の王国にする」という言葉を信濃毎日新聞のインタビューで読んだことがある。

栗菓子だけでなく、1980年代から地権者と土地交換や借地などで、栗の小径など街並みを作り上げ、もともと観光資源などなかったのに、北斎館、鴻山記念館、あかり博物館など多くの美術館、博物館をたて、観光客を呼び込んだ。人口はぎりぎり1万人、役場の職員100人、小学校と中学校は1つずつ。長野県で最も面積の小さい町が隣接する須坂、中野とも合併せず、個性豊かに、元気にやっている。2005年から町長を務めた良三は観光庁の「観光カリスマ100選」にも選ばれた。
市村酒造・小布施堂の市村家正門から通りに出る。
この道は古く、昔は谷街道といった国道403号線。かつては北信の4つの町、松代、須坂、中野、飯山を結ぶ唯一の幹線道路で、志賀高原など奥信濃から長野市、東京へ出るときは必ず通る道だった。いつも混雑していたが、18号バイパスや高速道路ができてからはぐっと交通量が減った。
14:00
枡一市村酒造の正面
小布施と言えば、高井鴻山(1806‐明治16年1883)と葛飾北斎(1760-1849)の関係が知られている。
鴻山はもともと本姓市村、名は健。俗称三九郎。祖父の8代当主・市村作左衛門が天明の大飢饉のとき、その巨万の富を困窮者の救済に当てた。それが幕府に認められ、高井郡に由来する「高井」の苗字と帯刀を公式に許可された。
苗字は地名から起こる。しかし鎌倉、室町時代なら分かるが、幕末で生ずるのは珍しい。(我が家は中野市岩船だが、昭和29年(1954)以前は下高井郡平野村岩船、江戸時代は高井郡岩船村だった)

鴻山こと三九郎は15歳で京都に遊学、その後江戸に出て、多くの文人、思想家と交わった。1840年、市村本家を継ぐ(12代目)。このころ北斎と知り合い、1842年の秋、北斎は83歳(鴻山37歳)のとき初めて小布施を訪れ、1年余り滞在した。北斎は小布施に4度招かれ、岩松院や祭り屋台の天井絵を残した。ほかにも多くの作品が町には残され、それらが散逸することを恐れた小布施町が買い上げたり、貸与を受けたりして、それらを収納するために建てたのが北斎館(1976)である。

明治になって高井家の家業は傾き、本業の酒造業に絞ったことは書いた。それを養子であった市村忠助(13代)が継いだので、以後は市村姓に戻った。

高井鴻山記念館は小布施堂「えんとつ」の裏、鴻山の書斎などを生かしたもので、建物だけでも見るべきだったが、総勢6人では言い出すのも面倒なので黙って彼らのあとについて帰ることにした。

14:00
小布施堂・市村酒造の道を挟んだ向かいは、いろは堂。
聞いたことないな、と思ったら鬼無里村が本店のおやきの店。
栗も小布施も関係なかった。

小布施の栗は、600年前の室町時代、丹波から種を入れたことに始まる。松川扇状地の土があっていたのか、江戸時代には栗林が広がった。美味ということで松代藩が毎年将軍家に献上した。文化年間には小布施栗菓子の元祖、栗落雁がつくられた。

いま小布施の栗菓子店は以下の6軒
1.塩屋桜井 文化5年(1808)先祖の塩屋櫻井幾右衛門が小布施で初めて栗菓子をつくる。栗落雁を将軍家にも献上した。
2.桜井甘精堂 塩屋桜井と祖は同じ。明治になって5代目が初代桜井佐七として独立。戦後1954年(有)桜井佐七商店、1964年(株)甘精堂となる。
3.栗庵風味堂 元治元年(1864)創業。50年代、60年代は全国菓子博覧会、品評会でたびたび受賞しているが、知らなかった。
4.竹風堂 明治26年(1893) 竹村安太郎が創業。
5.小布施堂 1755年創業(栗菓子は明治30年代)
6.松仙堂 小布施の町から西に外れたリンゴ畑、栗畑の間にある。老舗ではないと思う。
7.和菓子いちむら 栗専門ではない。

いろは堂の並び(南)は竹風堂。
大通りに面し、北斎館入り口の向かいにある。
南側の本店と北側の直営ジェラート専門店「マローネ」(諸国民工芸雑貨・自在屋を併設)が並び、その間の道を西に入った日本あかり博物館(1982)も(たぶん)竹風堂が作った。

1970年代、高校生の頃、小布施で一番は竹風堂だと思っていた。なぜなら毎日通学で乗る長野電鉄各駅のベンチすべてに竹風堂の名が入っていたからだ。「栗の木三本が目印」がキャッチフレーズだったが、今は店先の栗の木も1本しかなく、小布施堂、甘精堂のほうが有名になっているのではなかろうか。

6店のうち、大手は3つで、それぞれレストラン、カフェなども併設している。レストランはそれぞれ特徴があり、小布施堂はコース料理で一品一品丁寧に出す。竹風堂はメニューを絞り時間のない観光客を相手にする。甘精堂は数多くメニューを用意し、一見の観光客だけでなく地元民にも来てもらうことを目指している。

小布施は大した神社仏閣名勝などなかった。我々が子供のころ教わった名所と言えば、芸州の福島正則が改易されて信濃に流され亡くなったお墓(岩松院)くらいで、観光資源になりえない。

しかし、市村家など住民に町おこしをしようというエネルギーがあった。
伝統の栗菓子は単に土産物でしかなかったが、北斎館など博物館を作り、旅の目的である「食」を満足させようと、ハイレベルな飲食店を展開、さらには栗の遊歩道を整備、そして歩ける距離の東の雁田山の岩松院、浄光寺との間には「花の町おぶせ」をアピールする「フローラルガーデンおぶせ」を作り、散策範囲を広げた。また広域農道を「北信濃くだもの街道」と名付け、観光農園ともつなげた。
これらは私が長野を出た後、最近の30年くらいのことである。
14:01
竹風堂前からまっすぐ駐車場に戻る。
左は小布施堂を経営する枡一市村酒造や小布施堂の蔵部、右は土産物屋が続き、その先に桜井甘精堂の店舗がある。

高速道路がなかったときは小布施を通って菅平を越えることがよくあり、ここの甘精堂でお土産を買った。立派な店構えだからここが本店だと思っていたのだが、今みると北斎亭という甘味喫茶兼店舗になっている。甘精堂本店と直営高級レストラン「泉石亭」、カフェ「茶蔵」・「栗の木テラス」は少し北のほう、観音通りに集まってある。

ちなみに小布施堂の市村良三は、町長を4期16年務めた後、昨年2021年、後継はこの甘精堂の社長・桜井昌季を指名、無投票で交代した。
この交代の前後、職員が3人自殺したらしい。小布施・市村家の出とはいえ、ソニー勤務を経たやり手の前町長の下での激務に耐えられなかったという話が今年5月の文芸春秋オンラインに乗っている。


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千駄木菜園 (総合)目次

2022年12月12日月曜日

谷中瑞輪寺の大久保主水と叔母の墓参り

千駄木に家を買ったとき、綱島の叔母が「あら、昔はよく谷中の瑞輪寺へお墓参りに行ったわ」という。上京して寄宿した神田の家(親戚?)の人々が眠っているらしい。

じゃ、いつか一緒に行きましょうと約束したものの、そのまま10年経ってしまった。
昭和14年(1939)生まれ、83歳。今でも社交ダンスとテニスをするくらい元気だが、いつ歩けなくなっても不思議はない。
ふと思い出して、誘ってみた。
お互い暇だから、すぐ都合がついた。

10月末の穏やかに晴れた日、日暮里駅南口で11時に待ち合わせ。
年寄りは早いから、と約束10分前にいったら、すでに立っていた。
綱島から横浜に出て、御徒町で途中下車し、昔からお気に入りの「うさぎや」のどら焼きを買ってきたという。

ランチまで時間があるので、徳川慶喜、渋沢栄一の墓に立ち寄る。
少しは講釈を垂れたいのだが、話し好きの叔母は、孫、ひ孫などの近況をしゃべり続け、私が割って入るスキがない。

谷中墓地から、すなわち北東から回り込むように瑞輪寺に向かう。ここは4年前の2019年1月、散歩で立ち寄り、ブログに書いた。
2022‐10‐31 11:32
瑞輪寺正門の並びの空き家は4年前と同じように、家の中にツタが密集繁茂し、ドライフラワーのようになっていた。

山門前に立つと、叔母は「あら。そうそう。ここ。懐かしい。いつも根津から来たから、この広い道から来たの」と、やっと関係ないおしゃべりをやめた。
門の前で写真をパチリ。
11:33
谷中随一の大寺、瑞輪寺

4年前この門をくぐったときは上野が目的地だったから、境内をちらりと見ただけで有名人のお墓など見なかった。
ここには神田上水の前身、小石川上水をひいた大久保主水の墓があるらしい。
すぐ見つかった。
11:35
大久保忠行(藤五郎)墓
上水完成の功績により家康から主水の名前を賜り、同時に濁らずモントと読むよう命じられたとか。

でも主水と書いてなんでモンドと読むか?

椀 (もい) に入れるものの意から、「もい」は飲み水の古語である。宮中で飲料水を管理するものを「もいとり(水取)」といい、これが訛ってモンドとなった。一方、律令制で水・氷の調達、粥の調理をつかさどる機関があり、それを主水司(しゅすいし)といった。そして漢語のフリガナに大和言葉が当てられ、主水=モンドとなったようだ。

さて、三河以来の家康家臣で大久保と言えば大勢いる。
三河大久保氏で幕末まで大名であったのは三家あり、小田原藩、その支藩の荻野山中藩、烏山藩がある。有名な神田駿河台・大久保彦左衛門(忠教)は家康直参の旗本であったが、小田原藩初代・大久保忠世の弟にあたる。

谷中に眠る大久保主水、すなわち忠行は小田原藩祖大久保忠世、彦左衛門忠教らの父、大久保忠員の弟にあたる。
三河一向一揆で負傷、それ以後従軍できなかったため、菓子を作って献上するようになり、家康の関東移封後に、江戸城下の上水工事の命を受けた。
子孫は代々主水を名乗り、幕府御用達の菓子司となった。

さて大久保主水はすぐ見つかったが、肝心の神田の家の墓が見つからない。
叔母は、あきらめて帰りましょうというが、私が寺務所にいって聞くと、パソコンで検索してくれた。
しかし小林平四郎の名前はヒットしたが、連絡先が北川となっている。
外から叔母を呼んでくると、間違いないという。

お礼に叔母は足元の桶に入っているお花を買った。
ほんの少しなのに2000円もした。
「けっこう高いですね」
「こういうところは高いのよ。でもきっと私だけじゃなくて力ちゃんにもご利益あるわよ」。
そういう叔母も「おいくらですか?」と聞きながら財布で100円玉、500円玉を探していたから、2000円とは予想外だっただろう。

墓は本堂の裏、叔母の記憶で探していた場所と全く異なり、方向違いの場所だった。

石はずいぶん新しい。
11:51
裏を見れば
平成二十八年六月 北川容子建之
とある。2016年だから最近である。
彫られていたのは6人。

1.昭和三十八年九月一日 小林タケ子 行年六十二才
2.昭和四十六年十月二十七日 小林平四郎 行年七十三才(1898‐1971)
3.昭和五十七年六月二十七日 小林慶子 行年四十七才(1935‐1982)
4.平成九年五月四日 今田恭子 行年四十七才(1950‐1997)
5.平成二十五年十月三日 福田近規 行年九十二才(1921‐2013)
6.平成二十八年五月二日 福田好子 行年九十二才(1924‐2016)
(カッコ内は私が記入、生年は推定)
ふつう、お墓の苗字は一つであろう。建てた人の北川を含め4つも苗字があるのは珍しい。
11:55
お昼は三崎坂を下りた谷中吉里で叔母の娘(私のいとこ)のまさみちゃんも合流して食べた。
松花堂弁当をいただきながら、叔母の若いとき世話になった、神田錦町の家、すなわち瑞輪寺の墓に眠る人々の話を聞く。
神田の家は信州、我が家の7代、安治の妻である「イツ」の実家の人間から始まる。
イツは叔母の大叔母にあたり、市内・栗和田から嫁に来た。
そして叔母の大叔父だろうか?その家の若者が駆け落ちして上京した。
大八車で野菜を売って苦労したが、なんとか成功した。
その子が東京生まれの小林平四郎である。彼は神田卸売市場の仲卸人として旅館などに野菜を卸し、不動産も保有して裕福だった。その家に叔母が上京し花嫁修業というか行儀見習いで住み込んだのである。
平四郎には好子、君子、慶子の3人の娘がいた。三番目が1935年生まれ、叔母が1939年生まれだから4人姉妹の末娘のようだった。長女の好子は福田氏と結婚、次女は本郷の高橋ハンカチ店の人と駆け落ち、三女は独身のまま死去、ここに小林姓はなくなった。残った長女の娘二人も結婚、北川、今田姓となり、福田姓も消えた。

今これを書くにあたり、叔母に「駆け落ちした人はおばさんの大叔母の兄弟? 平四郎さんは袈裟太郎さん(私の祖父、彼女の父)のいとこだったのかな?」と電話してみた。
「えっ? そうなるの? よく知らないわ。それより綱島にも遊びに来てよ」と元気な声が返ってきた。

別ブログ

2022年12月10日土曜日

実家の過去帳と家系図


以前、実家の墓と過去帳について書いた。
(別ブログ)
途中だったので、その続き。

過去帳には全部で40人。名もない人々ばかりだ。
最後に加えられたのは1965年、結婚前の20代で亡くなった叔父。
たぶん書いたのは彼の父親である私の祖父(1904‐1979)だろう。

だが、過去帳はそのあと仏壇の下に仕舞われて、開かれることもなかったのではないか?
私がその存在を初めて知ったのは、50才を前にした2006年3月のことだった。

2006年、父の前立腺がんが確定して、一週間後の3月24日、帰省して父と一緒に北信病院で話を聞いた。
浸潤が進んでいるため手術、放射線はできない。薬物療法で行くらしい。

突然父の死が現実的になったので病院帰りにノートパソコンを買い、長峰温泉(健康ランド)で初めて一緒にふろに入った。(ドラマみたいに背中を流すなんて恥ずかしくてできなかったけど)

パソコンを買った理由は、当時急激に普及し始めたインターネットを体験し、便利な世の中を楽んでもらおうと思ったからである。
翌日、ワードとローマ字入力を教えた。75才になる彼の人生はずっと農作業だけだったが、すぐ文章を打てるようになり驚いた。

パソコンを買った理由はもう一つあった。メールのやり取りを含め、父にいろいろ書き残してほしかったからだ。
そして、先祖について教えてほしいと頼んだ。

すると彼は、仏壇の下をあけ、短冊形のゴミのような紙束を2冊取り出した。ひとつは漆塗りの板に挟まれていた。初めてみる過去帳だった。過去帳というのは菩提寺にあるものだと思っていたら、紙屑みたいな書類、箱の壊れたろうそく、マッチ箱などにまみれて、何十年も放置されていた。
ちょうどデジカメを持ってきていたので中身を撮り、埼玉へ帰宅した。

その後、15年、過去帳の画像はパソコンの中に入ったままだったことは前のブログで書いた。

今回はその中身を整理する。
過去帳は細長い和紙が蛇腹に折りたたまれたもの。
写真は13日から16日まで

過去帳は月命日、すなわち1か月のその日に亡くなった先祖の戒名と没年月が書いてあるだけ。(二重の意味で名もない人々である!)
例えば、二日のところには
「影室貞光信女 享保十四己酉年、十二月」
としか書いてない。
だから40人の先祖の関係が全く分からない。
そこで、没年から大体の生年を推定し、年代順に並べ、生きた時代を知ることにした。
それにはエクセルで名簿を作らねばならない。

すなわち、
1.過去帳の朔日(1日)から順に入力。画像をテキストデータにする。
 戒名は日常語でないから一文字一文字漢字変換せねばならない。結構手間取った。

2.年号を西暦に変える。
西暦、太陽暦への変換は月日も同時に考慮しなくてはいけない。しかし、目的が生年順に並べることなので、月日は旧暦のまま、年号のみ西暦に変えた。例えば上の享保14年12月2日はグレゴリオ暦で1730年1月となるが、エクセルでは1729年12月2日とした。

3.各人の生きた年数を推定する。
何人かは享年が書いてあり、江戸時代の先祖は、66,82、55才、大正から昭和戦前は83、32、51、73,70だった。童子、童女は1才、6才だった。
そこで、享年の分からない人は一律60年、夭逝した先祖は一律2年とした。

4.没年から仮の享年を引いて生まれた年を求め、生年順に並べてみる。


                   没年   享年 生年  書き込みメモ
影室貞光信女 享保14、12月     1729         60 1670 先祖
祖室妙参法尼 元文3戊午9月 1738 60 1679
大雲秀道信士 延享2乙丑年10月 1745 60 1686 先祖
妙参智照法尼 宝暦11辰8月 1761 60 1702
獅山良子信女 安永7戊戌6月 1778 60 1719 二
澗水定湛信士 寛政8辰12月 1796 60 1737
悟山實明上● 寛政10巳年5月 1798 60 1739
弘山関道上● 寛政11未年10月 1799 60 1740
雪吟童子 寛延1辰10月 1748 2 1747
寛雪童子 寛延元年戊辰10月 1748 2 1747
祖霊童子 宝暦二年11月 1752 2 1751
幻光童子 宝暦4戌年11月 1754 2 1753
見穐童女 宝暦10卯年7月 1760 2 1759
天外良然信士 文政7甲申7月    1824 66 1759 三 66才
中屋妙道信女 天保元年9月 1831 60 1772 三
清江玄浄信士 嘉永6丑年4月 1853 82 1772 82才
真誉貞諒信女 天保2年卯年4月    1832 60 1773 小田中イ嫁シテ
幻相童女 天明元丑年8月 1781 2 1780
春興童子 天明8年2月    1788 2 1787
桃林童子 寛政2戌年3月 1790 2 1789
桐葉童子 寛政3年7月    1791 2 1790
智空童女 寛政4子年6月 1792 2 1791
融峯恵松信女 嘉永7年4月 1854 60 1795 四
妙春童女 享和2年、正月 1802 2 1801
無到地心信士 安政2年11月 1855 55 1801 五、五十五才
霊外祖明信女 慶応4辰8月 1868 60 1809 五 安治の母
所法明以信女 明治9年5月 1876 60 1817 六、安治母
妙顕童女 文政13年丙子年10月 1830 2 1829
清光軒知勇兼足居士 大正4年12月 1915 83 1833 六 安治父、83歳
幻玖禅童女 天保6乙未4月 1836 2 1835
真相妙慧大姉 昭和3年4月 1928 73 1856 清七妻73歳
大安得道居士 昭和8年9月 1933 70 1864 安治70歳
妙全童子 慶応4辰8月 1868 2 1867 安治の二男
高室妙寿大姉 大正10年4月 1921 51 1871  安治妻、イツ 51
大應供釈数念光明士 大正6年5月  1917 32 1886  富沢治助、上田にて死す32歳
貞明童女 明治25辰4月 1892 1 1892 安治子 一才
法圓徳明童女 明治31戌年8月 1898 6 1893 安治子6才
實明狭女 昭和3年4月 1928 2 1927 袈裟太郎長女
智明禅童女 昭和4年8月 1929 2 1928 袈裟太郎次女
真法宗順信士 昭和40年9月 1965 25 1941 真25歳

●は座の2つの「人」の代わりに口と又を入れた字。座の旧字らしい。

生年の順番に並べれば各人の関係が簡単にわかると思っていたが、おかしな点が多い。
そもそも没年齢を60年に仮定したが、30代で亡くなった人もいるだろう。

それ以前に、妙全童子はメモの「安治の二男」ではなく、安治の弟だろう。メモは結構間違いがあり、安治の母が二人いたりする。

戒名が信士、信女でなく、上座、法尼という人がいる。
出家した人がよくつける戒名らしいから、菩提寺、中野更科の曹洞宗月宮院の坊さん夫妻だろうか。先祖と一緒に彼らの月命日にもお経を上げていたのだろう。

私の分かるのはここまで。
当たり前だが過去帳を書き写しただけだった。
過去帳というのは、その家で亡くなった人しか書かれていないから、生まれ育って家を出た次男、三男、女子や、配偶者の実家などはここにない。すなわち、長男夫婦と結婚前に死んだ子どもしか書いてない。つまり過去帳から家系図を作るのは不可能であった。

さて、
2006年にがんが発覚した父は、2010年2月14日に亡くなった。
その4年間、離婚して一人暮らしをしていた弟(私の叔父)の心配をしたり、甥(私の従弟)の遅い結婚、孫(私の息子)の大学合格など喜びながら、死ぬ1か月前まで一人で車を運転し通院していた。

そして家系図を残してくれていた。

我が家の系図 

初代から4代までは夫婦の戒名と没年しかない。
俗名、生年、子などは不明。
過去帳どおりだから父はそのまま写したのだろう。

5代清七からははっきりしている。これ以降は長男以外がどこに行ったか、嫁さんがどこから来たか、俗名で書いてある。彼は酒が好きで、畑を突っ切り最短距離で吉田の酒屋まで行く「清七さの酒屋道」があったという。二男二女をもうけた。

6代重治郎は、天保4年(1833)11月17日生まれ
7代安治は元治元年(1864)1月23日生まれ。
と私の文字でメモがある。
父に聞いたのだろうか?
しかし彼の伝聞記憶なのか他に裏付け資料があったのか不明。

父が9代目で、弟が10代。
系図作成時子どもだった内孫(弟の長男)まで11代目として書いてある。しかし彼は、父の死後10年経って、東京に出て小学校の教員になってしまった。信州に帰ってあの家を守ってくれるかどうか不明である。

さて、我が家は本家で、まわりに4軒の分家があった。
「あたらしや」「もこのうち」「むねはるさうち」「てつおさうち」である。
我が家を中心に5軒は一つの家族のようだった。子どもたちはみんなで育てられ、全員がきょうだいのように遊んだ。あたらしやを除く4軒の敷地がつながっていたこともあり、各家の庭、納屋、畑で遊び続け、そのままご飯を食べたり昼寝をしたりしていた。

先祖代々、分家の跡取りの婚礼は我が家が仲人をすることになっていて、家族同様だったから、父は各家の系図も残してくれていた。

「あたらしや」の系図

4軒のうち一番早く分かれたのは「新し家」。
2代・澗水定湛信士(寛政8没)の子、3代・天外良然信士(文政7没)の弟が分家した。
初代の名は不明、2代が小林兵衛、3代が千代松、4代鶴治、5代貞三、6代文四郎である。
この文四郎さんはよく知っている。
物知りで理屈っぽく、いわゆる「村の変人」だった。しかし子供にやさしく私はしょっちゅう遊びに行っていた。家には大きな水晶やメノウ、マムシ酒(要するに子持ち蛇のアルコール標本)など珍しいものがいっぱいあった。カラスを飼っていて人の言葉をまねるので新聞に出た。冬になると空気銃でスズメを撃っているか我が家でお茶を飲んでいる人だった。1984年の私の結婚式には紋付袴姿で上京して来られた。
夫人の「おみん」さんは足が悪かった。大俣(栗林?)の実家に帰られたとき、私のために大きな菓子箱いっぱいのクワガタを取ってきてくれた。
お二人には子がなく、あるとき突然、我が家に相談なく養子をとられた。その方は同居せず、すでに家庭を持っていて、また農家でなかったから文四郎さんが亡くなってから田畑を売ってしまわれた。その後、小林一族との親戚付き合いはなくなり、「新し家」は消滅した。

あたらしやの次に分かれたのは「もこのち」(向こうのうち)。
道を挟んで我が家のすぐ南にある。
「もこのうち」の系図
我が家の南に山田姓の家があったが跡継ぎがなく、絶えてしまった。そこに5代の三男・和三郎(6代重次郎の弟、天保13年生まれ)が入った。和三郎を初代として三代目の多一郎は私の祖父と同年代である。二人が幼い子どものころ裏の土蔵を作るのに、2キロ離れた江部から瓦を二枚ずつ歩いて運んできたという。私が物心ついたとき彼はすでにいなかったが、夫人の「くに」さんの葬式は雪の日だった記憶がある。その子、利徳さんは父の一つ上だった。
もこのうち(左)と我が家の土蔵(グーグル)
右の駐車場は黒川さんちが屋敷を売り払った後にできたアパート。
もこのうち(右)
昔この道は荷車が通れるだけの細い道で、左の我が家側には川と鯉のいた池があり、川に沿って竹藪があった。もこのうちには私の一つ下の紀子ちゃんがいた。

我が家の跡取りの婚礼は「もこのうち」が仲人をすることになっていた。私は東京に出てしまったので利徳さんは仲人をせず「親戚代表」として挨拶された。弟の婚礼の仲人は決まり通りに彼が務めた。彼の子、満ちゃんの婚礼は、私の弟が仲人だった。職場の上司などでなく、近所の親せきが最後まで面倒を見るという風習が残っていた。

三軒目は「むねはるさうち」。
道を挟んで我が家のすぐ北にある。
ここは小古井という家があったのだが絶えてしまい、そこに「もこのうち」の初代和三郎の二男・林之助が入った。
むねはるさうち
林之助の長女「くに」は、もこのうちの三代目・多一郎の妻となり(いとこ同士の結婚)、長女・けさ江、長男・利徳らをもうけた。ところが林之助の長男・利喜治が戦死したため、けさ江さんが母の実家に養女として入り、宗治さんが婿にきて、茂安、あけみらを生んだ。しげちゃん、あけちゃんは私の6年上、1年上で実のきょうだいのようによく遊んでもらった。
宗治さうち(右の2棟)
左の我が家のキノコ小屋は本来鶏小屋だった。
この道も昔は細くて、道の左側も宗治さうちの細長い敷地で、薪が積んであった。
雨の日、その薪の陰であけちゃんと傘をさしながらままごとをした記憶がある。

4軒目は鉄男さうち。
我が家のうら、宗治さうちの東である。
ここは小林宗九郎という家があり、そこに6代重次郎の長女(7代安治の妹)・つねが養女に入り、婿を取った。
つねを初代とすると、3代目が鉄男さで、4代目が正迪ちゃんである。正迪ちゃんは私よりずっと上だったが、鉄男さの4男、幸造さん(こうちゃん)が私の5年上で、一番良く遊んでもらった。
てつおさうち
私が胡麻のぼた餅を13個だか8個だか食べて動けなくなったのはこの家。
正迪ちゃんの奥さんのきよちゃんは年始に来られるといつも我々にお年玉をくれた。
鉄男さうち(左の松と土蔵)。
右は我が家のエノキ小屋。

手前の宗治さうちのガレージは昔なく、写真の向こう、遠くの家々もなかった。
鉄男さうちは、いまの松の場所に納屋があり、土蔵までの南側は道に沿って塀を兼ねた長い物置があった。
道の右側も少しだけ鉄男さうちの土地で、井戸と池があった。池はつねが養女に入るとき、我が家から手土産として一緒に付けてやったという。井戸の横にスグリ、グミが生えていた。あの酸っぱい味は今でも覚えている。

こうちゃん、しげちゃんは私の5年、6年上で、私が小学校高学年になると彼らも忙しくなり遊ぶことはなくなった。また、年の近いあけちゃん、のりこちゃんは女ということもあり、みんなと遊んだのは小学校低学年までだった。それでも各家に行って一人でそこにある漫画雑誌などを読んでいた。
各家はその後建て替えたが、家々の昔の間取りを鮮やかに覚えているほど、入り浸っていた。

私は本家の跡取りとして大事にされ、弟と違い、お酌取り(婚礼で新郎新婦に男女二人の子供が酒を注ぐ儀式)の役を務めたり、将来村を背負う子どもとして小学校高学年の3年間、村祭りの獅子舞をやった。(それなのに東京に出てきてしまった)

本家というのは分家を出すときに田畑を分け与えたのかと思っていたが、この系図をみると、もともとあって絶えた家に我が家から二男、三男が跡継ぎとして入っただけであることが分かる。だから土地資産は5軒とも大差なく、分家は本家を立てたり頭を下げたりする必要もない。しかし団結していくことが昔の村落社会では必要だったのかもしれない。幸い本家は代々、なぜか勉強はでき、自覚と責任感はあったようだ。

我が家は清七の時代に、堺、武士、黒川、町田(町田マケとは別)などの一軒苗字の家を親戚同様に面倒見て、岩船部落で三番目の小林マケを形成した。今でも(と言っても知っているのは1990年代だが)婚礼、葬儀や新築祝いなどは一同で集まり、女たちは全員お勝手に入り酒肴の用意をする。
(一番大きな派閥は、私の同級生町田憲一君の家を本家とする町田マケ、二番目は造り酒屋のある中島マケだった。)

しかし家々の強い結びつきも父の代まで。
我々の世代は、弟も含めすべて跡継ぎであっても農家はやめ、サラリーマンとなった。一年中畑に出ていた時代とは違い、本家分家より自分の家族、職場を優先するようになった。そして、子どもたちも一緒に遊ぶことはなくなった。

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