2022年5月14日土曜日

65歳からの職探し(6)ベーカリー

(注意:このブログは自分の記録なので長文御免)

パート従業員というのは正社員と違って、仕事内容は単純でも即戦力が求められる。いきなり一人前を目指さなくてはならない。それが未経験の職種だと、老人にとっては難しい。かなり才能が必要だ。

パンを焼いてみたいと思った。

そば打ち職人のほうが似合うと言われたが、蕎麦よりパンのほうが好きだ。それに作るにあたって蕎麦というシンプルな完成した形を目指すより、いろんな形、味、新作のあるパンのほうが変化があって面白そうだった。

タウンワークで駅構内のベーカリーがアルバイト、パートを募集していた。
年齢不問、時給1050円。未経験者でも丁寧に教えてくれるという。
3月4日応募、翌日面接。

店は非常に狭かった。
美味しそうなパンが並びイートインもできる店舗部分と、整形したり焼いたりする調理室部分、それから控室にもなっている事務所部分は床の高さが違い、おそらく駅の改修に伴い何度も増設拡張したのではなかろうか?

面接した事務所は畳を縦に3枚くらい並べた廊下みたいなところで、PCをするため座れば後ろが通れないほど。一番奥はカーテンで仕切れる更衣室部分だが、電話ボックス程度しかない。その手前で昼食休憩できるスペースも一人程度。

「なんで応募されたのですか?」と人のよさそうな店長は30代か40代の男性。
「一度パンを焼いてみたかったのです」と正直に答える。

後日採用の電話をもらった。
「皆に聞いてみたら“仲間としてやっていきましょう”ということでしたので、ぜひお願いします」という、なんとなくうれしい話だった。
チームワークが大事な職場のようだ。
3月16日免許証、銀行通帳を持参して雇用契約を結ぶ。

4月7日初出勤。
言われた通り上履きと黒ズボン持参。
6時から9時までの3時間、
15分前の5:45に到着。

しばらくすると店長も出社。
店長から渡された横縞のTシャツはLでぶかぶか。
エプロンの紐の締め方が分からず聞く。頭髪をしっかり不織布ネットで覆い、さらに帽子をかぶる。鏡を見るとやはりTシャツが大きすぎてひどい恰好。まあ、どうせ老人の初心者だし、気にしない。

調理室に行く。
泡石鹸で手を洗いペーパータオルで拭いてからアルコール消毒、そのあとビニール手袋。かつて実験室で使っていた手術用手袋より使いやすい。銘柄の差なのか、この20年の進歩なのか、どちらだろう?

調理室はただでさえ狭いのに、ここでいろんなことをする。
1.工場から運ばれてきた生地を小分け、整形し(中に具材のあるものは入れる)、お盆(鉄皿)に並べて膨らませる(発酵)。この過程が2~3人(とんかつなど揚げ物もする)。
2.発酵が終わり、お盆に乗ったパンにトッピングして焼くのが一人
3.サンドイッチなど調理パンのところが一人

店長は2のトッピングして焼くところ、すなわち窯のすぐ横にいき、仕事をしながら丁寧に教えてくれた。

すぐ後ろのラックから、1で作られたお盆をとる。
「そら豆ベーコンロール」の台の部分が16個乗っている。ここにいろんなものをトッピングするのだ。順に、
1.ベーコン3枚、
2.ブラックペッパーマヨネーズ3筋(何グラムか忘れた)、
3.チーズ8グラム、これがどのくらいの分量か、引き出しから電子測りを出し、ペーパータオルの上でひねり出し測って見せてくれた。
4.そら豆28グラム。これはボールに入っているのを16等分すれば良いから量はわかりやすい。焼いたときこぼれ落ちないように、どの豆も下のチーズにくっつくよう平たく盛るのがコツ。

ここまでやったら、空のお盆に半分移し、窯に入れるときの8個ずつ2盆にして、いったんラックに置く。
ラック一段の高さはぎりぎりで、トッピングしたものが上のお盆の底につかないか、心配。

次にオニオンベーコンロール。
これはそら豆ベーコンと同じ温度、時間で焼く。だから、同時に準備する。
1.角切りベーコン7グラム
2.チーズ11グラム
3.玉ねぎ8グラム。
4.マヨネーズ。
マヨネーズは業務用の細長いビニール袋に入っているから、ハサミで隅をほんの少し切る。切ったビニール小片がごみ箱に確実に捨てられたことを確認すること。パンの中に入ったら大変。お客さんの口に入ったらもちろん問題だが、窯で燃えたら他のパンにもにおいが付くだろう。
マヨネーズをパンの上に絞りだすときは、力加減と動かすスピードで分量(筋の太さ)が決まる。乳しぼりの手つきで持つとやりやすい。

必死にメモしながら、一緒にやらせてもらったが、ここで求められるのは当然ながらスピードと正確さ。チーズやスライスした玉ねぎなど、うまく乗らずこぼれ落ちてしまう。そのまま焼けばトッピングが少なくなるだけでなく、下の鉄のお盆が焼け焦げて後の掃除が大変。

戦場のような忙しさに拍車をかけるのが、ひっきりなしに鳴る窯のブザー音。
窯は3つあり、縦に積み上げられている。鳴ったらすぐ出さないと余熱で焦げてしまう。素早く皮のミトンの手袋をはめ、取り出す。窯一つにはお盆4枚が入り、奥の二つは手が届かないから鉄のひっかけ棒で手前まで引き寄せてから出す。

アツアツのお盆は、出したらテーブルに叩きつけてパンにショックを与える。こうしないとしぼむらしい。しかしパイなどは叩かなくてもいい。

そのまま完成品というパンもあるが、仕上げに何かを塗る。
1.追加バター(塩バターパン、ガーリックバターパンなど)
2.オリーブオイル(そら豆ベーコンロール、フォカッチャなど)、
3.ジャムウォッシュ(アップルパイ、ダークチェリーなど)
熱いうちに塗らないと伸びないからここでもスピードが求められる。かといって乱暴にすると塗り残し、ムラができてしまうし、宇治抹茶デニッシュやそら豆ロールは、豆が取れてしまう。

ここで問題は窯から出すお盆の置き場所がないことだ。
すなわち、それまでバタバタとトッピングしていたテーブルを使うしかない。トッピングが途中であってもブザーが鳴れば、お盆をラックにいったん避難する。

食パンが焼けた時は、テーブルにゴム板を敷いて、そこに金属の型箱ごと落としてショックで中のパンを箱から剥がし、竹で編んだお盆の上にスポっと落とすように出す。
一つの窯から直方体の金属箱が6本出てくるから、これを急いで6回やらないと後のほうの食パンが焦げてしまう。

窯が空いたらすぐ、トッピングが終わっているお盆をラックから取り、入れる。窯の上火温度、下火温度、時間を設定しスタートボタンを押す。パンによってはスチームを1回か2回かける。店長は数多くあるパンの焼く条件をすべて覚えており、温度設定の操作も素早くてメモする暇もない。

6時から9時まであっという間の3時間だった。

帰宅して朝昼兼用の食事。

ダンスのレッスンを受けるときと同じく、A4の紙を小さく3回折りたたんだメモ用紙(裏表でメモ面16ページできる)を持っていったが、バターだかマヨネーズだか、あるいは鉄容器の焦げた油だか、染みとしわでボロボロ、メモも単語のみの走り書きが多くてよくわからない。

思い出しながら小さいノートに清書した。エプロンのポケットに入る大きさのノートを捨てずにとっておいてよかった。
1ページにパン1つ。
蜂蜜エトランゼとかクイニーアマンとか、メモにあるパンの名前を見てもどんなパンだったか思い出せない。公式サイトに商品一覧があるが、完成品からトッピング中のパンの形が連想できない。

2回目は4月10日。

また店長について教わる。
各パンの焼き温度設定(上、下、時間)、焼成条件(塗り玉、蒸気)などを書いた一覧表をもらった。2022年4月度のもので、パンは全部で46個あった。4月1日新発売のものはコーンロール、窯出しフロマージュなど7つあった。こんなに覚えられるのだろうか。

前回と同様にトッピングをいっしょにやる一方、窯にお盆を入れたり出したりすることもやらせてもらった。熱い窯の底や壁を触らないようにしてお盆を入れ、3枚目、4枚目で先に入れた2枚のお盆を押し込む。
温度設定の操作が意外と難しい。
例えば190度から210度に変更するとき、表示と設定のタッチボタンの位置が微妙にずれているため、慌ててやると桁を常に間違えて動かしてしまう。これは単純に操作パネルの設計ミスだろう。

ブザーが鳴ってお盆を出すときは、もちろんスピードが大事。忙しい時はミトンでなく軍手のまま触ることがあるが、熱くてほんの少しの時間しか持てない。

食パンを金属ケースから取り出しているとき、やけどした。
触れないように万全の注意を払っているから、指や手のひらはやけどしない。しかし急いでいろんな操作をしていると、ひとまず脇に置いた金属ケースや鉄のお盆に手や肘などが触れてしまうのである。

若いころ実験室で乾熱滅菌したときなど熱いものに触れたことはあった。そのときは流しに行って流水をかけ続けたものだが、ここはそんなことをする余裕はなく、黙って仕事を続けるしかなかった。家に帰ってみると火ぶくれができていた。その後もこうした接触事故は起き、4か所やけどした。不思議とすべて右手の手首のすぐ上だった。

温度設定をするときにいちいちメモを見ていては話しにならない。何とか暗記しなくてはならないが、50個近いパンの温度、時間は、190、200、210度とか、9分、11分とか、みな似たような数字で覚えられるのだろうか?

この日は「最初は短期間でなるべく長く働いたほうが覚えやすいです」と店長の心配りで11時まで働いた。しかし空腹も感じず、あっという間だった。

帰宅後、もらったリストを見るが、トッピングは書いてないし、暗記しづらいのでエクセルで自分用の表を作った。そこには公式サイトからパンの画像をコピーして貼り付けた。ぱっと目的のパンに目が行くようにとの工夫だった。

3回目は4月12日。

トッピングしていると店舗のほうから店長が呼ばれ、皆でなにやらパンを見ている。塗り玉が雑で塗ってない部分があるらしい。たぶん私が塗ったのだろう。5つか6つ、除外していた。捨てるのだろうか? 戻ってきた店長は何も言わなかったから私も黙っていた。

10時になるとSさん(以下、仮名)という若い女性が出勤してきた。代わりに店長が上がり、事務室のほうに行かれた。Sさんは明るくていろいろ教えてくれながら冗談を言うが、こちらは冗談で返す余裕がない。
「はい、これは何のパンでしょう?」
「上火、下火は何度ですか?」
色々質問してくれる。そのたびに皺くちゃの、油まみれになったエクセル表をポケットから出す。しかし50ほどのパンをA4用紙2枚にまとめたからすぐ見つからない。

焼く温度は店長とSさんとでは微妙に違っていた。
そのことを言うと、彼女はポケットから大きな単語帳のようなカードを出した。パン1つにカード1枚、トッピングから温度まで可愛らしい字で書いてある。こういうベテランの人もきちんと勉強されているのだな、と感心した。

キャラメルキャンディーチップなどトッピングの分量の目安を教えてくれるときは、ペーパータオルの上に出して測ったら捨てるのでなく、パンをはかりに乗せて増えた分を見るとか、逆にミルククリームなどはチューブの重さを測って、トッピングした後の減り分から重量の目安を教えてくださった。

11時になって上がると店長が小さなチョコをくれた。
「今が一番大変な時です。私も最初はつらかったです。頑張ってください」と励まされた。

帰宅後、この日も紙にメモしたことをエクセルに書き加えていく。
すぐ目的のパンを見つけるには表をどのように並べたらいいのだろうか。最初にもらったリストはあいうえお順だが、メロンパンは「とびっきりメロンパン」の場所だし、クイニーアマンは「種子島産粗糖のクイニーアマン」のところにあって見つけられない。
そこで、朝からトッピングした順に並べてみた。
追加の書き込みと並べ替えはエクセルの得意とするところだ。

4回目は4月14日。

10時になったとき、仕込みの従業員の方が店長に「小林さんは10時ということでしたよね?昨日そう言いましたよね?」とおっしゃっているような気がする。どうも邪魔になっているのかもしれない。この日は11時ではなく10時で上がった。

帰宅後、また油だらけ、ぼろぼろ、殴り書きのメモとエクセル表を見ながら、PCのエクセル表を更新していく。
そして温度ごとに並べ替えてみたり、菓子パン系、フランスパン系、パイ系と分類して焼き方(温度やスチームのあるなし)の法則性を探してみたりした。

5回目は4月21日

このころは、出勤したら6時前であっても手を洗って窯の前に出るようになっていた。すでに6時前から数人が働き始めていて、仕込みのAさんがトッピングと窯のほうもやっていらした。
エクセル表を2枚、壁に貼ってもいいかと聞き、家から持ってきたマグネットで貼った。こうすればポケットから出す必要はないし、すでに書いてあるパンの場所にメモを追加することもできる。
彼女は無駄口をたたかず、あまり笑顔も見せてくれないから、緊張しながらトッピングを始めた。まだ出していない材料を冷蔵庫から出してくるのだが、なかなか場所を覚えられないからいちいち聞かねばならない。

そうこうしているうちに店長がいらしたが、窯場を素通りして仕込みのほうに行かれた。ベテランの従業員に教わりながら仕込みをされるようだ。
え?
私はどうなるの?と思ったら9時ころUさんが代わりに窯場にいらした。

彼女は素晴らしい指導者だった。
「温度を覚えるときは基準となるパン、例えばショコラ―ロール、コーンロールなど200‐200を覚えて、アップルレーズン、シナモンレーズンなど菓子パンは200‐190と少し低いです。時間も大抵10分以内です。
金型に入ったデンマークソーセージドックやシリコンの器に入った窯出しフロマージュは、下火を少し高くした200‐210、
一方、ミルクフランスやパニーニ・カスクート、塩パン、塩バターパンなどフランスパン系は210‐210と高いです。
食パンはケースに入っているから高温で時間を長く、LMは200‐220度、38分、イギリス食パンは上が開いているので焦げないように上火を低く、190‐220度、40分です」
理論的に教えてもらえると助かる。
若くないから、何か工夫しないと記憶できない。

彼女はトッピングも「玉ねぎを乗せるときは右手で大体の一回分の量を取り、左手でガードしながら乗せるとこぼれません」
「焼き上がったパンを移すときは一つずつじゃなく、二つ一度にもってください。こうやって持つと形がつぶれません」
「塗り玉は「の」の字を書くように、真ん中を上から下にひいて、そこから左側の側面を向こう側に上がり、まわって右側面を降ろしてくれば、3回の動きでまんべんなく塗れます」

髪をすっぽり覆う不織布カバーと、マスクとで顔はよくわからないが、知的な目をみれば、おそらく美人だと思われた。

この日はまたやけどした。しかし誰にも言えない。

急いで窯から出すときお盆がテーブルに当たり、パンをひっくり返しそうになった。
床に焼き立てパンが散乱することを思うとぞっとする。
「ヒヤッとするのが3回あれば4回目は重大事故」ということわざを思い出す。

そもそも
1.狭いところで
2.複雑な作業を
3.急いでやる
というから、事故はいつ起きても不思議はなかった。

パンは規定通り焼けばいいというものでもなく、窯から出したとき焼きが足りなければ1,2分追加したり、時間が違う二種類のパンを一度に入れ、手前の片方だけ先に出したり、というテクニックも必要とする。

一番難しいのは、窯を遊ばせないように、3つある窯の残り時間を見ながら、次に入れるパンを決めること。
設定温度が違うと窯が新しい温度になるまで入れられないが、同じパンだとそのまま入れられる。Uさんは上の窯は上火が高いもの、中の窯は型に入ったものなど下火が高いもの、下の窯は200-190の菓子パンに決めているようだった。

焼いている間、次のパンの準備をするわけだが、トッピングに時間がかかるパンだと間に合わないばかりか、窯から出すときにテーブルを空けなくてはならないから、作業を中断しなくてはならない。
もちろん仕込み部門から出てくる順番もあり、余り放置すると乾いてしまう(その時は水スプレー)、また遅れると発酵が進み膨れすぎ、ナイフで切れ目を入れるとき感覚が変わってしまう。

一瞬でこうした判断が自分にできるだろうか、と5回目が終わっても心配になってきた。

温度やトッピングは8割くらい覚えた。電車の中でもメモを取り出して覚えた。暗記するなんて大学受験以来ではなかろうか。もう47年前だ。
しかし80点ではダメなのである。90点でもだめ、100点でなくてはならない。
それも瞬時に出なくてはいけない。「ハイジの白パンは蜂蜜エトランゼと同じだから・・・」などと考える暇はない。

そして実験なら失敗してもやり直せるが、チームワークでパンを焼いている場合、やり直しがきかない。失敗が怖くて、記憶がたぶん大丈夫と思ってもどうしてもメモを再確認したくなってしまう。気軽なパートと思ったが、怖い仕事だと思った。

6回目は4月24日。

この日は以前1時間一緒にやったSさんと一緒だった。
Sさんも丁寧に教えてくれるが
「それは前回、一緒にやったよね?」
「このパンはさっきやったよ。もう忘れたの?」
老人はこんなものなんだよ、とは言えない。

業務用マヨネーズがなくなったので新しいものを出してきてハサミで隅を切った。すでに何度もやっているのだが、急いでいたし老眼で見にくかったのか、大きく切りすぎた。
「あーあ」と言われてしまった。
彼女は忙しいのにちょうど空いていた窯をあけ、底の熱い金属部分に切れた部分を当てた。ビニールを焼き溶かして封じるのだ。
それを見ながら、もう私にベーカリーは無理なのではないか、と思った。

このあと、またやけどした。4回目。
もちろん誰にも気づかれないようにした。
Sさんも優秀で優しい人だろうが、やはり私にはイライラしただろう。

トッピングを続けながら、きょう終わったら「やっぱり、できません」と申し出ようと決めた。
この瞬間に思ったのではなく、数日前から考え、迷っていたことだ。

自分でパンを焼いてみたいと思ったのではなかったか? 
まだ自分で焼いたパンを食べていないではないか。
ここまで覚えたのにもったいない、とは思ったが、6回やってみて、戦力になるまでの道が遠いことが分かり、皆の迷惑になるのが嫌だった。

数日ずっと迷っていたことを決めたらすっきりした。

窯のブザーが鳴った。
取り出す準備をしなくてはならないが、あれ?この窯は何を焼いていたんだっけ?
思い出せない。
塩クルミパンと塩パンだった。
店舗側のラックに入れながら「焼き立てでーす」と声を出した。

ほんのわずかな空き時間で使用済みのお盆を掃除して片付けていく。
拭き方が雑だとSさんの指導を受けたが、もうやめると決めたら何を言われても気にならなくなった。あと1時間だ。

11時。
お疲れさまでした、とSさんに言って事務室にいく。

店長はパソコンで何かを打ち込んでいた。
「店長、やっぱり私には無理なようです。今までの給料もいりませんから、やめさせてください」
彼はびっくりしたようで手を止めてこちらを見た。
「せっかくここまで覚えたのに、ここでやめるのはもったいないですよ・・・
 3か月、せめて1か月続けてみませんか・・・
 あのエクセルの表は本部から来たバイザーが感心してましたよ・・・」

こちらの決意は固かったが、彼の引き留めも本気だった。

横で休憩していたAさんも
「せめてシフトに入っている5月の前半までやってみませんか?」という。
彼女は仕事のできる人で、私のような老人初心者を邪魔に感じていたのではないかと内心思っていたから意外だった。

しかしこちらもいったん言い出したら、「じゃあ、もう少しやります」とは言えない。
「みんなの迷惑になってしまいます」と言って押し切った。

店長もUさんもSさんもみんな優秀で優しかった。
私なら初心者に対し、これほど親切にすることはないだろう。感謝しかない。

この日、4月24日の夜は、団子坂下のダ・イシザキにいった。
子供たちが私の退職祝いの食事会を開いてくれたのである。
もちろんこの日の退職ではなく、3月末の定年退職のほうである。
雑談としてベーカリーのパートに挑戦したことを話した。
「へー、面白そうだね」
「えっ? もうやめたの?」
外で見る店の華やかさ、パンのおいしさと、実際の仕事の大変さとのギャップをいうと
「何でもできる、って豪語していたお父さんらしくない」
「私たちがそうしたら、簡単に辞めるな、って絶対怒るよね」
やけどの跡を見せ、難しかったこと苦労したことなど話すと
「そこまで頑張ったなら、今から謝って、もう一度働かせてもらいなよ」

しかしやってみて、無理だと私が一番分かっている。

学生時代のアルバイトから65歳の定年退職まで、自分には一番難しい仕事だった。
大学を出たあと、企業研究所の32年、大学の9年、合計41年間はなんと楽な仕事で恵まれていたことだろう。
幸運だった。
世の中の仕事の多くは大変さと給料が釣り合っていない。

5月7日。
夕方、たまたまこの駅で降りた時、外から店内をそっと覗いた。
店内にいる従業員は高校生か大学生のバイトのようで見たことない人ばかりだった。奥の厨房が少しだけ見えたが、大きなごみ袋があの狭い通路に置いてあり、誰もいないようだった。
右手を見ると、やけどの傷は癒えていた。


(2022-05-25 追記)
2022‐05‐21 8:50
法事で実家に行った。
長野駅で長野電鉄に乗り換える途中にベーカリーの神戸屋がある。
さすが信州、手打ちそばの実演のように、パンの生地をつくるところがガラス張りで通りから見えるようになっていた。左の人はパイ生地を作っているようで、麺棒の動かし方がまさにそば打ちと同じだった。
1か月前の体験を思い出しながら見ていると彼女が会釈してくれた。
もう少し続けるべきだっただろうか。

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