2023年5月30日火曜日

王子電気軌道と都電、ドイトとコーナン

10年前に文京区に引っ越した。交通は便利だが、大きなスーパーがない。スーパーなくとも気にならないが、残念なのは、埼玉のように野菜や樹木の苗を売ってるホームセンターがないこと。
そこで自転車でほかの区まで遠征しホームセンターを探そうと思い立つ。

5月14日、家から自転車を30分走らせ、足立区の南端、島忠ホームズ足立小台店を訪ねたことは前のブログで書いた。さいたまのホームセンター(特に上尾セキチュー)には大いに劣るが、都内としてはまあまあだった。しかし、買うものもなく、次の目的地、北区・王子のコーナンに向かった。


島忠は、隅田川と荒川に挟まれた細長い中洲のような土地に立地している。
両方の川に沿って道がある。つまり島忠の両側に道がある。
コーナンへ行くにあたっては、車道である荒川側の堤防ではなく、自転車歩行者専用の隅田川側道を西に走った。

雨が降りそうなのでカミソリ堤防の横を急ぐ。
洪水の歴史を物語るように、刑務所の塀のようなフェンスは高く、隅田川は見えない。
10:34 小台橋
向こうに観覧車が見えた。たぶん荒川遊園だろう。
行ったことはないが頭の中の地図で想像する。

ここで隅田川を渡り足立区から荒川区に入る。
今の23区は昔の町村境がもとになっているから、荒川区と足立区の境は、明治から昭和初期にかけて人工的に掘られた広い荒川放水路ではなく、昔からある狭い隅田川(旧荒川)のほうである。つまり荒川は足立区の中を流れており、荒川区に荒川はない。

荒川区ができた時は確かに荒川に接していた。しかし1965年(昭和40)に新河川法施行で荒川放水路が荒川の本流となり、かつての荒川は岩淵水門から河口までを隅田川と呼ぶようになった(それまで隅田川は荒川の千住大橋から下流を呼んだ)。つまり、荒川区から荒川が消えた。

ちなみに、昭和40年の河川法では、千曲川も正式には一級河川信濃川とされたが、住民運動でもあったのか、長野県内では(県境から上流では)今でも千曲川と呼んでいる。東京ではそんなこともなく荒川は隅田川となり、荒川遊園、北区荒川小学校は荒川と関係なくなってしまった。(荒川小学校はダンス練習場富士学院の前にあったため、毎週前を通って見ていたが、令和になって150周年をまえに統合され十条小学校となった)。
10:41
小台通りと都電荒川線との交点、小台交差点。
ちょうど通った都電の横腹には子供が指をさすような絵と「あらかわ遊園号」と書いてあった。都電は東京都、あらかわ遊園は荒川区の経営。
千駄木から島忠ホームセンター足立小台店経由、コーナン王子船堀店まで

10:43
あらかわ遊園
「荒川」ではなく「あらかわ」だった。子供でも読めるように、かな?
1922年(大正11年)開園の老舗である。当初は温泉大浴場や演芸場、料亭などがあり、大人向けであったが、戦時中に高射砲陣地となり閉園、1950年荒川区立となり、東京23区内唯一の公営遊園地。いまは対象を小学校低学年までに特化していて、激しいアトラクションはないそうだ。
10:45
なおも都電荒川線にそって王子に向かう。
いまは東京さくらトラムと呼ぶらしい。あまり良い名前ではない。桜は路線途中にある飛鳥山にあるが、あれはJR王子駅のほうがよく見え、都電のものでもない。残りの大部分の沿線に桜は関係ない。
路線名は聞いて行き先や場所が分かるものが良い。アーバンパークラインより野田線、スカイツリーラインより伊勢崎線である。

サクラトラムと名付けながら、写真のようにバラの花が目立つ。荒川区は、都電の区内区間4.8キロメートルのうち植栽可能な4キロメートルに約140種のバラを植栽したという。しかし荒川区の花はツツジらしい。
10:47
都電おもいで広場があり、古い車両が展示されていた。
都電の廃車両は都内各地に展示されているが、たいてい一両である。
しかし、ここは何両もある。時間がないので立ち寄らない。

荒川線はピーク時には40路線もあった都電の唯一の生き残り。
在職中、豊島区の高校を訪問するとき王子から西へ雑司が谷までは何度も乗ったが、王子から東は乗ったことがない。

この路線は1910年(明治43)設立された王子電気軌道が開業した。まだ電気というものが社会に普及していなかったころ、この会社は、一般家庭への電灯設置、発電、路面電車、路線バスを事業主体として設立された。当時は小田急や京王、東急などの前身会社でも鉄道より電気事業(電灯、電力供給)が主であった。

王子電気軌道は、1911年、巣鴨新田に火力発電所を設置、同年飛鳥山―大塚間の路面電車開業、1913飛鳥山下(現梶原)ー三ノ輪橋開業、1925年には大塚から鬼子母神が開通、1927年には王子-赤羽間も開業した。
しかし電力事業と比べ鉄道事業は赤字で、経営も安定しなかった。1942年、戦時下の電力統制と交通統制により東京市に事業譲渡。会社は清算、路面電車は都電となった。
10:48
おもいで広場の隣は都電車庫。こちらは現役の車両が泊っている。

都電は都の財政再建の一環として1967年から廃止が進み、最後の第7次廃止(1972年)で赤羽―王子間も撤去されたが、早稲田ー三ノ輪橋間は都電唯一の路線として残された。

この路線だけ残った理由は、住民の存続要望が強かったこともあるが、9割が専用軌道で自動車通行への支障が少ないことと、路線全体に並行する適当な道路がなく、都バスによる代替輸送が困難であることなどであった。(この意味で、北本通りを走っていた王子₋赤羽間は廃止された)。

・・・
なおも線路に沿って自転車を走らす。
途中で荒川区(西尾久)から北区(堀船)に入る。
10:54
線路際の右にコーナン王子堀船店があった。
足立区南端の島忠から25分。
10:56
自転車売り場と間違えそうな自転車置き場
11:00
肝心の園芸コーナーは貧弱だった。
野菜苗、樹木とも品数少なく、再訪する価値はない。

11:02
しかし西松屋やダイソーもあり、地域には便利だろう。

それにしても、コーナンはホームセンターとしてドイトや島忠と比べ、あまり聞かない。もともと1978年に1号店を大阪に出した関西の資本で、関東は初めて2003年に横浜保土ヶ谷に出店したという。
ごく最近である2019年にドイトのホームセンター事業を継承したことから一気に関東に進出したわけだから、名前になじみが少ないのは納得する。

ちなみにドイトは1972年、日本で最初の本格的ホームセンターとして埼玉県で創業した。1984年結婚して東大宮に住んだころ、初めて行ったホームセンターもドイトだった。しかし、やはり北関東で成長したカインズなどに押され経営不振となり、2007年にドン・キホーテの傘下に入り整理された。さらにコーナンに事業売却され独自店舗はなくなった。

園芸専門店ドイト花の木はどうなったのだろうか。一度行きたかったな。与野本町駅から歩いて22分の17号バイパス沿いにあった。文京区に来てから、いちど駅から10分くらい歩いてバイパスまで行ったけど疲れて引き返してしまった。(そんなにひ弱、かつ無計画だったはずもないので、多分用事があって行ったら時間どおりに戻ってこれないと判断したのだろう)

さて、コーナンを出て一路千駄木の自宅へペダルをこぐ。
久しぶりの自転車だったから疲れた。
11:08
途中、田端ー上中里の東に広がる上野東京ラインと田端操車場の踏切をわたる。

しばらく行くと、ちょうど2年前に家から操車場まではるばる歩いてきたときの場所に出た。当時と同じように、上中里駅の南の跨線橋から滝野川女子学園の前に出たが、延々と上り坂が続く。久しぶりの自転車は脚が疲れ、ずっと押して上った。
帰宅してコーナンから千駄木の家まで、実際に通った距離を調べると3.8キロ、
徒歩47分、自転車なら18分と出た。
分速81メートルと211メートル。
坂があるから自転車で18分は無理である。

あ、逆方向ならいけるか。
グーグルのルート案内は行き帰りを逆にすると所要時間が変わるのかな? 
いやそんなに賢くはないだろう?
と、思って方向を逆にしたら歩きで2分、自転車で1分差が出た。
個人の体力は反映できないだろうが、高低差は考慮しているようだ。


2023年5月29日月曜日

文京区から苗を求めてホームセンター探し、島忠へ

10年前に引っ越して、今の住所にほぼ満足しているがホームセンターがないのが残念。

いや、文京区にもある。白山通りにオリンピックと後楽園にコーナンドイトがある。しかし他地域のホームセンターと違って園芸関連売り場がつまらない。

苗はプランターや鉢で育てるパンジーなど観賞用植物が中心で、シーズンには野菜苗も出るがナスやトマトなど定番しかない。埼玉のホームセンターにはあったサツマイモ苗、ネギ苗など農家向け商品、ペピーノ、パレルモなど珍しい野菜などもない。まして果物、庭木など樹木苗などまったくない。だから行ってもつまらない。

埼玉の、夏ミカン、温州ミカンを買ったセキチュー(上尾)、不知火、イチジクを買ったコメリ(伊奈町)はもう行けないし、サツマイモ苗やペピーノなど買ったビバホーム(与野)も遠い。

そこで自転車で行けるホームセンターを探すことにした。
検索すると荒川区と足立区の間に島忠、北区・王子の南のほうにコーナンがある。
千駄木から島忠経由、コーナンまで
6.7キロメートル、徒歩1時間25分、自転車なら42分、と出た。分速78メートルと160メートルか。正しいかどうか分からない。

5月14日、日曜、曇り、久しぶりに自転車に乗る。
狐坂を下りて不忍通りから道灌山通りに入る。
2023‐05‐14 9:43
すぐ台東区に入るが、数十メートルで荒川区となる。
9:44
大規模改築ですっかり変わった開成学園。
向こうに西日暮里駅のホームが見える。

9:46
日暮里駅ガード下
道灌山通の上をJR、日暮里舎人ライナー、京成電鉄が少しずつ距離を空けて通っている。
ここに立つとすべて見える。

9:48
日暮里舎人ライナーの西日暮里駅
西日暮里五丁目という交差点を左折、尾久橋通りに入り、日暮里舎人ライナーに沿って北上する。ここから未知の道となる。
すぐに貨物線とぶつかるが、踏切でなく尾久橋通りは地下をくぐっていく。下って上るのは体力的にきついので、西に迂回した。すると小さな踏切に出くわした。

9:50
「常磐貨物線・片瀬道踏切」というらしい。
この貨物線は田端と南千住の貨物ターミナルを結んでいる。

現在、踏切の両側は西日暮里五丁目と六丁目で、片瀬という地名はないが、昔はあったのだろう。
その昔、山手線がなく上野が関東、北日本からの終着駅であったころ、貨物だけは秋葉原まで行き、そこから船運を使った。そこが手狭になり、田端から貨物線を枝分かれさせ、南千住まで延ばし隅田川で船に乗せるようになった。自動車がなかった時代、東京への物資輸送を支えた、その路線である。このあたりは以前書いた。
ちなみに常磐線は当初、南千住まで南下してきたあと、この貨物線を使い北の田端まで向かい、そのあとスイッチバックで南下した。
その後、いまのように三河島から日暮里に急カーブで曲がるようになって常磐線の列車は通らなくなり、さらに田端経由の貨物も減ったことから、この路線を通る車両も少なくなった。今、一日でこの踏切が閉じることはほとんどなく、地元の歩行者と自転車のみが使っている。

再び尾久橋通りに戻り北上を続ける。
9:52
西日暮里六丁目交差点
交差点で横を見たら冠新道商興会とあった。
冠新道という名前だけは知っていたが、初めて見た。
冠家は代々新堀村の名主を務めた。大正期、日暮里町の助役でもあった冠権四郎氏は自分の土地を中心に区画整理を行い、その名残がこの冠新道である。

日暮里経王寺の裏に住職が住んでいるようなひっそりとした家がある。
「冠」という表札がかかっている。
9:54
冠新道商興会

9:56
多数のカラスが舞い上がった。見ればゴミが散乱していた。
日曜の朝に出ているとは、何も知らない外国人か何も気にしない日本人か。

10:02
熊野前駅
都電荒川線と日暮里舎人ライナーの交点。
交通網的に町屋とともに荒川区の中心点とも言える場所だが、舎人ライナーが新しいため、商店街はない。

都電は、自動車と同じように信号機にも従って走るから、わざわざ立体交差にするのは珍しい。ちょうど舎人ライナーが高架だったため、建設時ついでに車道も高架工事したのだろう。と、思ったらすぐ隅田川の堤防で、これを越えるにも高架である必要があった。

都電荒川線が脇を走るのは、都道306号線(王子千住夢の島線)とあるが、はて、少し南で越えた明治通りと同じではないか! 調べたら、このあたり、並行する両方とも確かに306号であった。なぜ同じ番号なのか、由来は不明。

さて、駅名の熊野前というのは、熊野神社前ということだろう。しかし付近にこの神社はない。地図にもない。調べたら、明治11年に近くの八幡神社に合祀されてしまったという。跡地に小さな祠が残され、変わらず信仰されていたため、大正2年に開業した王子電気軌道(後述)が駅名にしたようだ。

熊野前を過ぎると隅田川を越える。
10:07
堤防を越えるにあたり、車道は熊野前からのスロープだが、歩行者は階段を上っていく。
ただし歩行者はほとんどおらず、たいていの人は自転車を押している。

10:07
隅田川を越えるのは尾久橋。
改めて日暮里からまっすぐ走ってきた通りが尾久橋通りだったことを思い出す。
堤防は、壁のように薄く、「よく切れる」カミソリ堤防である。
対岸は足立区。
目的地のホームセンター、島忠がみえた。
島忠は大宮プラザに住んでいたころ、よく行った17号バイパス沿いの店以来である。
当時は3人の子供も小さかったな。
10:10
熊野前からそれほど離れていないが、舎人ライナーの次の駅、足立小台がある。
一度乗ったことがあるが、無人運転の車両、駅舎も近未来的である。

赤印が島忠
このあたり隅田川(旧荒川)と荒川(旧荒川放水路)が接近していて、その幅は大型店舗あるいはマンション一棟分しかない。つまり尾久橋を渡り切っても、さらに広大な荒川がある。隅田川を渡ってきた人は島忠か、さらに長い橋の荒川の向こうに行くわけで、近所の商店街とか駅とかに行くわけではない。だから歩行者が全くいなかった理由も分かる。

10:13
隅田川を渡りきるとすぐ荒川にぶつかる。
向こうに江北橋(こうほくばし)と首都高が見えた。

明治から昭和初期にかけて掘られた荒川放水路は、河川敷だけでなく、車道になっている堤防も広い。


堤防道に面してホームセンター島忠がある。
千駄木の家から35分。

目的の園芸品売り場に直行する。
10:16
久しぶりの本格的園芸コーナーでわくわくする。
しかし、ペピーノやパレルモなど、欲しかった珍しい野菜苗はなかった。
定番のナス、トマト、キウリなどは多い。サントリーなどの接木ブランド苗が目立つ。

ホームセンター園芸コーナーの実力は、樹木苗の品ぞろえを見ればよい。
10:19
モモ、サクランボ、デコポン、イチジク、

レモン、プラム、
庭木のレッドロビンは600円か。

10:27
キンモクセイ、枝垂桜、シャラノキ、
しかし観賞用庭木は興味がない。

10:27
河津桜、照手桃(花桃)

さいたまのホームセンター(特に上尾セキチュー)には大いに劣るが、都内で見た中で一番よい。
しかし、買うものもなく、次の目的地、王子のコーナンに向かった。

2023年5月25日木曜日

初めてのそら豆、8年目のキャベツ、初収穫


2023‐05‐09 6:44
薹(トウ)のたったレタスに朝日が当たる。
妻のように生で食べるサラダだと減らないので、私は美味しくないが、電子レンジでしんなりさせ、一度に一株ずつ消費している。

写真の向こうの左はそら豆、右の防虫ネットはキャベツ。
2023‐05‐18
キャベツ初収穫
左はもう終わりかけのスナップエンドウ

2023-05-22
そら豆は10粒、種をまいた。
すべて発芽したが、丈は(シェア畑より)伸びなかった。
肥料を上げなかったからか、アブラムシがたかっていたからか不明。
それでも実はよくついた。

そら豆は地中海から西アジアが原産らしい。世界最古の野菜の一つとされ、古代ギリシアやローマでは、葬儀にソラマメが供えられたという。紀元前3000年以降は中国にも存在し、日本へは8世紀に渡来した。
豆を莢から出すと鮮度が急速に落ちるため、豆を調理するときは直前に莢から出す。しかし莢ごと保存しても美味しいのは収穫して3日ほどという。

なぜそら豆というか? 莢が天を向いているからという。しかし目線より上で空を向いていたら納得するが、足元で立っていても空を向いているとは言わないのではないか?
2023-05-22
収穫は、ソラを向いている莢が重みで下を向いてきた時、という。
しかし、下を向いても実がしっかり詰まっていないことがあり、触ってから収穫しろという。
ところが、その逆もある。
この日は下を向いていないのに黒ずんできた莢があり、触ると固い豆が感じられた。
そこで初収穫した。

さて、そら豆同様、秋に種まきして冬を越えたキャベツも大きくなってきた。
2023-05-22
ヨトウムシにところどころ食われているが、まあ、順調に育っている。
2023-05-22
しかし定植した16株のうち、成長の遅かった8株は、依然として小さい。
2023-05-22
この日の収穫は、
そら豆(13個)、最後に抜根したスナップエンドウについていた実。今季2個目のキャベツ。向こうで傘のように横たわるは、トウのたったサニーレタス。トウは薹だが、これだけ長いと塔である。

2023-05-22
キャベツの大きさはスーパーのと同じくらいある。
しかし外葉をとってみたらヨトウムシに食われていた。
これでは人に差し上げられない。

キャベツは16株もあるのに、人にあげられないし、食べきれないし。

話はそら豆に戻るが、実は、そら豆を食べたことがない。
いや、2,3度食べたことがあるが、自分で茹でたことがない。
そもそもスナップエンドウのように莢も食べられるのだろうか?

それを確かめるために、莢ごと茹でることにした。
ネットで調べると、塩を入れた水を沸騰させ、そこで2分入れるらしい。中の豆だけ茹でた場合はすぐ取り出して空中で冷ますが、莢ごと茹でた場合は火を止めた後5分間鍋の中に放置してから取り出して冷ます。

さて、莢はいざ口にすると、枝豆と同様、硬くて食べられなかった。豆を覆う薄皮は食べられないことはないが、硬いし特にうまくはない。みかんの内袋のように、食べても食べなくても良いという存在。

個人的にはスナップエンドウのほうが好きだが、秋冬は千駄木菜園も空いているので、来季も10本くらい育てても良い。


2023年5月24日水曜日

イチゴを食べるのはダンゴムシ、ロビンの植え替え

今季、イチゴは大量に食べた。

2023‐04‐26
昨年伐採した桜の切り株
幹回り3メートルもあった株を掘り出すことは途中であきらめた。
土を盛って地面としイチゴを植えた。
テーブル状になっていてイチゴ栽培にちょうど良い。
2023‐04‐26
こちらは同じ宝交早生だが、地上に植えたものはなぜか発育が悪い。
葉っぱが小さく、実も甘くない。
2024‐04‐26
こちらは数年前から作っている品種不明のイチゴ
品種が分からないというのは維持する価値もない。
この6株はシーズン終わったら廃棄する。

これら三か所のイチゴは4月22日に初収穫、4月30日ころは、2日に一遍10個程度とれた。
2023‐05‐09
さらに5月になると、2日に1回の収穫のたびに大小30‐50個とれる。
毎日、砂糖と潰して牛乳を注ぎ食べている。

ただ、中には何者かにかじられてるものがある。
何だろうと思っていたが、あるときダンゴムシがたかっているのをみた。
その食べ跡を見ると生食は気持ちが悪い。
ほとんどのイチゴは無傷だから気づかない妻には、あえて言わない。

跡が大きいものは捨てているが、小さいものはもったいないので、自分も自然の一部だと考え、受け入れて食べる。
ダンゴムシとの間接キスよりも胃袋に入る分だけ気持ち悪いが、病原微生物混入の恐れは他の生野菜と変わらないと思い、深くは考えないようにして、よく洗ってスプーンで潰して形を消す。
2023‐05‐11
人には上げず、老夫婦二人だけで食べていたから十分飽きた。

5月に入って寒かったり暑かったり。
その暑かった日が続いて、弱っていたレッドロビンが枯れてきた。1月に切ってもらったキンモクセイの切り株を掘り出すとき、わたしが一緒に近くのレッドロビンの根を切ってしまったのである。
2023‐05‐13
庭木は、このくらいの、自分で伐採できるくらいの大きさが良い。
2023‐05‐13
数年前、挿し木で増やした苗が日陰で小さくなっていたので、持ってきて植えた。
2023‐05‐13
キンモクセイと端で一番広がっていたレッドロビンがなくなって生垣が切れた。
2023‐05‐13
植えたレッドロビンは小さいため、当分の間、道路から千駄木菜園が丸見えになる。
野菜も、洗濯ものもよく見える。
それより作業している姿を見られるのが気になる。
通る近所の人も声をかけるかどうか迷うかな。
生垣になるのは来年か再来年か、もっと先か。

さて、イチゴはずいぶん楽しんだが、そのうち生らなくなった。
イチゴはならなくなるのと同時に、子どもを残すため、蔓(ランナー)を延ばす。

5月24日、来年用にランナーの先に出る子株を育てようと、敷いていた不織布をはがして子株のための地面を出し、余計な親株は引き抜いた。

来年のことを思うと、ふと、自分の年齢のことも頭をよぎる。