2021年5月15日土曜日

田端操車場、上中里の線路地帯を歩いてきた

上野から赤羽まで京浜東北線の西側は高台。
古くからの寺社も多い。
しかし東側は低地で、何本もの線路が走り、名所旧跡はない。
とくに田端、上中里のあたりは線路地帯が広がり、JR関連の施設が集中している。

5月8日、西日暮里駅から新幹線と上野東京ラインの間、両側が線路という道を田端駅まで歩いてきた。
(別ブログ)
さらに足を延ばし、田端大橋の東で階段を降り、北へ歩く。

右(東)は上野東京ラインまで鉄道に挟まれた中州のような東田端の市街地。
左はJR関連施設。

左下から右上に(0,0)(100、100)とすれば、
(60、10)が田端駅。新幹線が何本も止まっている。

右側の市街地もなくなって両側とも殺風景となり、日通の事業所を過ぎると、場違いなように石碑が立つ。
上のグーグル航空写真では(50,80)のあたり。

2021‐05‐08 11:29 
「左 王子道」
「右 六阿弥陀 西新井弘法大師道 □先船わたし場十一丁」
と書いてある。
フェンスの向こうは東日本旅客鉄道株式会社・田端運転所という表札。

西新井大師(五智山總持寺)にも阿弥陀像はあるだろうが、六阿弥陀というのは手前の二番:宮城山恵明寺(荒川の向こう、足立区江北2-4-3)のことだろう。
三番:無量寺、四番:与楽寺は以前書いた。

この石碑が現役だったころを見てみる。
1921(大正10)ころ
不忍通りはようやく動坂下まで開通、都電の終着駅が見える。
動坂からくる田端切通しはまだなく、線路の東に行くには江戸坂まで迂回して降りた。
当時の田端駅は江戸坂より北にある。
鉄道は東北線と隣に貨物線が並行して走り、その東は何もない。

道標石柱の王子道は、日暮里芋坂下の羽二重団子の前から、音無川と並行してきて、まさに写真のこの場所で今と同じ丁字路になっている。
(駒込からくる山手線の東への延長線上にあるから探しやすい)

当時は人家もまばら、周りは水田である。
荒川の手前を東西に走る王子電気軌道もみえる。

角に例の石柱のあった田端運転所の事務所は、草が生えあまり使われていない雰囲気

5月なら水を張られカエルも鳴いていたであろう水田地帯は、今からは想像もつかない。

11:30
JR東日本田端運転所のすぐ北に踏み切り。
JR尾久駅のほうの操車場との連絡線路である。

南西、田端駅方面をふりかえる。
高いビルは田端大橋の西にある田端アスカタワー

線路に沿ってさらに北(というより西だが)に歩いていく。
11:31
このあたり右側に小さな工場、商店が並ぶ。
いずれもJRと取引する会社だろうか?

11:34
すぐ裏まで尾久駅西の車両基地が迫っているため、奥行きは1軒分しかない。
線路に挟まれた、狭い帯というより紐のような土地に延々と各社一列に並んでいる。

11:35
この辺りは新幹線の車両基地。
グーグル写真でも新幹線が見える。
歩いてきた一列の会社の前の道は、車両基地のど真ん中というのがよくわかる。
両側に筋繊維が集まった2つの筋肉が並んでいるようだ。
尾久駅は(50,100)

歩いていくと再び2つの車両基地の間に民有地がでてきた。
特養老人ホーム上中里つつじ荘の角を東に入る。
11:37 中里貝塚
この辺りは海あるいは浜だったと思う。
貝塚なら、ふつう住居のあった西の台地上にあると思うが。
浜辺で身だけ取って貝殻を捨てていったのだろうか?

貝塚の前に小さな小屋があった。
馬頭観音
明治22年と彫ってあった。
車両基地を作るのに移したのかもしれない。畦道の脇にでもあったのだろうか。
昔も今も広々した場所としては同じでも、ずいぶん違う景色になったものだ。

11:39
廃屋の向こうに電車からよく見える「萩の月」の看板があった。
一つ一つ小さな箱に入っていてお土産として優れている。

11:41
地下道があった。
商業的な明るさ派手さはなく、実用本位。

階段を下りたが向こう側は見えなかった。
操車場に挟まれたこの中州から、東の上野東京ライン尾久駅にいくのが目的のようだ。
ということは、トンネル利用者はみなご近所の人、知り合いなのだろうか。

11:43 
二つの車両基地に挟まれた道を進むと、左(西)は住宅地。
右(東)は地下道のところからずっとJRの建物が続くが、車両基地の線路は見えない。
写真の右は尾久車両センター。
11:43
線路地帯に挟まれた中州の住宅地は東京らしい狭さ。

11:46
このまま進んでも面白そうなものはないので京浜東北線上中里駅のほうに向かう。
京浜東北線を越える跨線橋の下に看板地図があった。

11:50
みれば、京浜東北線から東北線尾久駅までの広い線路地帯と真ん中の住宅地は上中里2丁目である。
東北線の向こうは昭和町というようだ。東北線によって上中里、中里から分断されたことから独立地名となった。名前どおり1930年、昭和5年のことである。当時は昭和も鉄道も経済成長、発展をイメージするものだったのだろう。

11:53 車坂跨線橋
田端大橋以北で初めて線路を越えられる道だが交通量は少ない。
東は中州のような孤立した住宅地の間を抜けてもふたたび東北線の線路と尾久車両センターがあり、利用者が限られる。

跨線橋から南を見ればスカイツリーが見えた。
写真の右は車坂と滝野川女子学園。

11:55
大正15年創立、滝野川女子学園も校舎新築中
少子化で私学は厳しいはずだが、それゆえの設備投資か。

右に行けばすぐ蝉坂と上中里駅。

実は妻が毎日「健康のため」(?)と近所をウォーキングしている。
この日はそのコースとしてここを推薦して連れてきた。
出発前、「遠い」という反対に
「帰りは上中里駅から電車に乗ればいい。片道だけだと3km、4kmくらいだ」と説得した。

・・・・
この日は暑かった。
「滝野川女子学園のすぐ上に城官寺がある。いってみる?」
「疲れた。もう帰りたい」
彼女に電車で帰られると一人になって寂しいな。
「その向こうは本郷通りと古河庭園だけど」
彼女のなじみの場所を伝え、気分的に家からそれほど離れていないと思わせる。
「ふーん・・・」
考える気力もないらしい。
妻「西ヶ原から地下鉄で本駒込に行こうかな・・・」
私「だいぶ北へ行かなくちゃいけないぞ。本駒込から家まで歩かなくちゃいけないし。とりあえず南に行けば駒込駅がある」
というとしぶしぶついてきた。
上中里駅がすぐ近くであることは言わなかった。
彼女は素直なうえに知識がなく騙されやすい。

12:00
下に降りるモチ坂は鉄道によって消滅した。
坂道をのろのろ歩く。
ランチで店に入ろうにも、このあたりにはない。
小さな公園があったのでベンチで休んだ。

12:12
再び歩き始めると、中里トンネル。
湘南新宿ラインが山手線の内側に入るためにくぐる。
このあたり以前自転車で通ったことがある。

12:13
中里トンネルの上は線路のカーブを描いてJRの社宅が並ぶ。

山手線の上にでた。
ずっと無言で歩いているから、円勝寺の門前で特に見たくはなかったが「ちょっと寄っていく?」と聞いてみた。断られた。
12:19 第二中里踏切
2020年11月、JR東日本と東京都、北区が廃止することに合意した。
陸橋を作った後になくなるようだが、10年くらいかかるらしい。

「駒込駅があるけど、ここまで来ると家まで歩いたほうが早いな」と独り言のように言う。

山手線唯一の踏切を渡ると大龍寺。一人で何度も来ているが、
「正岡子規と板谷波山の墓があるけど見ていく?」
ずっと機嫌を取っている。
もちろん彼女は拒否。

家に着いたら12:38
11時前に家を出て1時間40分。
彼女のスマホは 6.9㎞ 9332歩 と示していた。



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