2020年12月18日金曜日

北千住2 荒川開削と名倉医院の系譜

12月14日、仕事帰りに北千住駅で降りた。(別ブログ)
少し歩いてみる。

駅前の丸井のすぐ西側の通りを北上。
通りの東、線路との間は再開発されミルディスI(丸井)とミルディスIIになったが、西は昔の古い飲食店が並ぶ。

2020-12-14
少し歩くと住宅街になる。
大きな家はないが石造りの家。

長円寺の塀の途中にめやみ地蔵
眼病に霊験あるようだが、令和2年の新しい絵馬は受験合格を祈っていた。

そのとなりは氷川神社
この北側、水戸街道を少し進み、その道から離れ川のほうに回ると名倉医院があるはず。

すぐ手前にアザレアガーデンという低層マンション。
管理は(有)名倉コーポレーション。
名倉医院が経営しているのだろうか?

医療法人社団名倉会「千住の名倉 整形外科」という看板。
医院はヴェラハイツ北千住IIというマンションの1階だった。

西隣は名倉家のご自宅のようだ。古い瓦葺の家屋が見える。

名倉家は桓武平氏、畠山重忠の子孫で北条家の家臣だった。武蔵国秩父郡名倉村に館を構えていたが、永禄13年(1570)武田信玄の秩父侵攻により攻め落とされ、岩槻を経て18世紀の初め享保年間ころに千住に居を定めたという。

千住での初代名倉弥治兵衛直賢(1750~1828)は、柔剣術・格闘術皆伝にとどまらず、接骨術を極め、明和7年(1770)、ここ千住に「骨接ぎ名倉」を開業したとされる。

創業250年、本院の現当主は8代目院長の名倉直孝氏。
1976年学習院大法学部を出られたあと87年に北里大医学部を卒業されている。

すぐそばに荒川。
名倉邸が見えるかもしれないと思い堤防に上がってみる。

樹木が多くてお屋敷は見えない。

東のほうに鉄橋を渡る常磐線?電車が見えた。

荒川は昔から荒ぶる川で、明治43年の大洪水は、利根川とともに埼玉の平野部全域を浸水させ、東京下町にも壊滅的な被害をもたらした。埼玉県だけで死傷者401人、住宅の全半壊・破損・流出18,147戸、非住宅10,547戸という。東京下町は150万人が被災した。

翌明治44年、岩淵から約22kmの放水路開削が始まり、途中、不況や関東大震災などで困難を極めたが、蒸気掘削機や浚渫船(一度水を張って船で掘る?)を使い延べ310万人の人員が動員され、約20年後の昭和5年に完成、こちらが荒川、水のうんと減った旧川筋は隅田川となった。

水を見たいと思ったが、車がびゅんびゅん通り、渡れなかった。
(後で地図を見たら自然河川のように河川敷グランドなどがあった。)

堤防を下りて元の道を西に回り込むと街道筋、南に少し行くと長屋門が見えた。
徳川将軍の鷹狩で休息所になった時に建て替えられたとされる、足立区の登録文化財。
ああ、これが名倉家か。

骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎ、といわれたほど関東一円で知られた名医だった。江戸四宿の一つ、千住の中でも、下妻道に面し、日光道中、水戸佐倉道の追分がすぐ近くにある。

当時は電話予約などもないから、駕籠や大八車、戸板で運ばれてくる骨折患者が1日五百人もいたと記録され(名倉医院HP)、門前にひしめき合ったという。今駐車場になっている広場はそれら駕籠や車のたまり場になっていたらしい。

関東で「名倉」は「ほねつぎ」の代名詞となった。
まだ現役の接骨院である。
表札は名倉重雄

名倉医院の公式サイトがある。近代的な医療機器も紹介しているが、待合室などは庭を望む縁側のようで、医院というより旅館の雰囲気。
患者になってみたい、と初めて思った。

ちなみに川のそばでみた「千住の名倉整形外科」とこちらの「名倉医院本院」はお屋敷を挟んでつながっていない。

駐車場の北、土蔵の横にアパートらしき建物がある。
みれば長屋門の内側にも自転車がありアパートに見える。
何だろうと思っていたら、女性が一人出てこられた。
住まわれているのですか?と聞くと医院の職員だとおっしゃり、川のほうに歩いて行かれた。社宅だろか?
それとも長期滞在の患者用?
あるいは名倉コーポレーションの管理する一般アパートか?

日光街道(左)と下妻道(まっすぐ)の分岐点。
写真に名倉医院の看板が見えるほどすぐ近く。
荒川放水路ができる前は田んぼの真ん中を下妻道がまっすぐ北東に向かっていた。
下妻は井上家1万石の藩庁があり、今より名が知られた町だった。

江戸復元情報地図(朝日新聞)
分岐点には下妻橋がという橋があったらしい。
下妻道は大原道と書いてある。
八潮市大原(だいはら)のことらしい。

かつて周辺には患者のための下宿屋が並び、そこの主人が名倉医院で治療に当たる医師、接骨師を兼ねていたという。

少し南にくると水戸佐倉道との分岐点。
今国道6号は浅草言問橋から葛飾金町に向かってしまうが、水戸街道は千住で日光街道から分かれた。
まさに骨接ぎ名倉は関東交通の要地にあった。

明治11年、荒川放水路はまだない。
陸羽街道(日光街道)と別れた陸前浜街道(水戸街道)は氷川神社の北、清亮寺の南(東武線の鉄橋わき)、真福寺の北(いま河川敷)を通っている。

埼玉県内のように荒川をまっすぐにしたら北千住をつぶすことになる。
そこで新たに放水路を開削したわけだが、骨接ぎの名倉を避けるように水路を決めたように見える。

ネットに名倉静(せい、1925~)さんの談話があった。
http://www.kandagakkai.org/noren/page.php?no=19
彼女は桓武平氏から畠山、秩父、名倉と姓を変えた系図で42世。名倉姓になって20代、千住に来た名倉家で14代、骨接ぎ創業者・名倉直賢からは7代目という。

6代目の父、名倉重雄は名古屋帝大教授、母は高橋是清の孫。一人娘だったが、養子の鈴木氏は医師でなかった。3人の息子が医師として成長するまで他の人に看板を守ってもらった。いま直良(マンション1階にあった「千住の名倉整形外科」)、直孝(名倉本院と駅前クリニック)、直秀(神田駿河台の名倉クリニック)各氏がそれぞれ院長を務める。

医学がサイエンスとはいえなかった江戸時代にあっても、外科、骨接ぎは比較的現在と同じ治療法だったのではあるまいか。正しい位置に戻して当て木で固定する。
内臓疾患の内科と違って繁盛するのもわかる気がする。

・・・

この日、名倉医院から日光街道を南にぶらぶら歩いて(別ブログ)北千住駅から千代田線で帰った。
地下鉄西日暮里でおりて歩いて帰る途中、道灌山通りから奥に骨接ぎの看板が見える。

2020-12-14 右はやなはじ珈琲
「谷中名倉・岡田接骨院」

2013年千駄木に越してすぐここを見つけて以来、いつか本家名倉へ行ってみたいと思っていた。この「名倉」は支院というより、それこそ骨接ぎの代名詞かもしれない。

いま、名倉の接骨院、整形外科で検索すると、北千住に3院、荒川区に2院、神田駿河台、日本橋にもある。

谷中名倉岡田接骨院の公式サイトを見たら
「千住名倉の七代目にあたる故 名倉弓雄先生(初代 荒川名倉病院院長)の元で研修をさせて頂き、昭和58年に東京都台東区谷中3-13-8において開業致しました。」
とある。
弓雄氏は6代重雄氏の甥にあたり、本家の静氏のいとこである。


20201216 北千住1 地下鉄、JR、東武のりかえは改札なし

20170507 自転車で旧街道・3 円通寺、回向院から北千住


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