南千住に初めて降りた。
山手線から2駅、都心から近いのに来たことがなかった。
2021-09-08 14:14
いや、来たことがある。
西口降りてすぐの回向院には2017年、自転車で来て、このガードをくぐった。
(別ブログ)
ここは旧日光街道だが、このあたりはコツ通りという。
小塚原(こづかっぱら、こつかっぱら)の刑場がそばにあったからとも、大量の刑死体をずさんに埋めて大雨で骨がよく露出したからともいわれる。明治初期の地図を見れはこの道沿いになんと梟示台もある。
しかし、今やそんな面影はなく、上を常磐線、日比谷線が通る幹線道路である。
鉄道が上なのに、コツ通りが地下をくぐるのは貨物線があるから。
貨物線は通過列車が少ないから上げる費用がもったいなかったのだろうが、やはり踏切はまずい。かといって道路を上げるには常磐線が邪魔になる。
ちょうど日暮里の尾久橋通りが、上空の京成と地上の常磐線に邪魔され地下を通らざるを得ないのと同じだ。
14:16
上空の地下鉄日比谷線の下を通ると跨線橋。
東を見下ろせば広大な貨物基地が広がる。
そう、今回の目的はJR貨物の隅田川駅。
2021グーグル
14:18
泪橋にはいかず、東の脇道に入って隅田川駅の周囲に沿って歩く。
JR貨物 隅田川駅
表札があるから、JRの事務所かと思えば、社宅のような雰囲気。
洗濯物ものが干してある部屋もあるが、多くは空いている感じ。
夜間業務が多いだろうから住居は職場に近いほうがいい。
14:20
ところどころ中が見える。
よく見るコンテナを積んだトラックと、かなたのタワーマンション。
14:22
隅田川駅の反対側に目を転ずると、
とうきょう荘は「全室テレビ付き」、旅館黒部は「冷暖房完備」、旅館はるなは「全室カラーテレビ」を看板に掲げる。一泊2100円から2200円。
泪橋・山谷の安宿街から連続しているのだろう。
東邦電気工業の車が多い。鉄道電機の会社。
ビルはIPC隅田川。飯田町ペーパーセンターの略。
かつて東京への鉄道貨物ターミナルは東西南北に両国、汐留、飯田町(お茶の水と飯田橋の間)、秋葉原、隅田川だった。1971年、紙専用列車の到着基地が新聞、出版業界も近い飯田町貨物駅に作られた。それがIPCである。しかしその後、新聞社の工場が郊外に移転したことなどから飯田町のメリットはなくなり、1999年、IPCは新座と隅田川に移転した。
14:25
貨物ターミナルには当然運送業の拠点が並ぶ。
クロネコヤマト運輸はこの道沿いにコンテナ支店もあったが、こちらは駅側に壁が開いておらず、完全に普通のトラック―トラックの運送拠点のようであった。
人がほとんどいない。
14:27
佐川急便は道路の向こう側。完全にJR貨物と離れている感じ。
ベルトコンベアーの上を荷物が動いていた。
14:31
ひたすら東まで歩いて隅田川駅が途切れると、マンション林立。
かつては隅田川駅は名前通り隅田川まで続いていた。
トラックのない時代は荷車でなく船で都心まで運んだ。
東日本、北日本の貨物は旅客ターミナルの上野駅ではさばききれず、貨物専用駅として明治23年(1890)秋葉原駅、明治29年(1896)に隅田川駅を開設した。
北日本からの荷物だから、赤羽から南下した貨車は上野に向かわず、田端から枝分かれして東へ行き、都心への輸送に便利な隅田川べりに作ったわけだ。
(ちなみに飯田町、汐留、両国も線路のそばまで運河が掘られた)
1966年ころ
昭和40年代まで線路の脇には運河が掘られている。
マンション群と貨物駅の間の道路はかつての運河だったことがわかる。
その道を北に、すなわち貨物駅を左に見て歩く。
14:32
建物が切れたところから線路が見えるかな~と思ったら、コンテナでふさがれていた。
貨車のコンテナって中身が入っているのだろうか?と思うことがある。
大宮駅などで長い貨物列車が通過するとき、わずか数個のコンテナしか乗っていないことがある。それもスカスカだったりして。トラック輸送が主となり、ここらに積んであるコンテナも廃棄物かもしれない、なんて思う。
ようやく見えた。
船への積み替えのための運河は埋められて、トラック、フォークリフトなどが通る。
14:34
縮小してもまだ広すぎると思われたりして。
14:36
橋場橋という交差点
台東区の地名、橋場はここから大分遠い。実際墨田川右岸のこの一帯を橋場町といった。
橋のある場所から橋場といい、その橋がなくなって地名だけ残り、新たにかけられた橋が「橋場橋」だったのだろうか。この運河にかけられた「橋場橋」は1971年廃止になった。
この地点から西へ線を引けば、隅田川駅構内を、魚の干物を背骨で分けるように、南北に二分する。
さて、隅田川駅と常磐線のことである。
上野発の常磐線は、日暮里を出ると北西から南東へ、アピンカーブのように折れ曲がる。
なぜか?
田端から枝分かれする貨物線と、ヘアピンカーブの常磐線
そもそも常磐線は石炭輸送のためだった。
当時は自動車がなかったから輸送は荷馬車か船。
また勤め人は郊外に住まないし、旅行もめったにしないから、鉄道は旅客よりむしろ貨車の時代だった。鉄道は生糸や米、石炭などを地方生産地から都会の消費地や港に運んだ。
常磐線は1889年(明治22年)に水戸鉄道が友部- 水戸間を開業(いまの水戸線)。
1895年には土浦まで南下した。
1896年(明治29年)、日本鉄道により田端 - 土浦間が開通(土浦線)。
それまで船に頼っていた常磐炭田の石炭を直接、消費地に送れるようになった。
田端に来た貨車はそのまま山手線の巣鴨経由で新宿、品川、東海道線に送られた。
(当時は田端から南下しても上野で線路がきれていた。)
もちろんこの年にできた隅田川駅も石炭の貯蔵、発送基地となった。
一方、上野から水戸、仙台に向かう旅客列車も運行されたが、もともと線路が上野発として作られていないから田端でスイッチバックした。三河島からヘアピンカーブで日暮里まで線路が敷かれたのは、日露戦争中の1905年(明治38年)4月である。
最初から常磐線が都心から地方に行くよう作られていたら、日暮里、田端など行かずに、水戸街道やつくばエクスプレスのように、日本橋や上野から浅草の北を通って北千住に向かっただろう。
別ブログ
田端からの貨物線
20210511 鉄道によって分断された西日暮里と田端
20210515 田端操車場、上中里の線路地帯を歩いてきた
両国駅と飯田町駅
20210816 両国駅の歴史、航空写真から
20210611 日本橋川5 堀留橋から少年画報社、三崎橋まで
日暮里付近の常磐線
(9月12日追記)
9月11日、墨田区向島に自転車で行く途中、南千住駅前、回向院のそばを通る。
2021‐09‐11 15:24
コツ通りという言葉は今も普通に使われているようだ。
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