2015年6月15日、日本化学品輸出入協会から大阪でセミナーを頼まれた。
講演は午後1時からだったが、指示どおり前日から泊ったので、午前中そっくり空いた。大阪城を34年ぶりに見物したあと(前のブログ)、まだ時間があったので応神天皇陵のある古市古墳群へ行こうと思った。一人だとフットワークが軽い。
急いで大阪城三の丸から出てJR森ノ宮駅から環状線に乗る。
天王寺から藤井寺に行く近鉄の電車が出ている。
10:34 天王寺(大阪阿部野橋駅)発
準急だと2つ目、13分
各駅だと10駅目、20分
で藤井寺駅に着く。大阪中心部から思ったより近い。
藤井寺という名前は長野にいた小学生か中学生のころから知っていた。
大阪で知っていた地名は大阪、堺、藤井寺くらいだったか。
プロ野球近鉄のホームグラウンドであったからだ。
私は西鉄のファンだったからパリーグのほうが詳しかったかもしれない。
藤井寺球場は1928年5月に竣工。1924年(干支は甲子)に阪神が建設した甲子園大運動場が全国中等学校野球大会の舞台として人気を博していたことから、大阪鉄道(今の近鉄)が最初から野球場として作った。
ちなみに、翌1929年に阪神は張り合ったのか、甲子園を大運動場から球場へ改修し、外野に芝を張り、アルプススタンドを増設した。
大鉄がプロ野球団を持っていなかったこともあり戦前は主にアマチュア野球で使われた。
大鉄は関急をへて1944年に近鉄となり、1949年の2リーグ分裂時に自前の球団を創設、藤井寺は1950年から近鉄パールス(後の近鉄バファローズ)の本拠地となった。
しかしナイター設備がなかったため、デーゲームしかできず、平日は日本生命の野球場(日生球場)を借りた。
長野にいたころから、近鉄が主催する3連戦は日生と藤井寺(西鉄は平和台と小倉)となっていたが、その理由が今わかった。
また収容人数も少なく、1979年、80年と優勝したときも日本シリーズ(相手はともに広島)は南海の大阪球場を借りた。
ナイター照明建設は近隣住民の同意が得られず、やっと設置されたのは1984年だった。
しかし1997年に大阪ドームが完成、本拠地はそちらに移転、藤井寺は二軍の本拠地となった。
さらに2004年近鉄はオリックスに吸収合併され、2005年1月、球場は閉鎖。
2006年2月から8月にかけて解体工事が行われ、約77年余りの球場の歴史を終えた。
さっそく駅について跡地を見に行った。
藤井寺球場は駅から西に歩いてすぐそば。敷地の北半分は四天王寺学園、南側は大型マンションになっていて、駅に近いほうの道路わきに記念碑が立っていた。
大阪のスーパーを覗きながら、駅のほうに戻り、東へ通り過ぎると葛井寺一番街というアーケード商店街があった。
途中でアーケードの破れ目のようなところがあり、お寺があった。
葛井寺とある。
11:09
葛井寺のフジ
クズイデラがなまって藤井寺になった、なんてことはないだろうな。
などと思ったら、葛井寺はずばりフジイデラと読むらしい。
しかし葛と藤は別の植物である。
やはりなまっているうちに字が変わったのだと思いたくなる。
11:11
なかなか立派なお寺で、国宝(乾漆千手観音坐像)もあったことは後で知った。
しかし、このときはどこにもあるようなお寺より、普段目にすることのない古墳へ急いでいた。
11:17
藤井寺西幼稚園
通りがかりにたまたま目に入った。園内に古墳が見える。
子どもの遊び場になっているところがすごい。
さらに南に歩くと変わった形の建物があった。
11:19
藤井寺市生涯学習センター
アイセルシュラホールは古代の船の形をしている。
船が浮かんでいるように濠を掘ったたのだろう。
船でなく単純に古代の住居を模したなら、苦労して池など掘らずに済んだのに、とは余計なおせっかいである。
アイセルシュラはActivity、Information、Consultation、Exchange、Learningの頭文字を並べたアイセルと古墳時代の巨石運搬用ソリ「修羅」をくっつけたという。
しかしふつうは、どうしてもシュラを使いたければSYULAのなかにSenior, Young, Utopia, Activity, Learning などをいれるべきだし、船でなくてソリならば池を掘る必要もないではないか。
11:20
アイセルシュラホールの前に古市古墳群の全体の絵地図があった。
藤井寺市、羽曳野市にまたがる古墳群である。
東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、応神天皇陵など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基、うち20基が国の史跡)が点在する。
そのうち、27基が宮内庁により天皇陵(8基)・皇后陵(2基)・皇族墓(1基)・陵墓参考地(1基)・陵墓陪冢(15基)に指定されている。
天皇陵とは14仲哀、15応神、19允恭、21雄略、22清寧、23顕宗、24仁賢、27安閑 である。
まずはじめに仲哀天皇陵に行こう。
すぐそばをぐるっと回りたいため、来た道を戻った。
先ほど東側を通った藤井寺西幼稚園の西側にまわると正門から園内古墳がよく見えた。
11:24
藤井寺西幼稚園正門
墳丘は鉢塚古墳という。
11:27
仲哀天皇陵の西堀
11:30
仲哀天皇陵 西南角
11:32
天皇陵だから幼稚園の遊び場とは違って、きれいに整備され、ナンビトも近づけない。
しかし、現在、ウィキペディアなどでは仲哀天皇陵ではなく「岡ミサンザイ古墳」と呼ぶらしい。地図でも岡ミサンザイ古墳のあとにカッコ内で(伝・仲哀天皇陵)とある。第14代天皇で応神天皇の父とされるが、神話時代で実在性が乏しいため、仲哀天皇陵と呼ばないことには合理性がある。我々が学校で習った仁徳天皇陵も、いまは大仙陵古墳と呼ばれる。
古墳という実在するものと神話という架空の人物を結合させてはいけない、と学会かどこかで決めたのだろうか。まあ、それもわかる。
でも私が学校で教わったころも、実在性はないと承知しながら○○天皇陵としていた。そのほうが分かりやすかったから。
そんなことを思いながら本命の応神天皇陵に急ぐ。
今は何と呼ばれているか知らないが。
11:45
急ぎ足で住宅街を歩いていくと脇に小山と標柱があった。
まさに犬も歩けば棒に当たる。
今となっては写真を見ても分からないので画像検索した。サンド山古墳、
標柱は「應神天皇恵我藻伏岡陵倍塚 宮内庁」とあるらしい。
さらに先を急ぐと国道170号線(大阪外環状線)という広い道路にぶつかり、渡ると応神天皇陵の濠に出た。
11:49
仲哀天皇陵のように水をたたえてはいなかった。戦時中は水田になったかもしれない。
応神天皇陵は、いま誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま)というらしい。
11:52
応神天皇陵 正面
鳥居のそばまで行く時間はなし。
講演に遅れるわけにいかないから一目見て反転、駅に急がねばならない。
ここからは藤井寺駅と東の土師ノ里駅がほぼ等距離にある。
土師ノ里のほうへ行けば途中に応神天皇皇后仲姬・仲津山陵など、大きな古墳が途中にある。しかし、道が分からないし、同じ電車なら藤井寺のほうが2分遅く発車するだろう。電車の本数も急行の止まる藤井寺より少ないかもしれない。
大事をとって藤井寺に戻ることにした。しかし意外と遠く、いまグーグル地図を見れば最短で1.7 km 24分だが、当時はスマホはもっておらず、実際歩いたのは来た道を戻る2.2km 32分のコースだった。この日は太陽は出ていなかったが暑く、急ぎ足だったから大汗かいた。
なんとか藤井寺12:23発の電車に乗ったから、ぎりぎりだった。
天王寺で急いで地下鉄に乗り換え、谷町六丁目12:51着。
講演会場の薬業年金会館は地下鉄駅に隣接したビルだったが、主催者はやきもきしたことであろう。
JCTA講演「世界史を変えた化学物質(3 )~フェノールとプラスチック時代の幕開け~」という話をした。
講演が終わるとまだ明るかったが、もう一度古市古墳群に戻ろうというほど熱心でもなく、
新大阪15:43、始発のこだまで読書しながら、19:46東京駅着。
JCTAの講演は今年で3回目であったが、聴衆の評判がいまいちだったのか、これが最後となった。
ちなみに、古市古墳群といっしょに2019年世界遺産となった百舌鳥古墳群は、数としては古市より少なく現存44基(国史跡として19基)。宮内庁によって3基が天皇陵(16仁徳、17履中、18反正)に、2基が陵墓参考地に、18基が陵墓陪冢に治定されている。