2025年6月22日日曜日

藤井寺球場跡地から古市古墳群の応神天皇陵まで

2015年6月15日、日本化学品輸出入協会から大阪でセミナーを頼まれた。

講演は午後1時からだったが、指示どおり前日から泊ったので、午前中そっくり空いた。大阪城を34年ぶりに見物したあと(前のブログ)、まだ時間があったので応神天皇陵のある古市古墳群へ行こうと思った。一人だとフットワークが軽い。

急いで大阪城三の丸から出てJR森ノ宮駅から環状線に乗る。

天王寺から藤井寺に行く近鉄の電車が出ている。

10:34 天王寺(大阪阿部野橋駅)発
 準急だと2つ目、13分
 各駅だと10駅目、20分
で藤井寺駅に着く。大阪中心部から思ったより近い。

藤井寺という名前は長野にいた小学生か中学生のころから知っていた。
大阪で知っていた地名は大阪、堺、藤井寺くらいだったか。
プロ野球近鉄のホームグラウンドであったからだ。
私は西鉄のファンだったからパリーグのほうが詳しかったかもしれない。

藤井寺球場は1928年5月に竣工。1924年(干支は甲子)に阪神が建設した甲子園大運動場が全国中等学校野球大会の舞台として人気を博していたことから、大阪鉄道(今の近鉄)が最初から野球場として作った。
ちなみに、翌1929年に阪神は張り合ったのか、甲子園を大運動場から球場へ改修し、外野に芝を張り、アルプススタンドを増設した。
大鉄がプロ野球団を持っていなかったこともあり戦前は主にアマチュア野球で使われた。
大鉄は関急をへて1944年に近鉄となり、1949年の2リーグ分裂時に自前の球団を創設、藤井寺は1950年から近鉄パールス(後の近鉄バファローズ)の本拠地となった。

しかしナイター設備がなかったため、デーゲームしかできず、平日は日本生命の野球場(日生球場)を借りた。
長野にいたころから、近鉄が主催する3連戦は日生と藤井寺(西鉄は平和台と小倉)となっていたが、その理由が今わかった。
また収容人数も少なく、1979年、80年と優勝したときも日本シリーズ(相手はともに広島)は南海の大阪球場を借りた。

ナイター照明建設は近隣住民の同意が得られず、やっと設置されたのは1984年だった。
しかし1997年に大阪ドームが完成、本拠地はそちらに移転、藤井寺は二軍の本拠地となった。
さらに2004年近鉄はオリックスに吸収合併され、2005年1月、球場は閉鎖。
2006年2月から8月にかけて解体工事が行われ、約77年余りの球場の歴史を終えた。

さっそく駅について跡地を見に行った。
藤井寺球場は駅から西に歩いてすぐそば。敷地の北半分は四天王寺学園、南側は大型マンションになっていて、駅に近いほうの道路わきに記念碑が立っていた。

大阪のスーパーを覗きながら、駅のほうに戻り、東へ通り過ぎると葛井寺一番街というアーケード商店街があった。
途中でアーケードの破れ目のようなところがあり、お寺があった。
葛井寺とある。
11:09
葛井寺のフジ
クズイデラがなまって藤井寺になった、なんてことはないだろうな。
などと思ったら、葛井寺はずばりフジイデラと読むらしい。
しかし葛と藤は別の植物である。
やはりなまっているうちに字が変わったのだと思いたくなる。

11:11
なかなか立派なお寺で、国宝(乾漆千手観音坐像)もあったことは後で知った。
しかし、このときはどこにもあるようなお寺より、普段目にすることのない古墳へ急いでいた。

11:17
藤井寺西幼稚園
通りがかりにたまたま目に入った。園内に古墳が見える。
子どもの遊び場になっているところがすごい。

さらに南に歩くと変わった形の建物があった。
11:19
藤井寺市生涯学習センター
アイセルシュラホールは古代の船の形をしている。
船が浮かんでいるように濠を掘ったたのだろう。
船でなく単純に古代の住居を模したなら、苦労して池など掘らずに済んだのに、とは余計なおせっかいである。

アイセルシュラはActivity、Information、Consultation、Exchange、Learningの頭文字を並べたアイセルと古墳時代の巨石運搬用ソリ「修羅」をくっつけたという。
しかしふつうは、どうしてもシュラを使いたければSYULAのなかにSenior, Young, Utopia, Activity, Learning などをいれるべきだし、船でなくてソリならば池を掘る必要もないではないか。
11:20
アイセルシュラホールの前に古市古墳群の全体の絵地図があった。
藤井寺市、羽曳野市にまたがる古墳群である。

東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、応神天皇陵など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基、うち20基が国の史跡)が点在する。

そのうち、27基が宮内庁により天皇陵(8基)・皇后陵(2基)・皇族墓(1基)・陵墓参考地(1基)・陵墓陪冢(15基)に指定されている。

天皇陵とは14仲哀、15応神、19允恭、21雄略、22清寧、23顕宗、24仁賢、27安閑 である。

まずはじめに仲哀天皇陵に行こう。
すぐそばをぐるっと回りたいため、来た道を戻った。
先ほど東側を通った藤井寺西幼稚園の西側にまわると正門から園内古墳がよく見えた。
11:24
藤井寺西幼稚園正門
墳丘は鉢塚古墳という。

幼稚園から少し南に歩くと、大きな古墳というより池に出る。
11:27
仲哀天皇陵の西堀
11:30
仲哀天皇陵 西南角
11:32
天皇陵だから幼稚園の遊び場とは違って、きれいに整備され、ナンビトも近づけない。

しかし、現在、ウィキペディアなどでは仲哀天皇陵ではなく「岡ミサンザイ古墳」と呼ぶらしい。地図でも岡ミサンザイ古墳のあとにカッコ内で(伝・仲哀天皇陵)とある。第14代天皇で応神天皇の父とされるが、神話時代で実在性が乏しいため、仲哀天皇陵と呼ばないことには合理性がある。我々が学校で習った仁徳天皇陵も、いまは大仙陵古墳と呼ばれる。

古墳という実在するものと神話という架空の人物を結合させてはいけない、と学会かどこかで決めたのだろうか。まあ、それもわかる。
でも私が学校で教わったころも、実在性はないと承知しながら○○天皇陵としていた。そのほうが分かりやすかったから。

そんなことを思いながら本命の応神天皇陵に急ぐ。
今は何と呼ばれているか知らないが。
11:45
急ぎ足で住宅街を歩いていくと脇に小山と標柱があった。
まさに犬も歩けば棒に当たる。
今となっては写真を見ても分からないので画像検索した。サンド山古墳、
標柱は「應神天皇恵我藻伏岡陵倍塚 宮内庁」とあるらしい。

さらに先を急ぐと国道170号線(大阪外環状線)という広い道路にぶつかり、渡ると応神天皇陵の濠に出た。

11:49
仲哀天皇陵のように水をたたえてはいなかった。戦時中は水田になったかもしれない。
応神天皇陵は、いま誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま)というらしい。
11:52
応神天皇陵 正面
鳥居のそばまで行く時間はなし。
講演に遅れるわけにいかないから一目見て反転、駅に急がねばならない。

ここからは藤井寺駅と東の土師ノ里駅がほぼ等距離にある。
土師ノ里のほうへ行けば途中に応神天皇皇后仲姬・仲津山陵など、大きな古墳が途中にある。しかし、道が分からないし、同じ電車なら藤井寺のほうが2分遅く発車するだろう。電車の本数も急行の止まる藤井寺より少ないかもしれない。

大事をとって藤井寺に戻ることにした。しかし意外と遠く、いまグーグル地図を見れば最短で1.7 km 24分だが、当時はスマホはもっておらず、実際歩いたのは来た道を戻る2.2km 32分のコースだった。この日は太陽は出ていなかったが暑く、急ぎ足だったから大汗かいた。

なんとか藤井寺12:23発の電車に乗ったから、ぎりぎりだった。
天王寺で急いで地下鉄に乗り換え、谷町六丁目12:51着。
講演会場の薬業年金会館は地下鉄駅に隣接したビルだったが、主催者はやきもきしたことであろう。

JCTA講演「世界史を変えた化学物質(3 )~フェノールとプラスチック時代の幕開け~」という話をした。

講演が終わるとまだ明るかったが、もう一度古市古墳群に戻ろうというほど熱心でもなく、
新大阪15:43、始発のこだまで読書しながら、19:46東京駅着。

JCTAの講演は今年で3回目であったが、聴衆の評判がいまいちだったのか、これが最後となった。

ちなみに、古市古墳群といっしょに2019年世界遺産となった百舌鳥古墳群は、数としては古市より少なく現存44基(国史跡として19基)。宮内庁によって3基が天皇陵(16仁徳、17履中、18反正)に、2基が陵墓参考地に、18基が陵墓陪冢に治定されている。


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2025年6月20日金曜日

ジャガイモ、玉ねぎの植え付けから収穫まで

 まだ寒さの残る3月1日、母の一周忌で長野の実家に来た。

2025-03-01
北信五岳、まみくとい
長野電鉄の車窓から。

読経、食事会が終わり、実家でお茶を飲み、物置のジャガイモと玉ねぎをもらって帰京した。
2025-03-02
「こんなの食べられないから、もっと良いもの持ってけ」
と弟は言う。しかし、畑に捨てるという、発芽したもの、小さいものばかり選んでもらってきた。
捨てるというともったいなくて何でももらってしまう。
とくに種苗にするつもりだったので丁度いい。
右の大きなタマネギはスーパーで買った、215グラム。比較用に並べた。
板の幅は18センチ。

2025-03-02
ジャガイモも同様、小さくて発芽したものを選んでもらってきた。
左はスーパーで買った食用の4個、1個平均 110グラム。

2025₋03₋10
長野のジャガイモは2番畝(80x335 cm^2)に 3x12=36個うめる。
盛り土しなくていいように穴を掘って窪地に植えた。

春は進む。
千駄木菜園も桜はなくなったが、柿とロビンの新芽が美しい。
03₋30
6番畝(90x440)にもジャガイモを埋めた。
こちらはスーパーの食用芋や種芋などを2分の1から3分の1に切って埋めた。
あわせて39片。
こちらも過密すぎる気がしないでもない。
03₋30
早めに埋めた2番畝のジャガイモの芽が出た。
左、3番畝は実生の玉ネギと、長野の玉苗玉ねぎを植えてある。
04₋17
3番畝の端で発芽させていた長野からの玉ねぎ。
一玉から芽が複数出るが、球を大きくするにはこの段階で切断する。

04₋17
包丁で切断後の玉ネギ苗
分断したものを植えても、さらに分けつしていくものもある。

春は進み初夏になった。
05₋09
2番畝のジャガイモはタバコモザイクウィルスにやられた。
長野からの発芽小芋を2番畝に埋めたということで、一昨年の2023年と全く同じ。
長野の食用芋がダメなのか、2番畝(の生物)にウィルスが残っていたのかは不明。
05₋09
葉が枯れていく。

05₋09
3番畝の実生タマネギも育ってきた

6番畝のジャガイモ
2番畝はモザイク病にやられたが、こちらは順調。

2025₋05₋15
2番畝のジャガイモ。
モザイク病はさらに進み、健全だった株もどんどんやられていく。
教科書には病変を見つけたら葉をとって畑の外に出せとある。
しかし無精して、何とか持ち直せばいいな、と放置したらさらに広がった。
(葉を外に出しても広がったかもしれないが)
05₋23
惨憺たる2番畝
05₋23
同じ日の6番畝は対照的に順調、期待が膨らむ。
左は5番畝のキャベツ。この日、19株のうち7個目をとった。

6月に入り2番畝は里芋を植えたいのでそろそろ片付けたい。
06₋08
2番畝ジャガイモ。掘る直前のようす

06₋08
2番畝(80 x 335 ㎝^2)の全部を使って、36株でたったこれだけ。
重さを測る気も起きない。

06₋13
1週間後の6番畝も、葉が生理的に枯れてきた。
90 x 440 cm^2 の8割くらい使って39株。

06₋13
2番畝よりマシだが、満足いかない。
06₋13
小さいもの(右)は除いて測ると
6.77kg 
2024年4番畝、5.4キロ
2023年2番畝、2.8キロ(モザイク病)
2022年1番畝3分の1、芋でなく芽だけ埋めた
よりはマシだが。

さて、玉ねぎ。
06₋17
収穫直前の玉ネギ。
3番畝( 70 x 365 cm^2)の8割くらい使った。

06₋18
紫玉ネギのほうはまだ茎が立っているが全部収穫。
重さは面倒なので測らず。

葉物の白菜、キャベツ、大根、レタスなどは取れすぎて腐ったりして困るが、ジャガイモ、玉ねぎは保存がきくから全部、家で食べようと思う。
06₋18
3番畝は玉ねぎを収穫してからすぐサツマイモを植えた。
教科書では2週間前から石灰、肥料などを入れて土づくり、
などと書いてあるが、千駄木菜園はそんな面倒なことをしない。
土地に余裕がないから空いたらすぐ次のものを植える。
右の4番畝はトウモロコシと人参。

ジャガイモの2番畝は発泡スチロールで芽出しをしていた里芋を、すぐ植えた。
休む間もない、忙しい菜園だ。

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2025年6月18日水曜日

大阪城 総構え三の丸の範囲と砲兵工廠

最近、ひま老人らしく、城一覧表を作った。

ウィキペディアで「日本の城一覧」という項目があり、そのページでは2046城ほどリストされていた。中世以前の豪族の居館・山城や古代の防塁遺跡、アイヌのチャシなど、影も形もない遺跡も含まれる。

それらすべてをエクセルに入れ、これから訪問したら少しずつ入力できるようにした。

それらのうち今まで行ったことのある城を数えたら、まだわずか89城だった。(いったい死ぬまでにリストはどのくらい埋まるのだろう?)

89のうち、熊本や福岡など昔訪ねた城は写真もないが、携帯電話を持ってからは写真くらい取っていたので、それをブログに整理することにした。

まず大阪城。

2015年6月15日、日本化学品輸出入協会から大阪でセミナーを頼まれ「世界史を変えた化学物質3 ~フェノールとプラスチック時代の幕開け~」という話をした。講演は午後1時からだったが、前日から泊ってくれという指示だったので、午前中そっくり空いた。

京阪天満橋ホテルを8:50に出発。
堀端に出た。

9:10 西外堀と乾櫓
乾(戌亥)、艮(丑寅)、巽(辰巳)はよく聞くが坤(未申、ひつじさる)はあまり聞かないのはなぜか?

大きな城は堀と石垣も立派。

大阪城は久しぶり。
1981年、就職して2か月の工場実習の間、加島の寮に住んでいた。大阪も残り一週間となる5月23日、長野から両親が大阪見物に来て、中の島から大阪城、通天閣などを案内した。

その34年後、2015年6月、西から外堀を渡って大手門の桝形に入った。
いきなり巨石が目につく。

9:21
城内巨石ランキングの5位、4位、8位の石が並ぶ。
小豆島など瀬戸内の島から切り出された花崗岩が多い。
こんなに大きくなくても良いと思うが、コンクリートなどなかった時代、大きければ大きいほど、権力の大きさを示すことができたのだろう。

大手桝形の上は多門櫓。土塀のような櫓である。
多門(多聞)とは仏法僧を四方から守護する四天王の一つ、多聞天(=毘沙門天)から来ていると思いがちだが、「門が多くある」長屋のような櫓という普通名詞である。
本丸をぐるりと内堀と二の丸が同心円状に囲む。
のように見えるが、正式には北、東、南が二の丸で、西は西の丸という。
かつて二の丸は防御、家臣団の詰所など実戦的機能を持っていたが、西の丸は居住・儀礼空間としての性格が強く、堀によって二の丸から分かれていた。
それが、明治以降陸軍の施設が作られるとき、堀が埋められたらしい。

西の大手門から入ると本丸の南側の二の丸を東へ進むことになる。
右の植え込みに石山本願寺跡という柱が立っている。
大阪城は都市化によって平城に見えるが、四天王寺から続く上町台地の北端に建つ平山城である。比高20〜30mあるらしい。「石山」というくらいだから。
城の北東はすぐそばまで淀川が来ていたので、南西側を広くとって総構え(外郭)とした。これが存在したときは全体を三の丸と言ったようだ。
豊臣氏滅亡後は大幅に(4分の1に)縮小し、現在三の丸跡地というと大阪城ホール、大阪城公園などがある北東の一角が思われるが、かつて南は空堀筋、西は東横堀浜筋まで、つまり地下鉄・松屋町駅や谷町六丁目駅の南あたりまで広がっていた。

秀吉は大阪城を築いたが、ずっと居城としたわけではない。
京都の聚楽第や伏見城を本拠地とし、最後も伏見で息を引き取った。

大阪は、1570年から1580年9月まで10年続いた石山合戦の終結後は、丹羽長秀と津田信澄が同地を守備した。安土にいた信長はこの地を高く評価し、将来は大きな城を築く予定だったらしい。
1582年(天正10年)6月本能寺の変のときは、大坂にいた津田信澄は、織田家連枝でありながら妻が明智光秀の娘であったことから疑われ、混乱のなか織田信孝、丹羽長秀らに討たれた。
山崎の戦い後は、池田恒興が大坂に入った。
1583年3~4月の賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉が勝利を収めた後、同年6月、秀吉は恒興を美濃へ移し、大坂を直轄地とした。
すぐさま総奉行・黒田孝高で築城を開始、すべて完成したのは15年後の1598年(慶長3年)、秀吉が死ぬ年である。

最初は本丸から作り始めた。
何もなかった平山に作ったわけでなく、本願寺が立ち退いてから、西方作戦の基地としても使っていたため建造物はあり、秀吉は最初から居城としたようである。
しかし、1585年に秀吉が関白になると京都の聚楽第を着工、完成した1588年には本拠を京都に移した。さらに1592年に伏見城を着工、94年に完成後は本拠とし、最後も伏見で息を引き取った。
すなわち、大阪城に常住していたのは1583~1587、1592~1594とされる。ただし諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていた。

本丸への正面入り口となる桜門に向かって橋を渡る。
門両側の竜石、虎石は巨石だが壁のように真四角で平らなためコンクリートに慣れてしまった現代人には人工物のようで気づかない人も多いだろう。
9:26 
桜門に入る手前
内堀の南西側は空堀になっている。

この居城は天下人の秀吉亡き後、淀君と秀頼が住んだ。
秀吉時代の蔵入れ地220万石(家康は250万石)から摂河泉66万石の一大名に転落しが、豪華絢爛な城は目障りだったのだろう、家康がつぶしにかかる。
大坂冬の陣で攻め潰せなかったため、講和条件の一つとして堀を埋めることが決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す小さな裸城になり、夏の陣で落城した。

(講和条件は内堀のみ埋めるということだったが、徳川方は強引に総構えの掘、中堀を埋めた。をれを見つけた城方の武将が抗議し、やめさせようとしても圧倒的多数の人足たちが「おら知らね」「じゃまだ、どけどけ」と土を投入し続け、城方の数人がなすすべなく現場でおろおろしている様子をドラマで見た。徳川方は最初から全部埋めてしまうつもりだったのだろう。その結果天守閣のすぐそばまで何の防御も無い城となり、夏の陣の武将たちは籠城もできず、野に出て大軍に押しつぶされた)

その後、1620年から2代将軍秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城再築工事が開始された。
藤堂高虎を総責任者とし足かけ9年、三期にわたる天下普請で、各工事期は西国を中心に47~58大名が動員された。

全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積み、秀吉時代の貴重な巨石も再利用されず地中に埋められてしまったという。まさに埋めて封じた。

完成後、城郭の面積は豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、天守は高さも総床面積も豊臣氏のそれを超え、徳川家の西国支配の拠点となった。幕末、京大阪で活動する尊王攘夷の朝廷、薩長らに対応するため、将軍家茂や慶喜が大阪城に入ったことはまさにこの城の存在目的に沿うものである。
幕府直轄の城であったから城主は徳川将軍自身であり、譜代大名から代々の大阪城代が選ばれた。
天主は1665年の落雷で焼失、再建されなかった。

桜門をくぐると本丸。
右手に戦前の鉄筋コンクリートの建物が残る。
9:30
旧陸軍第四師団司令部庁舎

明治陸軍は明治元年2月(1868年3月)明治政府直属の軍隊として御親兵が創設されたのを始まりとする。
明治4年4月(1871)には 東山道鎮台(石巻)、西海道鎮台(小倉)の設置が布告されたが、4か月後には東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台となり、2年後の1873年には 名古屋鎮台、広島鎮台を設置して6鎮台となった。各鎮台は軍管区を持ち、それは反乱鎮圧や徴兵の地区割となった。

当初は中央集権国家による地方の治安維持が主目的でだったが、不平士族の反乱も終わり、海外派兵も視野に入ると、鎮台という静的なものより機動性のある師団という名称に変わった1888年(明治21年)のことである。日清戦争はこの6個師団で戦った。

大阪城は当初から陸軍の所管することとなり、大阪鎮台もここにおかれた。明治18年には和歌山城二の丸から御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名され、大阪鎮台(後の第4師団)の司令部庁舎として利用された。
今の司令部庁舎は昭和3年、昭和天皇即位記念として大阪城公園、天守閣復興とともに計画・着工されたもので、1931(昭和6)竣工した。
大阪城天守閣
1931年(昭和6年)、博物館「天守閣郷土歴史館」として竣工した復興天守である。幸い1945年の空襲による焼失は免れた。

2015年はまだオーバーツーリズムが問題になっていない頃だったが、中国からかアジア人ばかりだった。
大阪城・上田城
友好城郭 提携記念碑
平成18年(2006)、両城の管理者である二人の市長の名前がある。
姉妹都市の提携ではなく、城である。
都市も城も、規模の点で全く違うのに提携するというのは、よっぽど大阪人は真田信繁(幸村)が好きなんだろう。
今の城は太閤ではなく徳川の城だし、上田も真田が松代に移封され、仙石忠政が築城、江戸時代を通して仙石氏、藤井松平氏の城であったが、そんなことは関係なく、大阪城=秀吉、上田城=真田幸村なのである。

9:38
天守閣の西から内堀を隔てて西の丸を見る。

9:39
ふつう空堀の壁は土塁が多い。
石垣で水がないのは珍しい。

天守閣の裏(北)にまわる。
そこは本丸の中でも一段低くなった山里曲輪。
夏の陣で天守炎上の際、天守から逃れてきた淀君と秀頼が自刃した場所とされる記念碑がある。もちろんここは徳川期大坂城のため正確にはこの地下数mに眠る「豊臣期大坂城の山里曲輪」であるが、堀や曲輪の場所は大きくは変わっていないとされる。
9:47
極楽橋で内堀を渡り、本丸から二の丸へ出る。
天下普請だけあり、どこも石垣は立派。

細いドーナツのような二の丸を青屋門からでて、三の丸に入った。
大阪城ホールや野球場がある。ここは戦前、陸軍砲兵工廠があった。

大阪砲兵工廠の範囲

大村益次郎の建言によって1870年、兵部省造兵司として設置され、1872年大砲製造所、1875年(明治8年)の組織改正で砲兵第二方面内砲兵支廠(東京は第一方面内本廠)と改称された。
その広大な敷地は国鉄の操車場はじめさまざまなものになったが、線路の西は大阪城公園となった。
10:02
三の丸・大阪城公園・記念樹の森
木々だけで何もないのが良い。

このあとJR森ノ宮駅から環状線で天王寺に向かった。
藤井寺にいく。
(続く)


2025年6月1日日曜日

延岡2 チッソの誕生、旭化成と野口遵

 3月27日、飛鳥IIが日向、細島港に入港し、ひとり電車に乗って延岡まできた。

11:19 延岡駅
九州のICカードはSUGOCA(スゴカ)だが、このあたりはまだ有人改札。
駅舎は日向市駅同様、まだ新しい。古い駅舎を見たかったな。

日豊本線の建設はなんとなく小倉から南に伸びていったように思ってしまうが、それは北のほうだけである。大分県佐伯の南、重岡駅から南は、宮崎本線として鹿児島県吉松駅から順次伸びていき、都城(1913)、宮崎(1915)、高鍋(1920)、美々津(1921)と北上してようやく1922年延岡駅が開業した。さらに北に延び、大分県重岡駅とつながって延岡から小倉に出られるようになったのは1923年である。
鹿児島、熊本などと比べ宮崎県の鉄道は遅い。県内で最初の駅が1913年というのは全国で一番遅い。

宮崎ばどげんかせんといかん、という流行語を思い出す。

そもそも延岡は内藤氏7万石の城下町として日向北部の中心都市だった。
廃藩置県で藩の領域だけ延岡県となったが、その直後の再編成(第一次統合)によって、南の佐土原県、高鍋県などと統合され、明治4年(1871)、日向の北半分を占めた美々津県になった。そして1年3か月後、さらに南部の都城県と一緒になって宮崎県ができ、延岡はかつての寒村だった県庁所在地・宮崎から県内で最も遠い、北端の地方都市になってしまった。

さらに明治9年(1876)宮崎は南の鹿児島県に編入されてしまった。明治の顕官を輩出した強大な薩摩に対して、小藩が分立してまとまりがなかった日向は弱かった。明治16年(1883)宮崎県はやっと鹿児島から独立したものの、延岡は力のない県のさらに辺境に位置する町となった。

延岡ばどげんかせんといかん、と思ったかどうか、
戦後は旭化成を中核として県内屈指の工業都市となった。

2006~2007年の北川町、北浦町などとの合併で市域が大分との県境まで広がり人口は11万8千人を数える(2020)。

さて、駅に立ち、まずはバスで延岡城に行ってみた。
(別ブログ)

駅についてから1時間、城山についてから30分も経たないうちに北大手門から出た。
ひとりだと見物も速い。
12:16
城山のふもとに野口遵記念館がある。
遵は法令遵守のジュンだからシタガウかジュンか。

野口遵(したがう)は、旭化成の前身、日本窒素肥料株式会社(現チッソ)の創業者である。延岡は旭化成の企業城下町。
恐らく旭化成がスポンサーとなっていて無料だろうと入ってみた。
12:20
平日でもあり、ほとんど人はいない。
写真左は野口遵を顕彰するギャラリーとなっている。

帰宅後調べたら、記念館の前身は昭和30(1955)年に建設された延岡市公会堂野口記念館である。
旭化成が創業30周年を記念して建て、従業員だけでなく広く延岡市民に対して音楽や舞台芸術などに親しむようにと、当時としては最新の施設を延岡市に寄付した。しかし60年以上たって老朽化がすすんだため、旭化成から30億円の寄付を受け建て替えられたもの。
12:21
ゆったりしたテーブルで女性ばかり何人かお弁当を食べている。
ここは「交流スペース」で使用料は1平米あたり1時間5円、ゆったりした一区画30平米が150円だから安い。しかし何も知らない私はただで座って休憩してしまった。

戻って野口遵ギャラリーに入ってみた。
12:24
野口遵(1873- 1944)は明治6年、金沢の士族の家に生まれた。
生後20日で東京に移転、東京府中学(現日比谷高)、第一高等中学を経て1896年帝大工学部電気工学科を卒業した。

郡山電灯、シーメンス東京支社を経て1902年、29歳の時、宮城県三居沢の宮城紡績電灯で、藤山常一(1898東大電気工学科を卒業)とカーバイド製造事業を始めた。

当時の電灯会社というのは電灯の装置を販売するのでなく、電力会社であり、水力発電所を作って電気を供給する会社だった。シーメンスは発電タービンを販売、設置していた。
そしてカーバイトは炭素と陽性元素の化合物の総称だが、一般には炭化カルシウムすなわちカルシウムカーバイトCaC2のことで、アセチレンガスの原料となる。CaC2 +2H2O → C2H2 + Ca(OH)2 である。

さて、カーバイトの合成は CaO+3C→CaC2+CO だが、製造には大量の電力を必要とするため(電気炉でコークスと生石灰を2000度に加熱)、そのため発電所を必要とした。日本では製造できずほとんどを輸入に頼っていた。
そこで野口は
1906年、33歳の時、鹿児島県の大口に曾木電気(株)を設立。曽木水力発電所を開いた。
1907年、日本カーバイド商会を設立、熊本県水俣でカーバイドの製造を始めた。
1908年、曾木電気と日本カーバイド商会を合併して日本窒素肥料株式会社を設立した。
後のチッソである。

ここで、なぜ電気とカーバイトから窒素肥料だったか?

カーバイドは窒素と反応し、カルシウムシアナミドを生じ(CaC2+N2→CaCN2+C)、これは青酸CNの原料となっていた。ところが1901年、カルシウムシアナミドは土壌中でアンモニアに変わることがわかった。つまり窒素肥料としての新しい用途が生まれた。それまでの窒素肥料はチリ硝石(NaNO3)が原料だったが、世界人口が増えるにつれ枯渇、すなわち食糧危機が心配されていた。
日本ではカルシウムシアナミドを石灰窒素と命名し、1906年に優れた肥料効果が国内でも発表された。この年、1906年からイタリアで肥料として工業生産も始まり、1907年には日本もそれを輸入した。

曾木電気の電力によるカーバイト製造を軌道に乗せていた野口が注目するのは当然であった。1908年に設立した日本窒素肥料株式会社は、出資の関係から大阪商船社長の中橋徳五郎が会長となり、野口は専務、宮城県以来の藤山常一は常務となり、1909年から水俣工場で石灰窒素の製造を始めた。これは世界的に見てかなり早い展開といえる。
翌1910年には石灰窒素から硫安を作るため大阪に工場を建設した。
石灰窒素が普及し始めたころ、正しい使用法が伝わらず、植物に薬害が出た。そのため硫安に変換したのだが苦肉の策であった。

子どものころ、父親が畑に石灰窒素を蒔いていたのを覚えている。主成分のカルシウムシアナミドは白色だが、炭素が混じっているから灰黒色で、独特の臭いがした。毒だから吸うなと言われた。実際有毒である。
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さて、延岡である。
1920年、野口47歳のとき、延岡に五ヶ瀬川電力(株)を設立、1925年発電所が完成した。
1923年には延岡工場が完成、ここでカザレ―法によるアンモニアの合成を開始した。

世界では1906年にドイツのハーバー、ボッシュが空気中の窒素と水素を直接反応させアンモニアを作ることに成功した。1913年にはボッシュ率いるBASFの研究陣が工業レベルでの合成に成功。これは世界中の農業生産高をあげたということで、人類が成し遂げた発明のうち最大のものの一つである。
その後の第一次大戦でドイツが負けたため、賠償金のほかに知的財産も戦勝国に渡ることになり、特許や技術が無償供与の対象となった。その結果、ハーバー・ボッシュ法が普及し、その改良が各国で進んだ。イタリアではカザレー法が生まれ、これは750気圧という高圧(ハーバーボッシュ法は150₋200気圧)だから、N2+3H2→2NH3という反応は右に進みやすく、収率が良い。

空気中の窒素からアンモニアを作る方法はハーバー・ボッシュ以前にアーク放電法があり、野口も石灰窒素合成成功のあと1913年に導入したが、これは大量の電気を消費した。そこで、このカザレー法の特許を買って延岡でアンモニア合成を始めたのである。

空気中の窒素分子は安定だが、アンモニアにすれば容易に他の窒素化合物に変換できる。もちろん肥料は人類にとって最も重要なものだが、硝酸に変換すれば爆薬の原料になる。これは人類よりも国家にとって重要なものだった。
さらにはセルロースを硝酸と反応させると絹のような光沢ある繊維となる(人造絹糸、ニトロセルロース)。またセルロースを銅アンモニアに溶かし、そこから繊維を再生させると吸湿性の優れたベンベルグ繊維ができる。

野口は1922年大津市膳所で旭絹織株式会社を、1929年延岡に日本ベンベルグ絹糸株式会社、1931年延岡アンモニア絹糸株式会社を設立した。1933年3社は合併し旭ベンベルグ絹糸株式会社となる。また爆薬については、硝酸を利用して1930年に延岡近郊の東海村に日本窒素火薬株式会社が設立され、1943年には旭ベンベルグ絹糸と合併し、日窒化学工業株式会社という大会社となった。
(これらは戦後の旭化成の母体となる。旭は旭絹織からきているが、膳所の近くに旭将軍木曽義仲の墓があるからという。日が昇る延岡日向の会社名にふさわしい)。

戦後石油を中心とした石油コンビナートが各地にできたが、これら延岡の会社群は窒素コンビナートとでも言おうか。肥料部門も加えた野口の会社群は日窒コンツェルン、野口財閥と呼ばれた。
野口財閥は戦後解散させられたが、その後継会社が新日本窒素肥料(のちのチッソ)、旭化成、積水化学、信越化学などである。
現在の延岡市の旭化成事業所

旭化成というと宗兄弟や谷口のマラソンだが、私はもう一つ思い出がある。
50年以上前の1970年代前半、高校生のころクラブ活動が18時に終わったが、飯山線は電車がなく、乗る電車は決まっていたから家に着くのは必ず19:35だった。月曜から金曜まで毎日、「クイズグランプリ」をやっていて「文学歴史の50」などという声を聞きながら遅い夕飯を一人で食べ始めると、19:45から「スター千一夜」が始まる。このゴールデンタイム15分の帯番組は旭化成が単独でスポンサーになっていて、おしゃれなCMソングが毎晩流れていた。

「旭化成のやってる事はカシミヤタッチのカシミロン、さわやかさわやかベンベルグ、エステル、ナイロン、アンダリア、ミタス、そのほかエトセトラ~。
(2番) アサヒカセイのやってる事は、せせせの石油をチキチキコン、カメノコひねってぱぱぱのぱ、たてて走って、すどんどん、明日のおひさまワチニンコ~」

旭化成はコンツエルンの繊維部門が独立したのだが、戦後は多角化し、2番の歌詞にあるように、サランラップなど高分子やエレクトロニクス、医薬品にも進出した。富久娘の東洋醸造なども傘下に持ち、ここ自体がコンツエルンの様相を呈した。
ノーベル賞を受賞した吉野彰氏は旭化成の研究員で定年退職した後も2020年まで名誉フェローとして在籍した。受賞対象がリチウム電池だったことでも旭化成の多角化がわかる。
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ロビーに野口遵の像があった。
裏口から入って正面玄関から出ることになった。
加賀藩の士族の家に生まれ、明治の東大工学部で化学を学び、実業界で成功したというと高峰譲吉を思わせる。
野口というと子供が読む伝記の影響もあってほとんどの人は野口英世を思うが、その業績と後世への影響の点では野口遵のほうが大きいと思う。

12:34
野口記念館正面

廃藩置県後眠っていた延岡は、1920年の五ヶ瀬川電力(株)設立、1923年の延岡工場の完成で目を覚ました。時を同じくして駅が開業(1922)、日豊本線が開通(1923)した。延岡町・恒富村・岡富村は合併(1930)、市制施行(1933)。これらと歩調を合わせるように日本窒素肥料、日窒化学系の工場が次々と建設され、大正11年(1922)に2万3千人ほどであった人口は、昭和14年(1939年)には9万1千人を数え、宮崎県内最多の人口を有する都市となった。

1951年頃は人口の約半数、市税納入額の3分の2、市議会議員の3分の1が旭化成関係であり、内藤城下町は「企業城下町」となって栄えた。
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野口記念館の向こうに城山。右は延岡市役所。
雨が降ってきたが駅まで歩く時間はある。
急ぎ足で五ヶ瀬川を渡る。
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板田橋を渡り終わって振り返り、城山と延岡市役所を見た。
なぜ野口遵は延岡を選んだか?

この五ヶ瀬川は標高差が大きく発電に適しており、またダムのある山間部から遠くないところに人口の多い平地があって工場建設に適していたということがあろう。主力工場の水俣と同じ九州ということもある。
城山の銅像にもなっている延岡藩最後の藩主、内藤政挙が明治43年(1910)延岡電気所(1924に株式会社化)を設立したことも日本窒素の工場誘致の呼び水になったとされる。
12:43
板田橋からの通りは歩道に屋根がついている。
しかしひと気があまりない。

企業城下町ということは、企業の景気によって町の盛衰が左右されるということだ。旭化成の経営戦略により延岡の比重は次第に小さくなったこと、大消費地から遠いこと、更には化学工業が窒素化学から石油中心となったことから戦前ほどの経済力はなくなり、人口も1982年を境に減少している。
12:47
坂田橋からまっすぐ歩いてくるとアーケード商店街があった。
車が通らないためますますひと気がない。

1つ書き忘れた。
野口コンツエルンの創業会社の日本窒素肥料についてもう少し書く。
1909年から水俣工場でカーバイトから石灰窒素の製造を始めたことはすでに書いた。
1931年水俣工場の技術者らは、カーバイトからできるアセチレンをアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明した。さらにこれらを原料としブタノール、酢酸、酢酸エチル、無水酢酸、酢酸繊維素、酢酸ビニールなどの製品化に成功、社名にある窒素も肥料も離れて総合化学会社に脱皮した。

戦後、財閥解体によって、旭化成などは分離し、新日本窒素肥料株式会社として発足。
1965年、ようやく社名から肥料をとり、かたかなのチッソ株式会社に変更した。

ここでチッソと言えば水俣病である。
この会社は消費者製品を作っているわけではないから一般人はこの公害についてのみ社名を記憶している。

水俣の奇病は1956年公式に確認され、1958年には水俣病と命名された。1968年厚生省は原因を新日本窒素肥料~チッソの工場が出す廃液のメチル水銀と正式に認定した。会社はアセトアルデヒドの合成やアセチレンの付加反応に金属水銀や塩化水銀を触媒として使っていて、廃液にそれらが混じっていた。

私がこれらを学んだのは薬学に進学した1970年代終わりころだろうか。
その後チッソのことは忘れていたのだが、1993年1月、皇太子妃に小和田雅子氏が内定したことで、ちらりとチッソが話題になった。すなわち、雅子さまの母・優美子氏のほうの祖父・江頭豊が水俣病の原因となったチッソの社長、会長を務めたことを問題にした。しかしこれは1962年水俣病問題と労働争議で経営不振に陥っていたチッソへメインバンクだった日本興業銀行から専務として送り込まれたからである。
ちなみに江頭豊の父は江頭安太郎で、海城学園を創立した古賀喜三郎の娘婿である。古賀は薩長土肥のなかで肥前出身者が活躍しないことを嘆き、故郷佐賀出身で最も優秀だった海軍軍人の江頭安太郎に娘を嫁がせ期待した。彼は海兵、海軍大学校ともに首席で卒業し将来の連合艦隊司令長官、海軍大臣間違いなしと言われた逸材だったが中将のとき早世した。また、母方の祖母(すなわち江頭豊の妻)・寿々子は海軍大将・連合艦隊司令長官だった山屋他人の娘である。(このあたりは江藤淳「一族再会」に詳しい)。つまり雅子さまの母・優美子氏の2人の祖父は、二人とも帝国海軍の逸材だった。

チッソは2011年、事業継続会社としてJNC株式会社を設立、チッソは水俣病の補償業務を専業とした持株会社となった。ところでJNCは何の略だろう?
Jはジャパン、Cはケミカルズ、ケミストリー、カンパニーいろいろある。Nはチッソの英語、Nitrogenしか思いつかない。戦前から窒素を離れた総合化学メーカーだったのに今更なおnitrogenにこだわるかと思って、正解をウィキペディアに求めたら、略ではなく、「ジェー・エヌ・シー」が正式社名だという。Japan New Chissoの意味も込められているとか。

延岡発13:24の電車にのった。
線路から旭化成の工場群と紅白の煙突を見たかったのだが、いい町だったな、と地図を見ているうちに次の駅まで行ってしまった。

日向市駅について飛鳥の送迎バスの時間までヒマだったので、土産でも買おうと構内の物産館に行くとレンタサイクルがあった。1日800円。電動は3時間1000円。
はっとして調べたら延岡にも30分ごとに110円というレンタサイクルがあった。坂道もらくらくな電動である。これを使えば旭化成の工場も延岡城西ノ丸も行けた。

(クルーズ船の旅、これで終わり)

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