2025年6月18日水曜日

大阪城 総構え三の丸の範囲と砲兵工廠

最近、ひま老人らしく、城一覧表を作った。

ウィキペディアで「日本の城一覧」という項目があり、そのページでは2046城ほどリストされていた。中世以前の豪族の居館・山城や古代の防塁遺跡、アイヌのチャシなど、影も形もない遺跡も含まれる。

それらすべてをエクセルに入れ、これから訪問したら少しずつ入力できるようにした。

それらのうち今まで行ったことのある城を数えたら、まだわずか89城だった。(いったい死ぬまでにリストはどのくらい埋まるのだろう?)

89のうち、熊本や福岡など昔訪ねた城は写真もないが、携帯電話を持ってからは写真くらい取っていたので、それをブログに整理することにした。

まず大阪城。

2015年6月15日、日本化学品輸出入協会から大阪でセミナーを頼まれ「世界史を変えた化学物質3 ~フェノールとプラスチック時代の幕開け~」という話をした。講演は午後1時からだったが、前日から泊ってくれという指示だったので、午前中そっくり空いた。

京阪天満橋ホテルを8:50に出発。
堀端に出た。

9:10 西外堀と乾櫓
乾(戌亥)、艮(丑寅)、巽(辰巳)はよく聞くが坤(未申、ひつじさる)はあまり聞かないのはなぜか?

大きな城は堀と石垣も立派。

大阪城は久しぶり。
1981年、就職して2か月の工場実習の間、加島の寮に住んでいた。大阪も残り一週間となる5月23日、長野から両親が大阪見物に来て、中の島から大阪城、通天閣などを案内した。

その34年後、2015年6月、西から外堀を渡って大手門の桝形に入った。
いきなり巨石が目につく。

9:21
城内巨石ランキングの5位、4位、8位の石が並ぶ。
小豆島など瀬戸内の島から切り出された花崗岩が多い。
こんなに大きくなくても良いと思うが、コンクリートなどなかった時代、大きければ大きいほど、権力の大きさを示すことができたのだろう。

大手桝形の上は多門櫓。土塀のような櫓である。
多門(多聞)とは仏法僧を四方から守護する四天王の一つ、多聞天(=毘沙門天)から来ていると思いがちだが、「門が多くある」長屋のような櫓という普通名詞である。
本丸をぐるりと内堀と二の丸が同心円状に囲む。
のように見えるが、正式には北、東、南が二の丸で、西は西の丸という。
かつて二の丸は防御、家臣団の詰所など実戦的機能を持っていたが、西の丸は居住・儀礼空間としての性格が強く、堀によって二の丸から分かれていた。
それが、明治以降陸軍の施設が作られるとき、堀が埋められたらしい。

西の大手門から入ると本丸の南側の二の丸を東へ進むことになる。
右の植え込みに石山本願寺跡という柱が立っている。
大阪城は都市化によって平城に見えるが、四天王寺から続く上町台地の北端に建つ平山城である。比高20〜30mあるらしい。「石山」というくらいだから。
城の北東はすぐそばまで淀川が来ていたので、南西側を広くとって総構え(外郭)とした。これが存在したときは全体を三の丸と言ったようだ。
豊臣氏滅亡後は大幅に(4分の1に)縮小し、現在三の丸跡地というと大阪城ホール、大阪城公園などがある北東の一角が思われるが、かつて南は空堀筋、西は東横堀浜筋まで、つまり地下鉄・松屋町駅や谷町六丁目駅の南あたりまで広がっていた。

秀吉は大阪城を築いたが、ずっと居城としたわけではない。
京都の聚楽第や伏見城を本拠地とし、最後も伏見で息を引き取った。

大阪は、1570年から1580年9月まで10年続いた石山合戦の終結後は、丹羽長秀と津田信澄が同地を守備した。安土にいた信長はこの地を高く評価し、将来は大きな城を築く予定だったらしい。
1582年(天正10年)6月本能寺の変のときは、大坂にいた津田信澄は、織田家連枝でありながら妻が明智光秀の娘であったことから疑われ、混乱のなか織田信孝、丹羽長秀らに討たれた。
山崎の戦い後は、池田恒興が大坂に入った。
1583年3~4月の賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉が勝利を収めた後、同年6月、秀吉は恒興を美濃へ移し、大坂を直轄地とした。
すぐさま総奉行・黒田孝高で築城を開始、すべて完成したのは15年後の1598年(慶長3年)、秀吉が死ぬ年である。

最初は本丸から作り始めた。
何もなかった平山に作ったわけでなく、本願寺が立ち退いてから、西方作戦の基地としても使っていたため建造物はあり、秀吉は最初から居城としたようである。
しかし、1585年に秀吉が関白になると京都の聚楽第を着工、完成した1588年には本拠を京都に移した。さらに1592年に伏見城を着工、94年に完成後は本拠とし、最後も伏見で息を引き取った。
すなわち、大阪城に常住していたのは1583~1587、1592~1594とされる。ただし諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていた。

本丸への正面入り口となる桜門に向かって橋を渡る。
門両側の竜石、虎石は巨石だが壁のように真四角で平らなためコンクリートに慣れてしまった現代人には人工物のようで気づかない人も多いだろう。
9:26 
桜門に入る手前
内堀の南西側は空堀になっている。

この居城は天下人の秀吉亡き後、淀君と秀頼が住んだ。
秀吉時代の蔵入れ地220万石(家康は250万石)から摂河泉66万石の一大名に転落しが、豪華絢爛な城は目障りだったのだろう、家康がつぶしにかかる。
大坂冬の陣で攻め潰せなかったため、講和条件の一つとして堀を埋めることが決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す小さな裸城になり、夏の陣で落城した。

(講和条件は内堀のみ埋めるということだったが、徳川方は強引に総構えの掘、中堀を埋めた。をれを見つけた城方の武将が抗議し、やめさせようとしても圧倒的多数の人足たちが「おら知らね」「じゃまだ、どけどけ」と土を投入し続け、城方の数人がなすすべなく現場でおろおろしている様子をドラマで見た。徳川方は最初から全部埋めてしまうつもりだったのだろう。その結果天守閣のすぐそばまで何の防御も無い城となり、夏の陣の武将たちは籠城もできず、野に出て大軍に押しつぶされた)

その後、1620年から2代将軍秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城再築工事が開始された。
藤堂高虎を総責任者とし足かけ9年、三期にわたる天下普請で、各工事期は西国を中心に47~58大名が動員された。

全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積み、秀吉時代の貴重な巨石も再利用されず地中に埋められてしまったという。まさに埋めて封じた。

完成後、城郭の面積は豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、天守は高さも総床面積も豊臣氏のそれを超え、徳川家の西国支配の拠点となった。幕末、京大阪で活動する尊王攘夷の朝廷、薩長らに対応するため、将軍家茂や慶喜が大阪城に入ったことはまさにこの城の存在目的に沿うものである。
幕府直轄の城であったから城主は徳川将軍自身であり、譜代大名から代々の大阪城代が選ばれた。
天主は1665年の落雷で焼失、再建されなかった。

桜門をくぐると本丸。
右手に戦前の鉄筋コンクリートの建物が残る。
9:30
旧陸軍第四師団司令部庁舎

明治陸軍は明治元年2月(1868年3月)明治政府直属の軍隊として御親兵が創設されたのを始まりとする。
明治4年4月(1871)には 東山道鎮台(石巻)、西海道鎮台(小倉)の設置が布告されたが、4か月後には東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台となり、2年後の1873年には 名古屋鎮台、広島鎮台を設置して6鎮台となった。各鎮台は軍管区を持ち、それは反乱鎮圧や徴兵の地区割となった。

当初は中央集権国家による地方の治安維持が主目的でだったが、不平士族の反乱も終わり、海外派兵も視野に入ると、鎮台という静的なものより機動性のある師団という名称に変わった1888年(明治21年)のことである。日清戦争はこの6個師団で戦った。

大阪城は当初から陸軍の所管することとなり、大阪鎮台もここにおかれた。明治18年には和歌山城二の丸から御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名され、大阪鎮台(後の第4師団)の司令部庁舎として利用された。
今の司令部庁舎は昭和3年、昭和天皇即位記念として大阪城公園、天守閣復興とともに計画・着工されたもので、1931(昭和6)竣工した。
大阪城天守閣
1931年(昭和6年)、博物館「天守閣郷土歴史館」として竣工した復興天守である。幸い1945年の空襲による焼失は免れた。

2015年はまだオーバーツーリズムが問題になっていない頃だったが、中国からかアジア人ばかりだった。
大阪城・上田城
友好城郭 提携記念碑
平成18年(2006)、両城の管理者である二人の市長の名前がある。
姉妹都市の提携ではなく、城である。
都市も城も、規模の点で全く違うのに提携するというのは、よっぽど大阪人は真田信繁(幸村)が好きなんだろう。
今の城は太閤ではなく徳川の城だし、上田も真田が松代に移封され、仙石忠政が築城、江戸時代を通して仙石氏、藤井松平氏の城であったが、そんなことは関係なく、大阪城=秀吉、上田城=真田幸村なのである。

9:38
天守閣の西から内堀を隔てて西の丸を見る。

9:39
ふつう空堀の壁は土塁が多い。
石垣で水がないのは珍しい。

天守閣の裏(北)にまわる。
そこは本丸の中でも一段低くなった山里曲輪。
夏の陣で天守炎上の際、天守から逃れてきた淀君と秀頼が自刃した場所とされる記念碑がある。もちろんここは徳川期大坂城のため正確にはこの地下数mに眠る「豊臣期大坂城の山里曲輪」であるが、堀や曲輪の場所は大きくは変わっていないとされる。
9:47
極楽橋で内堀を渡り、本丸から二の丸へ出る。
天下普請だけあり、どこも石垣は立派。

細いドーナツのような二の丸を青屋門からでて、三の丸に入った。
大阪城ホールや野球場がある。ここは戦前、陸軍砲兵工廠があった。

大阪砲兵工廠の範囲

大村益次郎の建言によって1870年、兵部省造兵司として設置され、1872年大砲製造所、1875年(明治8年)の組織改正で砲兵第二方面内砲兵支廠(東京は第一方面内本廠)と改称された。
その広大な敷地は国鉄の操車場はじめさまざまなものになったが、線路の西は大阪城公園となった。
10:02
三の丸・大阪城公園・記念樹の森
木々だけで何もないのが良い。

このあとJR森ノ宮駅から環状線で天王寺に向かった。
藤井寺にいく。
(続く)


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