3月は高校生に覚せい剤と大麻の話をしたついでに野田(10日)、印旛沼(23日)を見たことは書いた。
3月23日、雨の中に見た印旛沼は、長門川で利根川と、花見川で幕張海岸とつながっている。
この地形から銚子から東京湾までの水路を考え、再び野田を思った。
というのは、銚子の醤油は利根川をさかのぼり野田を過ぎて関宿から江戸川を下り、明治になると野田にできた運河を使って大消費地に向かったからだ。
液体を運ぶには木の樽だが、人力は無理だし馬の背に乗せるにも限界がある。荷車があれば良かっただろうが、当時のでこぼこ道では車輪が土に埋まって使えなかったのではなかろうか? かつてあれほど船運が盛んだったのは、道路の悪さのせいだろう。
こう考えると醤油は駒込、浅草あたりで作ればよかったのではなかろうか。土地はふんだんにあったのだから。
それが野田、銚子で作られたというのは、(教科書ではそれなりの理由が書かれるが)やはり「作ろう」という個人が(高梨、茂木、浜口など)たまたま居たという偶然によるものだろう。
銚子の場合、ヤマサ醤油(1645年創業)の初代当主・浜口儀兵衛は紀州出身である。銚子は1616年外川港を作ったのが紀州出身の崎山次郎右衛門など、紀伊の国と関係があった。おそらく黒潮の関係で紀州の漁師が漂着するなど古くから関係があったのかもしれない。紀州というのは近代的な醤油の発祥の地と言われる。
穀物に塩と水を混ぜ発酵させた醤(じゃん、ひしお)は調味料として昔からあっただろうが、鎌倉時代、信州で生まれた臨済宗の禅僧・心地覚心が中国径山寺(きんざんじ)から味噌の製法を持ち帰り、紀州日高郡由良で興国寺を開山した。その味噌桶の底にたまった液体が、今の溜り醤油に近いものであったと言われている。
その後、醤油製造は上方を中心に広がり、江戸が開けてからは野田、銚子が大産地となった。
いま、醤油で有名なのは野田(キッコーマン、キノエネ)、銚子(ヤマサ、ヒゲタ、タカラ)、竜野(ヒガシマル)が3大産地で、小豆島をいれて4大産地、前田家の保護を受けた金沢の海岸近くの大野をいれて5大産地といわれる。
さて、船運に戻る。
印旛沼は利根川と江戸を結ぶ水路になる、それも銚子―江戸なら最短距離に近いにもかかわらず、なぜ使われなかったか分からない。川を広げる(泥を上げる)より、陸地を掘るほうが楽だったのだろうか。
すなわち利根運河のことである。
3月10日、予想以上に面白かった醤油王国、野田の見物を終え、愛宕駅から東武の電車に乗った。
愛宕、野田市、梅郷の各駅をすぎて運河駅にさしかかると、車窓からその運河がみえた。
2026‐03‐10 12:47
利根川と江戸川を結ぶ利根運河。
利根川はもともと東京湾に流れ込んでいたが、江戸時代初めに渡良瀬川とつなげ、太平洋の銚子に水を出した。残った川床は江戸川となり、銚子方面から関宿を経て江戸につながる水運の道が開けた。房総半島沖は海の難所だったし遠回りだったから東北地方からの荷物も、ここを通るようになった。ただし利根川は広いぶん途中に中州、浅瀬があり、荷を揚げて陸路江戸川に移すこともあったらしい。
明治になって、関宿回りでなく、野田の南で運河を掘ることが計画された。
お雇い外国人、オランダ人技術者のローウェンホルスト・ムルデルの監督のもと、1888年(明治21年)7月に起工、のべ220万人の工事で、1890年2月に通水、同年3月に通船、同年6月に竣工した。
工事申請から完成後の管理まで主体となったのは利根運河株式会社である。
柏から野田まで鉄道を引っ張ってきたのは、高梨、茂木家を中心とする野田醤油醸造組合だった。しかし地元の運河建設には関与していない。彼らは醸造蔵のすぐそばに江戸川が流れていて運河の必要がなかったからだ。
この運河は霞ケ浦、利根川下流の人々に恩恵を与える。利根運河株式会社も茨城県令の人見寧と茨城県会議員の広瀬誠一郎が中心となり、それぞれ社長、筆頭理事となった。
延長約8.5kmの利根運河の完成により、航路は38km短縮された。銚子から東京までの日程は3日から1日に短縮し、最盛期には、定期蒸気船を含め年間約4万隻の船が狭い運河を行き来した(1日100隻以上)。
運河沿いには多くの商店や船宿などが立ち並び、約6千本の桜の木が植えられ、果樹園や利根運河大師巡りなど観光名所としても知られるようになった。
ところが1896年12月に田端―土浦間(後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心まで、わずか2時間で結ばれた。翌1897年6月、銚子-東京間(後の総武本線)が開通し、所要時間は従来の5分の1(4時間)となった。
これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から1910年頃までのわずか20年程度であった。
昭和に入るとますます船はへり、さらに1941年の台風で堰や堤防が壊れ通船が困難となり、会社は破綻、国が救済、国有化した。1943年には派川利根川に改称、すなわち運河から川になった。
1987年に流山市立運河水辺公園が開園し、1990年6月に再び利根運河に改称された。
遊歩道ができた利根運河だが、私は歩いたことがない。
しかし、その堤防の上を何度も通ったことがある。
埼玉の家から妻の実家に行くとき、ふつうなら車で大宮、春日部、野田、と国道16号を通って柏で国道6号に入って安孫子、取手と行くのだが、ときに叔父だったか義父だったかに教わった近道を通った。すなわち野田から16号を離れ東側の裏道(県道7号)を通って南下、利根運河の橋を越えたところでさらに東に転じ広域農道に入るのである。この時わずかだが利根運河の堤防を通った。
もう行くことはないので、グーグルストリートビューを見てみる。
2025
利根運河の堤防は非常に狭く、車を持たずこの時だけ借りるペーパードライバーの私にとって恐怖の道だった。
すれ違う車がいると端に寄りすぎて運河に転げ落ちそうだった。
1980年代、90年代の当時の堤防はグーグル写真よりも狭くて高かったように感じる。当時、限られた人しか通らず車は多くなかったが、県道を南下してきてその曲がり角に近づいたとき堤防上を対向車が1台でも来ているのが見えたら、すれ違うのが嫌で諦め、県道をそのまま南下直進したほど怖かった。
2025
写真のように小型車同士なら何とかなるが、こちらはワゴン車だったし、運転台が高かったから余計に運河の水面が怖かった。水は少なかったから一家5人水死の可能性は低いが転落すれば何回転もして大けが、死亡は考えられた。
堤防を無事に超えても次の関門があった。
農業用道路だったから余計な車が入らないように南北の出入り口に門があった。
これがガレージのように車幅ぎりぎりで、しかも信号がない。他の車が後ろにいても嫌だし、対向車がいても嫌だった。
しかし関門と関門のあいだに延々と続く農道は信号もなく車もおらず、大幅に時間が短縮された。一直線の道路には商店や民家は1軒もなく、看板建造物もなく、日本とは思えない風景だった。
あれから30年。この道につながる義父、叔父とも亡くなり、3人の子供たちは独立した。
私は今年の免許の更新から教習所の実技試験が必要となり、もう免許は返上しようと思っている。だから余計に利根運河と農道の「恐怖の運転」が懐かしい。
野田を通る国道16号の記憶も書いておく。
妻と付き合い始めたのが大学院時代の1980年8月。就職1年目の81年6月彼女の家にあいさつに行き、82年3月スキーの帰りに彼女を私の親に会わせた。83年5月には長野の両親が車で出てきて私を乗せて挨拶に行った。このときはじめて国道16号を通ったのだろう。その年10月の結納の時も、長野から来た祖母を含めて4人でこの国道を通った。その後、私の運転歴の半分以上は国道16号になる。
国道16号と県道7号
忘れられないのは結納前の83年8月、婚約指輪を選ぶとき。
時計貴金属を扱っていた南浦和の叔父の家に二人で行くことになった。
しかし前夜職場の飲み会で痛飲し、私が駅での待ち合わせ時間に大幅に遅れた。当時はケータイもなかった。改札にいなかったので彼女の家に電話すると、まだ駅にいるのではないかというのだが、私は先に叔父の家に行くと伝えて駅を離れた。
しかし彼女は叔父の家の場所も電話番号も知らなかった。あとで聞くと彼女も風邪をひいていて具合が悪かったらしい。そのあと彼女も自分の家に電話して私が立ち去ったことを聞き、自宅に戻らざるを得なかった。
何も考えず叔父の家でぐったりしていた私から事情を聞いた叔父は、そのまま急いで候補の指輪をいくつか選び私を助手席に乗せて国道16号を走った。途中、野田あたりで道路沿いのラーメン屋で昼飯を食べようとしたのだがもちろん私は二日酔いで食べられなかった。
とにかく叔父も先方に謝ってくれ、帰宅したとたんわんわん泣いて自室に閉じこもってしまったという彼女も二階から降りてきて破談にはならなかった。
子供が生まれてからは私が車を借り運転して何度も通った国道16号だが、一番記憶に残っているのは野田市花井、県道46号との交差点である。ここを左折し、国道と東に平行する県道7号に出て、それを運河あるいは安孫子まで南下するから毎回ここを見逃さないようにしていたからだ。
2025
県道46号(牛久野田線)との交差点
「野田市駅入口」
30年、40年もたち、グーグルストリートビューではだいぶ景色が違っている。
昔はもっと緑があった。国道16号の沿道は雑木林が多く残っていた。
燃料などを山に求める信州と違い、関東は優良農地となるような平地が林として残された。国道16号は駅から離れたところを通ったから宅地になることもなく、また当時は国道沿いの店舗も今よりずっと少なかった。
2012
一番古いストリートビューは14年前で、少し昔の面影が残っている。今ヒューリックの物流拠点になっているところも森である。角の看板もヒューリックでなくコカ・コーラになっている。
しかし3,40年前はもっと森が多く、ここの看板も紫カントリークラブ「あやめコース」「すみれコース」というゴルフ場の案内看板だった。
ここを左折すると、紫カントリーだけでなく野田市パブリックゴルフ場けやきコース、千葉カントリー梅郷コースなどもあった。
なぜ野田にゴルフ場が集中しているかというと、高梨、茂木の両家が広大な土地を雑木林として残していたからである。地権者が何人もいるより買収が簡単であっただろうし両家の関係者もゴルフに関心があったのかもしれない。もちろん江戸時代から醸造家が豆を煮るには大量の薪を必要とした。
利根運河を電車の窓からちらりと見たことから、話は野田醤油と関係ない個人的な記憶に広がった。
電車は駅の直前だったから速度を落としていたが、油断していたので慌ててスマホを出し、うまく運河の写真が撮れなかった。それでも何とか1枚取れた。そのあと、いろんなことを思い出しながら終点の柏まで行った。
このブログはお分かりの通り、出かけた先でできるだけ昔のことを思い出して書くことにしている。5年後には思い出せなくなっていたり、へたするとこの世にいないかもしれない。生きた証ととして記憶を文字に固定しようとしているからだ。
東武野田線についても思い出したことを書いておく。
初めて乗ったのは1981年8月。学生時代から仲が良かった國枝卓氏が厚生省薬務局、私が製薬会社の研究所、お互い就職して1年目。大宮の独身寮にいた私が柏の公務員用独身宿舎にいた彼のところに泊まりに行った。
上野経由で行けば良いところを与野から大宮に出て東武野田線で行こうとした。大宮に来ると岩槻、春日部を過ぎて柏までいく本数は思ったより少なかった。この時も連絡手段はなく、彼は柏の改札口で40分も待っていてくれた。少し後の1986年の時刻表では1時間20分(370円)で行けるから、そもそも大宮に来たのが遅かったのかもしれない。
こんなにひどいことをしたのに、その後も彼は全く忘れたように(本当に彼には記憶が残ってないのかもしれない)気にせず付き合ってくれ、私も今何十年ぶりかで思い出した。
彼とはその2か月前にも柏で会っていて、そごうの屋上で「まちぶせ」を歌う石川ひとみを見た。これは彼も覚えているだろうか。まちぶせを最初にうたった三木聖子、顔の似ていた倉田まり子もなつかしい。
その日、彼と会ったのは、私が取手の妻の家へ挨拶に初めて行く途中だった。
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