2026年4月6日月曜日

野田6 銚子、利根運河と農道、国道など記憶いろいろ


3月は高校生に覚せい剤と大麻の話をしたついでに野田(10日)、印旛沼(23日)を見たことは書いた。

3月23日、雨の中に見た印旛沼は、長門川で利根川と、花見川で幕張海岸とつながっている。
この地形から銚子から東京湾までの水路を考え、再び野田を思った。

というのは、銚子の醤油は利根川をさかのぼり野田を過ぎて関宿から江戸川を下り、明治になると野田にできた運河を使って大消費地に向かったからだ。

液体を運ぶには木の樽だが、人力は無理だし馬の背に乗せるにも限界がある。荷車があれば良かっただろうが、当時のでこぼこ道では車輪が土に埋まって使えなかったのではなかろうか? かつてあれほど船運が盛んだったのは、道路の悪さのせいだろう。

こう考えると醤油は駒込、浅草あたりで作ればよかったのではなかろうか。土地はふんだんにあったのだから。
それが野田、銚子で作られたというのは、(教科書ではそれなりの理由が書かれるが)やはり「作ろう」という個人が(高梨、茂木、浜口など)たまたま居たという偶然によるものだろう。

銚子の場合、ヤマサ醤油(1645年創業)の初代当主・浜口儀兵衛は紀州出身である。銚子は1616年外川港を作ったのが紀州出身の崎山次郎右衛門など、紀伊の国と関係があった。おそらく黒潮の関係で紀州の漁師が漂着するなど古くから関係があったのかもしれない。紀州というのは近代的な醤油の発祥の地と言われる。

穀物に塩と水を混ぜ発酵させた醤(じゃん、ひしお)は調味料として昔からあっただろうが、鎌倉時代、信州で生まれた臨済宗の禅僧・心地覚心が中国径山寺(きんざんじ)から味噌の製法を持ち帰り、紀州日高郡由良で興国寺を開山した。その味噌桶の底にたまった液体が、今の溜り醤油に近いものであったと言われている。

その後、醤油製造は上方を中心に広がり、江戸が開けてからは野田、銚子が大産地となった。
いま、醤油で有名なのは野田(キッコーマン、キノエネ)、銚子(ヤマサ、ヒゲタ、タカラ)、竜野(ヒガシマル)が3大産地で、小豆島をいれて4大産地、前田家の保護を受けた金沢の海岸近くの大野をいれて5大産地といわれる。

さて、船運に戻る。
印旛沼は利根川と江戸を結ぶ水路になる、それも銚子―江戸なら最短距離に近いにもかかわらず、なぜ使われなかったか分からない。川を広げる(泥を上げる)より、陸地を掘るほうが楽だったのだろうか。
すなわち利根運河のことである。

3月10日、予想以上に面白かった醤油王国、野田の見物を終え、愛宕駅から東武の電車に乗った。
愛宕、野田市、梅郷の各駅をすぎて運河駅にさしかかると、車窓からその運河がみえた。
2026‐03‐10 12:47
利根川と江戸川を結ぶ利根運河。

利根川はもともと東京湾に流れ込んでいたが、江戸時代初めに渡良瀬川とつなげ、太平洋の銚子に水を出した。残った川床は江戸川となり、銚子方面から関宿を経て江戸につながる水運の道が開けた。房総半島沖は海の難所だったし遠回りだったから東北地方からの荷物も、ここを通るようになった。ただし利根川は広いぶん途中に中州、浅瀬があり、荷を揚げて陸路江戸川に移すこともあったらしい。
江戸川河川事務所公式サイトから

明治になって、関宿回りでなく、野田の南で運河を掘ることが計画された。
お雇い外国人、オランダ人技術者のローウェンホルスト・ムルデルの監督のもと、1888年(明治21年)7月に起工、のべ220万人の工事で、1890年2月に通水、同年3月に通船、同年6月に竣工した。
工事申請から完成後の管理まで主体となったのは利根運河株式会社である。

柏から野田まで鉄道を引っ張ってきたのは、高梨、茂木家を中心とする野田醤油醸造組合だった。しかし地元の運河建設には関与していない。彼らは醸造蔵のすぐそばに江戸川が流れていて運河の必要がなかったからだ。
この運河は霞ケ浦、利根川下流の人々に恩恵を与える。利根運河株式会社も茨城県令の人見寧と茨城県会議員の広瀬誠一郎が中心となり、それぞれ社長、筆頭理事となった。

延長約8.5kmの利根運河の完成により、航路は38km短縮された。銚子から東京までの日程は3日から1日に短縮し最盛期には、定期蒸気船を含め年間約4万隻の船が狭い運河を行き来した(1日100隻以上)。
運河沿いには多くの商店や船宿などが立ち並び、約6千本の桜の木が植えられ、果樹園や利根運河大師巡りなど観光名所としても知られるようになった。
野田の市街地と江戸川、利根川、運河

ところが1896年12月に田端―土浦間(後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心まで、わずか2時間で結ばれた。翌1897年6月、銚子-東京間(後の総武本線)が開通し、所要時間は従来の5分の1(4時間)となった。
これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から1910年頃までのわずか20年程度であった。
昭和に入るとますます船はへり、さらに1941年の台風で堰や堤防が壊れ通船が困難となり、会社は破綻、国が救済、国有化した。1943年には派川利根川に改称、すなわち運河から川になった。
1987年に流山市立運河水辺公園が開園し、1990年6月に再び利根運河に改称された。

遊歩道ができた利根運河だが、私は歩いたことがない。
しかし、その堤防の上を何度も通ったことがある。

埼玉の家から妻の実家に行くとき、ふつうなら車で大宮、春日部、野田、と国道16号を通って柏で国道6号に入って安孫子、取手と行くのだが、ときに叔父だったか義父だったかに教わった近道を通った。すなわち野田から16号を離れ東側の裏道(県道7号)を通って南下、利根運河の橋を越えたところでさらに東に転じ広域農道に入るのである。この時わずかだが利根運河の堤防を通った。

もう行くことはないので、グーグルストリートビューを見てみる。
2025
利根運河の堤防は非常に狭く、車を持たずこの時だけ借りるペーパードライバーの私にとって恐怖の道だった。
すれ違う車がいると端に寄りすぎて運河に転げ落ちそうだった。
1980年代、90年代の当時の堤防はグーグル写真よりも狭くて高かったように感じる。当時、限られた人しか通らず車は多くなかったが、県道を南下してきてその曲がり角に近づいたとき堤防上を対向車が1台でも来ているのが見えたら、すれ違うのが嫌で諦め、県道をそのまま南下直進したほど怖かった。
2025
写真のように小型車同士なら何とかなるが、こちらはワゴン車だったし、運転台が高かったから余計に運河の水面が怖かった。水は少なかったから一家5人水死の可能性は低いが転落すれば何回転もして大けが、死亡は考えられた。

堤防を無事に超えても次の関門があった。
2025
農業用道路だったから余計な車が入らないように南北の出入り口に門があった。
これがガレージのように車幅ぎりぎりで、しかも信号がない。他の車が後ろにいても嫌だし、対向車がいても嫌だった。
しかし関門と関門のあいだに延々と続く農道は信号もなく車もおらず、大幅に時間が短縮された。一直線の道路には商店や民家は1軒もなく、看板建造物もなく、日本とは思えない風景だった。
2022
あれから30年。この道につながる義父、叔父とも亡くなり、3人の子供たちは独立した。

私は今年の免許の更新から教習所の実技試験が必要となり、もう免許は返上しようと思っている。だから余計に利根運河と農道の「恐怖の運転」が懐かしい。

野田を通る国道16号の記憶も書いておく。
妻と付き合い始めたのが大学院時代の1980年8月。就職1年目の81年6月彼女の家にあいさつに行き、82年3月スキーの帰りに彼女を私の親に会わせた。83年5月には長野の両親が車で出てきて私を乗せて挨拶に行った。このときはじめて国道16号を通ったのだろう。その年10月の結納の時も、長野から来た祖母を含めて4人でこの国道を通った。その後、私の運転歴の半分以上は国道16号になる。
国道16号と県道7号

忘れられないのは結納前の83年8月、婚約指輪を選ぶとき。
時計貴金属を扱っていた南浦和の叔父の家に二人で行くことになった。
しかし前夜職場の飲み会で痛飲し、私が駅での待ち合わせ時間に大幅に遅れた。当時はケータイもなかった。改札にいなかったので彼女の家に電話すると、まだ駅にいるのではないかというのだが、私は先に叔父の家に行くと伝えて駅を離れた。
しかし彼女は叔父の家の場所も電話番号も知らなかった。あとで聞くと彼女も風邪をひいていて具合が悪かったらしい。そのあと彼女も自分の家に電話して私が立ち去ったことを聞き、自宅に戻らざるを得なかった。

何も考えず叔父の家でぐったりしていた私から事情を聞いた叔父は、そのまま急いで候補の指輪をいくつか選び私を助手席に乗せて国道16号を走った。途中、野田あたりで道路沿いのラーメン屋で昼飯を食べようとしたのだがもちろん私は二日酔いで食べられなかった。

とにかく叔父も先方に謝ってくれ、帰宅したとたんわんわん泣いて自室に閉じこもってしまったという彼女も二階から降りてきて破談にはならなかった。

子供が生まれてからは私が車を借り運転して何度も通った国道16号だが、一番記憶に残っているのは野田市花井、県道46号との交差点である。ここを左折し、国道と東に平行する県道7号に出て、それを運河あるいは安孫子まで南下するから毎回ここを見逃さないようにしていたからだ。
2025
県道46号(牛久野田線)との交差点
「野田市駅入口」

30年、40年もたち、グーグルストリートビューではだいぶ景色が違っている。
昔はもっと緑があった。国道16号の沿道は雑木林が多く残っていた。
燃料などを山に求める信州と違い、関東は優良農地となるような平地が林として残された。国道16号は駅から離れたところを通ったから宅地になることもなく、また当時は国道沿いの店舗も今よりずっと少なかった。
2012
一番古いストリートビューは14年前で、少し昔の面影が残っている。今ヒューリックの物流拠点になっているところも森である。角の看板もヒューリックでなくコカ・コーラになっている。
しかし3,40年前はもっと森が多く、ここの看板も紫カントリークラブ「あやめコース」「すみれコース」というゴルフ場の案内看板だった。

ここを左折すると、紫カントリーだけでなく野田市パブリックゴルフ場けやきコース、千葉カントリー梅郷コースなどもあった。
なぜ野田にゴルフ場が集中しているかというと、高梨、茂木の両家が広大な土地を雑木林として残していたからである。地権者が何人もいるより買収が簡単であっただろうし両家の関係者もゴルフに関心があったのかもしれない。もちろん江戸時代から醸造家が豆を煮るには大量の薪を必要とした。

・・・・

利根運河を電車の窓からちらりと見たことから、話は野田醤油と関係ない個人的な記憶に広がった。

電車は駅の直前だったから速度を落としていたが、油断していたので慌ててスマホを出し、うまく運河の写真が撮れなかった。それでも何とか1枚取れた。そのあと、いろんなことを思い出しながら終点の柏まで行った。

このブログはお分かりの通り、出かけた先でできるだけ昔のことを思い出して書くことにしている。5年後には思い出せなくなっていたり、へたするとこの世にいないかもしれない。生きた証ととして記憶を文字に固定しようとしているからだ。

東武野田線についても思い出したことを書いておく。
初めて乗ったのは1981年8月。学生時代から仲が良かった國枝卓氏が厚生省薬務局、私が製薬会社の研究所、お互い就職して1年目。大宮の独身寮にいた私が柏の公務員用独身宿舎にいた彼のところに泊まりに行った。
上野経由で行けば良いところを与野から大宮に出て東武野田線で行こうとした。大宮に来ると岩槻、春日部を過ぎて柏までいく本数は思ったより少なかった。この時も連絡手段はなく、彼は柏の改札口で40分も待っていてくれた。少し後の1986年の時刻表では1時間20分(370円)で行けるから、そもそも大宮に来たのが遅かったのかもしれない。
こんなにひどいことをしたのに、その後も彼は全く忘れたように(本当に彼には記憶が残ってないのかもしれない)気にせず付き合ってくれ、私も今何十年ぶりかで思い出した。

彼とはその2か月前にも柏で会っていて、そごうの屋上で「まちぶせ」を歌う石川ひとみを見た。これは彼も覚えているだろうか。まちぶせを最初にうたった三木聖子、顔の似ていた倉田まり子もなつかしい。
その日、彼と会ったのは、私が取手の妻の家へ挨拶に初めて行く途中だった。


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2026年4月1日水曜日

印旛沼の埋め立て地と古墳

3月23日の早朝、京成の宗吾参道駅におり、宗吾霊堂を見物した。(前のブログ)

そこから2キロくらい北のほうに子孫の方の家があるらしい。
「宗吾旧宅」と地図にあり、「義民ロード」として観光地化しているが、個人の住宅のようである。途中、麻賀多神社もあり行ってみたい気もしたが、雨も降っていたし、本来の用事の時間までに帰ってこれないので割愛した。

代わりに、印旛沼を見たかった。
なんといっても名前が良い。
インバという音のひびきが沼に合っている。
湖もミズウミなら古語だろうが、○○コというと途端にメルヘンチックになる。その点、ヌマは巨大ナマズか河童、お化けが住んでいそうだ。lakeとlochの違いだろうか。

もっとも我々の時代は沼に住むヌシよりも都市化による水質汚染のイメージが強い。泥にも字面が似ている。

しかし地図で見れば印旛沼の水面も遠い。
干拓した後の地形だけでも見ようと思った。
8:22
宗吾霊堂のそばの道路から西に入り、低地に下りていく道は木々に覆われている。
8:24
低地に下りた。
左側の台地の上は新興分譲住宅地になっている。
(帰りに近くを通ったら「宗吾台」という名前だった。けやき台とかすずかけ台と比べ、古いような新しいような団地の名前である)
8:26
いかにも昔は沼だったような場所に出た。
このあたり、低地と里山が入り組んでいて、もとは印旛沼の入り江の一つだったと思われる。

常総地域に多い、この複雑に谷が入り組む地形はなぜできたか。
もちろん造山運動ではない。氷河による浸食でもないだろう。
低地も台地もそれぞれ平らであることから、土砂がたまる海の時期が2回なくてはならない。
かつては海底だったところが氷河時代に海が後退し、陸となり、そこで初めて侵食で谷ができ、そのあと温暖化でまた海が入り(縄文海進)溺れ谷が土砂で埋まればよい。
そして海がまた後退して残ったのが印旛沼や霞ケ浦、また大小の河川と、こういう低地だろうか。

地形が固まった後の歴史時代になると、印旛沼を含む関東の河川、湖沼の変遷は人間の手によるものになり、 これは自然の理論では考えられない。一般社団法人・農業農村整備情報総合センターの公式サイトにある「水土の礎」をみる。

1000年前
香取海が大きい。
道のなかった昔は水上交通が主だっただろうから、大和政権の東進時期における鹿島・香取の両神宮の立地場所の重要性が分かる。
江戸時代初期
家康以降の土木工事で利根川の水が関宿でわかれ太平洋に向かうようになった。
今この地図を見て、太平洋の銚子から印旛沼を経て東京湾に入る水路を作れば、はるばる関宿までさかのぼる必要はなく、超便利だったのではないか?
現在でも印旛沼は花見川によって幕張検見川付近で東京湾とつながっているから水路を広げるだけでよかった。

しかし、当時、流通はたいして重要でなかったのだろう。それよりも土木工事としては安直で、食糧増産(幕府、藩の財政改善)につながる新田開発のほうに向かった。江戸時代は遅々として進まなかったが、それでも印旛沼の水域はどんどん狭くなっていく。
最深部で1.8メートルしかない浅い沼で周辺部は湿地帯のようだったことが埋め立てに適していた。
1944
そして戦後、食料増産の国策もあり埋め立てが加速する。
1960年代終わりに中央部の干拓が完成し、沼は二分され、面積も半分以下になった。
国土地理院 航空写真
もとは蛇行する川のように三日月湖ならぬW字沼であったその跡は航空写真でよくわかる。

その干拓地を見に行くわけだ。

農道は誰も通らず、人家もほとんどない。
たまに農家がある。
8:29
千葉というか関東の農家は大きい。
門から家が見えない。
狭い谷に道路も田畑も鉄道も家もひしめく信州とは、これだけ違えば、県民の性格も違ってくるだろう。ちなみに結婚前、妻の実家の千葉茨城の利根川沿いというのは信州人と最も性格が違うと何かで読んだ記憶がある。

8:33
ようやく印旛沼本体の埋め立て跡に出た。
北方を望む。
かつての沼は川のように細長かったから、見えるの対岸であり、奥のほうは海のように全く限りが見えない。

どのくらい広いのだろう?
国土地理院全国都道府県市区町村別面積調(2018)というのがある。https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20171001.pdf
これは市町村面積のほかに湖沼、島嶼の面積がのっている。

印旛沼は2か所合わせて9.4平方キロ。全国33位くらいか。
しかしこれだけ干拓されてしまうと、この数字も意味がない。

いっぽう、湖沼にも流域面積というものがある。そこに流れ込む川の水の降る地域面積のことだ。これは干拓されても変わらない。
印旛沼の流域は487平方キロ。全国1位の琵琶湖(水域669.3、流域8240平方キロ)や、2位の霞ケ浦(水域168、流域2157)、あるいは27位の諏訪湖(水域13.3、流域531.2)と比べると小さいが、これまた印旛沼の流域が全国的に大きいのか小さいのかよく分からない。はっきりしているのは、流域面積の人口が73万人で、小さな印旛沼が広大(水域71倍、流域17倍)な琵琶湖(滋賀県の人口は139万)といい勝負だということだ。
つまり都市圏の沼である。

当然水質は悪い。
有機物の量を反映するCODは(令和6年)、伊豆沼(宮城)の23㎎/Lには及ばないが、13㎎/Lは全国3位。田沢湖(<0.5)、琵琶湖(2.4~3.2)と比べると汚さが際立つ。
(環境省公式サイト、https://www.env.go.jp/content/000386836.pdf)
8:34
こちらは南西方向。
遠くの対岸に順天堂大学のキャンパスが見えた。
8:37
順天堂大学の望遠写真。
佐倉順天堂は大阪の適塾と並んで幕末の洋学、医学の中心だった。
その末裔といえる順天堂大学が佐倉にキャンパスを持つのは大いに意義がある。
ただし印旛沼を境に、あちらは印西市になる。それでも旧佐倉藩領だから問題ない。

じゅうぶんに印旛沼(の跡地)を見たので駅に向かった。

時間がなかったから近道しようとしたが、低地と里山が入り組んでいて道に迷った。
結局、宗吾霊堂からくる広い道(県道137号)を通って、朝歩いた「宗吾参道」を戻った。

その途中、スマホ地図に古墳公園という文字をみて立ち寄った。
9:05
このあたり霞ヶ浦や印旛沼も含め海とつながっていたから、人が集まっていたのは、住みやすさ(食料事情)を反映して、米作の古墳時代よりも漁労、狩猟の縄文時代のような気もする。しかし、この場所に6世紀末から7世紀にかけての古墳が18基も発見されたという。

古墳時代、佐倉、成田のあたりにいた豪族は大和政権の支配が及ぶと、印旛の国の造(みやっこ)として任命され、この地方の支配を任された。この古墳群の主と関係があるだろう。

しかし大化の改新以降、国造が治めた国は整理・統合、あるいは分割されて令制国に置き換えられ、国造は支配権を持たず主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。
印旛、千葉、下海上(しもつうなかみ)、の3つ国造支配地は合わさって下総になり、印旛の国造の子孫は氏神である麻賀多神社(まかたじんじゃ)の神主になったという。この神社は印旛沼の東、宗吾旧宅の近くにあり、当初歩いて行こうと思っていたが、割愛したスポットである。
9:05
古墳群はこの1基だけ残してあとは開発されてしまった。
となりは国際医療福祉大学のテニスコート、周囲は新興分譲住宅である。
私有地であったところを成田市が1基分と小さな公園地の分だけ買い取ったのだろう。

ちなみに宗吾参道駅は印旛郡酒々井町だが、この古墳、宗吾霊堂など含め、印旛沼東岸まで成田市である。もちろん1954年の市制施行前の成田町も印旛郡だった。
なお、かつては印旛県も存在した。明治6年に南部の木更津県と合併し千葉県が成立するまで、廃藩置県時の旧6県すなわち古河県、結城県(現茨城)、関宿県、佐倉県、生実県、曾我野県をふくむ大きな県だった。
県も沼も律令時代から続く郡名からとったのだろうが、郡名は古墳時代の地名を反映しているはずだ。


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2026年3月30日月曜日

宗吾参道駅と佐倉惣五郎

 3月23日、京成の宗吾参道駅にきた。

昔、海外の学会に参加していたころ、成田空港までの電車から沿線をみていた。
臼井を過ぎると印旛沼とオランダ風車がみえ(佐倉ふるさと広場)、佐倉を出ると酒々井、宗吾参道、公津の杜、と記憶に残る駅名が続く。
いつか降りてみたいと思っていたが、行きは飛行機の時間があったし帰りはまっすぐ家に帰りたかった。一度だけ、2011年2月、早めに家を出て佐倉で降り荷物を駅のロッカーに預け、佐倉城址と佐倉順天堂をみた。

成田空港に行くことがなくなって早14年、しかし先日たまたま宗吾参道の近くに行く用事ができた。

7:49
宗吾参道駅
ひとつ手前は酒々井(しすい、1926開業)、JR成田線にも酒々井駅(1897)があるから、正式には京成酒々井駅だが、ホームの表示は酒々井である。

すぐ先に短いトンネルがあって、ここが印旛郡酒々井町と成田市の境になっている。
成田市側の隣の駅は公津の杜(こうづのもり)。こちらは杜をモリと読ませるあたり、いかにも一昔前に流行したネーミングだが、実際、京成がニュータウンを開発し、駅は1994年4月開業した。すなわち成田空港に初めていった頃はなかった。2016年国際医療福祉大学医学部が駅前に開学(大田原キャンパスとは別に成田薬学部、成田看護学部なども併設)、発展しつつある。
7:50
宗吾参道駅は車両基地がある。
京成成田駅の2つ手前で、上野から出てここが終点の編成電車も何本かある。

7:51
1928年開業だが、駅前広場や商店はない。
駅名の通りすぐ参道があり灯篭が立っている。
参道以外何もないところによく駅ができたものだ。
7:52
灯篭の下に案内板。タイルが風霜で割れている。
踏切のすぐ左がトンネル。

長野にいた子供のころから佐倉惣五郎の名前はテレビで見たか本で読んだかで聞いていた。
凶作と過酷な年貢で苦しむ農民のため、自らの命を顧みず直訴して、本人だけでなく家族すべて処刑されたと記憶する。
あれ、惣五郎だと思ったが駅名は宗吾である。
説明版のタイトルにも「義民佐倉宗吾様」とある。
しかしさらに読めば本名は木内惣五郎というらしいから「佐倉の惣五郎」であっている。

宗吾は通称だったらしい。
直訴で農民は救われたが、本人は4人の子とともに公津が原で見せしめとして磔にされたらしい。1653年、42歳の時という。
7:53
灯篭の先に山門がある。
普通は寺社の敷地にあるものだが、公道にあるのは珍しい。これなら駅名になるだろう。
鶯が鳴き、歩道わきの桜はぽつぽつと開花しつつあった。
ゆるやかな坂を上がると桜の古木が5本並んでいたが、ここは旧道ではなく新道。桜の樹齢も60年くらいか。
と考えているうちに到着。
8:05
宗吾霊堂
ふつう人を祀るのは神社である。
神社らしく鳥居らしきものが見えたが鳥居ではなかった。
「鳴鐘山東勝寺」というらしいが山門に掲げられた扁額でもなく、入口の石柱でもなく、交通安全の標語のような看板に書いてある。
8:06
平日朝ということで誰もいないが、境内には売店が並んでいる。
宗吾霊堂の公式サイトから
8:07
宗吾父子のお墓
宗吾霊堂というが、この墓があることで神社でなくお寺であることがわかる。
神社なら魂だけを本殿にまつる。
実際、東勝寺は真言宗の寺である。桓武時代の創建というから1200年前か。磔にされたとき、この寺の住職が遺骸を処刑の場所に葬り、のち、その場所に寺院を移したという。だから公津が原の処刑場は、印旛沼のほとりとかでなくこの場所だったことになる。
ちなみに真言宗の本尊はふつう大日如来だが(浄土真宗は阿弥陀如来)、ここでは代わりに「宗吾様をおまつり」(本尊)しているという。
8:07
大山門。
両袖には香取正彦(人間国宝)作 阿吽の金剛力士像(仁王像)。
楼上には、高村光雲作の聖観世音菩薩像が安置されているらしい。

ちなみに香取正彦の父は地元印旛郡出身の香取秀真で、大正時代、田端文士村の住民だったことは以前書いた。
昭和27年宗吾霊300年祭記念事業として鐘楼が建立されている。その梵鐘は香取秀真・正彦父子の共作。
本殿
なるほど、本殿扁額は「宗吾霊」

8:09
境内は思ったより広い。
東京浅草寺、成田山新勝寺に負けないくらいだから、どこにでも出没するインバウンド客がきても良さそうだが、日中は観光客が多いのかな? ただ仲見世、門前町やほかの観光スポットがない。「義民」も外国人に受けるかどうか。
8:10
宗吾霊宝殿
建物は大きく、磔になった人の遺品がそれほどあるものかと思ったが、公式サイトには
「昭和10年に開館。本尊宗吾様の遺品や関係文書、什器、当山の寺宝、各時代の参考品、郷土出土品などが展示してあります。なかでも、惣五郎様の存在と持高を証明する名寄帳、宗吾様着用の袴と奥様ご使用の鏡、宗吾様とお子様4人の法号を記した過去帳な貴重な品々を修蔵。」(原文ママ)とあった。
8:11
宗吾御一代記念館
入場料700円、本日休館(月曜)。
「宗吾様のご生涯を偲び、甚兵衛渡し・妻子との別れ・直訴から処刑に至るまでを人形66体13場面の立体パノラマでお楽しみ頂けます。」(同公式サイト)
8:12
本殿裏から霊宝殿をみる

ここから2キロくらい北のほうに子孫の方の家があるらしい。
「宗吾旧宅」と地図にあり、「義民ロード」として観光地化しているが、個人の住宅のようである。行ってみたい気もしたが、雨も降っていたし、本来の用事の時間までに帰ってこれないので割愛した。

代わりに、前々から見たかった印旛沼の干拓地に立ち寄ることにした。
8:22
低地に下りていく道は木々に覆われている。

このあたり、低地と里山が入り組み道路も羊腸のよう。印旛沼干拓地から駅にいく途中、道に迷った。
近道するはずが、結局、宗吾霊堂からくる広い道に出て、来た道を戻ることにした。

歩いていると広い道路で新しく区画整理された場所があった。
8:57
「宗吾台」という石と門柱のような対の街灯。
30分前に印旛沼に降りるときに下から見上げた新興分譲地のようだ。
この団地入口は駅のそばの宗吾参道の灯篭を思わせる。
さすがに山門を作るわけにはいかないだろうが。

それにしても田園都市線あたりなら「けやき台」とか「すずかけ台」とか付けるところを「宗吾台」とは斬新だ。今の人は駅名しか連想しないのかもしれない。あるいは、はりつけにされた生身の人間ではなく、偉人、神様、地名の感覚なのかもしれない。

続く

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2026年3月25日水曜日

野田5 飯田市郎兵衛、キノエネ醤油とローズハイツの匂い

3月12日、野田市を歩いている。

幸い私が歩くところは外国人どころか日本人観光客もいなくて雰囲気が良い。

野田は銚子とともに醤油の産地として習ったが、実際来て高梨本家から茂木一族の各豪邸、キッコーマン本社など見て歩くと、その存在感は関東の醤油同様、じつに濃く、何本もブログを書いた。それでも書いてないことがあった。

1781年、野田の醤油醸造仲間は7軒であったが、1824年には19軒に増えた。江戸への近さに加え、醸造先進地の上方に負けぬまでの技術向上があったのだろう。

そして明治20年、主な14家による野田醤油組合ができた。その組合には参加しながら、大正6年、有力8家による野田醤油株式会社(のちのキッコーマン)が成立したとき、大手でありながら唯一参加しなかった醸造家がある。白木屋・山下平兵衛家である。1830年(天保元年)に山下家第10代が創業、いまもキノエネ醤油で知られる。現社長は平兵衛を襲名せず、山下博之氏。

キノエネ醤油は茂木一族が占める市内中心部から流山街道を愛宕神社に向かって歩くと左側にある。

12:19
キノエネ醤油
キッコーマンが近代的なタンクの並ぶ食品工場であるのと対照的に、昔ながらの醸造蔵という雰囲気。醤油の町という野田の景観は、絶対王者キッコーマンでなくここが残している。
12:20
正門のそばの建物は事務所兼主屋
特に立派なわけではないが明治30年(1897)建築、2020年に国登録有形文化財に指定された。2022年から直売所がオープンし中が見学できるようになったが知らずに入らなかった。
12:20
道に沿って蔵が並ぶ。
妻部分の壁に「子・きのへ」と書いてある。
本来「きのえ」は陰陽五行説の木火土金水の5つそれぞれを二つ(陰陽、兄弟)に分け、十干(甲乙丙丁、、)に当てはめ、たとえば甲、乙を木(き)の兄(え)、弟(と)とし、きのえ、きのと、とした。
さらに十二支(子、丑、寅、)と合わせ、年の名前にした。すなわち甲子(キノエネ)、丙子(ヒノエネ)などである。

だから子はネでありキノエとは読まない。しかしキノエ醤油とも言ったようで、それがこの壁の文字になったのだろう。

ちなみに創業の1830年は庚寅(かのえとら)であり、甲子(きのえね)ではない。また、山下平兵衛商店がキノエネ醤油合名会社となった昭和11年(1936)も丙子(ひのえね)である。

このあたり、みそ、しょうゆの匂いがする。
キッコーマンの近代工場では感じなかった懐かしさがあった。
その懐かしさは子供のころではなく、もっと大人になってから嗅いだ匂いだった。

少し不思議な気持ちになりながら近くにある野田醤油発祥地という場所に行ってみた。
12:26
野田の醬油発祥地
亀屋・飯田市郎兵衛の蔵があった場所である。
野田市の公式サイトやネットでは室町時代の永禄年間(1558から70)に飯田家は川中島御用溜醤油と称して甲斐武田氏に納めたという。しかし当時野田は後北条氏と関東管領上杉氏の争っていたところである。また野田の醤油(豆油)が武田氏支配の甲斐、信濃あるいは駿河、上方と比べて特に優れていたとも思えない。だから史実としては考えにくく、私は江戸時代の創作だと思っている。
川中島は信州千曲川と犀川の合流点だが、江戸川、利根川にはさまれた野田の地形をいったのかもしれない。その名前から生まれた話か、あるいは飯田家先祖が信州から来たか(つまり野田とは関係ない)、つまり武田とは全く関係ない話なのかもしれない。

と、ここまで書いたら深井吉兵衛氏の「醤油の由来とその発達」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1915/48/10/48_10_378/_pdf
で武田文書にその記述があるとの文章を見つけた。当時の野田近辺の目吹城にいた佐々木義信が甲斐武田氏に属していたというのである。

ま、その昔はさておき、近代の話にする。
この場所にあった旧亀屋の醸造工場は、飯田家が1853年に醤油醸造を廃業した後、茂木房五郎家にわたり、野田醤油(株)を経て最終的にキッコーマンとなった。
大同合併と近代化により合理化がすすみ、この日歩いてきた野田の各所でキッコーマン管理の広い更地、駐車場をみた。
この元飯田家の醸造蔵などはまっさきに不要となったはずである。かつては北側の山下平兵衛商店(キノエネ醤油)と地続きであったと思われる。しかし、この祠のスペースを残し住宅地などになり、すぐ隣にマンションができていた。

そのマンションが気になった。

結婚したころ、妻の伯母夫婦が野田に住んでいた。
伯父は、妻の実家一族の本拠地、竜ケ崎で会社を経営していたが、業績が悪化した。本人たちは子供がなく年も取ったので、会社と南柏の自宅を処分、従業員たちに十分退職金を出して、自分たちは野田にマンションを買った。キッコーマンとは何の関係もなかったのになぜ野田だったのか分からない。

妻は子供のころから可愛がってもらっていたようで、結婚して1986年1月、1987年7月と2回、遊びに来た。その後、伯父が脳梗塞を患い、こちらの足が遠のいた。1993年1月、里帰り出産した妻と生まれたばかりの次女を自宅に連れてくる途中、野田に寄った。長女と息子のどちらかが風邪をひいていて、年寄りにうつすとまずいというので、妻が赤ん坊の顔を玄関で見せることにして、父子3人は道路上の車で待っていた。
小雪が舞い、醤油の匂いがした。

薄情というか、(私は)その後はお見舞いにもいかず、2005年伯母がなくなった。安孫子の葬祭場で福祉の女性に車いすを押された伯父に会った。彼は言葉も発せなくなっていて、翌年亡くなった。18年ぶりだった私が分かったかどうか。
(グーグルビュー)
左:キノエネ醤油
右:ローズハイツ野田愛宕B棟

伯父伯母の家は3回行ったけれども、自分で車で運転していったのは93年の1回だけ、それも妻のナビだから、道順、マンションの場所は全く覚えていない。
しかし、今回野田を歩き回って醤油の匂いがしたのはここだけだった。

後ろ髪を引かれる思いで帰宅、妻に伯父伯母の住所を聞いたら、やはりここだった。
その時生まれた次女は今年34歳、二人目の子がおなかにいる。


2026年3月22日日曜日

野田4 豪邸巡り(2)茂木家一門と歴代社長

3月12日、野田市の高校へ講演にきたが、少し歩いただけで野田市というのは全体がキッコーマンという特殊な市だということが分かった。

高校生に危険ドラッグすなわち大麻と覚せい剤の話を1時間50分してから、野田市の散策を再開した。

高校の向かいにあった茂木家の表札は「茂木佐平治」であり(前のブログ)、現当主の襲名前の旧名を書かれるより、つまり個人名よりも肩書のほうが表札には便利ということがわかる。

その前を南に向かって歩く。
右側は樹木が茂り中が見えない。
突き当りを右に曲がるとやはりキッコーマンの管理地。
11:59
グーグル地図を見ればキッコーマン研究開発本部とあるが、更地になっている。
その向かいは厳島神社弁財天とあるが、社有地で入れない。

「150メートル先左折すればキッコーマン国際食文化研究センター」という矢印。 
その方向に右折。
12:01
左側は地図では野田小型運送(株)だが、注意書きや看板はキッコーマン研究開発本部である。
名所マークの旧野田醤油の第一給水所はこの中にあるらしい。

いっぽう、道の右側はモダンな茂木佐平治邸とは逆の歴史的豪邸。
12:02
茂木七郎治邸

12:02
表札はないがグーグル地図で確認した。

道は突き当り、左折して南へ行けばキッコーマン国際食文化研究センター、茂木本家美術館に行くようだが、北への道に惹かれて右折した。
12:03
左:茂木本家(茂木七左衛門)
右:茂木七郎治家

本家は塀に沿って蔵がある。
角を左折した。
12:04
左:茂木本家
右:キッコーマン新研究開発棟

幸い私が歩くところは外国人どころか日本人観光客もいない。
12:05
茂木七左衛門(本家)正門
豪邸というより大名屋敷である。

本家正門の反対側(南)には茂木本家美術館がある。
この時期ちょうど当館の誇る北斎の「冨嶽三十六景」が展示されていたようだ。
誰もが知る「大波」「赤富士」など売れ行き好調だったため当初36図の予定だったが10図を加え、46図で完結したらしい。今回は全46図を一堂に展示している。

ちなみに美術館の創立者は12代当主茂木七左衞門(1907-2012)。若い頃から美術品を蒐集し2006年に開館した。近世から現代まで幅広く、北斎や広重などの浮世絵のほか、横山大観、梅原龍三郎、中島千波など約4300点を収蔵する。その財力おそるべし。
12:06
左:茂木本家
右:キッコーマン新研究開発棟

右の新研究開発棟の敷地は途中まで入れるようになっていた。
12:08
向こうに鳥居、左に古い門があった。
地図を見れば茂木七郎右衛門家
鳥居は亀甲萬琴平神社、毎月10日に一般公開されるらしい。
茂木本家も敷地内に稲荷神社がある。

本家と新研究開発棟の間の道を行くと朝歩いた県道(流山街道)に出た。
すなわち興風会館、キッコーマン本社、千秋社の並ぶ通りである。
千秋社のわきの道をのぞいたら、さっき見た七郎右衛門家の古い門が見えたので入っていった。もうここらはすべて茂木一族の私道であろう。
お屋敷があった。
12:12
茂木七郎右衛門家(たぶん)と昔の門(右)

ここまで茂木一族の豪邸を5軒みてきたが、ここで整理しておこう。

最初に野田の歴史で出てくるのは
1.茂木七左衛門、本家・櫛型屋(1)
高梨本家が醤油製造を始めた翌年(1662)、初代が野田でみそ醸造業を始める。
高梨本家とは違ってそれ以前の歴史はよくわからない。
この家は1766年、醤油醸造に切り替えた。

2、茂木佐平治・亀甲萬印(2)
1688年、本家初代の二男が分家。
当初は穀物商だったが、3代佐平治(1729-1807)が1782年に醤油醸造を始め、のち成功して本家をしのいだ。
4代目は幕府御用醤油造を命じられ(1838)、4代目、5代目と地代官を務めた。明治になって茂木学校を建てて寄付したのは、この家の6代目である。
キッコーマンがこの家の商標を社名にしたのは、統合前の出荷量が圧倒的だったのだろう。

茂木利平家 
1863年、佐平治家から分家し、味噌醸造を始め、1872年より醤油を専業とする。

3.茂木七郎右衛門・柏家(3)
1764年に本家4代・七左衛門の夫人が孫娘を連れて隠居分家、この家をおこし、1768年に22代高梨兵左衛門の嫡男を養子に迎えて醤油醸造を始めた。
この家は明治になって高梨周造家、高梨孝右衛門家の工場を吸収した。

ちなみに野田醤油の初代社長は本家ではなく、ここの六代・七郎右衛門である。
この家からは多くの有力分家が出た。
1821年に茂木房五郎が分家して醤油醸造を始める。
1858年に茂木七郎治が分家(4)。
1873年に中野長兵衛が分家(5)した。

カッコの(1)~(5)は写真を撮ってきた5家である。

4. 茂木房五郎・木白家(きはく印)
1821年に七郎右衛門家より分家して醤油醸造を始める。
初代房五郎(茂木広右衛門、 二代目七郎右衛門の嫡男)は、分家した1821年に本家当主・3代目七郎右衛門が野田大火で死んだため、自業を廃し本家の後見となった。
1855年、二代房五郎(茂木広治)が飯田市郎兵衛家の工場を借り受け醤油仕込を始め(飯田市郎兵衛家は1853年に醤油醸造を廃業)、1872年、自家醸造に復す。
1884年、三代房五郎が借り受け中の飯田市郎兵衛家の工場を買い取った。
この家から
1877年に茂木啓三郎が分家(誉家)。
1906年に茂木和三郎が分家。

5. 茂木七郎治家・かね七
1858年に七郎右衛門家から分家。
初代は三代七郎右衛門の二男。質商を始め、財を成した。

6、 中野長兵衛家
1873年、5代七郎右衛門の二男(6代七郎右衛門の弟)が七郎右衛門家から分家、中野長兵衛家を興こした。醸造はせず醤油問屋を営んだ。
先代長兵衛の養子となって家督を継ぐ、と人物興信録昭和9年版にあるが、https://dl.ndl.go.jp/pid/1078694/1/244、これだと中野家というものがあったことになる。
この中野家というのがどういう家だったのか調べきれなかった。
茂木、高梨一族が大同合併した野田醤油(キッコーマン)の14人の歴代社長のうち3人がこの中野家から出ている。

7.茂木勇右衛門家・向店
1822年に本家6代七左衛門の二男が分家して醤油醸造を始める。
妻は3代七右衛門の娘だった。

以上、茂木一族の全体を見た。

明治20年(1887)成立した野田・流山の醸造家14軒からなる野田醤油醸造組合は、
高梨兵左衛門、茂木七左衛門、茂木七郎右衛門、茂木佐平治、茂木勇右衛門、高梨孝右衛門、茂木利平、都邊與四郎、山下平兵衛、秋元三左衛門、堀切紋次郎、浅見平兵衛、竹内清三郎、島村勝三郎の14家。

大正6年(1917)の野田醤油株式会社設立のメンバーは
ウィキペディアでは「茂木一族と髙梨一族の8家」、キッコーマン公式サイト・しょうゆの歴史では「野田と流山の醸造家8家」などネット情報ははっきりしない。
すなわち後に社長を出す中野長兵衛家と流山の堀切紋次郎家のことである。

及川怜 常磐総合政策研究 第15号(2025年4月)を見れば

1917年9月、11代茂木七左衛門の家に28代高梨兵左衛門、9代茂木佐平治が集まり、株式会社設立を目指して協議。
同年10月には、商標を有力銘柄である佐平治家の亀甲萬にすることが決まり、10月19日に茂木七左衛門の家において、株式会社の合同が成立した。
調印メンバーは
茂木七郎右衛門、高梨兵左衛門、茂木七左衛門、茂木佐平治、茂木房五郎、茂木勇右衛門、茂木啓三郎の7家であり、合同の際には上述の他に立会人として茂木廣、中野長兵衛、内田久次郎が参加した。さらに、11月20日に流山の堀切紋次郎の醤油部も無条件で合同に参加した・・
とある。
つまり、中野家を除く茂木一族6家プラス高梨、堀切であり、堀切家の残った味醂部は万上味醂株式会社(1925年野田醤油と合併、万上本みりんのブランドは残す)となった。

一族8家(堀切家は古くから高梨家と縁戚関係にあった)の合同設立という経緯から、同族経営の弊害を防ぐ工夫がなされている。

「創業8家のキッコーマンへの入社は1つの家から1人に限定する」
「創業8家出身であっても入社後のえこひいきはせず、役員や社長にする保証はしない」
「社長は特定の家で独占せず、一番経営能力のある者を選ぶ」
「創業家は社長の人事に口出ししない」
これらは茂木家・高梨家・堀切家にそれぞれ残されていた家訓を吟味し、一族共通の17条の家憲として1919年に成文化した。

野田醤油ーキッコーマン醤油ーキッコーマンの歴代社長は
1.茂木七郎右衛門:1917 - 1929
2.茂木七左衛門:1929 - 1943
3.茂木佐平治:1943 - 1946
4.中野栄三郎:1946 - 1958
5.茂木房五郎:1958 - 1962
6.茂木啓三郎:1962 - 1974
7.茂木佐平治:1974 - 1980
8.茂木克己:1980 - 1985
9.中野孝三郎:1985 - 1995
10.茂木友三郎:1995 - 2004
11.牛久崇司:2004 - 2008
12.染谷光男:2008 - 2013
13.堀切功章:2013 - 2021
14.中野祥三郎:2021 - 現職
である。

14人のうち、11,12代以外は創業家。
ここで5代社長は茂木房五郎、その分家・茂木啓三郎は次の6代社長になっている。

この房五郎家は1821年に七郎右衛門家より分家した。
今まで歩いてきたところに屋敷はない。
グーグル地図を見たら北隣の愛宕駅のすぐそばにあった。
それを見て帰りの電車に乗ればちょうどよい。

本町通り(流山街道)をいくと途中、交差点の角に割と大きな神社があった。
12:28
愛宕神社
愛宕は秋葉とともに火伏せの神として各地に祭られているが、この神社は東武線の駅名になったこと以外知らない。

キッコーマン5代目社長の祖先、初代茂木房五郎は分家した年に本家当主・茂木七郎右衛門3代が野田大火で焼死したため、自業(きはく印)を廃し本家の後見となったことは書いた。天保の大飢饉の際には茂木一族にも声をかけて窮民救済に乗り出し、自らは夫人の珊瑚のカンザシまで売るなど私財を投じて尽力した。その結果、この愛宕神社に木白祭神(きはくサマ)として祀られ、祠の脇に「木白神霊碑」が建立されたという。

また、キッコーマン6代目社長の茂木啓三郎の祖先すなわち房五郎家から分家した初代は明治35年の冷害で困窮する農民のため、救済事業として境内に井戸を掘ったり、隣接する敷地に愛趣園を作ったりした。

しかし愛宕神社境内には寄らず、まっすぐ房五郎邸を目指した。

ところが愛宕駅そばの現地に着いたが何もない。
12:36
茂木房五郎邸跡
野田線の高架工事とそれに伴う再開発?のため、更地になっていた。

グーグルストリートビューに昔の房五郎邸の蔵と高架前の愛宕駅が映っていた。
(2018年8月)

豪邸巡りの、茂木一族最後の屋敷の訪問は思わぬ形で終わった。

(続く)