2026年3月22日日曜日

野田4 豪邸巡り(2)茂木家一門と歴代社長

3月12日、野田市の高校へ講演にきたが、少し歩いただけで野田市というのは全体がキッコーマンという特殊な市だということが分かった。

高校生に危険ドラッグすなわち大麻と覚せい剤の話を1時間50分してから、野田市の散策を再開した。

高校の向かいにあった茂木家の表札は「茂木佐平治」であり(前のブログ)、現当主の襲名前の旧名を書かれるより、つまり個人名よりも肩書のほうが表札には便利ということがわかる。

その前を南に向かって歩く。
右側は樹木が茂り中が見えない。
突き当りを右に曲がるとやはりキッコーマンの管理地。
11:59
グーグル地図を見ればキッコーマン研究開発本部とあるが、更地になっている。
その向かいは厳島神社弁財天とあるが、社有地で入れない。

「150メートル先左折すればキッコーマン国際食文化研究センター」という矢印。 
その方向に右折。
12:01
左側は地図では野田小型運送(株)だが、注意書きや看板はキッコーマン研究開発本部である。
名所マークの旧野田醤油の第一給水所はこの中にあるらしい。

いっぽう、道の右側はモダンな茂木佐平治邸とは逆の歴史的豪邸。
12:02
茂木七郎治邸

12:02
表札はないがグーグル地図で確認した。

道は突き当り、左折して南へ行けばキッコーマン国際食文化研究センター、茂木本家美術館に行くようだが、北への道に惹かれて右折した。
12:03
左:茂木本家(茂木七左衛門)
右:茂木七郎治家

本家は塀に沿って蔵がある。
角を左折した。
12:04
左:茂木本家
右:キッコーマン新研究開発棟

幸い私が歩くところは外国人どころか日本人観光客もいない。
12:05
茂木七左衛門(本家)正門
豪邸というより大名屋敷である。

本家正門の反対側(南)には茂木本家美術館がある。
この時期ちょうど当館の誇る北斎の「冨嶽三十六景」が展示されていたようだ。
誰もが知る「大波」「赤富士」など売れ行き好調だったため当初36図の予定だったが10図を加え、46図で完結したらしい。今回は全46図を一堂に展示している。

ちなみに美術館の創立者は12代当主茂木七左衞門(1907-2012)。若い頃から美術品を蒐集し2006年に開館した。近世から現代まで幅広く、北斎や広重などの浮世絵のほか、横山大観、梅原龍三郎、中島千波など約4300点を収蔵する。その財力おそるべし。
12:06
左:茂木本家
右:キッコーマン新研究開発棟

右の新研究開発棟の敷地は途中まで入れるようになっていた。
12:08
向こうに鳥居、左に古い門があった。
地図を見れば茂木七郎右衛門家
鳥居は亀甲萬琴平神社、毎月10日に一般公開されるらしい。
茂木本家も敷地内に稲荷神社がある。

本家と新研究開発棟の間の道を行くと朝歩いた県道(流山街道)に出た。
すなわち興風会館、キッコーマン本社、千秋社の並ぶ通りである。
千秋社のわきの道をのぞいたら、さっき見た七郎右衛門家の古い門が見えたので入っていった。もうここらはすべて茂木一族の私道であろう。
お屋敷があった。
12:12
茂木七郎右衛門家(たぶん)と昔の門(右)

ここまで茂木一族の豪邸を5軒みてきたが、ここで整理しておこう。

最初に野田の歴史で出てくるのは
1.茂木七左衛門、本家・櫛型屋(1)
高梨本家が醤油製造を始めた翌年(1662)、初代が野田でみそ醸造業を始める。
高梨本家とは違ってそれ以前の歴史はよくわからない。
この家は1766年、醤油醸造に切り替えた。

2、茂木佐平治・亀甲萬印(2)
1688年、本家初代の二男が分家。
当初は穀物商だったが、3代佐平治(1729-1807)が1782年に醤油醸造を始め、のち成功して本家をしのいだ。
4代目は幕府御用醤油造を命じられ(1838)、4代目、5代目と地代官を務めた。明治になって茂木学校を建てて寄付したのは、この家の6代目である。
キッコーマンがこの家の商標を社名にしたのは、統合前の出荷量が圧倒的だったのだろう。

茂木利平家 
1863年、佐平治家から分家し、味噌醸造を始め、1872年より醤油を専業とする。

3.茂木七郎右衛門・柏家(3)
1764年に本家4代・七左衛門の夫人が孫娘を連れて隠居分家、この家をおこし、1768年に22代高梨兵左衛門の嫡男を養子に迎えて醤油醸造を始めた。
この家は明治になって高梨周造家、高梨孝右衛門家の工場を吸収した。

ちなみに野田醤油の初代社長は本家ではなく、ここの六代・七郎右衛門である。
この家からは多くの有力分家が出た。
1821年に茂木房五郎が分家して醤油醸造を始める。
1858年に茂木七郎治が分家(4)。
1873年に中野長兵衛が分家(5)した。

カッコの(1)~(5)は写真を撮ってきた5家である。

4. 茂木房五郎・木白家(きはく印)
1821年に七郎右衛門家より分家して醤油醸造を始める。
初代房五郎(茂木広右衛門、 二代目七郎右衛門の嫡男)は、分家した1821年に本家当主・3代目七郎右衛門が野田大火で死んだため、自業を廃し本家の後見となった。
1855年、二代房五郎(茂木広治)が飯田市郎兵衛家の工場を借り受け醤油仕込を始め(飯田市郎兵衛家は1853年に醤油醸造を廃業)、1872年、自家醸造に復す。
1884年、三代房五郎が借り受け中の飯田市郎兵衛家の工場を買い取った。
この家から
1877年に茂木啓三郎が分家(誉家)。
1906年に茂木和三郎が分家。

5. 茂木七郎治家・かね七
1858年に七郎右衛門家から分家。
初代は三代七郎右衛門の二男。質商を始め、財を成した。

6、 中野長兵衛家
1873年、5代七郎右衛門の二男(6代七郎右衛門の弟)が七郎右衛門家から分家、中野長兵衛家を興こした。醸造はせず醤油問屋を営んだ。
先代長兵衛の養子となって家督を継ぐ、と人物興信録昭和9年版にあるが、https://dl.ndl.go.jp/pid/1078694/1/244、これだと中野家というものがあったことになる。
この中野家というのがどういう家だったのか調べきれなかった。
茂木、高梨一族が大同合併した野田醤油(キッコーマン)の14人の歴代社長のうち3人がこの中野家から出ている。

7.茂木勇右衛門家・向店
1822年に本家6代七左衛門の二男が分家して醤油醸造を始める。
妻は3代七右衛門の娘だった。

以上、茂木一族の全体を見た。

明治20年(1887)成立した野田・流山の醸造家14軒からなる野田醤油醸造組合は、
高梨兵左衛門、茂木七左衛門、茂木七郎右衛門、茂木佐平治、茂木勇右衛門、高梨孝右衛門、茂木利平、都邊與四郎、山下平兵衛、秋元三左衛門、堀切紋次郎、浅見平兵衛、竹内清三郎、島村勝三郎の14家。

大正6年(1917)の野田醤油株式会社設立のメンバーは
ウィキペディアでは「茂木一族と髙梨一族の8家」、キッコーマン公式サイト・しょうゆの歴史では「野田と流山の醸造家8家」などネット情報ははっきりしない。
すなわち後に社長を出す中野長兵衛家と流山の堀切紋次郎家のことである。

及川怜 常磐総合政策研究 第15号(2025年4月)を見れば

1917年9月、11代茂木七左衛門の家に28代高梨兵左衛門、9代茂木佐平治が集まり、株式会社設立を目指して協議。
同年10月には、商標を有力銘柄である佐平治家の亀甲萬にすることが決まり、10月19日に茂木七左衛門の家において、株式会社の合同が成立した。
調印メンバーは
茂木七郎右衛門、高梨兵左衛門、茂木七左衛門、茂木佐平治、茂木房五郎、茂木勇右衛門、茂木啓三郎の7家であり、合同の際には上述の他に立会人として茂木廣、中野長兵衛、内田久次郎が参加した。さらに、11月20日に流山の堀切紋次郎の醤油部も無条件で合同に参加した・・
とある。
つまり、中野家を除く茂木一族6家プラス高梨、堀切であり、堀切家の残った味醂部は万上味醂株式会社(1925年野田醤油と合併、万上本みりんのブランドは残す)となった。

一族8家(堀切家は古くから高梨家と縁戚関係にあった)の合同設立という経緯から、同族経営の弊害を防ぐ工夫がなされている。

「創業8家のキッコーマンへの入社は1つの家から1人に限定する」
「創業8家出身であっても入社後のえこひいきはせず、役員や社長にする保証はしない」
「社長は特定の家で独占せず、一番経営能力のある者を選ぶ」
「創業家は社長の人事に口出ししない」
これらは茂木家・高梨家・堀切家にそれぞれ残されていた家訓を吟味し、一族共通の17条の家憲として1919年に成文化した。

野田醤油ーキッコーマン醤油ーキッコーマンの歴代社長は
1.茂木七郎右衛門:1917 - 1929
2.茂木七左衛門:1929 - 1943
3.茂木佐平治:1943 - 1946
4.中野栄三郎:1946 - 1958
5.茂木房五郎:1958 - 1962
6.茂木啓三郎:1962 - 1974
7.茂木佐平治:1974 - 1980
8.茂木克己:1980 - 1985
9.中野孝三郎:1985 - 1995
10.茂木友三郎:1995 - 2004
11.牛久崇司:2004 - 2008
12.染谷光男:2008 - 2013
13.堀切功章:2013 - 2021
14.中野祥三郎:2021 - 現職
である。

14人のうち、11,12代以外は創業家。
ここで5代社長は茂木房五郎、その分家・茂木啓三郎は次の6代社長になっている。

この房五郎家は1821年に七郎右衛門家より分家した。
今まで歩いてきたところに屋敷はない。
グーグル地図を見たら北隣の愛宕駅のすぐそばにあった。
それを見て帰りの電車に乗ればちょうどよい。

本町通り(流山街道)をいくと途中、交差点の角に割と大きな神社があった。
12:28
愛宕神社
愛宕は秋葉とともに火伏せの神として各地に祭られているが、この神社は東武線の駅名になったこと以外知らない。

キッコーマン5代目社長の祖先、初代茂木房五郎は分家した年に本家当主・茂木七郎右衛門3代が野田大火で焼死したため、自業(きはく印)を廃し本家の後見となったことは書いた。天保の大飢饉の際には茂木一族にも声をかけて窮民救済に乗り出し、自らは夫人の珊瑚のカンザシまで売るなど私財を投じて尽力した。その結果、この愛宕神社に木白祭神(きはくサマ)として祀られ、祠の脇に「木白神霊碑」が建立されたという。

また、キッコーマン6代目社長の茂木啓三郎の祖先すなわち房五郎家から分家した初代は明治35年の冷害で困窮する農民のため、救済事業として境内に井戸を掘ったり、隣接する敷地に愛趣園を作ったりした。

しかし愛宕神社境内には寄らず、まっすぐ房五郎邸を目指した。

ところが愛宕駅そばの現地に着いたが何もない。
12:36
茂木房五郎邸跡
野田線の高架工事とそれに伴う再開発?のため、更地になっていた。

グーグルストリートビューに昔の房五郎邸の蔵と高架前の愛宕駅が映っていた。
(2018年8月)

豪邸巡りの、茂木一族最後の屋敷の訪問は思わぬ形で終わった。

(続く)

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