3月23日の早朝、京成の宗吾参道駅におり、宗吾霊堂を見物した。(前のブログ)
「宗吾旧宅」と地図にあり、「義民ロード」として観光地化しているが、個人の住宅のようである。途中、麻賀多神社もあり行ってみたい気もしたが、雨も降っていたし、本来の用事の時間までに帰ってこれないので割愛した。
代わりに、印旛沼を見たかった。
なんといっても名前が良い。
インバという音のひびきが沼に合っている。
湖もミズウミなら古語だろうが、○○コというと途端にメルヘンチックになる。その点、ヌマは巨大ナマズか河童、お化けが住んでいそうだ。lakeとlochの違いだろうか。
もっとも我々の時代は沼に住むヌシよりも都市化による水質汚染のイメージが強い。泥にも字面が似ている。
しかし地図で見れば印旛沼の水面も遠い。
干拓した後の地形だけでも見ようと思った。
8:22
宗吾霊堂のそばの道路から西に入り、低地に下りていく道は木々に覆われている。
8:24
低地に下りた。
左側の台地の上は新興分譲住宅地になっている。
(帰りに近くを通ったら「宗吾台」という名前だった。けやき台とかすずかけ台と比べ、古いような新しいような団地の名前である)
8:26
いかにも昔は沼だったような場所に出た。
このあたり、低地と里山が入り組んでいて、もとは印旛沼の入り江の一つだったと思われる。
常総地域に多い、この複雑に谷が入り組む地形はなぜできたか。
もちろん造山運動ではない。氷河による浸食でもないだろう。
低地も台地もそれぞれ平らであることから、土砂がたまる海の時期が2回なくてはならない。
かつては海底だったところが氷河時代に海が後退し、陸となり、そこで初めて侵食で谷ができ、そのあと温暖化でまた海が入り(縄文海進)溺れ谷が土砂で埋まればよい。
そして海がまた後退して残ったのが印旛沼や霞ケ浦、また大小の河川と、こういう低地だろうか。
地形が固まった後の歴史時代になると、印旛沼を含む関東の河川、湖沼の変遷は人間の手によるものになり、 これは自然の理論では考えられない。一般社団法人・農業農村整備情報総合センターの公式サイトにある「水土の礎」をみる。
1000年前
香取海が大きい。
道のなかった昔は水上交通が主だっただろうから、大和政権の東進時期における鹿島・香取の両神宮の立地場所の重要性が分かる。
家康以降の土木工事で利根川の水が関宿でわかれ太平洋に向かうようになった。
今この地図を見て、太平洋の銚子から印旛沼を経て東京湾に入る水路を作れば、はるばる関宿までさかのぼる必要はなく、超便利だったのではないか?
現在でも印旛沼は花見川によって幕張検見川付近で東京湾とつながっているから水路を広げるだけでよかった。
しかし、当時、流通はたいして重要でなかったのだろう。それよりも土木工事としては安直で、食糧増産(幕府、藩の財政改善)につながる新田開発のほうに向かった。江戸時代は遅々として進まなかったが、それでも印旛沼の水域はどんどん狭くなっていく。
最深部で1.8メートルしかない浅い沼で周辺部は湿地帯のようだったことが埋め立てに適していた。
そして戦後、食料増産の国策もあり埋め立てが加速する。
1960年代終わりに中央部の干拓が完成し、沼は二分され、面積も半分以下になった。
農道は誰も通らず、人家もほとんどない。
たまに農家がある。
8:29
千葉というか関東の農家は大きい。
門から家が見えない。
狭い谷に道路も田畑も鉄道も家もひしめく信州とは、これだけ違えば、県民の性格も違ってくるだろう。ちなみに結婚前、妻の実家の千葉茨城の利根川沿いというのは信州人と最も性格が違うと何かで読んだ記憶がある。
8:33
ようやく印旛沼本体の埋め立て跡に出た。
北方を望む。
かつての沼は川のように細長かったから、見えるの対岸であり、奥のほうは海のように全く限りが見えない。
どのくらい広いのだろう?
国土地理院全国都道府県市区町村別面積調(2018)というのがある。https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20171001.pdf
これは市町村面積のほかに湖沼、島嶼の面積がのっている。
印旛沼は2か所合わせて9.4平方キロ。全国33位くらいか。
しかしこれだけ干拓されてしまうと、この数字も意味がない。
いっぽう、湖沼にも流域面積というものがある。そこに流れ込む川の水の降る地域面積のことだ。これは干拓されても変わらない。
印旛沼の流域は487平方キロ。全国1位の琵琶湖(水域669.3、流域8240平方キロ)や、2位の霞ケ浦(水域168、流域2157)、あるいは27位の諏訪湖(水域13.3、流域531.2)と比べると小さいが、これまた印旛沼の流域が全国的に大きいのか小さいのかよく分からない。はっきりしているのは、流域面積の人口が73万人で、小さな印旛沼が広大(水域71倍、流域17倍)な琵琶湖(滋賀県の人口は139万)といい勝負だということだ。
つまり都市圏の沼である。
当然水質は悪い。
有機物の量を反映するCODは(令和6年)、伊豆沼(宮城)の23㎎/Lには及ばないが、13㎎/Lは全国3位。田沢湖(<0.5)、琵琶湖(2.4~3.2)と比べると汚さが際立つ。
(環境省公式サイト、https://www.env.go.jp/content/000386836.pdf)
8:34
こちらは南西方向。
遠くの対岸に順天堂大学のキャンパスが見えた。
8:37
順天堂大学の望遠写真。
佐倉順天堂は大阪の適塾と並んで幕末の洋学、医学の中心だった。
その末裔といえる順天堂大学が佐倉にキャンパスを持つのは大いに意義がある。
ただし印旛沼を境に、あちらは印西市になる。それでも旧佐倉藩領だから問題ない。
時間がなかったから近道しようとしたが、低地と里山が入り組んでいて道に迷った。
結局、宗吾霊堂からくる広い道(県道137号)を通って、朝歩いた「宗吾参道」を戻った。
その途中、スマホ地図に古墳公園という文字をみて立ち寄った。
9:05
このあたり霞ヶ浦や印旛沼も含め海とつながっていたから、人が集まっていたのは、住みやすさ(食料事情)を反映して、米作の古墳時代よりも漁労、狩猟の縄文時代のような気もする。しかし、この場所に6世紀末から7世紀にかけての古墳が18基も発見されたという。
古墳時代、佐倉、成田のあたりにいた豪族は大和政権の支配が及ぶと、印旛の国の造(みやっこ)として任命され、この地方の支配を任された。この古墳群の主と関係があるだろう。
しかし大化の改新以降、国造が治めた国は整理・統合、あるいは分割されて令制国に置き換えられ、国造は支配権を持たず主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。
印旛、千葉、下海上(しもつうなかみ)、の3つ国造支配地は合わさって下総になり、印旛の国造の子孫は氏神である麻賀多神社(まかたじんじゃ)の神主になったという。この神社は印旛沼の東、宗吾旧宅の近くにあり、当初歩いて行こうと思っていたが、割愛したスポットである。
9:05
古墳群はこの1基だけ残してあとは開発されてしまった。
となりは国際医療福祉大学のテニスコート、周囲は新興分譲住宅である。
私有地であったところを成田市が1基分と小さな公園地の分だけ買い取ったのだろう。
ちなみに宗吾参道駅は印旛郡酒々井町だが、この古墳、宗吾霊堂など含め、印旛沼東岸まで成田市である。もちろん1954年の市制施行前の成田町も印旛郡だった。
なお、かつては印旛県も存在した。明治6年に南部の木更津県と合併し千葉県が成立するまで、廃藩置県時の旧6県すなわち古河県、結城県(現茨城)、関宿県、佐倉県、生実県、曾我野県をふくむ大きな県だった。
県も沼も律令時代から続く郡名からとったのだろうが、郡名は古墳時代の地名を反映しているはずだ。
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