2021年12月8日水曜日

長野の墓参りと過去帳をみる

先月、ようやくコロナが落ち着いてきたので、2年ぶりに帰省した。
妻と息子夫婦も同行した。
早く着きすぎて善光寺を回って時間をつぶした。
(別ブログ)

長野電鉄はガラガラ。
信州中野駅からゆっくり家まで歩きたかったのだが、駅を出ると弟が車で待っていてくれた。岩船の家に着くと浦和の妹がすでに来ていた。

昼食前にみんなで村はずれの墓に行った。

いつも裸で持っていく花が、ま新しい手桶に入っている。見れば家紋も付いていた。
弟が墓を新しくして、業者がくれたという。

2021‐11‐06
遠くに北信五岳「まみくとい」がみえた。
写真では斑尾と、その隣の妙高が頭を少し出している。

我が家は他の家より墓石がいっぱいあり手狭だったため、それ以上増えないよう昭和30年代に私の祖父、8代袈裟太郎が「先祖代々の墓」を建てた。
昭和40年代、50年代になると他の家も大きな「先祖代々の墓」を建てていく。その際ぎりぎりまでコンクリートで土台を作るものだから、我が家の墓地だけ取り残されたようになっていた。
また、大正以前の先祖の墓石は、ほとんどが傾いて無秩序にたち、各墓石の間には萱だか葭だかが、強靭な根を張り、弟は草取りに難儀していた。

そこで弟は土の部分をなくし、墓石をきちんと並べたのである。
(並べたのはたぶん業者だろうが、法隆寺を建てたのは聖徳太子というのと同じ)

また初代「先祖代々之墓」は彫りが崩れ始めていたので新しく建てた。
正面の題目は「小林家」だけ。筆跡が弟の文字に似ていると思ったら、紙に書いて渡したのだという。

彼は自然石のような墓石で建てたくて、参考にしようと谷中墓地など歩いていた。しかし、業者に「うちには石がないから、探してきてくれ」と言われ、面倒になって平凡、普通にしたらしい。
祖先の墓石を並べ直すにあたり、土台や袴石は処分し、一番上だけ残した。

戒名しか書いてないから誰が誰だかわからず、多分順番なく並べたのだろう。
しかし両脇にぴったり置かれ、数とスペースが丁度良すぎると、まさか全部並べなかったなんてないよね?

新しく建てた墓誌は我々が知る、祖父母と父の3人だけ書いてあり、ずいぶんスペースがあった。
「子どもも帰ってくるかどうかわかんねえから、こんなに空いてなくてもいいんだけどな」
弟の娘は今年埼玉で就職、息子は3年前長野で就職したが、今年東京に転職した。

農業をする人もどんどん減り、墓の周りを見渡せば、畑だったところに新しいアパートが建っている。子供のころと比べてずいぶん景色が変わってしまった。

さて、並べ替えられた小さな墓石たちをみて、その主たち、先祖たちを見直してみようと思った。
名もない人々ばかりだが、自分の遺伝子のルーツがある。
我が家に家系図なんていう気の利いたものはない。
幸い、過去帳が2冊、仏壇の下にゴミと一緒に放置されていた。
2006年、父のがんが発覚したとき、デジカメで写した。
ぼろぼろの、何十年も誰からも忘れ去られていた、私も初めてみるものだった。
しかし結局、写真を撮っただけで15年パソコンの中に放置していた。
それを取り出して載せる。

2冊とも横に長い紙を折りたたんだもので、朔(1日)から晦日(30日)まで分かれている。そこには亡くなった人の戒名が書いてあった。

一番後ろを見ると、この冊子を買い求めた先祖の名前があった。

上は、「信濃國高井郡岩船村 小林清七 天保十二丑年」 
下は、「大正六巳年五月廿九日善光寺ニテ求ム 小林安治」 
と書いてある。

ちなみに清七さんは第5代、天保12年は1841年である。
我が家は、昭和29年中野市成立まで「下高井郡平野村岩船」といったが、江戸時代は「高井郡岩船村」だったようだ。人家が少ないと住所も簡単だ。

下の安治さんは7代で、善光寺参りした時のお土産か。
家から善光寺までは今の最短距離で20.5キロ、4時間15分。千曲川を渡った橋や道すじはよく分からないが、普通に日帰りできた。(私は高校時代、自転車で1,2回行ったことはあるが、歩いた記憶はない。もちろん計算根拠の10分800メートルのペースでは長時間歩けない)

1日から4日まで
見開き2ページで1日分。毎朝その日のところだけ開いてお祈りしたのだろう。
宝暦二年、天明八年とか遡れば、毎日、見知らぬ先祖の誰かの月命日だった。
5日から8日まで
上は古く、下は新しい。
下の新しいものは、古い過去帳を書き写している。
そして、転写の後、新たに死んだ人を書き足していた。

9日から12日まで

古い過去帳のほうは毎日仏の名前が書いてある。
朔から順に、定光仏、燈明仏、とある。
この写真だと、9日からは大通智勝仏、日月燈明仏、観喜仏、難勝仏、
西暦900年代に中国で定められた三十日秘仏という。

その朝、先祖の亡くなった日でなければ、代わりにこれらの仏の名を唱えたのだろうか。

13日から16日まで
古いほうは戒名没年だけだが、新しいほうは俗名、続柄も書いてある。
17日から20日まで

21日から24日まで
うえは21日から26日まで破損している。
毎朝何十年も開いたり閉じたりしたら、そりゃ破れるだろう。
乳幼児の死亡が多かったようだ、童子、童女が多い。
25日から28日まで

29日から31日まで
上は旧暦だったから29日と晦日(30日)までしかない。

上の過去帳を1841(天保12)年に買った第5代は、小林清七と署名している。

苗字(姓)は明治4年の戸籍法以降に庶民も名乗れるようになったと思っている人が多い。
(明治3年「平民苗字公称許容」の布告)
しかし江戸時代の百姓も普通に使っていたことがこれで分かる。

調べたら武士以外のものが公式に禁止されたのは、享和元(1801)の苗字帯刀の禁令で、その前後でも、私的には使っていたようだ。
そういえば小林一茶(1763-1828)信州柏原の農民だし、苗字を使い、読み書きができて、意外と文化的な生活をしていたのかもしれない。

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