年末、信州中野に帰省した。
長野電鉄で須坂、小布施とすぎると高社山が大きくなってくる。
その麓の中野も見えてくる。
2017-12-29
いつもは駅からまっすぐ実家に行くのだが、今回はちょっと遠回りした。
アパートが目立ち景色が良くない。
今では信じられないが、平成元年までここは我が家のブドウ畑だった。
鉄塔があるから間違いない。
鉄塔に汗をかいたシャツをかけたり、その下で休憩したりした。
畑の名前はオヤシキといった。
子どものころ聞いた祖父の話では、昔、岩船新左エ門高広(漢字不明)という人の屋敷があったからというが、いつの時代か聞かなかった。
(今思い出したのだが、このブログで岩船の地名は関東甲信越ではやった岩船地蔵からきているのではないかと書いたが、人名→部落名、あるいは地蔵→人名→部落名となったのかもしれない)
近くにもう一つ我が家の畑があって、こちらはニシジョザカイといった。
岩船と西条との境にあったからだ。西条部落の人はイワフネザカイといったのだろうか。
こちらは今公園になっている。
駅の正面は中野市の中心、商店街だが、駅裏は岩船、西条部落の畑であり、昭和30年代までは桑畑、その後はリンゴ、そして桃、ブドウが栽培されていた。
平成元年、駅に西(南?)口をつくり、その畑地帯を区画整理することになった。
農業後継者がいなくなり畑が余り始めたこと、あぜ道が多く車が入らないこと、改札口さえできれば駅前の一等地に変貌することから、話は進んだ。父は岩船地区のまとめ役となった。
区画整理前
既に車社会となり、子どものころとは変わっているが、
昔のままのところもあって懐かしい。
我が家は建て替え前の、大きな青いトタン屋根(トタンの下は藁ぶき)の家。
子どものころから通った二か所の畑もはっきりわかる。
父と一緒のリンゴの消毒は、ホース持ちで泥だらけになりながら、ぼんやりするとホースが作物に引っ掛かり、怒られて嫌だった。
祖母と一緒の草取りはのんびり信濃の国など歌ったりして楽しかった。
畑で眠ってしまったこともある。
駅のそばまで行くと大きなクルミの木があり、ホームから畑側に色んなものが捨てられていた。草むらの中に大人の週刊誌をみつけ、雨や泥で貼りついたページを興味深くめくったり、落ちているコカコーラの瓶を拾ったりした。この瓶は酒屋に持っていくと10円もらえた。当時コーラは瓶つきで40円だった。
中学のころ、ひとりマラソンの練習をしたコースも航空写真の中に見える。
畑の間を自転車のメーターで距離を測り、一周10分くらいだったか。
三日坊主で2,3回走ってやめてしまった。
高3の冬休み、自動車学校に通っているとき、こっそり運転の練習もした。
道が細くて畑から伸びる枝が車にバチバチあたった。
・・・・
幸い、集落部分は手を付けず、駅側の畑の部分だけにとどまることになり、安堵した。
しかし広い道や公園を作ることで土地は減る。二か所あった畑は一か所になり、一部を売って、残ったところにアパートを建てると、我が家の畑は家庭菜園のように小さくなった。
区画整理後。この航空写真には早くも我が家のアパートが見える。
2017-12-29
新しくできた公園の隣に建っている。一棟、5世帯。
グーグルで見たら地図上の目印になっていて、センスのないアパートの名前が恥ずかしいやら可笑しいやら。
老いた父は、田んぼのほうの畑だけでも持て余し、また弟は農業やらないのだから、もっとアパートを建てればよかったのだが、そんなに入居者はいないだろう、と建てなかった。しかしここは駅から5分もかからないから、その後、どんどんアパートは増える。
業者に建てるよう勧誘され、迷うたびに、さすがにもう遅いだろう、と決断せず、結局これ一棟で終わった。弟によれば、今、地域で一番古いので一番安くしているという。父はエノキダケなども始めるのは早かったのだが(私が小学校5年のとき)、後から始めた他の家が栽培を大規模化するのに、そんなに流行は長続きするはずがない、と投資せず、チャンスを逃したことを思い出す。
新しくできた公園は、かつてのニシジョザカイの畑があったところで、その端に看板が立っている。
「・・・小林一美氏所有の埋納銭容器は大正十五年、この岩船南公園付近の畑から出土しました・・・」
えっ? 大正15年とある。
私は幼いころ庭で大きな壺を見た記憶がある。ちょうどその日、畑仕事をしていた祖父が偶然鍬が当たって見つけ、掘り起こして持ってきたものとばかり思っていたのだが、父が生まれる前ではないか。人間の記憶というのはいい加減なものだ。
父は名が残るようなことは何もしなかったが、祖父が壷を見つけたおかげで、こんな形で名が出た。
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