10月24日、ランチに行く途中、谷中墓地を通った。
このとき見たものについては、既にいくつかブログに書いた。
まだ書いていない写真があった。
備後福山藩、阿部家の墓地である。
阿部家の墓所は広くて目立つ。
しかし谷中墓地の中心、すなわち桜並木や交番があるメインストリートからは行きにくい。
要するに道がない。なぜか?
阿部家の墓所は寛永寺墓地であり、いま交番などのある天王寺墓地と背中合わせであった。だから、アプローチの道路は寛永寺側すなわち上野桜木のほうからしか、ついていないためである。
左、阿部家墓所の外壁
右、寛永寺墓地管理事務所
突き当り:青山胤通
2021‐10‐24 11:48
阿部家墓地
ここ数年何回か通っているが、いつも門が閉じられていた。
工事のフェンスに囲まれていたこともあった。
しかしこの日は開いていた。
昔から非常に手入れが行き届いた墓地である。
国土地理院1979-11-14
かつて谷中墓地は墓石より木が目立つほど樹木が多かった。
大きな墓ほど手入れもされず、茂っていた。
しかし阿部家墓所は、その中でも樹木を生えさせなかったようだ。(写真中央)
現在、上野桜木側入り口近くに放置自転車保管所があるが、ここも以前は鬱蒼とした森だった(中央、やや下)。
2021‐10‐24
奥は殿様一家らしい石塔が並ぶ。
阿部家は備後福山の殿様。
1997年、広島の学会出張の帰り、新幹線の福山駅ホームから復元された城が見えた。
そのころ、阿部家については幕末小説に出てくる阿部正弘くらいしか知らなくて、特に関心もなかった。
それが2011年、千駄木に家を買ってから本郷地域の文章をよく読むようになり、2013年に引っ越してからは自転車で文京区役所の帰りなど福山坂を上がって西片を通るようになった。そのころから阿部家の知識が増えていった。西片はかつて福山藩の中屋敷があって、明治以後も阿部伯爵家の邸宅があったからだ。
ところで江戸時代、本郷に西片という地名はなかった。
本郷追分から中山道の西側一帯は阿部伊勢守の中屋敷を中心に武家屋敷であり、東の片側のみ町屋があった。そこを駒込片町といった。
それが明治になって武家屋敷も宅地化され、中山道の両側が町になったため、東片町、西片町としたのである。
しかし昭和39年の住居表示で駒込東片町は、向丘一丁目となり消滅。駒込西片町だけ、文京区西片となった。
阿部正弘は阿部家宗家の11代当主、福山藩主としては7代目。
第5代藩主・阿部正精の5男として生まれた。兄の6代目正寧が藩政に熱心でなく28歳で隠居したため、17歳で家督を継ぎ7代目となった。
優秀さを12代将軍家慶に見いだされ、25歳で老中就任、2年後には老中首座であった水野忠邦をその地位から追い、老中筆頭となったが39歳で急死。
青天を衝けでは大谷亮平が演じたが、肥満体だったそうだ。
墓地中央の古くて大きな石は戒名だけで誰だか分からない(強いて横や裏を見なかった)。しかし左の一角に来ると阿部幽蘭之墓、阿部家之墓、と堂々と書いてあり、ここでようやく阿部家とわかる。
幽蘭は6代藩主・阿部正寧の長女。正弘の姪にあたる。
大名家らしい古い墓石のなかに、まったく異質の新しい墓があった。
菊坂下から上がってくる石坂の中腹に出る。
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こちらは2つとも阿部伊勢守正弘の室と横の目立つところに彫ってあった。
正室:松平治好の娘・謹姫
継室:松平慶永の養女・謐姫
さて、阿部家はどういう家だったのだろう?
戦国時代、酒井、本多、大久保らとともに三河の安祥譜代7家に数えられた。すなわち古くからの徳川家直参の家臣である。家康の関東移封後、阿部正勝が鳩ケ谷で5000石を与えられた。1615年大坂の陣で豊臣が滅亡、徳川の天下が定まった後、正勝の子の正次が2万石の大名となった。正次は大阪城代を務めるなど急速に発展、加増され(1626年で8万6千石)、彼をもって江戸期の阿部宗家の初代とする。
2021‐10‐24
阿部家奥津城
林立する代々の巨石に比べ、何と上品なことか。まるで芸術品のよう。
横が墓誌になっていて三人のお名前があり、裏に回ると
阿部正実 平成四年七月
とあった。いまも正の字を通字(とおりじ)とされているようだ。
ここで、西片における阿部家について書いておこう。
明治16年(1883)参謀本部陸軍部測量局
(国際日本文化センター所蔵)
明治維新で江戸の大名屋敷は政府が没収した。
福山藩中屋敷跡は、竹、桑、茶の栽培地となったが、敷地の南のほうに「阿部邸」が描いてある。ちょうど今の誠之舎のあたりである。
その後、阿部家は元の敷地を買い足されたのであろうか、屋敷地も南の崖線まで広げ、明治から戦後まで西片台地の先端部分に邸宅を建てた。
また、他の大部分の地は分譲され、東大教授をはじめとする明治上流階級の住宅地となった。
東京都区分図文京区詳細図(日本地図株式会社、1947)
(国際日本文化センター所蔵)
当時すべて10番地ということは、一人が一区画として保持していたことを意味する。
もちろん南端にみえる阿部家である。
かつての阿部家跡に行ってみる。
江戸、明治と町の成立が全く違うとはいえ、西片と東片は街並みがあまりにも違うのが面白い。中山道を越えると西片。
西片公園からさらに南下
ゆったり分譲したのだろう、広い道路の中に木がある。
目白近衛町を思わせる。
明治以降、都内有数の高級住宅街というより、文明開化を進めた東大教授らが集まった元祖山の手という西片。
戦後できた田園調布や成城学園などと違い、ここに居を構えることは金持ち以外に特別な意味があった。
誠之舎の斜め前
豪邸が並ぶ。この左からかつての阿部邸。
阿部邸の正門は敷地北側で、このあたり右側だったと思うが表札はなし。
戦後、阿部邸の敷地の大部分はさらに分譲され、一般住宅となった。
かつての阿部家敷地内に新たにできた道路(誠之舎の南)を東に進み、やはり戦後新たにできた坂道をおりる。
崖下の道を西に行く。
この道は、まだ西片台地、南崖の中腹で、かつては阿部家の敷地内だった。
右に豪邸が続くが表札は阿部でない。
その坂を上がり始めると表札があった。
2021‐12‐10
阿部正実邸
谷中墓地に新しく墓石を据えた方と同じ名前であった。
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