2017-12-29
この年末、中野の駅からすっかり市街化された道を実家まで歩いた。
かつて、ここが我が家の果樹園だった証拠は、鉄塔である。
かつて、ここが我が家の果樹園だった証拠は、鉄塔である。
この鉄塔がリンゴ畑の端に建ったのは、私が小学生のころだったと思う。
ある日、畑に行ったら、ものすごく深い穴が掘られていて、側壁に地層がみえた。田舎では土木工事などなかったから、生まれて初めて見た穴だった。
大きな石の層、砂利の層、土の層、といろいろ見えたことを覚えている。
大きな石の層、砂利の層、土の層、といろいろ見えたことを覚えている。
ごろごろした石は赤錆の色で、その層は、あたかも、ここが川の底だったかのようだった。
信州中野は夜間瀬川の扇状地にできた町である。
扇状地というのは山から平地に出た川が、川筋を定めず、放射状にまんべんなく大量の土砂を押し出すことで成立する。私が深い穴で見た多くの石は、はるばる志賀高原のほうから運ばれてきたのだろう。
そのころ小学校の社会で、ふるさと中野の5万分の1の地図を配られ、等高線を赤鉛筆でなぞり、畑と水田の場所を塗り分けさせられた。
等高線はその扇のかなめを中心に弧を重ねる。その結果、地下水も等高線に沿って湧き出て、各部落もその弧の上に並ぶ。
私の生まれた岩船もその中の一つだ。
集落の下のほうはその湧水を利用した水田、上のほうは水がないから畑になる。
1966(昭和41年)
地形図・地勢図図歴 - 地図・空中写真閲覧サービス - 国土地理院
mapps.gsi.go.jp/history.html
ちょっと等高線が分かりにくいので
押鐘宏貴氏の論文の図(2014)を拝借する。
中野は勝沼ほどではないが、扇状地として地理の教科書で取り上げられる。
農地の利用が扇状地の性質(湧水の分布)によって区分されていることから、勝沼より教材として優れていると思うが、西部丘陵で扇の端が遮られているから、一般小学生には勝沼のほうが分かりやすい。
小学校の時は何も思わなかったのだが、今、千曲川の川筋がおかしいことに気が付く。
なんであんなに窮屈な山の中を縫うように流れているのかということだ。
グーグル航空写真を見ても、5万分の1の地図をみても、広々とした中野平を流れればいいではないか。
扇状地というのは土砂をためる。では扇状地ができる前、土砂がなかったら、中野平はどうだったか?
ずっと標高が低く、千曲の水を呼び込めただろう。
等高線を見ても明らかなように、千曲川はかつて中野平を流れていたと考えるのが自然である。
それを裏付ける資料が、実家にあった区画整理の封筒の中から出てきた。
コピー1枚だから出典は分からない。
『往時の遠洞湖跡』
「應永十三年八月(西暦1406年)夜間瀬川大洪水以前の図」
応永13年とあるが、描かれたのは最近だろう。部落名はほとんど今と同じだし、現在の千曲川の形、山の位置など正確すぎるからだ。おそらく古今の地図を参考に再構成したものと思われる。
古地図では大河が中野平を流れ、(小布施の松川や夜間瀬川をはじめ)大小の川が湖に流れ込んでいる。今の中野西部丘陵は二本の千曲川に挟まれた島になっている。
もとの資料は分からないが、もし1402年に、この図の通りだったら面白い。
文献に残る時代以降に、200年か300年かそこらで扇状地が形成され、それが大河の流れを変えるとは、すごいことではないか?
ところで、今この古地図を見ていて思ったのだが、
千曲川は、中野の遠洞湖だけでなく、更級郡、埴科郡から続く善光寺平に広大な湖を作っていたのではないか?
古代は道がないから、陸上より水上交通が盛んであった。そして琵琶湖や諏訪湖と同じように、その周辺に豪族が発生したと思われる。埴科古墳群や、中野西部丘陵の双子塚は、この湖があったから出来たと考えられないだろうか。
また岩船、西条は、室町時代の古銭が大量に発掘された場所であり、古くから奥信濃の中心であったと思われている。その理由が、この場所が大きな湖のほとりにあることで、善光寺平南部との交流の玄関口であったから、とは考えられないだろうか。
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