黒姫山は、信州中野(中心部)の人々にとって、離れていても特別な山である。
彼等は「まみくとい」という呪文のような言葉を知っている。
斑尾、妙高、黒姫、戸隠、飯縄の頭文字。
北からこの順番に、独立峰として等間隔、ほぼ同じ高さで並ぶ。
子どものころ、畑で草取りをする祖母から山の名前の覚え方として、この5文字言葉を教わった。
当然、見る場所が変われば、位置や高さがずれる。
我が家の畑で見えても、歩いて通った最寄りの小学校や中学からは手前の丘陵(片塩山)で遮られて見えない。同じ中野市でも北部、南部ではどれかが隠れたりする。この言葉は、中野の町内周辺とその東のごく狭い範囲でしか成立しない。
高校生のころ、中野高校の文化祭で登山部が「まみくとい」というタイトルでポスター発表していて、祖母以外に使う人もいるんだ、と驚いたことを覚えている。(それまで祖母の造語だと思っていた)
その北信五岳(これも中野でしか通じない単語)の中央で最もきれいな円錐プリン型をしたのが黒姫山である。
さて、黒姫伝説。
幾つもバージョンがあって、最も知られている話をすれば
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春、高梨政盛(1456-1513)は黒姫をつれ家臣と花見に出かけた。
盃を上げていると一匹の白蛇が姿を現し、黒姫は政盛に促されて白蛇にも盃を分けてやった。その夜、黒姫のもとに小姓が現れて求婚する。彼は昼間、姫から盃を頂いた者だという。その気高く美しい様に、姫も心を惹かれた。
数日後、彼は黒姫を嫁にもらおうと政盛のもとを訪ねた。
政盛から見ても立派な青年ではあったが、自らを大沼池の主の黒龍であると話す小姓に対し、人間ではないものに黒姫を嫁がせる訳にはいかないと反対した。
それから毎日のように小姓が城を訪ねて来るようになって100日、政盛は彼に試練を課す。しかしそれは政盛が仕掛けた罠であり、痛めつけられた小姓は正体をさらし、怒って四十八池の水を落とそうと嵐を呼んだ。
黒姫は小姓に酷い仕打ちをした父、政盛を責め、黒雲に向かって嵐を鎮めるよう叫び、鏡を高く投げ上げた。すると黒龍が姿を現し、黒姫を乗せて駆け上った。
洪水で荒れ果てた眼下の中野を見て嘆き悲しむ黒姫に、黒龍は許しを乞うた。
それから二人は共に山の池へと移り住み、その山は黒姫山と呼ばれるようになった。
****
そのご黒姫は毎年7月中旬、中野祇園祭に合わせて里帰りし、このとき、たった3粒でも必ず雨(涙)を降らせるとは、子供のころよく聞いた話だ。
(中野の祇園祭は、1510年高梨政盛が越後の戦いで関東管領、上杉顕定を討ち取り大勝したことを記念して行われた馬乗り行事に由来するといわる)
黒姫伝説には幾つもバージョンがあって、
四十八池の水を落とそうとした黒龍に気付いた地獄谷の山神が、恩顧のあった高梨氏の人々を守るべく、燃えたぎらせた地獄の火で、落ちてくる水を蒸発させてしまった。竜蛇はあわてて水を戻したが、既に遅く、大沼池、岩倉池、琵琶池、ほか4池を満たす程度の水しか残らなかった
とか。
あるいは、
自身を犠牲にしてでも民衆を救おうとした黒姫が城を出て、頼朝から授かったという家伝の名剣と、自身の黒髪を出会った翁に渡し、翁が池に剣と髪を投げ込むと、池の中の竜蛇が剣をのみ込んで倒れ、池の水が赤く染まった。山の方に黒い雲が起こり、嵐となり、黒姫の姿は消えてしまった。その山は現在の黒姫山となった。
とか。
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中野は夜間瀬川(沓野川)扇状地にある。
扇状地というのは何回もの土石流、洪水によって作られる。
夜間瀬川は今、北の端を西に流れているが、東の端を南に流れていた時代も、それほど遠くない。
全てを押し流し地形を変えてしまったという應永13年8月(1406年)夜間瀬川大洪水は、黒姫の父とされる高梨政盛(1456-1513)が生まれる50年前だ。
志賀高原の大沼池、四十八池は夜間瀬川の水源である。
高梨一族、沓野川、真山城、日野城と具体的に固有名詞が出てくる黒姫伝説は、「昔々、おじいさんとおばあさんが」というのではない。よくある、洪水、干ばつを起こす水神(龍、大蛇)に対する美女の人身御供の話をもとに、人々の記憶に新しい大洪水と高梨氏による治水を踏まえた物語であろう。
「中野市史」(1981)の著者は、今も使われている八か郷用水の掘削時期を、黒姫伝説を根拠の一つに、高梨氏の中野進出後とした。
灌漑用水の掘削、山ノ内方面にまで及ぶ夜間瀬川水利権の確立は、鎌倉時代の中野氏では無理である。
岳北まで領地を持っていた高梨氏が夜間瀬川の出口(用水の取水口)を抑えた後、川を北の端、高社山麓に移して堤防を築き、用水を掘削したのだろうと。
洪水と治水、高梨の息女と黒龍。
山の名前は、山に近い人ではなく、毎日よく見える、低地の人々がつける。
高梨の館、中野小舘からは、まみくといの順番にきれいに見え、真ん中の山が最も美しい。だから彼等はその山を黒姫の山に選んだのだろう。
それまでこの山を何と呼んでいたのかは不明である。
リンク:
中野扇状地の考察
中野小館と高梨氏
千駄木菜園 総目次
当然、見る場所が変われば、位置や高さがずれる。
我が家の畑で見えても、歩いて通った最寄りの小学校や中学からは手前の丘陵(片塩山)で遮られて見えない。同じ中野市でも北部、南部ではどれかが隠れたりする。この言葉は、中野の町内周辺とその東のごく狭い範囲でしか成立しない。
高校生のころ、中野高校の文化祭で登山部が「まみくとい」というタイトルでポスター発表していて、祖母以外に使う人もいるんだ、と驚いたことを覚えている。(それまで祖母の造語だと思っていた)
その北信五岳(これも中野でしか通じない単語)の中央で最もきれいな円錐プリン型をしたのが黒姫山である。
黒姫(中央)と妙高(右)
白く小さい戸隠(左)は、左からの飯縄のすそで隠れている。
美しい景色だが、この地点で「まみくとい」は成立しない。
さて、黒姫伝説。
幾つもバージョンがあって、最も知られている話をすれば
****
春、高梨政盛(1456-1513)は黒姫をつれ家臣と花見に出かけた。
盃を上げていると一匹の白蛇が姿を現し、黒姫は政盛に促されて白蛇にも盃を分けてやった。その夜、黒姫のもとに小姓が現れて求婚する。彼は昼間、姫から盃を頂いた者だという。その気高く美しい様に、姫も心を惹かれた。
数日後、彼は黒姫を嫁にもらおうと政盛のもとを訪ねた。
政盛から見ても立派な青年ではあったが、自らを大沼池の主の黒龍であると話す小姓に対し、人間ではないものに黒姫を嫁がせる訳にはいかないと反対した。
(志賀高原の大沼池、右の子供が私。1960年代前半)
それから毎日のように小姓が城を訪ねて来るようになって100日、政盛は彼に試練を課す。しかしそれは政盛が仕掛けた罠であり、痛めつけられた小姓は正体をさらし、怒って四十八池の水を落とそうと嵐を呼んだ。
(四十八池。小学校1、2年のころ。背後は叔父、叔母たち。
当時は遊歩道もなく自由に歩いた)
洪水で荒れ果てた眼下の中野を見て嘆き悲しむ黒姫に、黒龍は許しを乞うた。
それから二人は共に山の池へと移り住み、その山は黒姫山と呼ばれるようになった。
****
そのご黒姫は毎年7月中旬、中野祇園祭に合わせて里帰りし、このとき、たった3粒でも必ず雨(涙)を降らせるとは、子供のころよく聞いた話だ。
(中野の祇園祭は、1510年高梨政盛が越後の戦いで関東管領、上杉顕定を討ち取り大勝したことを記念して行われた馬乗り行事に由来するといわる)
黒姫伝説には幾つもバージョンがあって、
四十八池の水を落とそうとした黒龍に気付いた地獄谷の山神が、恩顧のあった高梨氏の人々を守るべく、燃えたぎらせた地獄の火で、落ちてくる水を蒸発させてしまった。竜蛇はあわてて水を戻したが、既に遅く、大沼池、岩倉池、琵琶池、ほか4池を満たす程度の水しか残らなかった
とか。
あるいは、
自身を犠牲にしてでも民衆を救おうとした黒姫が城を出て、頼朝から授かったという家伝の名剣と、自身の黒髪を出会った翁に渡し、翁が池に剣と髪を投げ込むと、池の中の竜蛇が剣をのみ込んで倒れ、池の水が赤く染まった。山の方に黒い雲が起こり、嵐となり、黒姫の姿は消えてしまった。その山は現在の黒姫山となった。
とか。
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中野は夜間瀬川(沓野川)扇状地にある。
扇状地というのは何回もの土石流、洪水によって作られる。
夜間瀬川は今、北の端を西に流れているが、東の端を南に流れていた時代も、それほど遠くない。
全てを押し流し地形を変えてしまったという應永13年8月(1406年)夜間瀬川大洪水は、黒姫の父とされる高梨政盛(1456-1513)が生まれる50年前だ。
志賀高原の大沼池、四十八池は夜間瀬川の水源である。
高梨一族、沓野川、真山城、日野城と具体的に固有名詞が出てくる黒姫伝説は、「昔々、おじいさんとおばあさんが」というのではない。よくある、洪水、干ばつを起こす水神(龍、大蛇)に対する美女の人身御供の話をもとに、人々の記憶に新しい大洪水と高梨氏による治水を踏まえた物語であろう。
「中野市史」(1981)の著者は、今も使われている八か郷用水の掘削時期を、黒姫伝説を根拠の一つに、高梨氏の中野進出後とした。
灌漑用水の掘削、山ノ内方面にまで及ぶ夜間瀬川水利権の確立は、鎌倉時代の中野氏では無理である。
岳北まで領地を持っていた高梨氏が夜間瀬川の出口(用水の取水口)を抑えた後、川を北の端、高社山麓に移して堤防を築き、用水を掘削したのだろうと。
應永13年8月(1406年)夜間瀬川大洪水以前の中野扇状地
延徳田んぼは遠洞湖。千曲川が中野を縦断している。
延徳田んぼは遠洞湖。千曲川が中野を縦断している。
岩船はそのほとりにある。
山の名前は、山に近い人ではなく、毎日よく見える、低地の人々がつける。
高梨の館、中野小舘からは、まみくといの順番にきれいに見え、真ん中の山が最も美しい。だから彼等はその山を黒姫の山に選んだのだろう。
それまでこの山を何と呼んでいたのかは不明である。
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中野扇状地の考察
中野小館と高梨氏
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