2025年2月12日水曜日

日本郵船と氷川丸、神社の船名と空母への転用

1月8日から18日まで豪華客船・飛鳥IIの連続する3つのクルーズにのっていた。
2つ目の駿河湾クルーズが終わって横浜に朝、帰港。夕方、3つ目の広島に向けて出港するまで時間があった。船内の部屋で過ごしても良いが、横浜を歩いてみようと思った。

乗客は、優雅な生演奏の中、整列した船長はじめ乗務員に見送られながら下船していく。そんな中を通るのは照れ臭いので皆降りて乗務員たちも解散してから下船した。

大さん橋から山下公園のほうに歩くと氷川丸が見えた。
戦前から北米航路の貨客船として活躍し、いまは保存され重要文化財になっている。
2025₋01₋13 10:24
着物を着た娘さんがいた。
近年、曜日も分からなくなっていたが、飛鳥に乗っているとき全くテレビを見なかったこともあり、この日が成人式ということを知らなかった。
みなとみらいを背景に写真を撮っていたが、この場所にいるということは船をバックにも撮ったのだろう。
10:26
船尾を陸側にして泊っている。
氷川丸は飛鳥IIと比べると大分小さい。
総トン数(船全体の容積の指標)で比較すると11,622トンと50,444トン。

氷川丸鳥瞰
このグーグル写真では、ちょうど向こうの大さん橋に現代の客船・飛鳥IIとにっぽん丸が停泊している。
今の船は煙突が船尾側だが、氷川丸は真ん中より少し前にある。
商船三井のにっぽん丸(手前)と日本郵船の飛鳥II

10:28
船にはいるタラップの文字・NYK LINE の NYは、日本郵船のNIPPON YUSENであろう。次がKKなら株式会社で問題ないのだが、Kの一文字だとKABUSHIKI KAISHAのどちらだろうと思ったら、KAISHAとルビがふってあった。
日本郵船は1893年に株式会社に改組されたが、その前は「日本郵船会社」であったからだろうか。(その前は郵便汽船三菱会社、源流は三菱財閥の始まりとなった九十九商会である)。

タラップには白地に赤の二本線のマークも見える。
坂本龍馬の海援隊の隊旗と同じである。
海援隊は前身の亀山社中のころからユニオン号やいろは丸による貿易や物資の運搬で利益を得ようとした。いっぽう岩崎弥太郎は慶応3年(1867)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会の主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事した。海援隊が土佐藩の外郭機関となったとき藩命により隊の経理を担当した。

明治になると政府は藩営の事業禁止の方針を打ち出した。そこで明治3年(1870)、後藤象二郎、板垣退助らは、私商社として九十九商会を設立、藩の海運事業を弥太郎に任せた。翌年、廃藩置県により土佐藩は消滅、藩の負債を肩代わりする条件で、弥太郎が九十九商会を手に入れた。そして明治6年三菱商会と改称する。

三菱商会は明治8年(1875)、解散した国策会社の日本国郵便蒸気船会社から汽船の払い下げ、定期輸送事業を譲り受け、郵便汽船三菱会社と改称、発展する。発展は海運だけにとどまらず、多角化し財閥にまで成長していく。
(郵便汽船三菱会社は、1885年三井系国策会社の共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。)

日本郵船は今も三菱グループの中核企業であり、海運業界では我が国トップ、世界でも連結売上高で二位である。

そして、いまもなお、飛鳥II含めNYKの船の煙突にはこの海援隊以来の「二曳き」のマークがある。
飛鳥II 左舷後方から

このNYKのタラップまでは自由に来れる。
船内にはいると入場受付窓口がある。入場料300円(老人200円)だが、日本郵船の株主優待券を持っていたので無料で入った。
氷川丸の入場パンフレット

入ったエントランスロビーはBデッキ。
飛鳥IIの豪華ホテルのようなホールと比較してしまう。
10:31
左舷の部屋番号が偶数というのは飛鳥IIと同じ。偶然なのか、決まりなのか。
10:31
氷川丸客室配置図・Bデッキ宿泊定員202名
とある。全体の乗客定員が286人だった。
10:33
一等児童室。遊んだのはさぞかし上流階級の子どもだろう。
二等児童室はあったのだろうか?
一等食堂
当たり前だが当時は飛行機がなく、海外に行くものは皇族から庶民まで、すべて船だった。
1937年秩父宮夫妻がイギリス国王ジョージ6世の戴冠式に出席した。
秩父宮両殿下乗船時の特別ディナー
メニューを見れば現代のフルコースより豪華である。

秩父宮は3月、同妃とともに横浜を出港、カナダ、アメリカを経由してイギリスを訪問、7月中旬までロンドンに滞在した。スイス、ドイツを巡遊し、イギリス、カナダ経由で、10月2日乗船、10月15日に横浜に帰港した。
氷川丸はフルコースの中に「日本料理」があり、松茸やすっぽん、シジミなども積んでいた。(日露戦争の三笠は冷蔵庫がなく、食料として生きた牛を積んで飼っていたが、このころは冷蔵庫があった)
メニューをさらに見れば「胸腺肉のトゥールーズ風」「白鳥のバター焼き」「乳飲み子牛肉の冷製仕立て」など読み取れる。
10:33
メインディッシュの再現
しかし、現代の最高ディナーに差がないこうした料理よりも、三等客室の人のメニューに興味がある。一等食堂や現代のディナーと比較してみたい。
BデッキからAデッキに上がる。
飛鳥と同じように上階ほど高級である。
最上階のAデッキに一等客室、特等客室がある。
10:35
廊下を利用した一等読書室。
一等社交室
ここを利用する客は上流階級の人々であり、何もすることがない長期の船旅ではさぞかし親しくなったであろう。

こういう廊下や、ドアの外は就航時なんだったのか、当時の船内見取り図が欲しい。

10:37
展示室。もとは何だったのだろう?
氷川丸・日枝丸・平安丸の艦内設備案内パンフレットと
シアトル航路の航行スケジュール

この3隻は要目が同じ姉妹艦で、昭和初期、日本郵船が北米シアトル航路用に建造した(1930年竣工)。当時、日本郵船はアメリカ・カナダとの貨客船運行競争の一環として、新型船を必要としていた。またワシントン海軍軍縮条約(1921₋1922)で航空母艦の保有を制限された海軍も、平時には商船として運用し、有事には空母に改造可能な大型貨客船を求めていた。
(戦艦は厚い防御壁、甲板を必要とするから重くなり長距離の航行に適さないが、空母は速力を出すため防御壁は薄く、商船からの転用が可能。)

海軍は、ほかに日本郵船がサンフランシスコ航路用に建造、1929₋30に竣工した浅間丸型貨客船3隻すなわち浅間丸、龍田丸、秩父丸(後に改名し鎌倉丸)も有事に航空母艦へ改造する予定で設計の段階から口を出した。(浅間丸は氷川丸級より大きい総トン数 16,947トン。)

ただし、この6隻は海軍に徴用されたが、潜水艦母艦(平安丸)や輸送艦などになり航空母艦にはならなかった。
しかしその後、日本郵船が1938年から優秀船舶建造助成施設の政府補助によって建造中だった、新田丸級3隻、橿原丸級2隻の貨客船を途中から空母に改造した。すなわち冲鷹(新田丸)、雲鷹(八幡丸)、大鷹(春日丸)、そして隼鷹(橿原丸)、飛鷹(出雲丸)である。すでに戦況の悪化と、航空機、搭乗員の不足により期待された働きはできなかったが。

ちなみに、今述べた日本郵船の貨客船11隻はすべて神社名から艦名をとっている。さらに細かく見れば氷川丸、日枝丸、平安丸の姉妹艦はすべて「H」の頭文字でそろえた。新田丸級に至っては一番艦から順にN、Y、Kであり、日本郵船会社の英名である。

つい連想したのは日本海軍の練習艦4隻である。戦闘を主任務としない5890トン。4隻とも三菱重工横浜船渠で建造されたが、香取、鹿島、香椎、橿原とこれも神社名。香取・鹿島は古くから東国で武門の神として崇められ、香椎宮は三韓征伐の神功皇后、橿原神宮は大和に進軍、平定した神武天皇を祀る。軍艦名としてふさわしく、「鹿島立ち」ということばから練習艦の名にもよいが、「か」でそろえたあたり、凝っている。

帝国海軍の艦名は良い。物量では敵にかなわないからせめて詞藻で心を込めたか。
もっと書きたいが、話がずれるので氷川丸に戻る。
一等室の乗客は景色に変化のない船旅に飽きないよう、ダンスパーティ、ビリヤード、ビンゴ大会などが用意されていた。
横浜からシアトルまで13日。
今回私が飛鳥で10泊したことを思うと、それほど長くもなく、船内で乗客同士が親しくなるにはちょうど良いかもしれない。
生糸の荷
氷川丸は純粋な客船ではなく貨客船であり、船倉が6つあった。当時もっとも重要な輸出品は生糸。高価な生糸を守るため、湿気を防ぐシルクルームがあった。

ちなみに、横浜からニューヨークまでは、サンフランシスコ経由より氷川丸のシアトル経由のほうが1日早かった。

順路に従うと展示室から外に出た。
10:43 Aデッキ右舷
2008年2月、Sophion社招待の夕食会が LA外港・ロングビーチの記念艦・Queen Mary であった。北大西洋航路用に1936年竣工、総トン数 81,237トンだから氷川丸とは比べ物にならないほど大きいが、このデッキを見てなぜか思い出した。(もっとずっと広くて床の板が古かった。1967年に引退。博物館船兼ホテルとして静態保存されている。

再び船内に入ると左舷側にまわる。
10:44
一等客室。
バス・トイレはないが洗面用の流しはある。
婦人用トイレ
展示用なのか実用なのかよく分からない。

男性用。
わざわざドアが開いているが、どうも現在も使用できるようだ。
10:45 一等特別室
秩父宮やチャップリンが利用したらしい。
特別室は浴室がある。
外に出た。
10:47 
Aデッキの左舷から。
みなとみらいのビル群の前に大さん橋と飛鳥IIが見えた。

AデッキからCデッキまで降りる。
10:49
Bデッキ 定員202名 
Cデッキ 定員358名とある。
よく見るとCデッキには食堂や調理室があり、客室にはベッドが4つくらい入っている。

しかしB、Cデッキの乗客定員を合計すると560人。いっぽう、日本郵船氷川丸公式サイトでもウィキペディアでも全部で286、283₋331人で、この違いは何か? 乗務員も含んだ数字だろうか。(株主優待無料券ではあと3回行けるので、確認に行っても良いが)

もっとも氷川丸は数奇な運命をたどり、そのたびに改装があった。乗客定員などは年代を規定しないと決まらない。

すなわち、1930年に竣工した後、シアトル航路で活躍。
1941年8月、戦雲急を告げシアトル航路は閉鎖。11月北米の邦人引き揚げに従事。
11月、海軍に徴用され第四艦隊(南方諸島防衛)に所属し、病院船に改造。二等食堂は畳敷きの第二病室、三等食堂が手術室になったりした。

戦後は1945年12月、横須賀地方復員局所管の特別輸送船となる。
45,000人の引揚者を日本へ運んだ。

1946年8月、国内航路に復帰。
1953年、11年ぶりにシアトル航路に復帰。最後は1960年8月27日に横浜からシアトルへ出港。10月1日に横浜、10月3日に神戸に到着。神戸から横浜に回航され航海を終えた。

・・・
Cデッキから機関室に入れる。
10:50 機関室

映画タイタニックで主人公たちが忍び込んだ機関室を思い出す。
もっとも、かの船は1912年竣工、石炭ボイラーで動いていたから現場の人数も多く、この景色とは違うが。

10:54
11:00
出口のタラップから
氷川丸から出ると正面、山下公園の向こうにホテルニューグランドが見えた。
昭和2年(1927)開業。氷川丸で洋行する前夜あるいは帰朝した夜、泊った人もいるに違いない。

1960年に航海を終えた後の氷川丸は、
1961年5月、山下公園に係留され、氷川丸マリンタワー社がユースホステル、イベント会場、見学施設として運営した。
2007年氷川丸マリンタワー社が解散、船は日本郵船に戻され、
2008年一般公開、
2016年国の重要文化財(歴史資料)となった。
昭和46年(1971)、中学3年生になったばかりの4月、修学旅行は神奈川、東京だった。
上野まで列車できた後、バスで城ケ島、油壷にいき、東京に戻って首都の見物をした。
その間ほとんど記憶にない。当時は今と違って写真をあまり撮らなかったのだが、アルバムに集合写真4枚がある。
4枚とは鎌倉大仏、皇居二重橋、国会議事堂、そしてなぜか氷川丸だった。
わざわざ来たのに船内に入らず写真を取っただけで立ち去ったのではないかと思うほど、何も覚えていない。


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