2025年2月5日水曜日

新宮2 丹鶴城と附家老の水野氏、徐福

1月17日、新宮に上陸して神倉神社、熊野速玉大社を訪ねた。
中央からたいして道もなく、人も少ない辺鄙なところになぜ大きな神社ができたのか、前のブログでここの神話の時代について考えた。

その後の新宮について書く。

このあたり(現在の三重、和歌山・両県の牟婁4郡)は熊野国造がいて、熊野国があったが、律令制が始まるころは紀伊国に編入された。平安時代は熊野三山が整備され、上皇たちの熊野詣が始まるが、相変わらず他の地からは隔絶されていた。

平安末期、河内源氏第5代の源為義(義家の孫、義朝の父すなわち頼朝の祖父)が、熊野三山を統括した熊野別当の娘(新宮神官鈴木重忠の娘との説もあり)と通じ、10男となる源行家がうまれる。
行家は以仁王の令旨を諸国の源氏に伝え歩いたことで知られる。彼は新宮十郎、新宮行家とも称し、熊野新宮氏の祖となった。頼朝の叔父にあたり、同世代であったが、のち頼朝の命で捕らえられ斬首された。

熊野別当家は15代・長快の死後、新宮家と田辺家に分かれた。為義の娘、すなわち行家の同母姉・鳥居禅尼(頼朝の叔母にあたる)は、熊野水軍の棟梁・新宮別当家の嫡男・行範に嫁いだ。行範は15代の孫であるが、のち19代熊野別当につく。鳥居禅尼は、範誉(那智執行家)、行快(22代別当)、範命(23代別当)らを産んでいる。鳥居禅尼は女性ながら頼朝から地頭に任命され、鎌倉幕府の御家人になった。

神倉神社の石段が頼朝の寄進というのは、こうした関係があったからか。
9:25
駅前の地図。上が東。

熊野速玉大社から南東に少し歩くと川沿いに小高い丘がある。
新宮城である
10:38 
丹鶴城遠景
もともとここには熊野別当の別邸があり(本邸は速玉大社の南のほう)、先に述べた鳥居禅尼がここに住んだ。彼女は、出家前は丹鶴姫と呼ばれたことから、新宮城は丹鶴(たんかく)城とも呼ばれる。
10:41
新宮城入り口
歩いてきて、この入り口に至る手前(写真左のほう)にお寺のような建物があった。しかし寺名はなく、「正明保育園」と書いてあった。塀が新宮城のそれと同じで連続した感じであったから城の一部かと思った。
しかし帰宅後調べると、天理教が所有しているらしい。1891年(明治24年)に西側のふもとにあった二ノ丸跡に天理教南海大教会が建てられ、1972年にお城の東側に移転すると天理教会婦人部によって現在の正明保育園が開園した。
10:41
丹鶴城公園 説明板
明治以降、城跡は民有地であったが、1980年に新宮市が買収、公園とした。城山を紀勢本線の鉄道トンネルが貫ている。
麓の二の丸は公園外だが、公園入口から坂を上がっていくと順に松の丸、鐘の丸、本丸と続く。
10:43
石段を上がっていく。
左(西)は速玉大社の方角で、熊野川が見える。
橋は国道42号線。

戦国時代、新宮を統治した堀内氏は、別の場所の平城(神倉神社のそばの全龍寺のあたり)にいた。堀内氏が関ヶ原で西軍について没落したあと、紀州和歌山に入った浅野家の一族、浅野忠吉が新宮に来てこの丘に築城を始めた。一国一城令によって中断したが、1618年に再開する。
石垣もよく残っている。

10:44
他と比べ、このあたりの石組がきれいなので、これが城内、松の丸に入る城門の跡だろう。


ところが1619年、城の完成を前に、本家の浅野氏は安芸広島に転封、ここにいた家老の浅野氏も従い備後三原3万石を預かる三原城城代になった。
浅野氏と入れ替えに家康の十男・徳川頼宣(1602~)が紀州藩主として入国する。

頼宣は2歳で常陸国水戸20万石を領し、7歳で駿遠三50万石に転封されたから、徳川譜代の家臣が後見人というか、傅人(めのと)というか、おもり役としてつけられた。それが水野重央(重仲)と安藤直次である。二人はのちに頼宣の附家老(つけがろう)となった。
(紀州藩付家老には他に三浦氏、久野氏がいる)。

(以前、犬山城にいた尾張徳川家の附家老、成瀬家についてブログでも書いたが、附家老は大名並みの石高を領し城を持っていても、あくまでも御三家の家臣である。一般に陪臣は直参幕臣より格下に見られたから、附家老は損な立場かもしれない)

頼宣とともに紀州に入った水野重央は、新宮に3万5000石を領した。
(安藤氏は田辺に3万8千石。文京区伝通院前の安藤坂に名を残す。)

水野氏というのは代々三河刈谷城主であり、松平家とは親せきづきあいで、徳川家康の母・於大の方(伝通院)の実家にあたる。この家はのち分かれ、明治維新のとき大名であったのは、下総結城家、上総菊間家、上総鶴牧家、近江朝日山家、そして紀伊新宮家の5家がある。老中で有名な水野忠邦は唐津藩主であったが、この家はのち羽前山形、近江朝日山に転封された。
10:44
上がってきた石段を振り返る。
丹鶴ホールは隈研吾のように縦板が並ぶ。
熊野川の支流、相野谷川の鮒田水門もよく見える。

新宮に来た水野氏は3代にわたり浅野氏の築城を引き継ぎ、1667年ころ近世城郭を完成させた。
(紀州藩は一国一城令の例外で、紀伊、伊勢の二国で和歌山城、松坂城(紀州家伊勢領18万石を統括)、田丸城(伊勢神宮のそば、付家老・久野氏1万石が城代として田丸領6万石を管理)、田辺城、新宮城の5城を保持した)。

水野氏は明治維新まで続いたが、幕末の安政2年(1855)、藩内の牟婁郡木之本村(現三重県熊野市木本町)が徳川御三家紀州藩の直轄から水野氏に知行替えされそうになったとき、住民が猛反対(安政の村替騒動)し中止となった。

新宮の水野家は大名並みの石高、城もちとはいえ、あくまで紀州藩の家臣であったが、領内は明治新政府によって、独立した新宮藩として認められた。すなわち明治4年8月、廃藩置県で新宮県となった。しかし同年11月分割され、熊野川から東が渡会県(明治9年に三重県に統合)、西部が和歌山県に編入された。

それにしても三重県の尾鷲市(人口 14,000人ほど)、紀伊長島などは県庁所在地の津はもとより伊勢松坂からも遠いが、元は紀州で、主邑の和歌山からはとてつもなく遠い。近畿地方の南部全体を紀伊半島とはよくいったものだ。
10:45
松の丸から鐘の丸へ入る門の跡
浅野時代は鐘の丸が二の丸で、西崖下の二の丸(現保育園)が三の丸だった。

それにしても3万5千石の城としては立派である。
昔の熊野は今よりずっと重要な場所だったのかもしれない。
10:46
鐘の丸から本丸・出丸を望む。

10:47
この城址にはまったく建造物がないが、唯一、なまこ壁の建物があった。
倉庫かと思ったら便所で、お借りした。

便所は鐘の丸から本丸に上がる途中にある。
10:49
本丸から西を見る。合流点に亀島がみえた。
写真の時刻から用を足した時間が分かる。

本丸の真ん中にソテツが植わっていたが、他には何もない。
10:51
本丸周囲の崖っぷちには「危険ですから上らないでください」と書いた看板がある。しかし登りやすいように石段ができている。落ちるのは自己責任だと思うが、注意書きがないと市の責任になるのだろうか。石段を作ったのは誰だろう。芝生の踏まれ具合から、ここに来た人たちは、市の職員も含め、縁に登って景色を楽しんでいるのだろう。

10:52
この崖下に竹林の間からお寺のような大きな屋根が見えた。それが天理教の施設だったとは帰宅後に気が付いた。

それにしても、築城時の石垣がそっくり残っていて、観光地らしい新しい建造物が何もない。廃条令により天守閣などすべての建物が明治8年までに取り壊されたのだが、いい城跡だと思った。

しかし、民有地であったため戦後の1952年、鐘ノ丸跡を中心として民営の旅館「二の丸」が開業し、日本一短いといわれたケーブルカーや遊具が設置された。その後、1979年から新宮市が主要部分を買収し、丹鶴城公園として、本丸・出丸・鐘ノ丸・松ノ丸跡などの整備を始めた。ケーブルカーの運行は、1980年11月、美智子妃殿下の訪問時が最後となった。

いま、何も知らない人が見れば、かつてビアガーデンもあり賑やかだったという城址はすっかり明治初めの昔に戻ったようで、「荒城の月」が似合う城としては日本で有数ではないか?
11:02
この下に「水の手曲輪」がある。熊野川の船着き場でも残っていれば見たかったが、石段を降りたら上がるのが大変なので行かず。

新宮城からすぐ西に、丹鶴ホールがある。
2012年学校統廃合のために閉校となった市立丹鶴小学校と、2016年に老朽解体された市民会館の跡地に立つ。
新宮市立図書館、「熊野学センター」、文化ホールの入る複合施設である。
熊野の中心とはいえ、人口わずか 25,768人(2025年2月1日)の市としては立派な施設である。
11:10
丹鶴ホールの一階ロビー
ほとんどだれもおらず、勉強している浪人生、高校生が二人いた。
テーブルがあって無線wifiが使えたので休憩がてら広島、瀬戸内の写真をアップ。
ジュースを飲みながらメモを書いて整理した。

休憩後、再び歩き始める。
アーケード商店街があった。
12:46
「神倉神社 お燈まつり」の幟を掲げている。
しかしシャッターが下り、人もいない。
人口2万の地方都市としては立派なアーケードだが、商店街としては苦しいだろう。

廃藩置県時の新宮藩は牟婁郡のうち142村(うち46村が度会県に編入)とされる。領内3万5千石の半分は年貢として、一人が1年で食べる量が1石とすれば、2万人の中心都市であった。当時の2万は大きい。昔は熊野川の水運で林業が盛んだったこともあり、もっと賑やかな町だったのかもしれない。(1980年でも 42,428人あった)

ちなみに、幟のいう「お燈祭」は毎年2月6日に白装束の約2000人の男たちが松明をもって神倉神社、ゴトビキ岩まで駆け上がり、駆け降りるという勇壮な火祭り。高倉下命が松明をかかげて神武を熊野の地に迎え入れたことを起源というが、少し無理があろう。

アーケードはここから西へ国道42号線まで続く。
しかしそちらへは行かず、東へ行くとアーケードがすぐ終わり、お城が見えた。
12:47
丹鶴町交差点で再び新宮城を望む。
道路は広く、城下町らしい雰囲気はない。
かといって、熊野速玉大社の門前町という感じでもない。
調べたら伊佐田池(いさだのいけ)とも呼ばれる堀があり、大正時代に埋められ一帯が丹鶴町と名付けられたらしい。

歩いている人も少なく、二つの大きな歴史遺産を持ちながら、普通の地方都市という雰囲気である。

さらに東に歩けば城山に潜る紀勢本線を陸橋で越えた。
もう少し東に歩けば、阿須賀神社、池田港跡、蓬莱山、新宮市立歴史民俗資料館などがある。
しかし、新宮駅に出てしまった。

目の前に徐福公園があった。
徐福は、始皇帝の命を受け、長生不老の霊薬を求め3000人の童男童女と百工(多くの技術者)を従え、財宝と五穀の種を持って東方に船出したものの、秦には戻らなかった。(史記118巻、淮南衡山列傳)
史記は古くから日本に伝わったから、各地で様々な伝説が生まれた。
12:52
駅前広場から徐福公園の中国風楼門が見える。

公園内には徐福の墓があるらしい。
墓は紀州藩初代・頼宣が建てさせた。紀州領内でもなぜ新宮だったかというのは、黒潮がぶつかる熊野は、昔から漂着者の話が多かったからであろう。

紀伊佐野に戻る電車の時刻は、
12:58、
14:27、
15:51とある。
この日は16時から社交ダンス講習会があるので15:30までに船に戻らねばならない。
14:27の電車でもいいのだが、ちょうど電車があるので徐福公園には行かず、帰った。

おかげで13:30に終わるランチブッフェにぎりぎり間に合った。

この日はクルーズでの最後の昼食、夕食を楽しみ、ダンスをして眠りについた。

目が覚めると1月18日。
何曜日だろう?
ベッド横のカーテンを開けた。
2025₋01₋18 6:58
横須賀の猿島が見える。2つのタワーはサンコリーヌタワーと
ザ・タワー横須賀中央のマンションか。
7:00 富士山と丹沢
10泊の豪華客船の旅が終わった。
王様のような毎日だった。
寒くて散らかっている家、この年齢になっても面倒な事が起きる日常。横浜港が近づくにつれ、こういう現実に戻れるか心配になる。
7:52
横浜ベイブリッジの前で貨物船が渋滞、入港は少し遅れた。

いつもどおり8時に待ち合わせて朝食。
4人で5階の和定食を食べた。下船は乗客の後となるので、そのまま3人で11階にあがり最後のフレンチトーストをゆっくり味わった。

(終わり)

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