2025年10月1日水曜日

春ジャガイモの種芋の残りを秋に植える

 2013年から千駄木で野菜を作り始めて13年目。

初期のころはナス、キウリや大根、野沢菜、白菜などだった。玉ねぎとジャガイモは長野からもらうので自分で作ることはなかった。

ジャガイモに関しては、台所で出た生ごみ(要するに皮)を捨てていると発芽し、小さな芋ができていたが、邪魔な雑草のように抜いていた。
しかし、だんだん樹木を伐採し耕作地が増えたこともあり、ようやく
2022年、台所で出た皮や芽を、初めて「畝を作って」うえてみた。
2023年、ゴミの皮や芽ではなく初めて「ジャガイモ」を植えた。(長野で発芽したから捨てるといった芋)
2024年、人並みに芋(発芽ジャガと種芋)を植えた。
また秋10月には、完全二期作を目指し6月に収穫した芋を植え、1月にほんの少し収穫した。

そして今年。
2025年春、3月に芋を埋めた。
このとき種芋が余ったので紙に包んでビニール袋に入れ冷蔵庫に5か月保管した。
それを出すと不気味な形態をしていた。
2025₋09₋11
しわくちゃだが枯死してはいない
キノコのようなものが芋から出ている。
キノコのように見えたのは発芽した茎の先にできた小さな芋だった。
これら保管していた4つの種芋は前年の6月に収穫したものであろう。

いっぽう3月に植えた芋はモザイク病にかかりながらも6月に収穫した。
2025年6月に千駄木で収穫した春ジャガ。
外の日影に置いていたら猛暑の夏を乗り切った。

つまり、2024年夏と2025年夏に収穫した2種類のジャガイモがある。
それぞれ保管3か月(新ジャガ)と1年3か月(古種芋)の芋である。
これを秋植え栽培の種として使う。
2025₋09₋15
植える場所はスイカメロンを片付けた1番畝
2025-09-30
古種芋が発芽した。
しかし新ジャガを埋めた穴に変化はない。
心配になったので新ジャガのほうを掘ってみた。
ほんの小さな1ミリほどの芽が出始めていた。

ようやく猛暑の日々が過ぎたと思ったら、この日で9月ももう終わり。
あと3か月で今年も終わる。
あと何年野菜を作れるのだろう。
などと感傷に浸っている暇はなく、秋冬野菜のために夏野菜を片付け場所を作らなくてはならない。
まずカボチャと人参。
2025-09-30
たった一つ生ったカボチャ。
ちょっと見なかったら大量のウリハムシが葉っぱから移動して食い散らかしていた。
追い払ったが、一匹だけ残っている(写真中央)。
ニンジンは3月14日に種を蒔いてビニール保温したもの。
食べきれずに放っておいたら中に芯がでてきた。
白菜用の畝にするためすべて抜いた。
ネコブセンチュウにやられたのか、ひげ根にこぶができている。
7月には食べ終わりたかったが、夏はカレーや煮物をしないため残っていた。
2025-09-30
7番畝北(左)に大根、カブ
南(右)に白菜など(市販苗。実生苗は作成中)

岩手盛岡の駒野宏人氏が土地を借りて野菜を作り始めたらしい。送ってくれた写真は無農薬というのに白菜も大根も防虫ネットをしていなかった。この写真を送ったが、もう手遅れだろう。彼が何年続けるか分からないが、最初の年は失敗すれば良い。


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2025年9月29日月曜日

枝豆がネズミに食われた

 

2025₋09₋03 7:11
スイカとメロンは葉が枯れてきた。
ウリハムシに葉を食われたこともあり無残な姿となって片付けた。

最後のスイカは未熟だった。
結局スイカは13、メロンは2つ取れた。
メロンは追熟しないと甘くならないので、猛暑の室内に置いていた。そしたら良くできたほうが腐ってしまったこともあり、今一つだった。
2025-09-11 7:38
繁茂するサツマイモ
サツマイモは3,5,6番畝に植えたのだが、庭一面に広がった。
まだ苗を植えたばかりのころ、その周りが空いていたので、枝豆の種をまいた。
2025-07-03
(2か月前のサツマイモと枝豆、同じアングルから)

長野では枝豆は畑でなく、田んぼの畔で作った。すなわち掻き揚げた泥に鎌をグサッと刺してその割れ目に一粒ずつ豆を入れて行く。味噌などにする大豆と違って、枝豆は短期間で収穫でき自家用に少しだけあればいいから、こういういい加減な作り方だった。サツマイモの畝の外周に1列に種を入れたとき、そんな記憶が蘇った。

上の写真のように畝は長いので食べきれないほどとれるはずだったが、サツマイモに追いつかれ覆われてしまったせいか実の成熟が遅かった。

スイカやメロンに気を取られていて、久しぶりに見ると、鞘が何かにかじられている。

見れば下に豆の莢が散乱。
ネズミに間違いない。
2025-09-11 7:38
鞘ごと食いちぎって地面で食べたほかに、登ったのか生っている状態で中身だけ齧っているのもある。
腹が立つのは、実がしっかり入って太った鞘だけかじって、やせた鞘はそのままであることだ。あんなに脳が小さいのに幼児よりも知能が高そうだ。

枝豆はナスやキュウリと違ってやせた鞘は残しておいても太らないから、すべて引き抜いた。
桜の巨木を伐採して以来、何匹もいたヒキガエルがいなくなってしまったが(絶滅?)、ネズミが目立つようになった。ここ数年、春先に苗をとるため土に埋めているサツマイモをかじられたり、天井で音がしたりする。

今回かなり大きな実害が出たので、駆除を試みた。
まず、粘着型のネズミ捕りを家屋から庭への通り道と思われる縁の下のところに置いた。
設置して3日後の朝、ネズミ捕りがひっくり返っていた。
みれば毛が2か所にくっついている。

ネズミは足が4本ともマットの上に乗れば逃れられないが、1本以上の足が地面に残っているうちに、それ以上進まなかったのだろう。残った自由な足で暴れるうちに、マットがひっくり返り、背中に粘着するも、縁の下の柱や踏み石にマットがひっかかったときに体重も利用して、暴れるうちに足が地面をひっかき、足、続いて背中が離脱できたと思われる。

その後、2週間以上経つがネズミは二度とかからなかった。
やはり賢い。

枝豆はなくなったものの、サツマイモ、落花生は依然として畑の地中にある。
これに気付くような知能を持っていたら恐ろしい。


2025年9月23日火曜日

飯山城と彦次郎系本多家、佐藤武造、うなぎ

お盆の8月14日、日帰りで帰省した。

長野から久しぶりに飯山線に乗ったが、最寄り駅の立ヶ花で降りずに飯山まで来た。
飯山城を見たかった。
9:28に北飯山駅に着いた。
上り列車の時刻を見れば、10:03の次は2時間後の12:03だから、お城まで行って30分で戻ってこなくてはならない。駅から5分だからできないことはない。

飯山高校(旧飯山北高)の前の道を52年ぶりにあるいて飯山城についた。
9:35
飯山城は平山城で、城山の北側が飯山高校のグラウンドになっている。
皆が休むお盆というのに野球部が練習していた。
練習を見るのは好きだが、そんな時間はなく、城の坂を上がっていく。

こちらは裏門である。しかし戦国時代は上杉謙信の城だったこともあり、かつては北に大手門があったらしい。
9:36
高校生たちが弓道の練習をしていた。
市営の弓道場のようだが、城址に建てる公共施設としては最も景色になじむ。

こちらも練習を見る時間はなく、左の坂を上がる。
9:37
「なぜ三年坂というか不明」とある。ふつうこういう案内板は名前の由来とか歴史エピソードが書いてあるものだ。「三の丸に上がる急な坂」くらいしか書けないなら、わざわざ案内板を建てることもないかと思うが、昔の城内絵図があったので撮った。野球をしていたグラウンドも城内で下御台所、下御長屋があり濠に囲まれていたことや、北中門から入ったことなどが分かる。
9:37
三年坂
飯山城は石垣が少ない。
9:37
三の丸
誰もいない。
日本の観光地は国を挙げて、インバウンドも期待して金儲けを目標に作っている。しかし、ここは(少なくとも今は)市民の憩いの場として存在する。よそ者はそこを静かに見物させてもらうのが良い。日本中がこのようであってほしい。
9:38
二の丸
ようやく石垣が見えた。
城主の公邸であった二の丸御殿は図面も残っていて204坪あったという。
9:38
桝形石垣・本丸門
本丸への入口は一番いい石を積んだだろう。

石垣というのは安土城以後の城に盛んに取り入れられた。それ以前は濠を掘るとき掻きあげた土をもって土塁にした城が多かった。

石垣は遠く離れた石切り場から大勢の人足を使って巨石を一つ一つ運び、積み上げる。こんな大工事はよほど力のある城主でないとできない。

飯山城は13世紀、鎌倉幕府に仕えた泉小次郎親衡が築城したと伝わる。戦国時代になると南の中野にいた高梨氏が武田信玄に追われて飯山城に入り、上杉謙信に助けを求めた。そして謙信が対武田の前進基地として本格的に築城した。
その後、次世代の上杉景勝と武田勝頼の和睦により武田の城となり改修された。

武田滅亡後、甲州征伐に功あった森長可が信長から北信4郡20万石を与えられて飯山城はその支配下に置かれた。しかしその後、上杉景勝、豊臣秀吉と持ち主が変わり、ようやく1598年関一政が3万石で入封したが、彼も翌年転封する。

関ヶ原後の徳川体制になっても城主は目まぐるしく変わった。
1603年、皆川氏
1610年、堀氏
1616年、佐久間氏
1639年、桜井松平氏
1706年、永井氏
1711年、青山氏
1717年、本多氏
石高も2万石から4万石程度。
これでは大きな普請はできない。
もっとも、すでに飯山盆地の中心に平山城があったのだから、敢えて石垣を築く必要もない。

1717年に2万石で入封した本多氏は初代の助芳以下、すべて助の字をもち、9代目で明治維新を迎えた。

飯山の本多氏は三河以来の譜代の家だが、本多氏というのは西三河の国人領主として松平家に仕え、一族から50家以上と言われる大名、旗本が出た。維新後には旧大名家8家が子爵に、また越前松平、加賀の重臣だった2家が男爵に、つまり10家が華族に列した。

大別すると6つの家系がある。
我々がよく知る、酒井忠次、井伊直政、榊原康政とともに徳川四天王の一人とされた本多忠勝はそのうちの平八郎家、また家康、秀忠の知恵袋と言われた謀臣・本多正信、正純父子は弥八郎家、また「鬼作左」と言われ長篠から妻に日本一短い手紙「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬こやせ」を出した本多重次は作左衛門家という系統である。

飯山の本多家は、彦次郎家(豊後守家)である。
これら諸家は嫡流である平八郎家の忠勝から数えて7代前、4代前に分かれ、それぞれの家系から多数の大名、旗本が出た。

9:39
本丸の中心に葵神社
明治維新で各地の城が廃されたあと、本丸に藩主を祀る神社を作る(あるいは移築する)のが流行した。米沢、新庄、鶴岡などだ。葵神社は明治16年に建てられ本多広孝を祀る。ふつうは藩祖とか中興の祖、あるいは最後の藩主を祀るものだが、飯山は違う。本多広孝というのは、飯山とは関係ないずっと昔、彦次郎系本多家の中興の祖、家康時代に活躍した武将である。家康の父、松平広忠から偏諱を受け、今川支配下の松平家、岡崎帰城後の家康を支えた。

葵神社の葵というのは本多氏の家紋である。徳川のは3枚の葉の先端を合わせて図案化したものだが、本多葵は葉柄までいれて3本並んで立っている。

ちなみに本丸に天守はなく二重櫓を代用とした。三の丸にも二重櫓があった。

城山の東の千曲川と堤防道路を見たくて葵神社の裏にまわった。
9:40
葵神社の裏からの眺め
子どもたちが小さかったころ、帰省すると両親は飯山を通って野沢温泉、北竜湖、西大滝ダムなどに連れて行ってくれた。レジャーシートを敷いてみんなで食べるお弁当は美味しかった。
その道中、何度か車中から飯山城を見た。千曲川の向こうに見たと思っていたのだが、今見れば道路はお城のすぐ下、千曲川の手前だった。飯山中学出身の佐藤武造(1891~1972)が対岸の堤防からお城を眺めて描いた絵と記憶が混同したのかもしれない。

ちなみに、弟は佐藤武造が好きで何枚も持っており、私が千駄木の家を買ったとき、お祝いに佐藤の桃の絵をくれた。佐藤は同じ信州(東御市)出身の丸山晩霞に師事し、丸山は太平洋画会の創立に関わり、千駄木に住んでいた。
9:40
本丸には石碑が何基かあるが、見る暇はない。

9:41
本丸から西曲輪を経て飯山市街を望む

飯山城はだいぶ昔、4月の終わりの夜だったか、桜を見に来たことがある。
また、ゴールデンウィークに帰省したときピクニックで来たこともある。
本丸から西曲輪に降りる途中の帯曲輪のあたりでお弁当を食べた。
もちろん父の運転で来たから両親はいたのだが、80年代だったか90年代だったか、私の子供は誰がいたのか、弟家族もいたのかどうか思い出せない。はっきりしているのは城とか歴史に興味がなかったから全く城内を見物しなかったこと。地元だといつでも来れると思っていたのかもしれない。
9:42
西曲輪に降りると、弓道場のほうまで広い空き地になっている。
9:44
西曲輪
ここには1963年に市民会館が建てられた。老朽化したこともあり、2015年11月末 に閉館、翌2016年1月に新しい施設「飯山市文化交流館・なちゅら」が駅の近くに開館、ここの旧市民会館は取り壊され広場となった。

西曲輪の端に小さな飯山城址公園交流展示館「城terrace」があり、入ってみた。
9:45
誰もいなかった。
無料休憩所になっていてWifiも使える。
9:45
飯山城の鳥観図が壁にかかっていた。
四周の堀はほとんど埋められた。

城テラスをでて坂を西におりた。
内長屋のあった曲輪である。
9:47
左:飯山城の城門(移築)と七賢人の像
右:「長野県スキー発祥の地」

西のふもとに近い西曲輪の下は、かつて市民会館に来る人の駐車場になっていたが、今は城門が復元されている。
飯山城には絵図などから5つの二層門を含め13から15の門があったとされるが、明治維新後破却、売却(移築)された。現在、近隣の寺や民家に残る9つの門が飯山城のものとされる。中野市江部の豪農山田庄左エ門家(山田顕五氏)の裏門などもその一つだ。しかし文献などで確実なのは3つだけらしい。

(写真には左隅に壁だけしか写っていないが)移築したこの門は、1993年に丸山家の旧住居の解体にともなって飯山市が復元したもの。実は丸山家でも改築を行ったこともあり、飯山城内の門か上級家臣の門か確証はなく、城内門である確率が高いとして飯山市が復元移築した。
それに先立つ1992年、弓道場の建設にともなう発掘調査で、南中門の礎石が出た。その規模から間口5間、奥行き2間半の二層構造と推定され、丸山家の門(平屋の長屋門になっていた)の部材を使い、それに合うように作り直された。移築というより建築である。

こうして、わずか13分で飯山城の見物を終えた。
9:48
飯山城址整備計画。
普通の城内案内板がないので全体図を収めて残したく撮影した。
私はよく裏口、裏門から入るので帰るときに全体図・案内板を見ることが多いが、これも復習、余韻になってよい。

改めて謙信公築城450年の整備計画を見れば、樹木の整理、案内サインの整備などで安心した。かつて4万人いた人口も2万人を切る豪雪過疎地帯。市の活性化政策として飯山城を観光資源の核としてイベント広場やレストランを兼ねた観光会館など作ろうと言い出す人もいて不思議はない。しかし特定の人(観光客と観光業者)のための公園整備はしてほしくない。普通の市民の憩いの場であってほしい。
9:51
鉄さびで赤くなった道を北飯山駅に急いだ。
踏切の向こうに見える赤い屋根は本光寺。1582年本能寺の変の後、織田軍が飯山から退去して上杉景勝が家臣の岩井信能に飯山城の守備を命じた。彼は城の修復とともに、真西に城の庇護としてこの寺を建て、その後、代々の飯山藩主の信仰を集めた。

このあたりは飯山市街地の北のはずれである。
飯山には、他にも「阿弥陀堂だより」のロケにも使われた正受庵など、歩ける範囲の市内に20余りの寺がある。町中の仏壇通りなども歩いてみたい気もするが、実現するかどうか。

最後に飯山の記憶をもう一つ。
飯山の本多と言えば、書いてきたように飯山藩の殿様、藩主家だが、今の人はほとんど鰻専門店「本多」を思うだろう。
2019年の年末、珍しく(最初で最後?)息子と二人きりで新幹線に乗り、途中上田城を見物したりして帰省した。夜帰京する前に、母と弟夫婦と5人で「本多」に鰻を食べに来た。
この店は藩主家の一族で家老だった人が明治になって創業した。当時は千曲川で鰻が取れたが、その後のダムや治水で激減、東京から電車で運んだ時代を経て、今は九州産のウナギを使っている。現店主は6代目で、本多5代目の娘さんと結婚した松岡氏である。
2019年末というと母が亡くなる4年前で、脳梗塞を患って動けなくなった母はもうあまり食べられず、残した鰻を孫である息子がきれいに平らげた。

北飯山駅には無事、10:00前に到着、上りの列車に乗った。
わずか30分の飯山滞在だったが、来てよかった。
親がいなくなり中野への帰省もずっと少なくなることを考えれば、今まで何度も来た飯山は、もう来ないだろう。

(終わり)

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2025年9月21日日曜日

飯山北、飯山南、飯山照丘高の統合とスキー

 お盆の8月14日、日帰りで帰省した。

長野から久しぶりに飯山線に乗ったが、最寄り駅の立ヶ花で降りずに北飯山まで来た。
ここには飯山城がある。
9:30
北飯山駅

上り列車は 10:03 の次は2時間空いて 12:03 だから、お城まで行って30分で戻ってこなくてはならない。

北飯山は高校時代に1度降りたことがある。
剣道の大会が近くの飯山北高であったからだ。
9:31
飯山高校。
融雪パイプが埋まっている雪国の道路はサビで赤くなっている。

52年前、体育館はこの道路沿いにあった気がする。低い石垣の上の道路際には樹木が植えてあった。
木陰を作っていた木々はなくなり、校舎はすべて新しく、コンクリートばかりが目立つ学校になっていた。
9:32
新しい体育館に垂れ幕が飾ってあった。
「あっぱれ! 全国高等学校スキー大会 男子総合優勝 女子総合優勝」
そうか、飯山北高は2014年飯山南高(女子高)と合併して飯山高校になったんだ。

両校は昔からスキーが強かった。
飯山北では富井澄博、片桐幹雄などが、私が中学のころ信濃毎日新聞スポーツ面に全国的な活躍が大きく出ていた。片桐と野沢温泉中学の同級生で確か山本姓の選手がいて、片桐を抑えて中学生日本一になった。このとき野沢温泉中学から転任してこられた国語の内田全立先生が「ゴン」と「みき坊」と呼んでいたが、そのゴンが誰だったか、今調べたが分からない。

あと児玉修は私と同学年だが、地元飯山の小賀坂スキーを履いてワールドカップ回転入賞の快挙を成したことで知られる。(他の選手はほとんど海外製スキー)。
(小賀坂スキーは明治45年(1912)仏壇町・飯山の家具職人・小賀坂濱太郎が、国内初のスキーメーカーとして創業した。)

女子の飯山南のほうは(最近は知らないが)私が中学の頃は圧倒的に強くて、個々の選手の記憶はないのだが、インターハイ(全国高等学校総合体育大会/全国高校スキー大会)で1966年から1972年まで女子総合で7連勝した。その後、私は長野を離れ信濃毎日新聞の見出しを見ることもなくなり、飯山南のスキーについても関心がなくなった。

ところで、飯山南は制度上は戦後共学となったが、もともと女学校で近くに飯山北があったことから実際はずっと女子だけだった。ところが私が高2から高3になる1974年、長野県は中学区制を導入、長野市を3分割するほど細かく分けた。それと同時に(学区内に普通高校定員が不足するところもあり)、中学のほうで指導でもしたのか「女子高」に男子が入るようになった。男子トイレの完成を待ったわけではないだろうが、中野高校(1974)、飯山南(1975)、須坂東(1976)など順次男子を受け入れた。

1975年4月に飯山南に入った男子は54人。その後、男子が増えていったのか、20年後の1995年に男子がインターハイのスキーで初優勝、1999年からは3年連続して男女アベック優勝した。
ということは、北信濃のスキー選手は飯山北ではなく、飯山南に進むようになったのだろうか? 中学3年の冬にスキーをしていたら進学校の飯山北より偏差値的に入りやすかったか?

・・・
東のほうに飯山北の正門が残っていた。
9:33
旧飯山北高校正門

1903年(明治36)県立長野中学校飯山分校として開校。
1906年  独立して長野県立飯山中学校。
1920年 大正9年長野県令38号により、長野県飯山中学校に改称。
長野県の学校は法令によって「長野県立」でなく「長野県」なのである。

一方、同じ北信で
1923年 長野県上高井中学校として開校、
1925年 長野県須坂中学校に改称した須坂高校より古い。

そして戦後の1948年長野県飯山北高校となった。
長野高校に次ぐ長い歴史を持つ城下町の旧制中学だから宮崎市定ら多くの人材を輩出したが、近年は(我々が中学のころでさえ)、偏差値は須坂のほうが高かった。
中野北部から飯山は4キロ進むごとに積雪が30センチ増える「一里一尺」という豪雪地帯で、人々は進学、就職にあたって、雪の少ない「上(かみ)のほう」を目指した。上というのは千曲川の上流、列車の上り、すなわち善光寺平の中野、須坂、長野方面である。
柳沢の同じ年の従兄弟は須坂に行けたが敢えて「下(しも)の」飯山北を選んだが。

さて、城下町飯山には高等女学校もあった。
1921年 郡立下水内高等女学校として開校。
1922年 県に移管、長野県飯山高等女学校となる。
これが戦後1948年、女子高の飯山南高となった。

同時に飯山南高校は、豊田村など近隣各地に定時制の分校を開設した。
1962年、各分校は統廃合され、照丘分校になる。
1967年、飯山南高照丘分校は定時制から全日制に転換。
(私の高校入学5年前である。このころはまだ戦後ベビーブームの余波が残っていた)。
1974年、照丘分校は独立し、長野県飯山照丘高等学校となった。私が高校3年になった年である。

その後、豪雪地帯、飯山の人口は減り続けた。
私が生まれる前年(1955)に40,089人いたのが、
1975年、30,796人
1995年、27,423人
2020年、19,539人。これは軽井沢町より少ない。

この規模で県立高校3つは多い。(中野も3つ、須坂は4つあった)
飯山の高校3つを統合することとなり、
2007年、飯山照丘と飯山南が統合され、「飯山高校」が飯山南高校の校舎で開校した。
そして2014年、さらに飯山北が統合され、校舎は飯山北の敷地に新築された。
9:35
飯山高校から歩いて2分、飯山城の北西についた。
城跡の一部がグラウンドになっていて、お盆というのに野球部が真面目に練習していた。
スキー部員が夏のあいだ野球をやっていると言われても信じてしまうほどの高校だが、2019年、なんと夏の県大会で優勝した。松商学園や佐久長聖などと違って、過疎の豪雪地帯の飯山など誰も予想しなかった。このこと自体が長野県の野球のレベルの低さを表すようで、もちろん甲子園では初戦敗退した。

ノックを受ける練習を見るのは好きだが、そんな時間はなく、城の坂を上がっていく。
9:36
城内で高校生たちが弓道の練習をしていた。
ここも飯山高校の付属施設かと思ったが市営の弓道場だった。10人立て、貸し切り午前中2100円というから安い。

とにかく忙しいから彼らの腕前は見ず、左の坂を上がり本丸を目指した。

9:39
本丸の中心に葵神社
9:42
飯山城については別ブログで書く。

西曲輪の端に飯山城址公園交流展示館「城terrace」があり、入ると市内の地図があった。
9:45
飯山市の地図

本丸の南で木々の間から見下ろすと学校らしきものが見えたが、この地図によれば飯山小学校のようだ。
しかし小学校にしては名前が大きすぎる。飯山高校のように統合されたものだろうか?
と思って調べたら、予想に反し、明治6年飯山学校、明治22年飯山尋常小学校、とずっとこの名前だった。

さらに地図を見れば飯山駅の西南(飯山市飯山414)に廃校になったような広い敷地がある。ここが統合前の飯山南高校だろうか? と思って調べると旧・城南中学校の跡地だった。それでは城南中学はどうなったかと調べたら、さらに1.5キロほど南西(静間1088)に移転していて、そこが飯山南高校の敷地だったようだ。

城テラスをでて坂を西におりた。
9:47
左:飯山城の城門(移築)と七賢人の像
右:「長野県スキー発祥の地」

日本のスキーは明治44年(1911)、オーストリアのレルヒ少佐が高田で軍人相手に教えたのが始まりという。(高田には日露戦争後に新設された第13師団司令部と第58連隊があった。)

その翌1912年、高田のスキー講習会に出席した飯山中学の教師、市川達譲が飯山中学の生徒にスキーを教えたのがこの城山の斜面だった。当時は日本にリフトはもちろんスキー場すらなかったから、城内の坂だけでなく、絶壁も格好の練習場になったらしい。

旧制飯山中学は各地から生徒が集まっていたが、彼らが郷里にスキーを伝えたという。近くの野沢温泉はもちろん、群馬草津、乗鞍高原などのスキー事始めをみると、飯山中学の卒業生が関わっている。

わずか13分で飯山城の見物を終えた。
9:51
鉄さびで赤くなった道を北飯山駅に向かう。
左に信濃毎日新聞の看板、踏切の向こうの赤い屋根は日蓮宗本光寺。

このあたりは飯山市街地の北のはずれである。
飯山は島崎藤村が雪国の小京都と呼んだそうで、(映画は見ていないが)「阿弥陀堂だより」のロケにも使われた正受庵など、歩ける範囲の市内には20余りの寺がある。いつか歩いてみたい気もするが、実現するかどうか。

飯山高校の前は通らず、違う道で北飯山駅には10:00前に到着、上りの列車に乗った。
来てよかった。
もう飯山は来ないような気がする。

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2025年9月16日火曜日

飯山線と高野辰之のふるさと

実家に帰るときは長野駅から長野電鉄で信州中野に行くのと、飯山線で立ヶ花まで行き、車で迎えに来てもらうのと、2通りある。
近年は弟の手を煩わせたくないので長野電鉄が多いが、かつては運賃が安いこともあり、父や弟の親切に甘え、飯山線を使うことが多かった。

飯山線は信越本線の豊野と上越線の越後川口を結ぶ。電化されていないからディーゼル車が長野駅から出て飯山を経て新潟県に入っていく。

沿線の千曲川に沿って進む景色は絶景だし、飯山も魅力ある街である。
しかし立ヶ花駅から北はこの50年間行ったことがなかった。立ヶ花に着いたら迎えの車で実家に直行したし、また飯山方面には行かねばならない用事もなかったからだ。列車も極端に本数が少ないから行ったとしても帰ってこれず、近年は法事の日帰りが多いので時間的に無理だった。
そのうちいつか行けるだろうと思っていたが、それも危なくなってきた。
飯山線が脇を走る千曲川
左下に信濃浅野駅、中央に立ヶ花、右上に中野市街

8月14日、長野の実家に日帰りで行った。
当初は長野電鉄で行くつもりで長野までの新幹線の切符をとったが、前日、弟が飯山線立ヶ花まで迎えに行ってやる、とラインをくれた。そこで飯山線の立ヶ花以北にいってみることにした。そして昔いった飯山城をみてみたい。
しかし、長野駅到着が8:35、飯山線は10:23までない。2時間近く待つのは嫌だな。
調べたら、新幹線あさま601号は長野駅に8:35に到着し、飯山線が2分後の8:37に出発する。
これに乗れないだろうか?

chatGPTに聞いたら標準乗り換え時間は7分だから非常に厳しいという。それでも駅の階段に一番近いドアを聞いたら、あさま601号なら7号車の後方ドアだと教えてくれた。
ダメもとで、上田を過ぎたら席を移動し、長野到着したら真っ先におり、階段を駆け上がった。70近い男のすることではない。
問題は妻も一緒だったこと。
当初彼女は無理だと反対したが、ダメもとでやってみよう、と強引に誘った。
こういう時は優しく寄り添っていてはダメで、元気な人が先を走って進路を開拓し、目標、ペースメーカーになるべきである。

切符は長野駅までしかなかったが、長野から先の切符を買う時間などないので、イチかバチか、在来線乗り換えの自動改札にタッチしたら通過できた。
(北飯山で降りるとき運転手さんに事情を話し、差額を払ったのだが、スイカのEチケットに長野での出札記録がなかったため、夕方帰京するときは入れなくなった)。

ところどころ妻を振り返りながら走り、何とか奇跡的に飯山線に間に合った。妻は必死に走ったとは言うが、私には歩いるようにみえた。
この無理を通した乗り換えに怒ったらしく、しばらく無言だった。飯山線に何の思いもない彼女には迷惑でしかない。

08:37長野
08:43北長野
08:47三才
08:53豊野
08:57信濃浅野
09:01立ケ花

信濃浅野をすぎ立ヶ花が近づくと列車は千曲川沿いに出る。
ここまで24分間は高校時代からずっと使っている区間だから見飽きた景色だが、立ヶ花から北は高校生時代に2回くらいしか乗ったことがなく、ほぼ初めての景色が広がった。
9:02
立ヶ花駅を過ぎると千曲川はさらに近くなり、右前方に高社山(タカヤシロ)も見えた。

高校時代一度だけ立ヶ花から北に向かったことがある。
高3の6月までは毎日クラブ活動(剣道)があったから、引退して以降のある日、休講とサボりを合わせて早く下校した日だったのだろうか。遠くへ行ってみようと思った。
いつも降りる立ヶ花で降りず、電車に乗り続けた。ガラガラに空いた車両のボックス席で受験勉強をしながら谷あいを流れる千曲川を見ていた。飯山を過ぎ、森宮野原、津南の信越国境か、十日町、越後川口まで行ったのかどうかは記憶にない。そのままどこかで折り返して戻って来た。電車賃はかからず、半日の旅行だった。
9:03
千曲川は相変わらず美しいが、写真を撮ろうとすると森の中に入ってしまう。

たまに夏の合宿などで学生がいっぱいの時があるが、たいていはガラガラ。
もともと日本有数の豪雪地帯を走る赤字ローカル線。1980 年の国鉄再建法に決められた赤字線の廃止基準は、2,000 人/日未満であったが、ピーク時の乗客が一方向 1 時間 1,000 人を超すことで、廃線を免れている。

飯山線の歴史は、地元の有志と信越電力の出資により始まった。
1921年(大正10年)私鉄・飯山鉄道が豊野駅 - 飯山駅間で開業。
1927年、国鉄十日町線が越後川口・十日町間で開通。
1929年、飯山鉄道が十日町まで延伸。
1944年、国鉄が飯山鉄道を買収、十日町線を合わせて飯山線とした。

立ヶ花駅の次は上今井。
中野市(旧)の西側を流れる千曲川の対岸は南から豊野町、豊田村、飯山市であり、それぞれ立ヶ花橋、上今井橋、小牧橋という1本ずつの橋でつながっている。
豊田村は私が故郷を離れたあと、2005年に中野市に吸収合併された。すなわち上今井橋は、市役所のある中野と旧豊田村を結ぶ唯一の橋である。

豊田村は昭和31年(1956) 豊井村・永田村が合併し、一文字ずつ取って成立。これは私の生まれた年だから祖父母たちは豊井、永田、という地名を使っていた。そして豊井は明治22年(1889)の町村制施行のときの上今井村・豊津村の合併、永田はやはり明治22年の永江村・穴田村の合併でできた。すなわち、上今井、豊津、永江、穴田の9文字から、豊と田だけ残っていたわけだが、人工地名だから愛着もなかったのだろう、すんなり中野市に吸収され、名前は消えた。

(ふと『新薬誕生』で扱った大手製薬会社のGSKを思う。Glaxo Smith Klineだが、Beecham、Beckman、Burroughs、 Wellcomeなどの名は最初の合併時は存在しても、次の合併で消えていったのに似ている。)

9:09
上今井を過ぎてすぐ、千曲川の対岸に大俣の部落が見えた。
大俣は中野平中学の通学区の範囲で、倉島郁夫、浅沼利夫の同級生がいた。
飯山線は川沿いの平地・人家の少ないところを通ったから、利用者は対岸の中野市の人が多かった。立ヶ花駅などはほぼ100%中野の人が利用していたから、豊野町蟹沢にありながら、駅名は対岸の中野市立ヶ花からとられた。

上今井の次は替佐。
豊田村の役場があったところ。
ここの斑川を西にさかのぼれば旧永江村にいく。
そこは高野辰之(1876-1947)の出身地である。文部省唱歌の「春の小川」、「紅葉」、「故郷」、「朧月夜」を作詞した。
紅葉、小川はどこにでもあるだろうが、『故郷』の「ウサギ追いし彼の山~」は斑尾山のふもと、「小鮒釣りし~」は斑川と考えても良い。

うさぎ追いし 彼の山
こぶな釣りし 彼の川
夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと

如何にいますちちはは
つつがなしや友がき
雨に風につけても 思ひ出づるふるさと

志を果して
いつの日にか帰らん
山は青きふるさと 水は清きふるさと

高野は高等小学校を14歳で出たあと代用教員を3年務めて1893年長野尋常師範学校(県立)入学、1897年卒業後、教員となった。1898年上京、東京帝大の上田萬年に師事、国文学を学び、帰郷して長野県師範学校の教諭兼訓導、国文学史などを教えた。そして1902年、26歳の時、職を辞し、再び上京、文部省国語教科書編纂委員嘱託を経て役人となった。

故郷の歌詞はその後の彼の思いそのものであろう。
そして3番の冒頭「こころざ~しを果たして、いつの日~にか帰らん~」のとおり、文学博士として故郷に錦を飾ったわけだが、まさに降り立った駅は、この替佐駅である。
この駅は1921年飯山鉄道と同時に開業、かつては賑わったであろうが、1995年に簡易委託化、2023年から終日無人となった。
(2番の冒頭、「如何にいます父母~」で帰郷したのは豊野駅か牟礼駅か。ともに明治21年、1888年開業である。)

20年前の2005年8月、豊田村と中野市が合併した(4月)直後、高野辰之記念館と生家を訪ねた。生家の庭先では親戚子孫の方とお話しできた。記念館は廃校となった小学校の敷地にあり、広くはないホールで夏合宿で来ていた音楽サークルの大学生が無料コンサートをしていた。好きな記念館だが、たぶん二度と行く機会はないだろう。

ところで中野市は、作曲家・中山晋平(1887₋1952)の出身地として、昭和42年1月、滝廉太郎(1879 ₋1903)の豊後竹田市、土井晩翠の仙台市と音楽姉妹都市となった。私が小学校4年生のときである。しかし、今思うと仙台と竹田は名曲「荒城の月」の作曲者と作詞者、またモデルとなった岡城、青葉城があり、姉妹都市にふさわしいが、中山晋平は滝、土井とは関係なく、姉妹都市になるほどではなかったのではないか。その後、昭和55年5月、中野は独自に北茨城市と姉妹都市になった。中山の曲の多くを野口雨情(1882₋1945)が作詞していたからである。こちらは姉妹都市にふさわしい。
・シャボン玉
・証城寺の狸囃子
・雨降りお月さん
・黄金虫
・あの町この町
・兎のダンス
・手の鳴るほうへ
などが中山・野口の作品である。中山は西条八十との作品も多いが、彼は中山以外の仕事も多いし、東京市牛込区出身では姉妹都市提携は無理。

さて、ここで高野辰之に戻るが、豊田村は鳥取市と音楽姉妹都市となっても良かったのではないか。
先に書いた日本の名曲「春の小川」、「紅葉」、「故郷」、「朧月夜」はすべて岡野貞一(1878 ₋1941)とのコンビによる。さらに「日の丸の旗」「春が来た」も二人の共同作品である。

ひょっとして、姉妹都市というのは「市」でないとダメなのだろうか。もっとも豊田村はそんな無理に仕事を作り出すのが好きな昨今の自治体とは違ったのだろう。何でもかんでも世界遺産登録とか、海外との姉妹都市提携とか、そういう住民に関係ない活動とは無縁だった。

さらに高野辰之について書くと、『朧月夜』の「菜の花畑に入り日薄れ~」。
このあたりは野沢菜の種をとるため、千曲川のまわりに菜の花畑が広がっていた。いまは飯山に菜の花公園(ほぼ畑)という観光スポットまでできてしまった。高野は師範学校を出た後、飯山の尋常小学校(現・常盤小学校)の教員になった。この時下宿していたのが飯山の真宗寺で、島崎藤村や大谷光瑞も出てくるのが猪瀬直樹『ふるさとを創った男』である。菜の花畑の向こうに「見渡す山の端(は)霞深し」は高野にとって見慣れた風景であっただろう。
蛇行する千曲川(グーグル鳥観図)
山間部の多い豊田村(左下)と平地の中野(右上)が対照的。
おそらく千曲は広い中野のほうを流れていたのが、夜間瀬川の土砂で埋まり、西の山間部に押しやられたのであろう。

写真左上に蓮駅と小牧橋、奥に高社山、中央の壁田の城山。
中央、三方を千曲が馬蹄形に囲んだ土地がある。その山中に新築された北信斎場「たびだちの森」がみえる。昨年正月に母が焼かれたところ。

09:01立ケ花
09:06上今井
09:10替佐
09:19蓮
09:26飯山
09:28北飯山

替佐をすぎると壁田の城山の裏側の絶壁の下にミヤマの水処理工場があった。
やがて豊田村から飯山市にはいる。
9:18
蓮(はちす)駅の手前
小牧橋、母の実家の柳沢の集落が見える。
ここまでくると高社山は形がすっかり変わっている。

蓮(はす)の古語はハチスである。花托の形が蜂の巣に似ているからだが、この駅の読みはは古語のまま。一日平均乗車人員は66人(2011)。明治22年の町村制施行により、蓮村は周辺の富倉村・常郷村と合併して瑞穂村となり、蓮は大字としての地名になった。

蓮をすぎると列車は千曲川から離れ、急に平地が開けた。
飯山駅は新幹線と交差する。
次の北飯山は、飯山線には珍しいほど、飯山に近かった。
飯山線では唯一の都市であるから、駅が2つできたのだろう。
9:30
北飯山駅
2001年新築の無人駅。
ここは高校時代に1度降りたことがある。剣道の大会が近くの飯山北高であった。
岩船から上今井まで自転車で行って飯山線に乗った。
先に述べた無賃往復旅行は、駅で降りなかったから、立ヶ花以北で下車したのは、このときの1回だけである。

このあと急いで飯山城を見て(別ブログ)、北飯山駅に戻って来た。
上りの列車は10:03のあとは2時間後の12:03までない。
9:59
作り付けの木の長椅子に利用者のノートがあった。
けっこうみんな真面目に書いている。
飯山南(女子高)を卒業、埼玉に引っ越した79歳の女性、数十年ぶりに訪ねてその変わりように知らない街のようだったが、人も自然も素晴らしかったと書いていたり、高校生活に慣れない悩みを書いた若者に59歳の鉄ちゃんがアドバイスしていたり、どれも長々とした文章は電車の待ち時間が長かったことを示す。
10:00
座った正面には乗車証明券発行機と時刻表と、燕の巣。
糞が落ちるので床には新聞紙が敷いてあり懐かしかった。
柳沢の母の実家、赤岩の叔母の家もツバメの巣があった。
このあたりは、同じ奥信濃でも町に近かった岩船(私の実家)あたりと文化が違い、汚いと邪魔ものにせず、燕を大切にしている。

上り列車が来て乗った。
弟には立ヶ花の一つ手前、上今井駅に迎えに来てくれるよう頼んだ。
実家からは立ヶ花も上今井も大して距離は違わなかったし、何より、50年以上降りていない駅を見たかったからである。
10:28
上今井諏訪神社
この神社は駅のすぐ西にあったと思ったのだが、それは勘違いで、すぐ南の県道の向かいにあった。
1971年、中学3年の夏、この神社に3年生全員が自転車に乗って集合した。駅に集まったのに列車には乗らず、ここから延々坂道を歩いてキャンプ場に行った。迷わず行ったから引率の先生もいらしたのだろう。キャンプ場といっても池があるだけで何もなく、夜、キャンプファイヤーとフォークダンスをやれるだけの砂利の空き地があった。できたばかりの、川をせき止めた小さなダム湖のような記憶があるのだが、今地図を見てもそんなところはない。はて、あれはどこだったのだろう? ひょっとしたら列車に乗ったのだろうか?

弟へは列車到着時間より遅い時間を伝えていたから、ぼんやり神社を見ていたのだが、スマホに電話が入り、線路を挟んだ駅の反対側にいるという。
10:28
上今井駅
北陸新幹線の開業に合わせて、2014年にリニューアル工事が行われた。
かつてはリンゴ出荷用の貨物引き込み線があったが、地域住民のための広い無料駐車場になった。しかし1台も止まっておらず、弟は駐車場への入口で待っていてくれた。

飯山城に行った話をしたら「今度行きたいところがあったら連れて行ってやるよ」といった。弟は岩船区の村役が回ってきて忙しいのと、健康に自信がなくなったことから64歳で退職、時間はあるらしい。

上今井には中世の豪族の館のような濠と土塁に囲まれた家がある。内堀館という長野県史跡。現在は臼井さんという方(農業)の住宅になっている。
20年くらい前、帰省中に弟と一緒に見に来たことがある。そのとき、彼は田中秀征の奥さんの実家だと教えてくれたが、確認していない。そこをもう一度見たくなった。しかし、遠慮して迷っているうちに車は上今井橋を渡ってしまった。

お昼は一本木の「おたぎり」で焼肉。ここは非常にいい肉が驚くほど安く食べられる。
食後、がんでなくなった従妹の新盆のお参りに母の実家の柳沢に行った。
岩船に戻って、坊さんが来たり、おしゃべりしたりしているうちに帰る時間になった。

弟は立ヶ花まで送ってくれるという。
来るときは飯山線に乗ったのに立ヶ花に降りなかったら、久しぶりに行ってみたかった。しかし列車がなく、それまで待っていると新幹線が間に合わないので信州中野から長野電鉄で行くことにした。
駅まで歩いても数分なのに、お土産の桃が重いだろう、と弟は車で送ってくれた。
18:06
長野電鉄はパノラマカーだった。
小田急のロマンスカーとして使われていたものだろうか?

両親がいなくなり、今後、帰省するのは法事、葬式くらいになるだろう。
飯山線立ヶ花も長野電鉄信州中野も見納めが近い。
でも、やっぱり私は風光明媚なところより懐かしいところが好きだから、また来るのかな。


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 20161231 飯山線立ヶ花駅