2025年3月4日火曜日

パシフィコ横浜、インターコンチネンタルホテルとT型Caチャネル

1月11日朝、飛鳥IIが横浜に帰港、夕方出航するまで暇な時間ができた。

そこで桜木町駅から懐かしいエスカレーターに乗り、ランドマークタワー、クイーンズスクエアを歩いた。私にとって横浜というのはここだった。

クイーンモールの一番東の端のエスカレーターを上がるとパシフィコ横浜の建物群が目の前に広がる。
11:43
手前から会議センター、インターコンチネンタルホテル、国立大ホール。
メロンを切って立てたようなホテルの形はヨットの帆をイメージしているらしい。

1991年7月に会議センターとヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルが最初に完成。続けて10月に展示ホールも竣工した。さらに1994年4月には国立大ホール(国立横浜国際会議場、5000人収容)が落成した。
すなわち、パシフィコというのはPacificとConventionからとっている。
11:44
展示ホールはつながっていない。

11:44
会議センター
ペデストリアンデッキからの入り口は2階にあたる。

11:45
入るとすぐ学会参加の受付があった。
会議センターは1000人収容のメインホールと約50の会議室があるので、学会は普通ここで開かれる。

私がここで参加した学会は、出張報告書が残っているものだけでも
1993-03₋26,27 薬理学会年会
1993-05₋18 国際脳浮腫シンポジウム
1999-04₋21,22 日本脳卒中学会
2000-03₋23-25 薬理学会年会
2000-12₋01,02 日本アレルギー学会総会
2001-03₋21-23 薬理学会年会
2001-12₋14,15 日本臨床薬理学会年会
2005-03₋24,25 薬理学会年会
2006-03₋08,09 薬理学会年会
2016-03-27-29 薬学会年会

この中で最も印象に残っているのは2000年の薬理学会である。

2000年3月、日本薬理学会がPerez-Reyesを年会の特別講演の目玉として招待した。彼は1998年世界で初めてT型Caチャネル(α1G、Cav3.1)をクローニングした男である。このときの年会長が長尾拓・東大教授で、元田辺製薬で私の上司だったから、彼が1989年に退職してからもずっとつながりがあった。

当時、第三世代のCa拮抗薬としてT型Caチャネルも阻害するmibefradilがロシュ社から発売された。ところが大型化し始めた矢先、薬物代謝酵素を阻害するという副作用で1998年、突然販売中止となった。そこで副作用のないT型Caチャネル阻害物質を探せば、大型商品となると思われたが、スクリーニング方法がなかった。
ちょうどその時、Perez-Reyesがラットの脳からT型Caチャネル(のちにα1G、Cav3.1と命名)をクローニングし、Natureに発表したのである。L型とT型が1984年に電流として観測され、分子実体としてはL型が1987年にクローニングされたもののT型はずっとクローニングされなかった。

たとえば、それまで森泰生氏らは沼研時代から他のCaチャネルの部分配列をプローブにT型Caチャネルを釣り上げようとしていたが、Naチャネルなどが釣れてしまっていた。私もT型Caチャネルは電気生理学での現象であり、実体は既知のCaチャネルでサブユニットの組み合わせによりT型になるのではないかと考えていた。そんなときT型が新しいチャネル実体として取られたのだから衝撃だった。

すぐさま須藤直樹氏とヒトのT型チャネルのクローニングに着手した。
ヒト脳cDNAライブラリーからクローニング、HEKに導入、組換え細胞をつくり、パッチクランプで確認後、マイクロプレートで阻害薬がアッセイできるよう、fura-2負荷による分光学的スクリーニングシステムを世界で初めて確立した(1999年)。
そして約10,000の化合物の中からL型に作用しないでT型のみを選択的に抑制する化合物に到達した。もちろん世界で初めてである。(それまでmibefradilはじめ世間で言われるT型Caチャネル阻害薬は、T型だけでなくL型はじめ他のチャネルも抑制した。要するに、皆ただの選択性のない化合物に過ぎなかった)。

長尾先生は田辺の研究所の顧問をしていたこともあり、私の動きを知っていて、年会長としてPerez-Reyesを呼ぶときに田辺を頼ろうとした。すなわち、薬理学会では飛行機代とホテル代くらいしか出せないらしく、それだけでアメリカから呼ぶわけにいかない。そこで田辺製薬で講演会を開いてもらい、その講演の謝礼としてお金を払ってもらいたいというのである。

お金の話は私は分からないので、やはり長尾さんの部下だった成田寛氏に丸投げした。講演会が終わって応接室でPerez-Reyesが領収書にサインするのを見たら20万円だった。そのあと薬理研の関係者と川口へ出て、そごうのレストラン階の個室で夕食。食事が終わって私がタクシーで彼を埼玉からはるばる横浜まで送ることになった。

真っ暗な車内で沈黙というのもまずいかと思い、(二人とも眠ればお互い楽だったのだろうが)、彼と延々としゃべり続けた。Caチャネルや研究の話が尽きるとPerez-Reyesというのはどういう姓なのかと聞いたり、Tsutomuというのは日本でポピュラーな名前なのかと言われるような、どうでもいいおしゃべりだった。25年前は今と違ってまだ英語ができた。

タクシーは海沿いを走り横浜ベイブリッジを渡って桜木町からみなとみらいに入った。

ベイブリッジといえば、長尾先生は節目の2000年の会長ということで、薬理学会の新しい時代、21世紀が始まることを謳いたかったらしい。しかし新世紀は2001年からだから21世紀という言葉は入れられない。そこで「世紀の架け橋」という意味を込めてベイブリッジの写真を表紙にしたんだ、と自分のアイデアを嬉しそうに話してくれた。
11:46
エスカレーターで1階に降りる。
11:46
1階には参加者のための臨時クロークが作られた。

11:47
1階の奥のほうに行くとホワイエとメインホールの入口がある。
メインホールは地下1階(ステージ方面)1階(客席後方)まで使う。
会長講演や特別講演はここで行われた。

一般口演やシンポジウムは3,4,5階の会議室で行われる。
沼研で1987年にL型Caチャネルをクローニングした田辺勉氏(当時東京医科歯科大教授)の講演があり、Perez-Reyesが興味を持ち、隣に座っていた私に盛んに通訳を求めた。周りに迷惑にならないように、またへたくそな英語が恥ずかしい、との理由でできるだけ小さな声で話していたことを思い出す。
11:47
インターコンチネンタルホテルへの1階連絡口
ホテルと会議センターは1階と2階に連絡口がある。
ホテルでの食事とかお茶とか待ち合わせとか、よくここを通った。

ホテルのほうに行ってみる。
11:48
横浜グランドインターコンチネンタルホテルの1階ロビー

このホテルは接続する会議センターと同時に1991年に開業した。当時 InterContinental Hotels Group (IHG)は日本で1軒だけだったが、現在は10軒ほどあるらしい。
1946年パンアメリカン航空の傘下でイギリスに本部を置くホテルチェーンとして設立された。
(パンナムは文字通りアメリカのフラッグキャリアで日本でも「兼高かおる世界の旅」でおなじみ、私も1984年の新婚旅行で乗ったが、それ以前から経営が悪化していて、1981年にホテル事業を売却した)。

IHGは1988年、西武のセゾングループに買収されたが、1997年セゾンも経営難に陥り、すでにホリディイン・チェーンを買収していたイギリスのバス・ホテルズに1998年2月売却された。さらに全日空ホテルチェーンも一緒になり、だから今は(狭い意味での)IHG、ANAホテル、ホリデイイン、クラウンプラザなど複数のブランドがIHG(広い意味で)の傘下になっている。海外では後ろのふたつは値段が手ごろだったのとマイレージが貯まるのでよく泊った。
11:48
二階に上がる
2000年3月の深夜、チェックインのためPerez-Reyesと一緒にフロントに行くと、赤羽悟美さんがいた。東京にいるのに、こんな高級ホテルに泊まるのかと驚いたが、彼女は長尾先生のところの助手をしていて学会事務局の仕事が忙しくて泊ったのかもしれない。
(ちなみに私は高くて泊れず、かといって埼玉、川越線の自宅には帰れず、川崎のビジネスホテルに泊まった)
11:49
ラウンジバー「マリーンブルー」
いつの薬理学会だったか分からないが、2階のここで森恵美子さんとお茶を飲んだ。
彼女は泰生氏と一緒にここに泊っていて、彼が忙しいから彼女の暇つぶしに付き合ったのかもしれない。森研の若頭というべき清中茂樹君とおしゃべりした記憶もあるが、その時だったか別の時だったか。
表に出ているメニューを見たら高い。昔はもう少し普通の値段だった。
 Edward Perez-Reyes、 懇親会にて
薬理学会の懇親会は参加費が10,000円もしたからふだんは参加しなかったが、この年は彼のエスコートという仕事があったため、会社が会費を出してくれた。ほとんど食べ物がないのに高いこともあり、多くの人は旧友、研究者仲間と飲むときは桜木町の居酒屋に行く。

さて四半世紀後の2025年、ホテルに来たついでにエレベーターで31階まで上がってみた。
11:53
中華レストラン「驊騮(カリュウ) 」
ランチが7,000円と10,000円のコースしかなかった。
昔は韓国料理を含むエスニックレストランが入っていた。
ランチは安く、1000円台で丼ものが食べられた。
森泰生氏らを案内したから少なくとも2回以上は食べている。
11:53
エレベーターから展示ホールが見える。
屋根は波を表しているらしい。

行ってみよう。
12:02
展示ホール入り口
人が多いと思ったら、家具インテリアの展示販売会だった。
ここは学会しか来なかったが、こういう使い方のほうが多いのだろう。
12:03
薬理学会では、ポスター発表と実験機器展がここで行われた。
私は真面目に口演会場で座っていることがあまりなかった。ここに来ればポスターの前をうろうろする数年ぶりの友人たちに会えた。また誰もいなくても、機器展で装置メーカーの旧知の営業の人から最近の研究動向について情報が得られた。
12:04
入場券がないので中に入れず、当時の雰囲気はここで思い出すしかない。

2000年の年会ではこの会場で須藤氏が筆頭著者としてヒトT型Caチャネルのクローニング、発現組換え細胞をポスター発表した。
その時点で我々は世界初の選択的阻害薬を得ていたが、企業内研究であるため発表できなかった。

その物質、L型抑制のない純粋なT型阻害物質は、期待していたミベフラジルのような降圧作用がなかった。
T型チャネルは、入る電流量(Ca量)は少ないが、より深い膜電位でも開く。このことから当時、そして今でも教科書では他のチャネルより先だって開き、トリガーのような役割を果たすとされ、すなわち心臓ではペースメーカー、脳では神経の興奮に関与するとされた。そのことから心臓では頻脈、脳ではてんかんに効くと期待された。

ところが、世界初の選択的阻害薬を得てみると、徐脈も抗てんかん作用も見られなかった。つまり面白い化合物を手にしたものの、医薬品にするべく適応症が消えてしまった。
こうなるとますます発表しづらくなる。
なぜなら会社にとって発表のメリット(宣伝効果)がないということと、(論文にするときは)教科書と違う結果は査読されるときに厳しいコメントが多いということからである。

(このことからも、教科書に書いてあることは事実と違うということが分かる。教科書では、本来「推定」であったものがいつのまにか、あたかも定説のようになる)

このころ会社はイギリスGSK社と業務提携することになり、研究プロジェクトについて情報交換した。彼らは当時どこもやっていなかったT型Caチャネルに興味を示し、共同研究することが決まった。
するとそれまでずっと私とT型チャネルを無視してきた(というより薬効が見つけられないという理由でマイナス査定という逆風を吹かせていた上層部が突然口を出すようになった。上層部と言っても私と同年代の人々で単に出世する能力があっただけで専門研究に優れていたわけではない。
彼らは新たにプロジェクトチームを作ったのだが、私は呼ばれなかった。お役御免。リード化合物を見つけたらお前に用はないということだ。そしてテーマ立ち上げから育てたT型Caチャネルは奪われるように私の手から離れた。偉くなる人は人の気持ちというものが分からないのだろうか?
(こんなこともあり、ますます私は研究所がいやになり、研究よりダンス、翻訳、歴史散策などのほうに心が移り、最後は転職した)

さて、さすがGSK社は、田辺の物質などあてにせず、α1Gだけでなく、その後クローニングされた別のT型Caチャネルのα1H、α1Iの組換え細胞まで作り、それぞれに選択的な化合物に到達した。しかし彼らにおいても想定される病態モデル動物には効かず、やはり適応症を見つけられなかった。

T型Caチャネルは、それまで漠然と言われていたようなペースメーカーとか、興奮の制御とかに関わっているのではない。おそらく、もっとナイーブな細胞機能に関与しているのだろう。
しかし薬剤師国家試験では相変わらずてんかんにT型Caチャネルが関与するとされ、抗てんかん薬エトスクシミドの作用点とされている。学生は何の疑問も持たずそれを丸暗記し、また薬科大の教員となり、次の世代を古い知識で教えている。私が真相を言っても彼らは耳を貸さないし、私もどうでもいいと思っている。真実よりも常識のほうが大事なのだ。
12:05
犬がいると思ったら、西側のホールで「ペット博」をやっていた。
後楽園ドームの世界ラン展のようなものか。

12:07
ポスター会場にはイスとテーブルもあって協賛企業からの飲み物もあった。
できたばかりの1993年ころは今のようなランチョンセミナーもなかったから、昼飯が面倒だった。周りはまだ空き地が目立ち(例えばクイーンズスクエアは1997年開業)、飲食店があまりなかった。そこでこのポスター会場に崎陽軒などが出張してきていて、シュウマイ弁当などを買ってそのテーブルで食べたことを思い出す。

その学会での昼食だが、2000年の年会については一つ、Perez-Reyeseとの記憶がある。
前のブログに書いたクイーンズスクエアの東端のレストランである。
TAKANASHI Milk RESTAURANT

国立大ホール、ぷかりさん橋のほうを周っての帰路、そのレストランの前を再び通った。
12:43
メニューを見ても店はすっかり変わってしまった。

2000年3月、Perez-Reyesと昼食に行こうとした。途中にぎやかな会議センター受付あたりで森泰生氏と会い、彼もこの分野で世界的な人だから立ち話をした。二人は目立つものだから、そこへ赤羽悟美氏、黒川洵子氏(コロンビア大学から一時帰国)ら数人が通りかかって加わり、10人くらいになってしまった。
昼時でみな昼食にいくのだが、お互い知り合いだったこともあり、なぜかバラバラにならかった。予約していないときに大人数で店を探して動くことほど面倒なことはない。
肝心のPerez-Reyesが中心になって皆と話しているため、「じゃあ、また」と別れるわけにもいかず、クイーンズスクエアあたりまで歩いてきた。

一番手前の店がちょうどテラス席に座れそうで、全員入った。
Perez-Reyesの分は私が奢ってやろうと思っていたが、10人分も払いたくないな、困ったな、と思った。今なら割り勘にするのだが、なぜか当時は企業にいる私が全部払ってやろうという見栄もあった。ひょっとしたら会社が払ってくれるかな、いや、前もって言ってないから駄目だろうな、でもPerez-Reyes、森、赤羽、ほか田辺の研究所で知られている人たちが話し続けてランチになってしまったわけだから・・・・なんて色々思案していたら、隣からPerez-Reyesが「飲み物も頼んでいいか?」と聞いてきて、はっと我に返ったことを思い出す。
こんな状態だったから、何を食べたかもちろん記憶にない。

その16年後、日本薬学会の年会がここであり、私の最後のパシフィコとなったのだが、その店を写真に撮ってあった。
2016₋03₋27
Grill dining Roselaitという名前だったが、2000年の店とは違うだろう。
2016₋03₋28
それでも、2025年の今より2016年のほうが、年数でも店の雰囲気でも当時に近い。

13:00
この日はパシフィコ横浜から、クイーンズスクエア、ランドマークタワー、桜木町駅、市役所前、と来た道を逆にたどり、大さん橋の飛鳥IIに戻った。

パシフィコ横浜は研究者として過ごした職業人生の多くの部分を思い出す場所である。もうそこに二度と行かないことを思うと少し寂しい気がした。


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2025年2月22日土曜日

横浜ランドマークタワーと日本丸、三菱造船所

長年埼玉に住んでいたから横浜は不案内だった。
私にとって横浜と言えば、開港以来栄えた「関内」の官庁街や中華街、山下公園や港の見える丘公園ではない。もちろんこれらは行ったことがあるが、なじみがあるのは「関外」、それも新興埋め立て地の「みなとみらい」パシフィコ横浜であった。

というのは薬理学会や薬学会など大きな年会がそこで開かれ、
年会は3日ほど続くから何度も通ったからだ。
JRの桜木町駅が最寄り駅だった。

1月11日朝、クルーズ船飛鳥IIが名古屋から横浜に戻り、夕方広島に向けて出港するまで時間があった。横浜見物をしようと下船した。しかし当てもない。この年になると新しい場所より懐かしい場所に行きたくなる。それは桜木町とパシフィコ横浜だった。
2025₋01₋11 11:23
桜木町駅
2004年に地下鉄みなとみらい線が開通したが、そのあともJRのこの駅を使っていた。
2016年に10年ぶりに来て、それから9年経っている。

西口のほうは古本屋とか飲食店とかあってそちらも懐かしいが、今回は海側、広場のある駅前から学会でよく使われたパシフィコ横浜まで歩く。
11:23
横浜AIR CABIN
CABINがCOBANに見えて、新しく駅前に交番ができたのかと思ったらロープウェイ乗り場だった。
ロープウェイは片道629メートル、5分、1000円。8人乗りである。
桜木町駅と運河パークのある新港ふ頭地域を結ぶ。新港には有名な赤レンガ倉庫(旧横浜税関新港埠頭倉庫(保税倉庫))がある。

桜木町駅の東口広場は日中、よく大道芸人がパフォーマンスをしていた。
「ジョージ君」という不思議な動きをする人形を売っている人がいて、どう見ても物理の法則に反するため、じっと見続け、周りの見物人の中にピアノ線を持っている不審な仲間を発見したことがある。
11:25
かつてパシフィコ横浜の周囲は造成中の更地だったのが、地図を見ると、だいぶ開発されたのが分かる。
11:25
ランドマークタワーへ行くエスカレーター
1993年ころは屋外のエスカレーターが珍しかった。

あがるとロープウェイのゴンドラが見えた。
当時、これはなかった。

索道は道のない山中などに作り、移動・運搬に供するが、これはなくても困らない都市型で、移動よりも景色を楽しむものかもしれない。

11:27
動く歩道。私にとって桜木町でもっとも懐かしい。
11:29
動く歩道から見える日本丸

昔は船体がよく見えたものだが、年月で樹木が茂り、全体が見えない。

昭和のはじめ、船員を養成するための官立(国立)高等商船学校(東京、神戸)は2000トンクラスの練習船をもっていたが、地方の公立商船学校は練習帆船がなかったり、持っていても小型の木造帆船ばかりだった。
そこで共通の大型練習船として、文部省が日本丸と海王丸の姉妹船を建造した。

日本丸は1930年に神戸の川崎造船で進水、総トン数2278トン。太平洋を舞台に学生の訓練航海に従事した。しかし戦時中は帆が外されて瀬戸内海の物資輸送に使われ、戦後は復員船にもなった。さらに復活した訓練航海では乗組員、実習生は遺骨収集にも貢献した。
1984年、同じ練習帆船として作られた日本丸II世と交代し退役、1985年からここで浮体展示されている。2017年に国の重要文化財に指定された。

そういえば、商船三井のクルーズ船もにっぽん丸である。こちらは豪華客船であるが、内閣府の青年の船にも使われ、三代にわたりこの名をつけている。Nippon-maruという船はいくつあるのだろう?

動く歩道が終わってすぐ右にビルがある。
平日の朝は中に入っていく人が多い。
最初はパシフィコ横浜への近道かと思ってついていったが、横浜ランドマークタワーにあるオフィスで働く人の流れだった。
11:32
横浜ランドマークタワー(1993年開業)
上層階はロイヤルパークホテルになっているらしい。
動く歩道と同じレベルだが、実は3階になる。

横浜ランドマークタワーはオフィス、ホテルが入るタワー棟と低層のプラザ棟からなる。タワー棟は70階、296メートル、あべのハルカスができるまで約20年間全国1の高さを誇ったが、いまは全国6位である。
近道にもなったタワー棟のロビー階を通り抜けるとプラザ棟のショッピングモール。
11:33
ランドマークプラザ
1階から5階まで吹き抜けになっていて、開業当時、こういうショッピングモールは日本でも珍しかったのではないか?
さすが横浜、と感じた。

このまま右(東)へまっすぐ行けばクイーンモールやパシフィコ横浜に接続する。すなわち、モール内を東西に貫くメイン通路 (1-3F) はみなとみらい地区の歩行者動線「クイーン軸」の一部となっている。
11:35
その動線はランドマークタワーとクイーンズスクエアの間でいったん外に出る。
エスカレーターで降りたところは実は2階。

右側にドックの跡がある。ここも「横浜ランドマークタワー」の一部である。
11:37
ドックヤードガーデン
かつてランドマークタワー一帯は三菱重工横浜造船所であった。
(だからランドマークタワーは三菱地所が保有する)

1891年(明治24年) 有限会社横浜船渠が設立され、1935年、三菱重工に吸収合併された。
先日の氷川丸のブログで書いたが、帝国海軍の練習巡洋艦、香取・鹿島・香椎を建造した(1940竣工)。
しかし造船所は1983年に本牧地区に移転、ここは閉鎖された。

このドックは1896年に竣工、1973年まで使われた。日本に現存する最古の石造りドックヤードで、1997年「旧横浜船渠株式会社第二号船渠」として重要文化財、2007年に近代化産業遺産に指定された。ちなみに横浜船渠の第1号ドックは1985年以来、日本丸メモリアルパーク」として保存活用されている。

再びモール(クイーン軸)に戻る。
ランドマークプラザの東にはクイーンズスクエアがある。
クイーンズタワーA、B、C、横浜ベイホテル東急の4棟などからなり、ランドマークタワーからだんだん屋上が低くなるようスカイラインが続いている。
11:39
クイーンモール
クイーンズスクエアのメインストリート
ランドマークプラザからパシフィコ横浜までまっすぐ続く。
この地下に地下鉄みなとみらい駅ができた。2016年だったか一二度乗った。

クイーンモールの一番東の端、パシフィコ横浜へのエスカレーターの手前右側、つまり横浜ベイホテル東急の手前にレストランがある。
11:41
TAKANASHI Milk RESTAURANT
名前通り乳製品が売りらしい。
店はすっかり変わってしまったが、ここは思い出がある。

話は長くなるので、続きは次のブログ
「パシフィコ横浜、インターコンチネンタルホテルとT型Caチャネル」で書く。

2025年2月19日水曜日

ロマネスコのフラクタル次元

今年初めて作った。

ブロッコリーとカリフラワーを交配してできた品種というが(あるいは自然発生?)、その形から世界で一番美しい野菜と言う人もいる。
2025₋02₋12
交配できるということは、ロマネスコ、ブロッコリー、カリフラワーは生物種としては同じ植物ということである。以前「アブラナ科の属と種」で書いたが、アブラナ科 Brassicaceae、アブラナ属Brassicaのヤセイカンラン種B. oleraceaである。

すなわちBrassica oleraceaのなかに、ロマネスコ、キャベツ、ブロッコリー、葉ボタンなどがあり、分類学的には全部同一の種(しゅ)である。また、近縁のアブラナ属アブラナ種B. rapa のなかにミズナ、カブ、野沢菜、小松菜、白菜、チンゲンサイなどがある。(これらは同一の種であり相互に交配できるが、生物種の違うキャベツとは交配できるない)。
一方、同じアブラナ科でもダイコンは属からして違い、キャベツ、白菜などのアブラナ属とは一人離れている。
2025₋02₋12
ロマネスコの葉、株は意外と大きくなる。

葉は茹でて食べるとキャベツの外葉(苦い)、大根の葉(硬い)より旨かった。高いところにあるから泥が付くキャベツの外葉より使いやすい。

2025₋01₋26
ブロッコリーは一本だけ植えた。

カリフラワーもブロッコリーも無数の遺伝子があるからその組み合わせで無数の交配種ができる。そのなかで栽培しやすさ、味、見た目などで選ばれたのがロマネスコ。16世紀にローマで生まれたという説があるが(交配ではなく自然発生)、1990年ころからフランスで栽培が盛んになり流通し始めたらしい。
2025-02-15
収穫した。下の板は幅18センチ。

2025-02-15
中の芯から柄が伸びて表面に実が並ぶ。
その一つは全体の形とそっくりである。

部分が全体の縮小相似形になっている構造、概念をフラクタルという。

部分を取り上げ、それを拡大すると全体にそっくりな形になる。(自己相似性)。リアス式海岸、樹木の形、山の稜線、血管や気管支の走行など。
図形だけでなく風や音楽、株価なども、時間軸を横に、強弱や高低を縦軸にとれば、そのパターンはフラクタル構造になっている。

私がこれに魅せられたのは、今から33年前の1991年9月26₋28日、仙台で開催された日本生物物理学会であった。まだ仙台国際会議場はできておらず、年会は青葉山の東北大キャンパスで開かれた。
そこで、当時若くしてフラクタルの第一人者であった高安秀樹氏が特別講演した。
20世紀の物理学は量子力学と相対性理論により、ミクロな世界から宇宙まで大きな進展を見たが、身の回りの当たり前の風景に鈍感だった。フラクタルは、寺田寅彦が好きそうな素朴な形、現象に数学的解釈を与える新しい学問だった。
帰宅してからしばらくフラクタル、カオス、揺らぎ、などの本を買って読み込み、以後、私が自然を見るとき、エントロピーの概念とともに、フラクタルというものが柱になった。

例えば、その後、専門となるイオンチャネルの開閉パターンも、通常は1msのオーダーで繰り返すのを観測しているが、ときにそれが数秒のオーダーで塊となっていて、さらに時間オーダーでまったく開かない状態と、開きやすい状態があることを順天堂の大地陸男先生が発見した(彼はavailable, nonavailableと呼んだ)。これもフラクタルである。
2025-02-15
秤量、934グラム
ブロッコリーより重い。

一般にはあまり馴染みがなかったフラクタルであるが、野菜としてロマネスコが出て、その奇抜な形から「フラクタル」が世間にも知られるようになってきた。

フラクタルで面白いのは次元という概念である。
たとえば
線分(1次元)を2つに分けると縮尺1/2の相似形が2つ(2^1)できる。
長方形の辺を2分するよう切ると縮尺1/2の相似形が4つ(2^2)できる。
直方体の辺を2分するよう切ると縮尺1/2の相似形が8つ(2^3)できる。
このべき乗の部分が次元と一致する。

つまり縮尺を1/a、次元をD、縮小相似形が b個できるとすれば、
a^D=b
すなわち、D=log(a)b=log.b/log.aである。

これを一般化すれば、1,2,3という整数だった次元が半端な値もとれることになる。
実際、フラクタルは無限に分割しても相似形がずっと現れるとすると、たとえば海岸線の有限に見えた曲線が無限の入り組みからなり、つまり地図上での曲線(1次元)が厚みのある帯(2次元)的な姿を持ってくる。
2025-02-16
ロマネスコの場合、全体の縮小相似形が親の表面に規則正しく並んでいる。この表面は有限ならもちろん二次元だが、その斜面に突起が無限に出現するとなると、表面積は無限となり、厚みを帯びてくる。すなわち表面でありながら3次元的な広がりとなる。

(現実はもちろん無限ということはなく、1キログラム近い親を1番、表面にびっしり並ぶ相似形の子供を2番、さらに2番の表面に並ぶ子供を3番とすれば、3番がごつごつだから写真でも4番が存在することは分かるだろう。大きな(底辺のほうの)2番を取り、その中の大きな3番、大きな4番を見れば肉眼でも5番まで見える。)

(無限として)実際にロマネスコのフラクタル次元を求めてみる。
まず、縮小率と個数を求めねばならないが、これは簡単ではない。
なぜなら、同じ世代の子供でも大きさが違うからだ。底辺に近いものほど大きい。また同世代の子供の数も先端に行くにしたがって無限に小さくなるから数えられない。
とにかくバラバラにして見た。
2025-02-17
左上が1番(親)の先端部分。
2番、3番は2~3個食べてしまった。

寸法を測ると親の底辺は170㎜
2番については、下のほうの30個をとると中間のものは42㎜(1)
もう少し上まで60個とると22㎜(2)

つまり、(1)なら
D=log30/(log170-log42)=1.477/(2.23-1.623)=2.43
(2)なら
D=log60/(log170-log22)=1.778/(2.23-1.34)=1.99
(1)は良い値だが、(2)は二次元以下になってしまった。これは先端に行くに従い小さくなって正確に測れないことや、個数が爆発的に増えるから数えきれないことによる。
下のスカート部分だけで計算するのが良いと思われる。

1991年当時、私は田辺製薬・薬理研究所の中枢神経系部門にいた。生物物理学会というのはフラクタルとか蝙蝠の超音波とかキリンの模様とか進化の数理モデルとか生物発光とか、およそ製薬会社の業務と関係ない学会で、そこに行かせてくれた田辺製薬の大らかさに感謝している。

社に戻ってから同僚の片山泰一君に話すと彼も興味を持った。揺らぎ、カオス、フラクタル関連の本を何冊か貸したのだが、彼はもらったと思ったのか、その後私に返さずに退職、阪大医学部教授になった。本は他にもまだあったのだが、今探したら「フラクタルって何だろう」高安秀樹、高安美佐子(ダイヤモンド社1988)だけ箱の中から出てきた。
奥付をみたら高安氏は1958年生まれ、私より2歳若く、1991年当時は33歳だった。

2025-02-15
ブロッコリーは親玉をとると、脇の小玉も成長してくる。
いっぽう、ロマネスコは一玉とると、それで終わり。親の片方であるカリフラワーに似た。

なお、ブロッコリーは、ロマネスコほど話題にならないが、その頭は樹木のようになっていて、枝分かれはフラクタル構造である。


2025年2月15日土曜日

ゴボウの品種、コバルト早生、滝野川と堀川


2025₋01₋25
初めてゴボウを作った。
まともなのは1本、あとは鉛筆よりは太いという程度。
失敗と言える。

キク科だからナス科(春夏)、アブラナ科(秋冬)ばかりになる家庭菜園では連作障害を避けるという点で貴重な存在となる。
しかし、特に食べたいとも思わないし、収穫で掘るのが大変そうだから今まで作ったことがなかった。

2023年度は野菜40種類作った。ほかに、何も手をかけない果樹4種、放置芳香多年草(シソ、ミョウガなど)9種が存在する。また、過去、試しに作った野菜12種。全部で65種の経験がある千駄木菜園としても、ゴボウは避けてきた存在だった。


しかし妻がスーパーで買ってくるのが面白くない。
彼女が買ってくるのは、ゴボウ、レンコン、アスパラガス、もやし、カボチャ、キノコ類、バナナ。あと年中使う玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ、レタスも1年分作れないので買ってくる。

2024年、千駄木菜園12年目にして初めて作ることにした。
種はダイソーでインゲンと一緒に2袋110円で買う。
表のタイトルが作物名とか品種名とかでなく
「掘り取りかんたん つくりやすい短形ごぼう」
と書いてあるのがおかしい。
裏に小さく「品種 コバルト極早生」とあった。
コバルトとは何だろう? ブルーは最もゴボウから遠い色だが。

ゴボウの品種など知らないので調べたら、昭和44年放射線育種場(常陸太田市)において、柳川中生ゴボウの種子に放射線を照射、3年目に短形の変異を発見、さらには二毛作も意識して、以後10年にわたり選抜して「極早生、短形」を得たという。

すなわちコバルトというのはガンマ線を発生させるCo-60のことだろう。
かつては自然発生する突然変異体から新種を得たが、1950年代から放射線育種が盛んに用いられた。弥生の東大農学部にも放射線照射の小さな圃場があり、野球でグランドに行ったときなど、注意書きの看板を覚えている。

柳川中生ゴボウは白肌で、尻部までよく肉がつき、栽培日数180日を経過しても、肌のヒビ割れが少ないということで現在も栽培されている。

2024年6月7日、種まき
12日、発芽
春植えジャガイモの後だったから少し遅かったかもしれない。
2024₋09₋29
落花生に押され、手前にゴボウと人参が少し見える。
ゴボウは成長度に差がある。

この畝は後作がなかったのでそのまま放置していたのだが、年が明けて見ると葉が枯れていた。
そこで掘ったのが冒頭の写真である。
細いけれども、まあ食べられた。きんぴら、豚汁などにして食べた。

ところで、ゴボウといえば滝野川である。長さ約1 m、直径2 - 3 cmで細長く、鬆(す)が入りにくいという。
江戸時代初期、滝野川村で鈴木源吾という人が品種改良し、元禄年間から栽培が始まった。中山道沿いだったから、種は全国に広まり、北信濃の常盤ごぼう(飯山)、村山ごぼう(須坂)なども滝野川を親とする。現在のごぼうの9割は滝野川ごぼうから派生したと言われるが、肝心の滝野川では戦後、絶えた。

しかし北区立滝野川西区民センター(よくダンスの練習でつかう)の開設時に、地元住民が特色ある地域活動をしたいと、滝野川ニンジンとゴボウの復活を提案、1996年、群馬県甘楽町の有機農業研究会グループの協力を得て復活させた。
1998年からは北区立滝野川紅葉中学校でも生徒会で栽培を始め、いまも給食委員会24名で栽培を続け、地区の他の小中学校にも広まっているという。http://edoyasai.sblo.jp/article/189564514.html
掘るのが大変なところが、他の野菜より「やった感」があっていいかもしれない。

いっぱんに東日本では滝野川のように根が細くて長い長根種が主流で、関西地方では、堀川ゴボウに代表される太くて短い短根種が多いらしい。

堀川ゴボウは京野菜の一つで、ふつうのゴボウ(滝野川ごぼう)を一度掘り起こしてから、再び植え付ける。直径5 - 6 cmと太くて短く、数本に枝分かれして、表面はひび割れて内部に空洞ができるので、空洞部分に肉などを詰めたりするらしい。
掘ってまた埋めるというのは、ゴボウは二年草だから葉が枯れても根が生きているからである。

(いまの堀川ゴボウが滝野川由来としても、始まりは滝野川より早いかもしれない。滝野川以前から、つまり平安時代からゴボウは食用になっており、滝野川もそれらから生まれたからである)

ほかに大浦ゴボウ(千葉、直径10センチにもなる)、明治ゴンボウ(岡山)などが知られる。

花は同じキク科のアザミに似ているようだが、私は見たことがない。
そういえば、温泉地の土産物にある漬物のヤマゴボウはモリアザミの根らしい。

ゴボウは北海道には自生するが、日本へは平安時代に中国から薬草として伝わったとも言われる。しかし食用とするのは日本くらいで、外国人は木の根っこと思うらしい。シーボルトが種を持ち帰ったが、普及しなかったというし、また太平洋戦争の捕虜にゴボウを与えたら、木の根っこを食わされたと虐待ととられ、関係者がB、C級戦犯にされたときの証言にもなったという話がある。

正月料理に何でゴボウが出るかというと、地道に根を張り力強く成長することから「延命長寿」、また土地に根付く姿から「家族が土地に根付いて安泰に暮らせますように」という願いもあるらしい。もちろん、この時期に調達しやすい食材に、めでたい理由をつけて楽しむに過ぎない。

それより思うのは「ごぼう抜き」という言葉の違和感である。駅伝などのごぼう抜きは、どうみてもゴボウを抜く様子からは遠い。
2025₋01₋26
白菜

ゴボウの面積当たりの収量(食卓などへの貢献度)は、白菜や大根と比べるとかなり低い。
それでも、昨年の種はまだ残っているので今年も再挑戦しようかな。