実家に帰るときは長野駅から長野電鉄で信州中野に行くのと、飯山線で立ヶ花まで行き、車で迎えに来てもらうのと、2通りある。
近年は弟の手を煩わせたくないので長野電鉄が多いが、かつては運賃が安いこともあり、父や弟の親切に甘え、飯山線を使うことが多かった。
飯山線は信越本線の豊野と上越線の越後川口を結ぶ。電化されていないからディーゼル車が長野駅から出て飯山を経て新潟県に入っていく。
沿線の千曲川に沿って進む景色は絶景だし、飯山も魅力ある街である。
しかし立ヶ花駅から北はこの50年間行ったことがなかった。立ヶ花に着いたら迎えの車で実家に直行したし、また飯山方面には行かねばならない用事もなかったからだ。列車も極端に本数が少ないから行ったとしても帰ってこれず、近年は法事の日帰りが多いので時間的に無理だった。
そのうちいつか行けるだろうと思っていたが、それも危なくなってきた。
飯山線が脇を走る千曲川
左下に信濃浅野駅、中央に立ヶ花、右上に中野市街
8月14日、長野の実家に日帰りで行った。
当初は長野電鉄で行くつもりで長野までの新幹線の切符をとったが、前日、弟が飯山線立ヶ花まで迎えに行ってやる、とラインをくれた。そこで飯山線の立ヶ花以北にいってみることにした。そして昔いった飯山城をみてみたい。
しかし、長野駅到着が8:35、飯山線は10:23までない。2時間近く待つのは嫌だな。
調べたら、新幹線あさま601号は長野駅に8:35に到着し、飯山線が2分後の8:37に出発する。
これに乗れないだろうか?
chatGPTに聞いたら標準乗り換え時間は7分だから非常に厳しいという。それでも駅の階段に一番近いドアを聞いたら、あさま601号なら7号車の後方ドアだと教えてくれた。
ダメもとで、上田を過ぎたら席を移動し、長野到着したら真っ先におり、階段を駆け上がった。70近い男のすることではない。
問題は妻も一緒だったこと。
当初彼女は無理だと反対したが、ダメもとでやってみよう、と強引に誘った。
こういう時は優しく寄り添っていてはダメで、元気な人が先を走って進路を開拓し、目標、ペースメーカーになるべきである。
切符は長野駅までしかなかったが、長野から先の切符を買う時間などないので、イチかバチか、在来線乗り換えの自動改札にタッチしたら通過できた。
(北飯山で降りるとき運転手さんに事情を話し、差額を払ったのだが、スイカのEチケットに長野での出札記録がなかったため、夕方帰京するときは入れなくなった)。
ところどころ妻を振り返りながら走り、何とか奇跡的に飯山線に間に合った。妻は必死に走ったとは言うが、私には歩いるようにみえた。
この無理を通した乗り換えに怒ったらしく、しばらく無言だった。飯山線に何の思いもない彼女には迷惑でしかない。
08:37長野
08:43北長野
08:47三才
08:53豊野
信濃浅野をすぎ立ヶ花が近づくと列車は千曲川沿いに出る。
ここまで24分間は高校時代からずっと使っている区間だから見飽きた景色だが、立ヶ花から北は高校生時代に2回くらいしか乗ったことがなく、ほぼ初めての景色が広がった。
9:02
立ヶ花駅を過ぎると千曲川はさらに近くなり、右前方に高社山(タカヤシロ)も見えた。
高校時代一度だけ立ヶ花から北に向かったことがある。
高3の6月までは毎日クラブ活動(剣道)があったから、引退して以降のある日、休講とサボりを合わせて早く下校した日だったのだろうか。遠くへ行ってみようと思った。
いつも降りる立ヶ花で降りず、電車に乗り続けた。ガラガラに空いた車両のボックス席で受験勉強をしながら谷あいを流れる千曲川を見ていた。飯山を過ぎ、森宮野原、津南の信越国境か、十日町、越後川口まで行ったのかどうかは記憶にない。そのままどこかで折り返して戻って来た。電車賃はかからず、半日の旅行だった。
9:03
千曲川は相変わらず美しいが、写真を撮ろうとすると森の中に入ってしまう。
たまに夏の合宿などで学生がいっぱいの時があるが、たいていはガラガラ。
もともと日本有数の豪雪地帯を走る赤字ローカル線。1980 年の国鉄再建法に決められた赤字線の廃止基準は、2,000 人/日未満であったが、ピーク時の乗客が一方向 1 時間 1,000 人を超すことで、廃線を免れている。
飯山線の歴史は、地元の有志と信越電力の出資により始まった。
1921年(大正10年)私鉄・飯山鉄道が豊野駅 - 飯山駅間で開業。
1927年、国鉄十日町線が越後川口・十日町間で開通。
1929年、飯山鉄道が十日町まで延伸。
1944年、国鉄が飯山鉄道を買収、十日町線を合わせて飯山線とした。
立ヶ花駅の次は上今井。
中野市(旧)の西側を流れる千曲川の対岸は南から豊野町、豊田村、飯山市であり、それぞれ立ヶ花橋、上今井橋、小牧橋という1本ずつの橋でつながっている。
豊田村は私が故郷を離れたあと、2005年に中野市に吸収合併された。すなわち上今井橋は、市役所のある中野と旧豊田村を結ぶ唯一の橋である。
豊田村は昭和31年(1956) 豊井村・永田村が合併し、一文字ずつ取って成立。これは私の生まれた年だから祖父母たちは豊井、永田、という地名を使っていた。そして豊井は明治22年(1889)の町村制施行のときの上今井村・豊津村の合併、永田はやはり明治22年の永江村・穴田村の合併でできた。すなわち、上今井、豊津、永江、穴田の9文字から、豊と田だけ残っていたわけだが、人工地名だから愛着もなかったのだろう、すんなり中野市に吸収され、名前は消えた。
(ふと『新薬誕生』で扱った大手製薬会社のGSKを思う。Glaxo Smith Klineだが、Beecham、Beckman、Burroughs、 Wellcomeなどの名は最初の合併時は存在しても、次の合併で消えていったのに似ている。)
9:09
上今井を過ぎてすぐ、千曲川の対岸に大俣の部落が見えた。
大俣は中野平中学の通学区の範囲で、倉島郁夫、浅沼利夫の同級生がいた。
飯山線は川沿いの平地・人家の少ないところを通ったから、利用者は対岸の中野市の人が多かった。立ヶ花駅などはほぼ100%中野の人が利用していたから、豊野町蟹沢にありながら、駅名は対岸の中野市立ヶ花からとられた。
上今井の次は替佐。
豊田村の役場があったところ。
ここの斑川を西にさかのぼれば旧永江村にいく。
そこは高野辰之(1876-1947)の出身地である。文部省唱歌の「春の小川」、「紅葉」、「故郷」、「朧月夜」を作詞した。
紅葉、小川はどこにでもあるだろうが、『故郷』の「ウサギ追いし彼の山~」は斑尾山のふもと、「小鮒釣りし~」は斑川と考えても良い。
うさぎ追いし 彼の山
こぶな釣りし 彼の川
夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと
如何にいますちちはは
つつがなしや友がき
雨に風につけても 思ひ出づるふるさと
志を果して
いつの日にか帰らん
山は青きふるさと 水は清きふるさと
高野は高等小学校を14歳で出たあと代用教員を3年務めて1893年長野尋常師範学校(県立)入学、1897年卒業後、教員となった。1898年上京、東京帝大の上田萬年に師事、国文学を学び、帰郷して長野県師範学校の教諭兼訓導、国文学史などを教えた。そして1902年、26歳の時、職を辞し、再び上京、文部省国語教科書編纂委員嘱託を経て役人となった。
故郷の歌詞はその後の彼の思いそのものであろう。
そして3番の冒頭「こころざ~しを果たして、いつの日~にか帰らん~」のとおり、文学博士として故郷に錦を飾ったわけだが、まさに降り立った駅は、この替佐駅である。
この駅は1921年飯山鉄道と同時に開業、かつては賑わったであろうが、1995年に簡易委託化、2023年から終日無人となった。
(2番の冒頭、「如何にいます父母~」で帰郷したのは豊野駅か牟礼駅か。ともに明治21年、1888年開業である。)
20年前の2005年8月、豊田村と中野市が合併した(4月)直後、高野辰之記念館と生家を訪ねた。生家の庭先では親戚子孫の方とお話しできた。記念館は廃校となった小学校の敷地にあり、広くはないホールで夏合宿で来ていた音楽サークルの大学生が無料コンサートをしていた。好きな記念館だが、たぶん二度と行く機会はないだろう。
ところで中野市は、作曲家・中山晋平(1887₋1952)の出身地として、昭和42年1月、滝廉太郎(1879 ₋1903)の豊後竹田市、土井晩翠の仙台市と音楽姉妹都市となった。私が小学校4年生のときである。しかし、今思うと仙台と竹田は名曲「荒城の月」の作曲者と作詞者、またモデルとなった岡城、青葉城があり、姉妹都市にふさわしいが、中山晋平は滝、土井とは関係なく、姉妹都市になるほどではなかったのではないか。その後、昭和55年5月、中野は独自に北茨城市と姉妹都市になった。中山の曲の多くを野口雨情(1882₋1945)が作詞していたからである。こちらは姉妹都市にふさわしい。
・シャボン玉
・証城寺の狸囃子
・雨降りお月さん
・黄金虫
・あの町この町
・兎のダンス
・手の鳴るほうへ
などが中山・野口の作品である。中山は西条八十との作品も多いが、彼は中山以外の仕事も多いし、東京市牛込区出身では姉妹都市提携は無理。
さて、ここで高野辰之に戻るが、豊田村は鳥取市と音楽姉妹都市となっても良かったのではないか。
先に書いた日本の名曲「春の小川」、「紅葉」、「故郷」、「朧月夜」はすべて岡野貞一(1878 ₋1941)とのコンビによる。さらに「日の丸の旗」「春が来た」も二人の共同作品である。
ひょっとして、姉妹都市というのは「市」でないとダメなのだろうか。もっとも豊田村はそんな無理に仕事を作り出すのが好きな昨今の自治体とは違ったのだろう。何でもかんでも世界遺産登録とか、海外との姉妹都市提携とか、そういう住民に関係ない活動とは無縁だった。
さらに高野辰之について書くと、『朧月夜』の「菜の花畑に入り日薄れ~」。
このあたりは野沢菜の種をとるため、千曲川のまわりに菜の花畑が広がっていた。いまは飯山に菜の花公園(ほぼ畑)という観光スポットまでできてしまった。高野は師範学校を出た後、飯山の尋常小学校(現・常盤小学校)の教員になった。この時下宿していたのが飯山の真宗寺で、島崎藤村や大谷光瑞も出てくるのが猪瀬直樹『ふるさとを創った男』である。菜の花畑の向こうに「見渡す山の端(は)霞深し」は高野にとって見慣れた風景であっただろう。
蛇行する千曲川(グーグル鳥観図)
山間部の多い豊田村(左下)と平地の中野(右上)が対照的。
おそらく千曲は広い中野のほうを流れていたのが、夜間瀬川の土砂で埋まり、西の山間部に押しやられたのであろう。
写真左上に蓮駅と小牧橋、奥に高社山、中央の壁田の城山。
中央、三方を千曲が馬蹄形に囲んだ土地がある。その山中に新築された北信斎場「たびだちの森」がみえる。昨年正月に母が焼かれたところ。
09:01立ケ花
09:06上今井
09:10替佐
09:19蓮
09:26飯山
09:28北飯山
替佐をすぎると壁田の城山の裏側の絶壁の下にミヤマの水処理工場があった。
やがて豊田村から飯山市にはいる。
9:18
蓮(はちす)駅の手前
小牧橋、母の実家の柳沢の集落が見える。
ここまでくると高社山は形がすっかり変わっている。
蓮(はす)の古語はハチスである。花托の形が蜂の巣に似ているからだが、この駅の読みはは古語のまま。一日平均乗車人員は66人(2011)。明治22年の町村制施行により、蓮村は周辺の富倉村・常郷村と合併して瑞穂村となり、蓮は大字としての地名になった。
蓮をすぎると列車は千曲川から離れ、急に平地が開けた。
飯山駅は新幹線と交差する。
次の北飯山は、飯山線には珍しいほど、飯山に近かった。
飯山線では唯一の都市であるから、駅が2つできたのだろう。
9:30
北飯山駅
2001年新築の無人駅。
ここは高校時代に1度降りたことがある。剣道の大会が近くの飯山北高であった。
岩船から上今井まで自転車で行って飯山線に乗った。
先に述べた無賃往復旅行は、駅で降りなかったから、立ヶ花以北で下車したのは、このときの1回だけである。
このあと急いで飯山城を見て(別ブログ)、北飯山駅に戻って来た。
上りの列車は10:03のあとは2時間後の12:03までない。
9:59
作り付けの木の長椅子に利用者のノートがあった。
けっこうみんな真面目に書いている。
飯山南(女子高)を卒業、埼玉に引っ越した79歳の女性、数十年ぶりに訪ねてその変わりように知らない街のようだったが、人も自然も素晴らしかったと書いていたり、高校生活に慣れない悩みを書いた若者に59歳の鉄ちゃんがアドバイスしていたり、どれも長々とした文章は電車の待ち時間が長かったことを示す。
10:00
座った正面には乗車証明券発行機と時刻表と、燕の巣。
糞が落ちるので床には新聞紙が敷いてあり懐かしかった。
柳沢の母の実家、赤岩の叔母の家もツバメの巣があった。
このあたりは、同じ奥信濃でも町に近かった岩船(私の実家)あたりと文化が違い、汚いと邪魔ものにせず、燕を大切にしている。
上り列車が来て乗った。
弟には立ヶ花の一つ手前、上今井駅に迎えに来てくれるよう頼んだ。
実家からは立ヶ花も上今井も大して距離は違わなかったし、何より、50年以上降りていない駅を見たかったからである。
10:28
上今井諏訪神社
この神社は駅のすぐ西にあったと思ったのだが、それは勘違いで、すぐ南の県道の向かいにあった。
1971年、中学3年の夏、この神社に3年生全員が自転車に乗って集合した。駅に集まったのに列車には乗らず、ここから延々坂道を歩いてキャンプ場に行った。迷わず行ったから引率の先生もいらしたのだろう。キャンプ場といっても池があるだけで何もなく、夜、キャンプファイヤーとフォークダンスをやれるだけの砂利の空き地があった。できたばかりの、川をせき止めた小さなダム湖のような記憶があるのだが、今地図を見てもそんなところはない。はて、あれはどこだったのだろう? ひょっとしたら列車に乗ったのだろうか?
弟へは列車到着時間より遅い時間を伝えていたから、ぼんやり神社を見ていたのだが、スマホに電話が入り、線路を挟んだ駅の反対側にいるという。
10:28
上今井駅
北陸新幹線の開業に合わせて、2014年にリニューアル工事が行われた。
かつてはリンゴ出荷用の貨物引き込み線があったが、地域住民のための広い無料駐車場になった。しかし1台も止まっておらず、弟は駐車場への入口で待っていてくれた。
飯山城に行った話をしたら「今度行きたいところがあったら連れて行ってやるよ」といった。弟は岩船区の村役が回ってきて忙しいのと、健康に自信がなくなったことから64歳で退職、時間はあるらしい。
上今井には中世の豪族の館のような濠と土塁に囲まれた家がある。内堀館という長野県史跡。現在は臼井さんという方(農業)の住宅になっている。
20年くらい前、帰省中に弟と一緒に見に来たことがある。そのとき、彼は田中秀征の奥さんの実家だと教えてくれたが、確認していない。そこをもう一度見たくなった。しかし、遠慮して迷っているうちに車は上今井橋を渡ってしまった。
お昼は一本木の「おたぎり」で焼肉。ここは非常にいい肉が驚くほど安く食べられる。
食後、がんでなくなった従妹の新盆のお参りに母の実家の柳沢に行った。
岩船に戻って、坊さんが来たり、おしゃべりしたりしているうちに帰る時間になった。
弟は立ヶ花まで送ってくれるという。
来るときは飯山線に乗ったのに立ヶ花に降りなかったら、久しぶりに行ってみたかった。しかし列車がなく、それまで待っていると新幹線が間に合わないので信州中野から長野電鉄で行くことにした。
駅まで歩いても数分なのに、お土産の桃が重いだろう、と弟は車で送ってくれた。
18:06
長野電鉄はパノラマカーだった。
小田急のロマンスカーとして使われていたものだろうか?
両親がいなくなり、今後、帰省するのは法事、葬式くらいになるだろう。
飯山線立ヶ花も長野電鉄信州中野も見納めが近い。
でも、やっぱり私は風光明媚なところより懐かしいところが好きだから、また来るのかな。
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