2025年5月8日木曜日

土佐の偉人。武市、板垣、寺田、坂本、柳瀬と桂浜

3月26日、IさんKさんと高知城をみたあと、別れて一人になった。

別れた場所に看板地図があった。

11:38
高知城周辺の歴史散策地図。
いろいろ土佐の有名人ゆかりの場所が書いてある。
面白いのは吉田東洋だけ東洋先生と敬称で書かれていることだ。一番有名な幕末の藩主でさえ「山内容堂誕生地」だし、ほかも「武市半平太邸跡」などと敬称なしで書いているのに。
ま、それは良いとして、さてどこに行こうか。

その前に、武市半平太の亡くなった場所「武市瑞山殉節の地」は高知城に来る前、すなわち1時間ほど前に写真を撮っていたのでここに書いておく。
10:47
武市瑞山先生殉節の地
帯屋町壱番街のアーケードを抜けた、高知大神宮の手前にある。
殉節とは節義(正義)のために死ぬことだが、正義とは何だろう?

武市は、黒船来航以降の時勢を受けて1861年尊王攘夷の土佐勤王党を結成した。当時土佐は、吉田東洋が山内豊信(容堂)によって大目付、さらには参政に抜擢され、藩内の改革を行っていたが、勤王党は彼を暗殺し、藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。

勤王党は、京都における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変(文久3年、1863)で長州と過激公家らが排除され、公武合体をいう会津、薩摩が主導権をとると、尊王攘夷派は一気に力を失い、土佐藩でも東洋殺しの疑いがあった勤王党の弾圧が始まった。

帰国していた半平太も捕らえられ、ここ、城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。半平太に傾倒していた獄吏に便宜を図ってもらい、獄外の同士や家族と連絡を取っていたが、翌文久4年4月に京都で岡田以蔵が逮捕、土佐に送還され、激しい拷問の末、自白したことにより新たな逮捕者が続出、取り調べの激しさも増した。
それでも吉田東洋殺しの証拠は得られず、そして慶応元年閏5月(1865年7月)かねてから勤王党を不快に思っていた前藩主山内容堂は、業を煮やし、半平太の切腹を命じ土佐勤王党は壊滅した。

薩長土と一緒にいうが、藩ぐるみで尊王攘夷・倒幕に動いた長州、上層部が倒幕に動いた薩摩と違い、土佐は正規の藩士でなかった郷士が中心となり、かつ藩内で活動できず多くが脱藩した。

ちなみに、土佐藩での武士は、上士と、その下の下士にはっきり身分が分かれていた。上士は、山内一豊が遠州掛川から入封した時に連れてきた家臣の家で、参政・家老(吉田東洋)から馬周り組(後藤象二郎)、小姓組、見回り組などであり、下士は潰された長曾我部の家臣が半農民化したり商人になったものなどで、一番上が白札郷士(武市半平太)、つぎが郷士(坂本龍馬、岡田以蔵)、以下、徒士や足軽、庄屋階級(中岡慎太郎・吉村虎太郎)などが入る。その下に郷士の株を売ってしまった地下浪人(岩崎弥太郎の家)という身分があった。

この身分制度(差別)は徹底していて、上士によって差別されてきた下士の郷士階級から尊王攘夷の活動家が多く出たことは、倒幕を目指した薩長の志士たちと少し違い、天皇の下に万民平等を夢見たものが多かったからではないか。

それは維新後、土佐の自由民権運動にもつながっていく。
高知城にあった板垣退助(1837 - 1919)の像は写真に撮らなかったが、像の場所と大きさから高知市民が一番の偉人にしていると思われた。100円札にもなったから他県の人から見ても(坂本龍馬よりも)一番の有名人だろう。

板垣(当時は乾退助)は上士の家だったから、武市がとらわれた時は町奉行として取り調べる側だったが、勤王派でもあったから土佐勤王党に同情的で終始好意的であった。しかしそれゆえ藩上層部と意見が合わず、また冤罪によって謹慎させられる。その後武市が切腹、藩論が佐幕に転じた後は江戸に遊学した。

慶応2年1月(1866年3月)、坂本龍馬の尽力により薩長同盟が成立。
慶応3年5月(1867年6月) 、京都・近衛家別邸で土佐の乾退助、中岡慎太郎、谷干城、毛利恭助が、薩摩の小松清廉、西郷吉之助(のちの隆盛)、吉井幸輔らと議し、武力討幕を目指す薩土密約を締結した。

この時代の流れに押される形で、佐幕であった山内容堂も軍事密約を(しぶしぶ?)了承し、退助に土佐藩の軍制刷新を命じた。
そして退助は近代化した藩兵を率い戊辰戦争となる。武力倒幕を目指す東征大総督府(総督は有栖川宮熾仁親王)において、東海道先鋒軍参謀が西郷隆盛、東山道先鋒軍参謀が板垣退助であった。甲州勝沼、会津に転戦した。(函館は行かなかった。)

この流れでは明治政府の要人となるはずで、実際、参議となって岩倉使節団派遣後の留守政府をあずかるが、征韓論が容れられず西郷隆盛、後藤象二郎らと明治6年に下野した。

教科書的には、これからあとの「板垣死すとも自由は死せず」(明治15年、1882年岐阜の演説会で暴漢に襲われたときのセリフ)で、自由民権運動の指導者として知られるが、明治維新前の尊王攘夷活動、軍人としての活躍は義務教育では教えられない。

堀に沿って高知城の東南の隅の交差点(帯屋町アーケードから歩いてきた通り)に行くと、堀を渡る橋に向かう形で肖像画や顔写真の並ぶパネルがあった。
11:47
「土佐ゆかりの偉人」
紀貫之、義堂周信・絶海中津、長曾我部元親、山内一豊、野中兼山、中浜万次郎、山内容堂、武市半平太、岩崎弥太郎、坂本龍馬
板垣退助、中岡慎太郎、中江兆民、小野梓、牧野富太郎、浜口雄幸、幸徳秋水、寺田寅彦。
19人で18枚ある。

田中光顕(陸軍少将、宮内大臣)、谷干城(陸軍中将、初代農商務大臣)、山下奉文(陸軍大将)、島村速雄(元帥海軍大将、海軍軍令部長)、永野修身(元帥海軍大将、海軍大臣、軍令部総長)なども有名だが軍人は入れにくいのだろう。

一方で、紀貫之は「ゆかり」はあるが、生まれは紀伊か大和とされ、出身者すなわち偉人となるうえで土佐の風土が影響したかどうかという基準で選べば、紀貫之の代わりに後藤象二郎あたりを入れたい。

見ているうちに最後のパネルの寺田寅彦記念館に行くことにした。
お城の北西で近いし。
堀に沿ってぐるっと裏に回ればよい。
11:49
内堀と城山の間、すなわち山の南側の平地は東に藩主用の馬場、西側に藩主の屋敷があった。
11:50
藩主の屋敷跡に建つ高知県庁。
庁舎の間から天守閣が見えた。

11:53

城山の西のふもと、御桜山から搦手門跡を通って城の北側に出ると川がある。

12:00
江の口川、小津橋

12:01
この川は南の鏡川とともに高知城の外堀となっていたが、このあたりは城山のすぐ北で、内堀の役目を果たしていた。

12:04
寺田寅彦邸跡
地図をみて行ってみたら裏口だった。入り口は江の口川に面したほうだった。
12:03
裏口から中を覗けば、武家の屋敷といった風で、割と広い。
自家用の野菜は十分作れる。
お城のすぐそばだから寺田家は土佐藩でも上のほうかと思ったらそうでもない。父親は土佐藩士族ではあったが足軽だから上士ではなく下士の郷士よりも下である。寅彦は東京で生まれ、4歳の時に父親が熊本鎮台に転勤になったのを機に、父が故郷に家を求め、祖母、母、姉とうつって来た。そして熊本の第五高等学校に入る19歳まで過ごす。
12:07
川端の正面にまわると、本日休館だった。
表札の題字は牧野富太郎。
「旧寺田邸」ではなく「寺田邸址」というのは戦争で焼失し、近年復元再建したからだろうか。

寺田寅彦は1903年東大物理学科を首席で卒業、講師となり1908年「尺八の音響学的研究」で理学博士となった。
1913年には「X線の結晶透過」(ラウエ斑点の実験)についてNatureに発表したが、もっぱら身の回りの物理に目を向け、墨流しとか、金平糖の角、ひび割れなどを研究対象とし、地球物理、地震、気象、防災などを専門とした。1935年駒込曙町の自宅で死去。
戦後、湯川、朝永が量子力学でノーベル賞を取ったのに対し、東大物理が振るわなかったのは寺田物理のせいだという声も一部にあったらしい。
漱石とは第五高等学校の英語教師と生徒以来の関係であり、その古さ、親しさから漱石門下生のあいだでも特別視されていた。

とにかく、寺田記念館が開いていないので、予定のなかった坂本龍馬誕生地にでも行ってみる。

寺田邸の前の江の口川に沿って歩くと、川が南に曲がりお城の真西にきたころ、川と道路の間の緑地に石碑があった。
12:14
「日中不再戦」 
日本人は誰でも戦争はこりごりで、けっして再戦しようなどとは思わない。普通の日本人はこんな当たり前のことをわざわざ大きな石には彫らないだろう。
「一九九二年高知県民建之」とあるが、日中不再戦という5文字と字体の感じから中国人が建てたようにみえる。

そういえば高知城追手門からでたところに看板地図があった。
(この地図は他の場所でも何回か見た)
11:38
高知城下の旧町名地図
ここで、中国語訳は必要だろうか? スペースがとられ情報が半分になってしまう。日本人だって読む人は少ない。中国人旅行者でもこういう細かいものを読む人は日本語を勉強するか、ネットで中国語のサイトを調べるだろう。

要するに、石碑と言い地図と言い、高知県では中国人が多いのかなと思ってしまうが、他県と比べ特に多いという話は聞かない。

やがて江ノ口川の南に渡り、路面電車の通り(松山まで行く国道33号線)に出る。
その広い道を西に行くと、上町病院の西隣に石碑があった。
12:21
坂本龍馬先生誕生地 内閣総理大臣吉田茂
吉田茂は東京生まれだが父親は高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱であり、のちに父の友人の吉田健三(福井藩士)の養子となった。
碑文は吉田が総理だった1952年に揮毫され、明治100年記念の1968年に台座を含め整備された。司馬遼太郎の竜馬がゆく(1962年から新聞連載開始)より前である。

竜馬はここで生まれ育ったわけだが、山や川などがあるわけでないので当時の雰囲気が分かるものは何もなく、早々に離れた。

ここから南の鏡川のそばに山内容堂邸址というものがあるが(当時、南屋敷と呼ばれ、実父・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の家である)、時間がないし歩き疲れたのでまっすぐ高知駅に行くことにした。

途中再び高知城、県庁前の堀端に出て、追手門の東、追手筋を歩いた。
広くて中央に緑地がある公園のような道である。
12:32
なぜか刃物の店が並んでいる。
「刀買います」「火縄銃売買」などといった看板も出ている。
こういう店は他の都市にない気がする。
12:33
柔らかい色の木材を並べたような、隈研吾とは少し違った建物が見えた。
「オーテピア」という図書館と科学館が入る複合施設だった。

12:34
「ねえ君、ふしぎだと思いませんか」
「天災は忘れられたるころ来る」
30分ほど前の記念館は本日休館だったが、こんなところで寺田寅彦に会った。

なおも追手筋を歩くと、駅から南下している「はりまや通り」(高松から来る国道32号線)に出る。
駅舎が見えたころ、アンパンマンの像が並んでいた。
12:42
やなせたかしは高知出身だったな。
お城の脇でパネルになっていた土佐出身の偉人、とく政治家たちは、自分の地位で仕事しただけで、その地位も汚い手で得たものかもしれない。その点、本人の才能と実力だけで有名になった漫画家のほうが「偉人」といえる。
東京生まれだが父が厦門で客死し、高知の長岡郡後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた伯父に引き取られた。
話はとぶが、私の故郷、信州中野は市内のすべての農協が1964年に合併し中野市農協となった。翌年全国的にも珍しくアップルちゃんマークというシンボルキャラクターを制定し、農産物の袋に印刷して出荷した(1965年はまだリンゴの一大産地)。たしか、数年後に巨峰、えのきだけ、アスパラガスだったか3品目で全国1位という農協となった。(当時はまだ東日本、北日本の果樹農家がリンゴを作っていた頃、いち早く巨峰に切り替え、また松代発祥のえのきだけの栽培は始まったばかりで中野が全国生産の9割を占めていた)。そしてこのアップルちゃんの作者を私はずっとやなせたかしだと思って「アンパンマン」なども見ていたのだが、ところが今回、制定した年を調べた時に、作者は「ほのぼの君」の佃公彦ということが判明した。50年ぶりによく見れば確かに違っている。

さて、高知駅に着いた。
2008年に高架となったらしいが、電化されずディーゼル車しか通らない線路と近代的駅舎が頭の中でうまくマッチしない。
駅前広場に銅像のようなものが見える。
12:44
高知駅前の三像
遠目ではキリスト教の殉教者たちのように見えたが、実際彼らは幕末の動乱で命を落とした。坂本龍馬(享年31)、武市半平太(36)、中岡慎太郎(30)である。発泡スチロール製だが台座を含めると400キロある。台風のときなど数年に一度、転倒防止のため避難するらしい。昨年2024年8月にも5年ぶりに撤去された。

これらの像は2011年7月、土佐勤王党結成150周年を記念して設置されたが、もちろん勤王党が現存するわけでなく、観光目的である。どうも「竜馬がゆく」の影響を受けているな、と思ったが、こういうものは観光客が知っていることを見せなければならず、私もこの小説でほとんど知識をえたから、建てるとしたら、こうなるのかな。
でも私としてはないほうが良い。

このあと高知城で別れたIさんKさんと合流し、路線バスで桂浜に向かった。
13:48
桂浜
大雑把な土佐湾の形から、見渡す限り太平洋と砂浜が続く九十九里のような景色を想像していたから、山と松のあることが意外だった。
13:52
このブログを書くにあたり、最近使い始めたchatGPTに
「「竜馬がゆく」で坂本龍馬が桂浜にいる場面がありますか?」と聞いてみた。
すると
「あります。龍馬が太平洋を眺めながら思索する描写があり、彼の「日本という国の未来」に対する大きな志や、世界に目を向けた広い視野が印象的に表現されています。海を見つめる姿が「大きなスケールの人間像」として象徴的に描かれ、彼の人物像を際立たせる場面です。」
と立派な答えが返ってきた。私は疑い深いので
「小説のどのあたりにありますか?」と聞いた。すると
「第1巻「門出の花」の章に登場します。この場面では、龍馬が故郷・土佐の桂浜で太平洋を見つめながら、広大な世界への憧れや志を抱く様子が描かれています。」
と返ってきた。
なるほど、ありそうだが、しかし文庫本を引っ張り出してきて探しても、ない。
そこで「探したが、ない。ほんとうにあるのか?」
と聞くと、やっと
「ご指摘ありがとうございます。先ほど「第1巻『門出の花』の章に桂浜の場面が登場する」とお伝えしましたが、改めて確認したところ、そのような場面は該当章には見当たりませんでした。誤った情報をお伝えしてしまい、深くお詫び申し上げます。」
といってきた。
chatGPTは、タイトルやキーワードを与えてレポートを書かすと見事な回答(作品)を瞬時に返すが、嘘を平気で(かなりの頻度で)つく。
13:57
浦戸湾入り口を挟んで向こう側の高知新港に停泊中の飛鳥IIがみえた。
13:58
世界につながる雄大な海を見て育てば偉人になるわけではない。
土佐の人はこの海と険阻な四国山脈に挟まれていたわけで、他県の人とは隔絶している。
孤立して他人と違う考え方を持つことが偉人となる条件かもしれない。

有名な桂浜の竜馬像は砂浜にあるのかと思ったら、東の高台の上だという。
林の中を上がっていく。
14:01
竜馬像
像の高さは5.3m,台座を含めた総高は13.5m。高すぎて、はるか太平洋の彼方を見つめているという表情などはよく見えない。
 高知県の青年有志が募金活動を行い、除幕式は昭和3年5月27日。海軍記念日である。日本海軍生みの親と一部で言われる理由は、1867年海援隊を組織したからか。
いろは丸などを使って交易、海運を目的としたものだったが、竜馬自身が勝海舟の創設した幕府海軍の軍艦操練所で塾頭をつとめたから、海援隊も同時に軍艦の運用や航海術、海上戦術の訓練機能を兼ねた実質的な海軍的組織だったということか。(それなら勝海舟が海軍生みの親だろう)

このあと飛鳥へのバスの発車まで時間があったのでIさん、Kさんと別れ、長曾我部元親の建てた浦戸城をみようと西裏の山をあがった。
た。
14:12
浦戸城址
土産物屋でにぎわう海辺の桂浜と違い、誰もいない。
荒れに荒れ、遺構もほとんどない。
山内一豊が河中山城を築くにあたり、ここの石垣からだいぶ石を運んだらしい。
そういえば、一豊が土佐に入ったときは長曾我部の遺臣が多く残っており、領地取り上げに反対してこの浦戸城に立てこもった。この浦戸一揆は策略によって平定し、200人以上の首を獄門にかけたという。その後も抵抗と平定(殺戮)は繰り返され、上士と郷士の溝(郷士の恨み)は深まった。

浜辺のバスターミナルに戻り、飛鳥の用意した無料バスに乗った。
14:35
帰路、浦戸大橋から浦戸湾を見る。
高知の町が見えないほど湾は奥深い。

この時は知らなかったが、翌週、すなわちこの5日後の3月31日からNHK朝ドラで柳瀬隆を主人公にした「あんぱん」の放送が始まった。牧野富太郎が放送されたばかりなのに、やはり高知随一の偉人である。


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2025年5月6日火曜日

高知港から市内へ。お城と山内一豊

3月26日、飛鳥IIが前日の姫路についで高知に着いた。
高知の町は細長い浦戸湾の奥にある。
浦戸湾の高知港は古くから天然の良港であったが、水深13メートル以上を必要とする1万トン以上の船の接岸には適さず、また中で大型船が何隻も自由に航行すること、大型物流施設などの建設も困難だった。そこで1968年、湾外の太平洋岸に高知新港がつくられ、飛鳥もそこの第7ふ頭2号岸壁についた。
2025₋03₋26 9:03
朝食後、12階にあがってみると浦戸湾の入口に浦戸大橋がみえた。
浦戸大橋の西(写真左)の森というか小山が桂浜という。
桂浜は一面、広い砂浜だと思っていたから意外だった。

高知新港は、高知市街から遠く離れて新しく作られたため、周りに街もなく、公共の交通機関が来ていない。少々遠くても歩いてしまう私でも、最寄りのバス停までは無理だった。
そこで飛鳥が用意した無料バスで桂浜までいき、そこで市内に行く路線バスに乗り換えることにした。
 10:06
高知駅に向かう路線バスは10:00発
左は太平洋。
高知市内の中心「南はりまや橋」で下車。
距離が長いにもかかわらず停留所が少なく、大して時間はかからなかったが運賃は高かった。(28分、730円。高知駅までだと800円)
10:31
南はりまや橋
とさでん交通の路面電車。
今まで乗った路面電車は現存するもので函館、長崎、熊本、鹿児島、広島、富山、あと都電荒川線。
こういうものが残っている地方都市は文化度が高いというイメージがある。

ちなみに、高知では路面電車のことを土電(とでん)、あるいは単に「電車」といい、JRのことを「汽車」というらしい。(JRはディーゼル車だが)。これは高知県内のJRが一切電化されていないことによる。香川県から人のいない四国山脈を延々と架線を引くのは費用対効果の面で無駄だったのだろう。
ちなみに日本で鉄道がまったく電化されていないのは、高知と徳島の2県だけだが、徳島は路面電車もないことからほんとうに「電車」がない。
10:34
はりまや橋
大きな川の橋でないことは分かっていたが、もう少し大きいと思っていた。
この赤い橋は江戸時代のものを復元設置したものらしい。
来てみてその小ささに驚くのは札幌時計台に似ている。
播磨屋は高知の豪商であったが、見上げたら、土産物屋の看板が「はりま家」と書いてあった。

ちなみに現在の播磨屋橋はすぐそばにある。すなわち、高知駅から南下する国道32号線にかかっているが、堀川が埋められているため石の欄干だけ残っている。その間を車がビュンビュン走り、播磨屋橋を見に来た人は、この赤い橋に目を奪われて、すぐ近くにある本物に誰も気づかない。
10:35
どこに行ってもインバウンド客
国道の向こう(東)のアーケード入り口の和菓子屋は「土佐日記」「竜馬がゆく」という商品を販売していた。その向こうあたりに明治時代の播磨屋橋が復元設置されているらしい。

我々はそちらへ行かず、左折して京町商店街のアーケードに入る。
10:37
京町のアーケードと並行して北に壱番街というアーケード商店街があった。
一でなく壱である。

そちらのアーケードに入り、ダンス仲間のKさん、Iさんと西の高知城に向かう。

Iさんはさっきから
「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」と歌っている。私が「よさこい節ですね」というと、「いや、ペギー葉山の南国土佐をあとにしてだ」と言い張られた。
10:37
観光客が入りやすい土佐料理店。
豪華なセットもあるが、ランチは1000円以内で食べられそうだ。
10:38
帯屋町壱番街のアーケードはまだ続く。
こんなに立派な商店街が維持できるほどの商圏があるのだろうか?

高知市は人口31万人(2025年推計)。2005年に348,990人だったが減少し続けている。しかし県内の人口減少のほうが大きく一極集中は依然変わらず、県内人口の48%を占める。
ちなみに、高知県では昭和の大合併が始まる1953年の時点で、市制を布いていたのは高知だけだった。もちろん市が一つしかなかったのは高知県だけである。

仕事も買い物も他に行こうにも四国山脈と太平洋に挟まれ、県内の人は高知に来るしかない。和歌山や姫路の人が大阪、神戸に行くようにはいかないのである。

今気づいたが、よさこい節は「土佐の高知の」で始まる。昔は城下町だけが高知だったが、今は県内全体が高知になった。
10:40
少し広いところに出た。細長い緑地を横断する。
いかにも川か堀を埋め立てたような感じ。

高知城下は鏡川などの川に挟まれ、洪水が頻繁に起きた。 このため、高知城の岡は当初、河中山(こうちやま)と呼ばれていて、 城は音を借りて大高坂山城から高智山城と改め、やがて高知城となったという。すなわち川の多い地形が県名にもなった。

アーケードが終わり、城に近づくと右手に神社があった。
高知大神宮という名前と違って小さな境内で、鳥小屋があった。
10:49
高知大神宮のニワトリ

高知で有名な闘鶏のシャモ(軍鶏)か、あるいは天然記念物の尾長鳥かとおもったら、ただのニワトリだった。
古事記で天照大神が隠れて真っ暗になったとき、呼び戻そうと常世長鳴鳥を集めたという記述から、天照大神のそばにその子孫と思われるニワトリを侍らしたということだ。

ちなみに○○大神宮というのは東京大神宮、芝大神宮、伊勢山皇大神宮のように、伊勢神宮(内宮)を勧進して天照大神を祭神とする神社であり、国家神道の影響を受け明治以降に作られたものが多い。「大」の文字もそれを思わせる。

やがて高知城が高々と見えた。
10:55
この橋は曲輪との関係から新しく架けたものだろう。
山の上に天守がある。
現存12天守のうちの一つとして知られる。12天守とは高知のほか、弘前、松本、丸岡、犬山、彦根、姫路、松江、備中松山、丸亀、松山、宇和島である。とくに行こうと思ったことはないが、いつの間にか8個目、残るは松江、備中松山、松山、宇和島の4つとなった。
10:59
高知城のたつ岡は河中山(こうちやま)と書いたが、山内一豊が来る前は大高坂山とよばれ、南北朝時代から小さな城があった。
土佐を平定した長曾我部元親が1588年(天正16年)、岡豊城(おこうじょう)からここへ本拠地を移そうとしたが低湿地の山麓は工事が難航し、代わりに港(浦戸湾)に臨む浦戸城を選んだ。
11:00
山が狭いから平らな土地が少なく石垣が多い。
長宗我部氏は関ヶ原のあと改易され、代わりに翌1601年、山内一豊が土佐一国を与えられて土佐藩を立てた。一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、河中山城と命名し本丸や二の丸は完成したが、城全体の完工は1611年、一豊の没後、二代目藩主の忠義(一豊の甥)の代になっていた。
11:01
一豊の妻と馬
山内一豊の父は岩倉織田家の家老であったが、織田信長に滅ぼされ、一豊の父も討ち死にした。主家も当主も失った山内家は放浪し、やがて一豊は信長に仕える。信長は彼を木下秀吉に預けた。一豊は姉川の戦い(1570)が初陣で、以後、秀吉とともに戦場にあった。

秀吉の時代になって、四国平定後、羽柴秀次(豊臣秀次)が近江八幡で大幅に加増されると、田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末と共に秀次の家老の1人として付けられて、一豊も近江へきて、長浜城主として2万石を領した。
徳川家康の関東転封、織田信雄の改易で再び秀次が尾張・伊勢、東海で加増されると、一豊ら宿老衆も転封して、遠州掛川に5万1000石の所領を与えられた。

一豊には英雄譚がない。
いちばん有名なのは、秀吉死後に上杉征伐で家康が諸将を率いて会津に向かったときの行動であろう。石田三成が上方で挙兵し、下野小山で家康が諸将に進退を自由にせよと言ったとき(小山評定)である。
豊臣恩顧の大名をはじめ、迷うものが多い中、山内一豊が恭しく前へ進み出て
「この一豊、主君家康公の御為とあらば、一命をも惜しまず仕る所存。拙者が守る掛川城、いかようにもお使い下され! 家康公の大義、我らが先陣を切ってお支え致す!」
と真っ先に発言し、これがきっかけとなって三成と家康どちらに着くか迷っていた諸将が家康につき、関ヶ原の結果が決まった。
(ちなみに、数日前からchatGPTを使い始めたが、一豊のセリフを彼に作らせてみた)

さて、妻(千代、見性院)と馬である。
天正9年(1581年)の安土城下、信長の前での馬揃えの際に、彼女が蓄えておいた黄金で良馬を買って一豊に武士の面目を施させたという美談がある。しかしこれは後世の創作とされる。

いずれにしろ年代も場所も離れた高知城に千代と馬の像はあまり似つかわしくない。しかし初代城主の山内一豊といえば世間が知っているのは妻と馬の話だけである。観光地の像というのは、観光客が知っていることを表現するものである以上、これしかないのかもしれない。
11:02
どうでもいいことだが、近年、やまのうちかずとよではなく、「やまうちかつとよ」が正しいのではないかと言われている。

11:03
三の丸には行かず、二の丸、本丸がある山頂に上がった。
頂上は二の丸と本丸が並んでいる。
山の中腹は三の丸以外まとまった土地が取れず、獅子の段、杉の段、武者走、犬走、といった文字が見える。
11:15
詰門(廊下橋)と天守閣
二の丸と本丸の間は峰が二つあったのか、人工的に掘ったのか、空堀になっていて、玄関のような門がある。
11:09
詰門を抜けると本丸。
高知城は現存12天守の一つとその南の本丸御殿(懐徳館)が残り、本丸の建物がほぼ完全に残る唯一の例として知られる。(例えば姫路城は天守は残るが、備前丸の御殿などが消失している)。本丸が小さいことが幸いしている。

内部見学は有料でったこともあり、割愛。
11:16
二の丸から本丸(左)の下の獅子の段(梅の段)を見下ろす。

山頂の二の丸から降りて本丸の南にまわってみた。
11:31
天主のある本丸から2段ほど下、太鼓櫓の下あたり。
この曲輪は何というか不明。途中に犬走りという名があるように帯のように狭い。
高知は他の主要観光地と離れているのに、ここでもインバウンド客が多い。

三の丸下の板垣退助の立像の脇を通って城山から下りた。
11:36
板垣像のそばの城内地図の写真は撮ったが、板垣像は撮らなかった。
板垣退助(1837 - 1919)は100円札になったから、何をやったかということまでは知らないまでも、私より上の世代は髭のじいさんとして誰でも知っている有名人である。
(100円札は1974年8月に発行停止となったが、四国、高知では割と長く使われたとか。経済圏が独立していたことのほかに、板垣への愛着があったからだったりして)

板垣像のそばの追手門(おってもん)から出る。
城の正面の門という意味で大手門と同じだが、追手(攻城側)を迎えるという意味で戦国から江戸初期に用いられ、一方大手門は政治的・儀礼的な文脈で江戸時代以降に好まれたという。
11:37
追手門から出ると「国宝高知城」の石柱。
この国宝は戦前の基準で、今より緩かった。現存天守12城の一つだが、戦後の国宝にならないのは、1727年の大火でほとんどが焼失し、1747年以降に再建されたため。

高知城を出て、さてどうしようか、となった。
おそらく、Iさん、Kさんは街をぶらぶら歩いてどこかカフェなどに入るだろう。
しかし面と向かって話すこともなく退屈だ。私は行きたくなかった。
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観光は一人のほうがいい。
知らない街を好きなようにずんずん歩いたほうがずっと楽しい。
向こうは一緒に行こうと親切に誘ってくれる。私も単独がいいとは言いだせず、ずるずると一緒に歩いていく。しかし「疲れた」という人もいるし、私だけ興味ある所にみんな連れて行くわけにもいかないし。

「じゃ、私は寺田寅彦記念館を見に行きたいので別れましょう」と二人が興味なさそうな場所を思い切って言い、別れた。

(続く)

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