3月26日、IさんKさんと高知城をみたあと、別れて一人になった。
別れた場所に看板地図があった。
11:38
高知城周辺の歴史散策地図。
いろいろ土佐の有名人ゆかりの場所が書いてある。
面白いのは吉田東洋だけ東洋先生と敬称で書かれていることだ。一番有名な幕末の藩主でさえ「山内容堂誕生地」だし、ほかも「武市半平太邸跡」などと敬称なしで書いているのに。
ま、それは良いとして、さてどこに行こうか。その前に、武市半平太の亡くなった場所「武市瑞山殉節の地」は高知城に来る前、すなわち1時間ほど前に写真を撮っていたのでここに書いておく。
10:47
武市瑞山先生殉節の地
帯屋町壱番街のアーケードを抜けた、高知大神宮の手前にある。
殉節とは節義(正義)のために死ぬことだが、正義とは何だろう?
武市は、黒船来航以降の時勢を受けて1861年尊王攘夷の土佐勤王党を結成した。当時土佐は、吉田東洋が山内豊信(容堂)によって大目付、さらには参政に抜擢され、藩内の改革を行っていたが、勤王党は彼を暗殺し、藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。
勤王党は、京都における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変(文久3年、1863)で長州と過激公家らが排除され、公武合体をいう会津、薩摩が主導権をとると、尊王攘夷派は一気に力を失い、土佐藩でも東洋殺しの疑いがあった勤王党の弾圧が始まった。
帰国していた半平太も捕らえられ、ここ、城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。半平太に傾倒していた獄吏に便宜を図ってもらい、獄外の同士や家族と連絡を取っていたが、翌文久4年4月に京都で岡田以蔵が逮捕、土佐に送還され、激しい拷問の末、自白したことにより新たな逮捕者が続出、取り調べの激しさも増した。
それでも吉田東洋殺しの証拠は得られず、そして慶応元年閏5月(1865年7月)かねてから勤王党を不快に思っていた前藩主山内容堂は、業を煮やし、半平太の切腹を命じ土佐勤王党は壊滅した。
薩長土と一緒にいうが、藩ぐるみで尊王攘夷・倒幕に動いた長州、上層部が倒幕に動いた薩摩と違い、土佐は正規の藩士でなかった郷士が中心となり、かつ藩内で活動できず多くが脱藩した。
ちなみに、土佐藩での武士は、上士と、その下の下士にはっきり身分が分かれていた。上士は、山内一豊が遠州掛川から入封した時に連れてきた家臣の家で、参政・家老(吉田東洋)から馬周り組(後藤象二郎)、小姓組、見回り組などであり、下士は潰された長曾我部の家臣が半農民化したり商人になったものなどで、一番上が白札郷士(武市半平太)、つぎが郷士(坂本龍馬、岡田以蔵)、以下、徒士や足軽、庄屋階級(中岡慎太郎・吉村虎太郎)などが入る。その下に郷士の株を売ってしまった地下浪人(岩崎弥太郎の家)という身分があった。
この身分制度(差別)は徹底していて、上士によって差別されてきた下士の郷士階級から尊王攘夷の活動家が多く出たことは、倒幕を目指した薩長の志士たちと少し違い、天皇の下に万民平等を夢見たものが多かったからではないか。
それは維新後、土佐の自由民権運動にもつながっていく。
高知城にあった板垣退助(1837 - 1919)の像は写真に撮らなかったが、像の場所と大きさから高知市民が一番の偉人にしていると思われた。100円札にもなったから他県の人から見ても(坂本龍馬よりも)一番の有名人だろう。
板垣(当時は乾退助)は上士の家だったから、武市がとらわれた時は町奉行として取り調べる側だったが、勤王派でもあったから土佐勤王党に同情的で終始好意的であった。しかしそれゆえ藩上層部と意見が合わず、また冤罪によって謹慎させられる。その後武市が切腹、藩論が佐幕に転じた後は江戸に遊学した。
慶応2年1月(1866年3月)、坂本龍馬の尽力により薩長同盟が成立。
慶応3年5月(1867年6月) 、京都・近衛家別邸で土佐の乾退助、中岡慎太郎、谷干城、毛利恭助が、薩摩の小松清廉、西郷吉之助(のちの隆盛)、吉井幸輔らと議し、武力討幕を目指す薩土密約を締結した。
この時代の流れに押される形で、佐幕であった山内容堂も軍事密約を(しぶしぶ?)了承し、退助に土佐藩の軍制刷新を命じた。
そして退助は近代化した藩兵を率い戊辰戦争となる。武力倒幕を目指す東征大総督府(総督は有栖川宮熾仁親王)において、東海道先鋒軍参謀が西郷隆盛、東山道先鋒軍参謀が板垣退助であった。甲州勝沼、会津に転戦した。(函館は行かなかった。)
この流れでは明治政府の要人となるはずで、実際、参議となって岩倉使節団派遣後の留守政府をあずかるが、征韓論が容れられず西郷隆盛、後藤象二郎らと明治6年に下野した。
教科書的には、これからあとの「板垣死すとも自由は死せず」(明治15年、1882年岐阜の演説会で暴漢に襲われたときのセリフ)で、自由民権運動の指導者として知られるが、明治維新前の尊王攘夷活動、軍人としての活躍は義務教育では教えられない。
堀に沿って高知城の東南の隅の交差点(帯屋町アーケードから歩いてきた通り)に行くと、堀を渡る橋に向かう形で肖像画や顔写真の並ぶパネルがあった。
板垣退助、中岡慎太郎、中江兆民、小野梓、牧野富太郎、浜口雄幸、幸徳秋水、寺田寅彦。
19人で18枚ある。
田中光顕(陸軍少将、宮内大臣)、谷干城(陸軍中将、初代農商務大臣)、山下奉文(陸軍大将)、島村速雄(元帥海軍大将、海軍軍令部長)、永野修身(元帥海軍大将、海軍大臣、軍令部総長)なども有名だが軍人は入れにくいのだろう。
一方で、紀貫之は「ゆかり」はあるが、生まれは紀伊か大和とされ、出身者すなわち偉人となるうえで土佐の風土が影響したかどうかという基準で選べば、紀貫之の代わりに後藤象二郎あたりを入れたい。
お城の北西で近いし。
堀に沿ってぐるっと裏に回ればよい。
なおも追手筋を歩くと、駅から南下している「はりまや通り」(高松から来る国道32号線)に出る。
11:49
内堀と城山の間、すなわち山の南側の平地は東に藩主用の馬場、西側に藩主の屋敷があった。
11:50
藩主の屋敷跡に建つ高知県庁。
庁舎の間から天守閣が見えた。
11:53
城山の西のふもと、御桜山から搦手門跡を通って城の北側に出ると川がある。
12:00
江の口川、小津橋
12:01
この川は南の鏡川とともに高知城の外堀となっていたが、このあたりは城山のすぐ北で、内堀の役目を果たしていた。
12:04
寺田寅彦邸跡
地図をみて行ってみたら裏口だった。入り口は江の口川に面したほうだった。
12:03
裏口から中を覗けば、武家の屋敷といった風で、割と広い。
自家用の野菜は十分作れる。
お城のすぐそばだから寺田家は土佐藩でも上のほうかと思ったらそうでもない。父親は土佐藩士族ではあったが足軽だから上士ではなく下士の郷士よりも下である。寅彦は東京で生まれ、4歳の時に父親が熊本鎮台に転勤になったのを機に、父が故郷に家を求め、祖母、母、姉とうつって来た。そして熊本の第五高等学校に入る19歳まで過ごす。
12:07
川端の正面にまわると、本日休館だった。
表札の題字は牧野富太郎。
「旧寺田邸」ではなく「寺田邸址」というのは戦争で焼失し、近年復元再建したからだろうか。
寺田寅彦は1903年東大物理学科を首席で卒業、講師となり1908年「尺八の音響学的研究」で理学博士となった。
1913年には「X線の結晶透過」(ラウエ斑点の実験)についてNatureに発表したが、もっぱら身の回りの物理に目を向け、墨流しとか、金平糖の角、ひび割れなどを研究対象とし、地球物理、地震、気象、防災などを専門とした。1935年駒込曙町の自宅で死去。
戦後、湯川、朝永が量子力学でノーベル賞を取ったのに対し、東大物理が振るわなかったのは寺田物理のせいだという声も一部にあったらしい。
漱石とは第五高等学校の英語教師と生徒以来の関係であり、その古さ、親しさから漱石門下生のあいだでも特別視されていた。
とにかく、寺田記念館が開いていないので、予定のなかった坂本龍馬誕生地にでも行ってみる。
寺田邸の前の江の口川に沿って歩くと、川が南に曲がりお城の真西にきたころ、川と道路の間の緑地に石碑があった。
12:14
「日中不再戦」
日本人は誰でも戦争はこりごりで、けっして再戦しようなどとは思わない。普通の日本人はこんな当たり前のことをわざわざ大きな石には彫らないだろう。
「一九九二年高知県民建之」とあるが、日中不再戦という5文字と字体の感じから中国人が建てたようにみえる。
そういえば高知城追手門からでたところに看板地図があった。
(この地図は他の場所でも何回か見た)
11:38
高知城下の旧町名地図
ここで、中国語訳は必要だろうか? スペースがとられ情報が半分になってしまう。日本人だって読む人は少ない。中国人旅行者でもこういう細かいものを読む人は日本語を勉強するか、ネットで中国語のサイトを調べるだろう。
要するに、石碑と言い地図と言い、高知県では中国人が多いのかなと思ってしまうが、他県と比べ特に多いという話は聞かない。
やがて江ノ口川の南に渡り、路面電車の通り(松山まで行く国道33号線)に出る。
その広い道を西に行くと、上町病院の西隣に石碑があった。
12:21
坂本龍馬先生誕生地 内閣総理大臣吉田茂
吉田茂は東京生まれだが父親は高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱であり、のちに父の友人の吉田健三(福井藩士)の養子となった。
碑文は吉田が総理だった1952年に揮毫され、明治100年記念の1968年に台座を含め整備された。司馬遼太郎の竜馬がゆく(1962年から新聞連載開始)より前である。
竜馬はここで生まれ育ったわけだが、山や川などがあるわけでないので当時の雰囲気が分かるものは何もなく、早々に離れた。
ここから南の鏡川のそばに山内容堂邸址というものがあるが(当時、南屋敷と呼ばれ、実父・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の家である)、時間がないし歩き疲れたのでまっすぐ高知駅に行くことにした。
途中再び高知城、県庁前の堀端に出て、追手門の東、追手筋を歩いた。
広くて中央に緑地がある公園のような道である。
12:32
なぜか刃物の店が並んでいる。
「刀買います」「火縄銃売買」などといった看板も出ている。
こういう店は他の都市にない気がする。
12:33
柔らかい色の木材を並べたような、隈研吾とは少し違った建物が見えた。
「オーテピア」という図書館と科学館が入る複合施設だった。
12:34
「ねえ君、ふしぎだと思いませんか」
「天災は忘れられたるころ来る」
30分ほど前の記念館は本日休館だったが、こんなところで寺田寅彦に会った。
駅舎が見えたころ、アンパンマンの像が並んでいた。
さて、高知駅に着いた。
12:42
やなせたかしは高知出身だったな。
お城の脇でパネルになっていた土佐出身の偉人、とく政治家たちは、自分の地位で仕事しただけで、その地位も汚い手で得たものかもしれない。その点、本人の才能と実力だけで有名になった漫画家のほうが「偉人」といえる。
東京生まれだが父が厦門で客死し、高知の長岡郡後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた伯父に引き取られた。
話はとぶが、私の故郷、信州中野は市内のすべての農協が1964年に合併し中野市農協となった。翌年全国的にも珍しくアップルちゃんマークというシンボルキャラクターを制定し、農産物の袋に印刷して出荷した(1965年はまだリンゴの一大産地)。たしか、数年後に巨峰、えのきだけ、アスパラガスだったか3品目で全国1位という農協となった。(当時はまだ東日本、北日本の果樹農家がリンゴを作っていた頃、いち早く巨峰に切り替え、また松代発祥のえのきだけの栽培は始まったばかりで中野が全国生産の9割を占めていた)。そしてこのアップルちゃんの作者を私はずっとやなせたかしだと思って「アンパンマン」なども見ていたのだが、ところが今回、制定した年を調べた時に、作者は「ほのぼの君」の佃公彦ということが判明した。50年ぶりによく見れば確かに違っている。
2008年に高架となったらしいが、電化されずディーゼル車しか通らない線路と近代的駅舎が頭の中でうまくマッチしない。
駅前広場に銅像のようなものが見える。
有名な桂浜の竜馬像は砂浜にあるのかと思ったら、東の高台の上だという。
12:44
高知駅前の三像
遠目ではキリスト教の殉教者たちのように見えたが、実際彼らは幕末の動乱で命を落とした。坂本龍馬(享年31)、武市半平太(36)、中岡慎太郎(30)である。発泡スチロール製だが台座を含めると400キロある。台風のときなど数年に一度、転倒防止のため避難するらしい。昨年2024年8月にも5年ぶりに撤去された。
これらの像は2011年7月、土佐勤王党結成150周年を記念して設置されたが、もちろん勤王党が現存するわけでなく、観光目的である。どうも「竜馬がゆく」の影響を受けているな、と思ったが、こういうものは観光客が知っていることを見せなければならず、私もこの小説でほとんど知識をえたから、建てるとしたら、こうなるのかな。
でも私としてはないほうが良い。
このあと高知城で別れたIさんKさんと合流し、路線バスで桂浜に向かった。
13:48
桂浜
大雑把な土佐湾の形から、見渡す限り太平洋と砂浜が続く九十九里のような景色を想像していたから、山と松のあることが意外だった。
13:52
このブログを書くにあたり、最近使い始めたchatGPTに
「「竜馬がゆく」で坂本龍馬が桂浜にいる場面がありますか?」と聞いてみた。
すると
「あります。龍馬が太平洋を眺めながら思索する描写があり、彼の「日本という国の未来」に対する大きな志や、世界に目を向けた広い視野が印象的に表現されています。海を見つめる姿が「大きなスケールの人間像」として象徴的に描かれ、彼の人物像を際立たせる場面です。」
と立派な答えが返ってきた。私は疑い深いので
「小説のどのあたりにありますか?」と聞いた。すると
「第1巻「門出の花」の章に登場します。この場面では、龍馬が故郷・土佐の桂浜で太平洋を見つめながら、広大な世界への憧れや志を抱く様子が描かれています。」
と返ってきた。
なるほど、ありそうだが、しかし文庫本を引っ張り出してきて探しても、ない。
そこで「探したが、ない。ほんとうにあるのか?」
と聞くと、やっと
「ご指摘ありがとうございます。先ほど「第1巻『門出の花』の章に桂浜の場面が登場する」とお伝えしましたが、改めて確認したところ、そのような場面は該当章には見当たりませんでした。誤った情報をお伝えしてしまい、深くお詫び申し上げます。」
といってきた。
chatGPTは、タイトルやキーワードを与えてレポートを書かすと見事な回答(作品)を瞬時に返すが、嘘を平気で(かなりの頻度で)つく。
13:57
浦戸湾入り口を挟んで向こう側の高知新港に停泊中の飛鳥IIがみえた。
13:58
世界につながる雄大な海を見て育てば偉人になるわけではない。
土佐の人はこの海と険阻な四国山脈に挟まれていたわけで、他県の人とは隔絶している。
孤立して他人と違う考え方を持つことが偉人となる条件かもしれない。
林の中を上がっていく。
た。
14:01
竜馬像
像の高さは5.3m,台座を含めた総高は13.5m。高すぎて、はるか太平洋の彼方を見つめているという表情などはよく見えない。
高知県の青年有志が募金活動を行い、除幕式は昭和3年5月27日。海軍記念日である。日本海軍生みの親と一部で言われる理由は、1867年海援隊を組織したからか。
いろは丸などを使って交易、海運を目的としたものだったが、竜馬自身が勝海舟の創設した幕府海軍の軍艦操練所で塾頭をつとめたから、海援隊も同時に軍艦の運用や航海術、海上戦術の訓練機能を兼ねた実質的な海軍的組織だったということか。(それなら勝海舟が海軍生みの親だろう)
このあと飛鳥へのバスの発車まで時間があったのでIさん、Kさんと別れ、長曾我部元親の建てた浦戸城をみようと西裏の山をあがった。

14:12
浦戸城址
土産物屋でにぎわう海辺の桂浜と違い、誰もいない。
荒れに荒れ、遺構もほとんどない。
山内一豊が河中山城を築くにあたり、ここの石垣からだいぶ石を運んだらしい。
そういえば、一豊が土佐に入ったときは長曾我部の遺臣が多く残っており、領地取り上げに反対してこの浦戸城に立てこもった。この浦戸一揆は策略によって平定し、200人以上の首を獄門にかけたという。その後も抵抗と平定(殺戮)は繰り返され、上士と郷士の溝(郷士の恨み)は深まった。
浜辺のバスターミナルに戻り、飛鳥の用意した無料バスに乗った。
14:35
帰路、浦戸大橋から浦戸湾を見る。
高知の町が見えないほど湾は奥深い。
この時は知らなかったが、翌週、すなわちこの5日後の3月31日からNHK朝ドラで柳瀬隆を主人公にした「あんぱん」の放送が始まった。牧野富太郎が放送されたばかりなのに、やはり高知随一の偉人である。
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