2025年12月30日火曜日

伊勢8 輪中、長島一向一揆

 12月3日、三重県に来て、あちこち見ながら北上してきた。

そして桑名見物のあと、桑名駅を予定より早く14:55に出た。

すぐに揖斐・長良川の鉄橋を渡った。
1両目に乗っていたので運転席のすぐ後ろに行って、川を見た。

14:59 JR長島駅着。
伊勢長島ではなく、長島が駅名。
15:01
JR長島駅
外観は寂しい駅であるが、
一日乗車人数は500人くらいだから数十人の飯山線の駅よりずっと多い。
島の中に学校や職場がなく、川を渡る橋が少ないから利用客が多いのだろうか。

滋賀県でよく見かけた飛び出し坊や?飛田君?がいた。
間に岐阜県があるが、鈴鹿峠のほうから広がってきたのだろうか。

すぐ近くに近鉄の駅があった。
15:02
近鉄長島駅
長島とつく駅は、長島、近鉄長島、紀伊長島、と3つしかないのは意外だった。

近鉄は何でこんなに近いところに駅を作ったのか、これでは客を取り合うではないか、と思ったが、鉄橋を単独で作るわけにはいかず、一つの鉄橋を渡り、細長い長島に駅を作るとすれば、同じところになる。
よく考えたら西隣の桑名も、木曽川を渡った東隣の弥冨もJRと近鉄は同じところに駅を作っている。

伊勢長島に降りたからには、長島城に行ってみたい。
信長が手を焼いた長島一向一揆の本拠地である。
地図を見たら、途中、すぐ近くに六辻があった。ひとつは微妙に中心からずれているから5プラス1であり、ますます複雑である。この信号機はどう作動するのだろう?
15:05
と思って現場に来て見たら、信号がなかった。
難しすぎて敢えてつけないのかもしれない。

少し歩くと昔からの集落に入った。
15:08
このあたり、家は石垣の上に建っている。

15:09
どの家も石垣の上である。

輪中というのは木曾三川(木曾、長良、揖斐)の下流の集落で、そっくり堤防で田畑を含む部落を囲んでしまったものをいう。
この3つの川は、JR岐阜駅の南あたりから墨俣、大垣なども含む広い範囲で、合流、分流を繰り返し、いくつもの中州のような地形を作った。そこにできた集落は、周囲を堤防で囲んだ。
輪中(wikiから)。
美濃、伊勢、尾張を色分けしている。

ふつう堤防というのは川の上流から下流まで両側を堤で挟むようにする。しかし、ここは流路が網目のように複雑だったことに加え、古い時代、すなわち村落連合共同体が小さいうちから治水をしたから、自分たちの集落だけを囲むような堤を作った。

それでも水害は頻繁に起こり、そのたびに川は流路を変えていく。
では美濃、伊勢、尾張の国境はどうだったのだろうと思うが、実際、8世紀ころから尾張と美濃は洪水の多い地域を互いに押し付けあうようなこともあったらしい。

おおよそ現在の河道に落ち着いたのは1586年の大洪水の後で、秀吉が1592年から3年間で堤防を築き(文禄の治水)国境を明確にした江戸時代には幕府が手伝い普請として、薩摩、二本松、徳島などの各藩に命じて治水工事を行ったが、3川の網目状態は変わらず、水害はなくならなかった。

明治になって、外国人技師によって本格的な治水事業が1887年から始まる。まず長良、揖斐川の川床、水面を低くするため、木曽川の分流工事が、続いて長良、揖斐の分流が行われ、1900年に三川分離が完了した。その後も揖斐川の改修や堤防構築などの工事が続き、終了したのは1911年だった。

今この3つの川をみれば、ところどころ(というよりかなりの部分が)細い堤防(背割り堤)だけで分かれている。洪水時の合流による乱流をふせぐためという。川(水域)としては一体(一帯)だが、水だけが分かれている。そこまでして分流が必要だということを初めて知った。

さて、輪中は学校の社会科で習ったから、何か見られればいいと思っていた。
しかし河川工事で流路が単純化されるとともに、囲い堤防が消失、また集落と川の距離が離れ、都市化が進み、昔の輪中構造は分からなくなっていることだろう。

ここ長島は、文字通り今でもはっきり川に囲まれている。
昔とは違うだろうが、堤防にも囲まれている。
何かわかることはないか?
航空写真で一つ気が付いたのは、家が中洲の真ん中、つまり川から離れたところでなく、むしろ水際、すなわち木曽川、長良川の堤防に沿って建っていることだ。明治以降の堤防は決壊しないよう傾斜を緩くして幅広くしているからスペースはあり、中洲で一番標高が高い水際が住宅最適地なのだろう。

長島の中心部は古くからの家々である。堤防側に引っ越すわけにもいかず、昔からの石垣土台のうえに新築するしかやりようがない。
15:10
長島川
もともと長島を分断していた川なのか、排水のために掘ったものなのか知らない。

道は少し登り坂になり、長島でも比較的土地が高い場所が、長島城址だった。
15世紀に北勢四十八家の一つ、伊藤氏によって築かれた。
1570年、一向宗・願証寺の住職、証意によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となった。
信長に鎮圧された後は、滝川一益、織田信雄の支配となり、江戸時代は1万石から2万石の菅沼氏、久松松平氏、増山氏の長島藩がおかれ明治維新を迎えた。
15:13
長島城址

さて、有名な長島一向一揆のことである。
信長は桶狭間(1560)の翌年尾張を統一した後、美濃に向かった。1567年稲葉山城を落とし美濃を平定、1569年、伊勢もほぼ掌握した。
ところが1570年、石山本願寺が反信長で立ち上がると、長島でも願証寺の住職、証意に導かれ門徒が一斉に蜂起した。そこに北伊勢の小豪族の一部も加わり、桑名の滝川一益を敗走させた。

このころ信長は近江で浅井・朝倉と退陣していて援軍を出せなかったが、1571年5月、自ら5万の兵を率いて北伊勢、長島に出陣、村々を焼いたが、桑名方面から海路を使って雑賀衆らが兵や兵糧・鉄砲などの物資を運び、信長は制圧には至らず引き揚げた(第1次)。
水に囲まれた島というのは、守りやすく攻めにくい。

1573年9月、浅井朝倉を滅ぼした信長は再び長島攻めを敢行した。8万の兵を率い、長島の周囲の城を落としていく。しかし長島への侵攻に至らず(第2次)。

1574年7月、信長は織田領の全域から12万の兵を集めた(第3次)。
九鬼水軍も動員し、海陸、東西南北、四方からの織田軍の猛攻を受けた砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城に逃げ込んだ。門徒たちは兵糧攻めで耐えられなくなり降伏を申し込んだが信長は許さず殲滅を命じた。
第三次長島合戦(長島町誌から)
現在は河川改修、干拓などで地形が変わっている。

最後に残った屋長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火をつけた。城中の2万の男女(農民、漁民)は焼け死に、同日、信長は岐阜に向け帰陣したという。こうして、門徒による長島輪中の自治は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。

江戸時代になって長島城は長島藩の藩庁になった。

一時廃城になったが、増山氏が入ると拡充、改修され、しかしもちろん天守は上げられなかった。現在、長島城跡には、桑名市立長島中部小学校と長島中学校がある。

15:14
長島中部小学校
都会の小学校と違って自由に入れる。
15:15
大きな黒松があった。
幹回り3.15メートル、
長島城本丸の南西隅にあったというが、樹齢3百数十年というから、一向一揆の血は吸っていない。
15:18
城の東は長島川。濠の役も果たした。

小学校の北は中学校。
15:20
桑名市立長島中学校
城址に建つ学校らしく、正門は屋根がついていて、校舎も昔を配慮した姿にしている。
15:20
長島中学
中学校の道路側の塀際に「伊勢湾台風の水位」と書かれたプレートが立っていた。
島で一番高いここで水があそこまで来たなら、長島の家はすべて水没したはずである。

昭和34年9月、死者行方不明者5000人以上。
超大型だった。
最も外側の閉じた等圧線の直径は、たいてい600~1500kmのところ、室戸台風(1934年、昭和三大台風のひとつ)が最盛期で約2,000kmであったのに対し、伊勢湾台風は約2,500kmにも及び、暴風域も非常に広かった。(ちなみに日本列島4島の外接円は直径2070km、北海道を除くと1350kmである)
超大型ということは超強力ということでもある。潮岬に上陸したときも929hPaという超低気圧を維持した。
伊勢湾では風速40メートル以上という強い風と低気圧による吸い上げ効果により高潮が起こり、満潮時を外れていたにもかかわらず、名古屋港では海水位が3.89メートルあがったという。

・・・
長島城址を出て夕日と風が寒くなった道を長島駅に向かった。
ほとんど人と会わなかった。
JR長島から名古屋駅まで5駅、26分、340円。

地下街をぶらぶらしてJR高速バスに乗った。17:00名古屋発。
これは東名高速に設けられた各停留所に止まり客を乗せ、また路線バスのようにボタンを押せば止まって降ろしてくれる。時間がかかるから、安いのに(2400円)数人しか乗っておらず、ガラガラだった。

23:17東京着の予定だったが、名古屋市内で混んでいたのか、バスは遅れた。遅れても休憩時間は予定通りしっかりとり、運転手に挽回しようという動きはなかった。

うかつにも、ここで初めて東京についた後のことを考えた。終電に間に合わなかったらどうしよう。数年前は大手町から千駄木まで歩いたが、もうその元気はない。値段につられて大失敗したかと思ったが、無事電車で帰宅できた。

いままで知らなかった三重県がこの1日でだいぶ身近になった。





2025年12月24日水曜日

伊勢7 七里の渡し、桑名城と松平定信

 12月3日、伊勢市、田丸、松阪、津、四日市と三重県の主要部を北上してきて、13:27桑名についた。駅から八間通りをまっすぐ東に行くとお城につく。

三の丸にたつ本多忠勝像と柿安本店本社ビルを見て、緩い坂を上がって揖斐川の岸に立った。
揖斐川に合流している長良川の河口堰が見えた。
13:58
上流方向は山が見える。

少し先のほうに櫓が見えたので行ってみた。
14:01
外観復元・蟠龍櫓
桑名城には元禄の時代で51の櫓があったという。
この櫓は東海道七里の渡しをゆく旅人や、揖斐・長良川の水位を監視できた。
いま一階が水門統合管理所、二階が簡単な資料室になっていて上がってみた。
14:03
来たほうを見ると柿安本社が見えた。
2階は桑名市所管の展望台兼資料室というが、展望台としては窓の縦格子の木が太くて外がよく見えず、全く用をなさない。忠実に復元したというなら、それはやりすぎだろう。

壁には絵や地図が飾ってある。
14:04
安藤広重「東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口」
切手で見たか永谷園のお茶漬けふりかけに入っていたか、いずれにしても子供のころ見た絵。描かれた建物はこの蟠龍櫓とは少し違うか。

武家の肖像画が2つあった。
松平定信と松平定綱(右)

桑名は、前のブログで述べたように本多家が17年で去ったあと、1617年家康の異父弟である久松・松平定勝が、山城伏見藩5万石から6万石加増の11万石で入った。
二代定行は1635年加増されて伊予松山15万石に移封されたが、その弟(定勝の三男)・松平定綱が美濃大垣藩6万石より11万3000石に加増され3代目として入り、久松松平の桑名藩は続いた。
定綱は、この櫓で肖像画が飾られているように、名君の誉れ高く実質桑名藩の藩祖とも言われた。

久松松平氏は5代目定重の時代に騒動が起き、1710年、懲罰的に越後高田に移封された。
つづいて奥平松平が10万石で入る。

しかし1823年奥平氏は武蔵国忍に転封し、
代わって奥州白河から松平定永が11万石で入封した。
この家は桑名から高田に移封された久松松平家で、高田から白河に移っていた。

奥州白河松平と言えば寛政の改革の老中首座・松平定信(1759₋1829)である。
実際、定永は定信の嫡男で、定信はこのとき家督を譲り隠居していた。定信は寒い奥州より物成りよく父祖伝来の地、桑名への国替えを望んでいたという。
しかし、父祖伝来と言っても定信は田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男、すなわち吉宗の孫であり、桑名とは全く関係なかった。

松平定信について少し書けば(桑名とますます関係ないが)、幼少期より聡明で知られ、田安家を継いだ兄の治察(1753₋1774)が病弱かつ凡庸とされ、一時期は田安家の後継者に、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継になると期待されていた。
しかし定信が数え17(満15歳数か月)となった安永3年(1774)3月、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となる事が決まった。田安家としてはこれを望まなかったが、10代将軍・家治の命により決定される。これには一橋治斉が関係したらしい。この年10月、兄・田安治察は妻子なく22歳で死去し、母はまだ同居していた定信に家督を継がせたかったが、許されず、田安家は断絶した。

将軍家治、一橋治斉、松平定信、3人とも吉宗の孫、いとこ同士である。10代将軍家治の後継は定信がいなくなって一橋治斉の子が就任し、11代家斉となった。
そして、当主のいなかった田安家には一橋治斉の五男斉匡(将軍家斉の弟)がはいった。治斉、相当な男である。
14:05
東の揖斐川のほうを見たら屋根に蟠龍がみえた。
まだ天に昇らず、水中あるいは地中に蟠(わだかま)っている龍のことで、火災、水害を防ぐ守り神とされた。蟠るというのは、とぐろを巻く、うずくまる、という意味だが、この漢字に変換されるのは「わだかまる」だけである。心のわだかまり(心に引っかかっている重い気持ち)もこの漢字を書くはずだが、字面と実態がかけ離れていて、やはりひらがなが良い。

このあたりで揖斐川と長良川の間にあった細い土手(背割り堤)は切れ、一体となり、対岸は長島になる。
14:06
蟠龍櫓を下りるとすぐそばに鳥居が見えた。
東海道、七里の渡しの船着き場跡である。
神社でないのに鳥居があるのは、ここが伊勢神宮への伊勢街道の始まりでもあること、近くに住吉神社があり、航海安全の住吉信仰があったことなどが考えられるが、これは復元されたものであり、江戸時代にあったかどうか分からない。ちなみに昔の七里の渡しは河川改修などで、必ずしもここではないだろう。

東海道は、宮宿(名古屋熱田)と桑名宿の間を、海路七里(27 km)で結んだ。干潮時には海が南に行くから沖廻り航路で約10里(39 km)かかった。北方へ迂回して陸を歩くと途中1泊せねばならず、危険と船賃を考えても使う人は多かった。
14:07
江戸時代、東海道の主要河川は橋が架けられなかったが、ここは木曽川、長良川、揖斐川が集まり、橋をかけようにも建設、維持とも困難で、不可能であっただろう。

14:08
東海道は陸に上がると南下する。
だから標柱が示すように、ここで直角に曲がった。
すぐ北の濠を隔てて国営木曽三川公園があり、現在整備中でここもその一部になるらしい。

ふたたび桑名城に戻った。
14:14
堀はだいぶ埋め立てられたが、まだまだ水面は広い。
高松や三原などの海城というより水城か。
水運の盛んな場所に建てられた城として、下総・関宿城も地面に比べ、水面が広かった。

航空写真でも、この公園地図でも、陸地に比べ濠の面積が格段に広い。
しかし昔の絵図はそうでもない。
桑名城
正保城絵図(国会図書館蔵)
17世紀半ば、正保元年(1644)、家光が全国の大名に対して、堀の幅、石垣の高さまで幕府に報告させたものだが、絵図そのものが正確に書かれたわけではない。(当時は157点あり、63点が国会図書館に現存する)
聖心女子大蔵 勢州桑名城下図。
こちらのほうの濠の幅のほうが現実に少し近いか。
右に長島が見える。
14:17
本丸跡に建つ鎮国守国神社。
普通名詞かと思ったら違った。

白河から松平定永が入城したとき、藩祖である松平定綱(鎮国公)と実父松平定信(守国公)を祀る神社を城内に建てた。

ちなみに、久松松平は伊予松山も桑名も当主は定の字を通り字にした(松山のほうは後に崩れた)。NHKの松平定知は、伊予松山の久松松平の分家、旗本の子孫に当たる。

14:18
本丸から二の丸へわたる。
濠が広いから途中に東屋があり何やら中国の公園のようだ。
そういえば城址公園は九華公園という。

ちなみに、前のブログで少し書いたが、桑名というと私は幕末、実兄、会津の松平容保とともに京都の治安維持にあたった松平定敬しか知らなかった。
桑名藩は鳥羽伏見でも幕府軍の主力を成したにもかかわらず将軍慶喜に見捨てられた。二人は御三家尾張藩の支藩、美濃高須藩の出身である。高須藩から幕末の尾張藩主となった徳川慶勝(新政府側)、また尾張藩主を経て慶喜が出た後の一橋家を継いだ徳川茂栄らは実兄であり、高須4兄弟と言われた。
水につきそうな松。根株がごっそり抜けて堀に落ちそう。
この城は洪水、大潮のときは大変だっただろう。

あと桑名というと猛将・立見尚文である。
鳥羽伏見で崩壊した藩の軍を立て直し戊辰戦争を戦った。その能力から西南戦争で陸軍から引っ張られた。日露戦争では軍司令官の大将たちより経験豊富であったが、賊軍だったから中将で、弘前第8師団を率いた。黒溝台で数倍のロシア軍に囲まれ、師団の半数を失いながら敵を退却させた。全滅しなかったのは立見がいたからだと、桑名から遠く離れた弘前で長く伝えられたとか。
14:19
橋の上で餌付けしている人がいた。
鳩は落ちた豆を拾うが、鴎は空中で餌をとる。
14:20
二の丸から橋上東屋を振り返る。
14:21
二の丸の南側も濠が広い。
堀の南に接するのは市立立教小学校の校舎。
駅に向かう途中、精義小学校というのもあった。
桑名市の小学校は、地名とか数字でなく藩校のような、漢籍からとったような校名である。

駅に向かう途中、南下する旧東海道が駅のほう(西)に曲がっていて、少しだけ歩いた。東海道が再びかぎ型に曲がって南下するところに小さな公園がある。いくつか記念碑、説明板が立っていた。
14:32
京町公園
まず、「京町見附跡」。ということは桑名宿の京都側の端ということか。
「桑名市市制施行時市役所跡」。桑名は明治22年のときに桑名町で出発、1937年に市制施行した。現在人口は13万人。
一番目立ったのは「現代から未来へ・タイムカプセル・市制50周年記念」の石碑だった。「開封日2037年4月1日」と書いてあった。

公園のすぐそばにアーケード商店街があった。
14:33
寺町通り商店街
駅からお城に向かうときアーケードの北の端を過ぎ、いま南の端を通っている。

寿町通りを西の駅に向かっていく。
駅の近く、国道1号線との角に中部電力桑名営業所とフラワー薬局のビルがあり、そこに石柱がたっていた。
14:41
「左 おみせ」「右 車おきば」
朝から伊勢の街道筋を歩いてきて、何本か歴史を感じさせる石標柱を見てきたが、最後にいいものを見せてもらった。

(つづく)

2025年12月20日土曜日

伊勢6 桑名の柿安本店、本多忠勝、長良河口堰

12月3日、伊勢市、田丸、松阪、津、四日市と三重県の主要部を北上してきて、桑名についた。

13:30
桑名駅。
JR、近鉄、養老鉄道の合同駅舎である。
新しく機能的だが旅行者向きの風情はない。
13:30
市街は駅と東の桑名城の間に広がっている。
というか、城の周りの町が途切れたところに駅が作られた。

観光案内所に立ち寄る。
松坂の人ほど熱心、親切ではなかったが地図だけもらえれば十分。
もらった地図で真っ先に見るのは桑名城だが、そこに行く途中に「柿安本店」があった。
そうだ。柿安は確か桑名に本社があった。
前を通っていこう。

八間通りをいく。
一間=6尺は1.82メートルだから八間は14.6メートル。
今の通りの車道分くらいだろうか。
津の国道23号の50メートル、四日市の中央通りの70メートルと比べると大分狭く、ごく普通の道路だが、こう名付けられたということは当時、規格外の広さだったのだろう。

調べたら明治27年(1894)関西鉄道(のちJR関西本線)の仮駅が開業。翌年現在地に移転、大正時代に町の中心、お城と駅をまっすぐ結ぶ幹線道路が完成した。これが八間通りである。
大正8年に養老鉄道、昭和4年に伊勢電鉄(現近鉄名古屋線)が乗り入れ、駅前通りとして桑名の中心通りになった。1キロだったが(日本一短い)市電も走った。
しかし1975年、駅前再開発で新しい駅舎は少し南に移動、駅前正面通りではなくなってしまった。電柱を地下に埋めるなどしたが、すっきりした半面、賑やかさはない。

13:37
八間通り
すぐ先で交差するのは国道1号線。
しかしこの写真は何を撮ったのか思い出せない。

とにかく八間通りをずんずん東に歩いていく。
13:43
これは何を撮ったかはっきり覚えている。
ケヤキを保護しようと周りに防護柵を置いたら、逆にそれが木を締め付けている。何年も前から見て見ぬふりをしないとこうならない。
向かいは海蔵寺。観光地図に「薩摩義士の墓」とあるが立ち寄らない。
13:45
寺町通り
お城の近くの濠端(外堀か?)に沿ってアーケード商店街があった。
てらまち広場の公衆便所は建物として何かの遺構かと思った。

13:49
観光地図にあった「柿安本店」に到着。
全国の駅ビル、デパ地下にある「柿安」の「本店」ということではない。会社名が「柿安本店」なのである。いまも桑名に本社を置く。私は何回か柿安の株式を買ったことがあるので少し人より詳しい。
この店の看板は「柿安・料亭本店」だった。
13:50
2つ目の堀の多聞橋から柿安を振り返る。

13:51
スパゲッティナポリタンが出るような喫茶店・はせ川。
すぐにまた濠がある。
13:52
3つ目の濠の舟入橋
渡ると城内。
この西を東海道が通っていた。
桑名城
正保城絵図(国会図書館蔵)
一番西(左)の濠端が寺町通り。

3つ目の濠を渡ると武将の座像がある。
13:52
本多忠勝像
桑名というと、この銅像の人物より、幕末、京都に派遣された不運な藩主のほうが思い浮かぶ。
実兄の会津・松平容保が京都守護職、桑名藩主・松平定敬が京都所司代をむりやり押し付けられ、兄弟で攘夷志士の暗躍する京都の治安維持にあたった。
戊辰戦争の初戦、鳥羽伏見では会津、桑名を主力とする幕府軍は圧倒的兵力をもっていたが、慶喜が突如、二人を引き連れ江戸に逃げ帰り、総軍崩れ、孝明天皇の信頼も篤かった会津、桑名は突如、朝敵となった。

さて桑名城のシンボル、座像の本多忠勝(1548₋1610)。

織豊時代、桑名は滝川一益、織田信雄のあと、秀吉の家臣が何人か治めた。
関ヶ原の後、1601年、徳川四天王の一人、本多忠勝が上総大多喜から10万石で入った。秀吉時代、家康家臣はすべて関東であったが、関ヶ原のあとは重臣を全国の要地に配していく。
彦根(井伊)などとともに桑名も軍事的、経済的に重要地点だった。
しかし大坂の陣の後、1617年、忠勝の嫡男忠政は西国の押さえとして、ここも要地・播磨姫路に15万石で加増移封された。
このとき嫡男すなわち忠勝の嫡孫・本多忠刻は、家康の孫娘で秀頼の正室となり冬の陣のとき助けだされた千姫と婚姻していたこともあり、別に化粧料10万石をつけられた。

猛将・本多忠勝は鹿の角の兜の肖像画で有名であるが、この坐像の兜もそれを反映していた。

城跡公園というのは誰かを銅像にしなくてはならない。わずか17年の本多家はその後の長い歴史を持つ桑名で影が薄いが、その初代忠勝は桑名城を築いたということで意味はあるか。
13:53
本多忠勝像のむこう、城内にまた柿安が。
今度は先ほどの料亭と違ってマンションのように大きい。
13:54
料亭とすれば結婚式もできるような規模である。
中はどうなっているのだろう、と思ったら近所の普段着の人が二人はいっていった。
私も続いて入った。
13:55
年末年始の予約肉を受け付けていた。
柿安は桑名だったから江戸時代あたりに名物ハマグリの佃煮などから出発し、同じ伊勢の松阪牛のしぐれ煮に広げ、全国展開してから様々な総菜を作り始めたと思っていた。

しかし今調べると明治4年(1871)の赤塚安次郎による桑名の牛鍋店が始まりだったという。
昭和43年(1968)、株式会社「柿安本店」を桑名に設立。
1972年「牛肉しぐれ煮」の販売を開始した。
1981年には精肉加工工場を新設した。
そして1989年、本社を桑名市江戸町から桑名市吉之丸に移転。
ん?この場所ではないか。
三の丸とはいえ、城内でこんな大きな私的ビルを建てていいものだろうか。
まあ、忠勝坐像の横は柿安コミニティーパークだったし(多分私有地で寄付?)、市内地図を見れば中心部に柿安シティホールというのもある。桑名市への貢献大ということで市のシンボルともいえる城内に本社ビルの建設が許されたのかもしれない。

一階は店舗になっていた。
13:55
ふつうのスーパーのようにリンゴやイチゴも売っていたが、基本的には精肉、惣菜、弁当、和菓子などの食品専門店のようであった。

柿安本社ビルの旗艦店舗をでて、川のほうに行ってみる。
堤防と感じさせないような芝生の緩い坂になっている。
上り切ると揖斐川。
13:58
伊勢湾の方向
このあたりの川は既に海のようだ。
13:58
揖斐川の上流方向は山が見える。
すぐ東(右)に薄皮のような土手を隔て長良川が接していて、そちらには水門が作られている。
昔、「清流・長良川を守れ」と環境保護団体が反対した長良川河口堰である。計画は1960年。1968年閣議決定、1988年着工、1995年完成。

かつて長良川は、大きな河川としては本州で唯一、本流に堰(ダム)がなかった。
堰の目的は工業用水の確保であったが、計画が30年以上紆余曲折するうちに中京地区で盛んな重工業がさして水を必要としなくなってしまった。目的がなくなったのだから本来はここでやめればいいものを、国、自治体というのは絶対やめない。税金を食い物にして大儲けする人がいるからだ。

結局、洪水防止に名目を変更して建設が進められたが、どこが洪水防止になるのだろう。そもそもこの堰はそんな目的で必要としたものではなかったから、答えられるはずがない。
大雨のときは閉じても意味がない。満潮のときの逆流を防ぐためか? でも東岸、輪中の長島にあふれてしまう。
調べたら「長良川の浚渫を可能にし洪水を安全に流下させる」といったらしい。これを詭弁という。堰で流れを止めれば上流の浚渫作業が容易になる、という言い分を受け入れても、下流、海側の川床が高ければ意味がない。
「公共事業というのは大いに無駄遣いしても、経済を回すから必要なのだ」といえばよい。治水とか利水というから突っ込まれる。