2024年1月14日日曜日

小山一族、祇園城と小山御殿

小山にきた。
宇都宮線だと栗橋(埼玉)、古河(茨城)、野木(栃木)、間々田のつぎ。栃木県では野木町に接する最南端の市である。
新幹線、宇都宮線のほか、両毛線、水戸線の起点でもあり、駅舎は新しくて駅ビルも立派。
2024₋01₋10 9:39
小山駅。
西口のロータリーに降りると2本の柱のキャッチフレーズが迎えてくれる。
「徳川家康 決断の地 開運 小山評定」
「祝 本場結城紬ユネスコ無形文化遺産登録」
しかし結城市は小山と結びつきが強いとはいえ、隣の茨城県である。
もう一本のキャッチフレーズも、偉人(家康)生誕の地とかいうならわかるが、「決断の地」というのはあまりに市の紹介として弱い。

ロータリーの裏に回ると(写真)
開運小山評定の柱の裏は
「祝 渡良瀬遊水地ラムサール条約湿地登録」とあった。
渡良瀬遊水地の栃木県側は野木町と藤岡町がメインだが、小山市も少し接している。しかしほんのわずかであり、このフレーズも他の自治体と比べ大々的に言うには弱い。

こういうキャッチフレーズより、小山と言えば小山遊園地(1964年開業)が有名だったが2005年に閉園した。私のように行ったことがなくても名前だけ聞いた人は多いだろう。この遊園地がなかったら、県外の多くの人は小山をコヤマと読んだのではないか?

小山はオヤマと読む。
小川はオガワ、小山は人名にしろ武蔵小山にしろ、コヤマが普通。
小さいものをコといったりオといったり、どういうことかと考えたけど、調べるのは面倒だ。

小山に降りるのは3回目。
最初は1985年11月、剣道班の友人で富士通にいた関屋幸雄氏の結婚式で和田屋新館(2010年倒産)に来たが、全く記憶がない。
二回目は2017年11月、このときはダンスの競技会のためすぐバスで県南体育館に行ったため市内は歩いていない。ただ駅前で目についた小山評定の看板についてのブログは書いた。

今回は短時間でも少し歩く。
小山には城がある。中世の小山氏が築き、一般には、例えばwikipediaでは小山城という。しかし地元では、例えば小山市の観光案内やグーグル地図では祇園城という。
地元で小山城と言わないのは、思川に沿って小山市内に鷲城、中久喜城があり、いずれも小山氏の城であり、鷲城などは保存の市民運動もあったことから、3つの城を区別するため、ここだけ小山城と言うのを避けたからと思われる。

駅からまっすぐ西に祇園城通りを歩く。
新しくできた道のように歩道も車道も広くて店舗があまりない。小山宿本陣つまり日光街道は駅の西側だからこちらが繁華街のはずだが。
やがて国道4号に出た。東北自動車道のほかに市の東のほうにバイパスがあるから、それほど交通量は多くない。
交差点の南西の角、市役所の東に芝生の広場があった。
9:45
小山市役所と小山御殿広場
今時これだけの何もない芝生広場は珍しい。犬の散歩ができる広場ということだが、そのためだけの芝生とは思いたくない。

史跡説明板があった。
小山御殿
祇園城は関ヶ原のあと本多正純が3万石で封じられ、その後宇都宮に移封されると廃城となった。しかし将軍の日光参拝が始まると祇園城の南の部分に休憩所が造営され、それが小山御殿である。日光への途中というだけでなく、関ヶ原の戦勝のきっかけとなった小山評定の場所ということも意識されていたであろう。
しかし、3代家光は10回も参拝したが、4代家綱の1663年以降参拝は途絶え、御殿は20年後の1682年古河藩の手で解体された。
思川の左岸の丘陵に築かれた祇園城は御殿広場、市役所のあたりまで広がっていた。
会津討伐に向かった家康軍がここに陣を敷いたのは、祇園城があったというだけでなく、兵糧などの輸送に使った思川の河岸があったからでもある。
9:50
川側の、広場より一段と高いところに上がってみる。
発掘調査された礎石が並んでいるのかと思ったら、木の切り株であった。不思議なほど太さのそろった大きな切り株が、ほぼ等間隔で並んでいた。
犬の散歩を許可した公園ということで、足元に注意したが、フンは気付かなかった。
9:50
御殿広場の南西の端から市役所駐車場を越えて思川をみる。

藪の中を歩いて道路に戻るとズボンのすそに草の実がいっぱいついていた。
9:55
小山御殿から祇園城通りを少し歩くと、観晃橋の手前に石垣があった。
この道路は空堀のあとを通したものだろうか?
橋から北を見れば日光連山がよくみえる。1899年にかけられ、晃(分解すれば日光)を観るということで名付けられたとか。
水戸城などと同じく連郭式平山城である

祇園城の入口は工事中で封鎖されていた。
石垣の積み方は新しく、後世のものと思われた。
いずれにしろ、入れないので登り口を探して、城の崖下、民家の裏を入っていった。
9:57
城の東側はすぐ石垣から土塁になった。
これが本来の姿であろう。
関東の城はほとんど石垣がない。
多くの城主が徳川譜代で石高が小さかったのと石切り場が遠かったからによる。
それにしても、この角度の土の斜面が、廃城後もよく崩れなかったものだ。

9:59
城址公園への入口があったので入っていく。
ここは空堀のあとだろう。
上がると上段曲輪。
上段曲輪
片隅に子どもの遊具が立ててある。

小山氏は、藤原秀郷(俵藤太)を祖とする太田氏から分かれ、1150年ころ小山政光が初めて下野小山に移住し、小山氏を名乗った。彼の後妻で三男・朝光(結城家初代)の母である寒河尼(さむかわに)は源頼朝の乳母。すなわち、頼朝の挙兵から幕府成立まで強力に支援し、以後鎌倉御家人、下野国守護として確固たる地位を築いた。以後、代々の当主が着々と力を蓄え、11代小山義政は室町幕府創設にも功あり、南北朝時代のころには東日本最大級の勢力となった。
しかし、宇都宮氏を滅ぼしたことから、鎌倉公方足利氏満の不興を買い、鎌倉府から追討軍の攻撃を受ける。合戦は数次にわたり、やがて滅んだ。
しかし氏満は分家の結城基光の次男・泰朝を小山城に居城させて、家督相続(12代)を許した。
祇園城が初めて文献に出るのは、この1380年の小山義政の乱のときで、城はそれ以前からあり、築城したのは藤原秀郷とも小山政光ともいわれるが分かっていない。当時の小山氏の本拠地は神鳥谷(ひととのや)曲輪(小山駅から線路に沿って南、1.2km、土塁が残る)とされており、祇園城が小山氏代々の本拠となるのは12代以降と言われる。

小山氏は祇園城を本拠地として戦国時代をむかえ、小田原北条氏と争うも降伏、臣下となった。しかし秀吉の小田原征伐で北条とともに滅び、子孫は水戸徳川家の家臣となったという。
いっぽう、分家筋の結城氏は小田原征伐で秀吉に参陣したため、戦国時代を生き残った。しかし家康が関東に来ると、家康次男で秀吉の養子になっていた秀康を養子に迎え、結城の家名を残す。しかし結城秀康は越前に転封され、鎌倉以来の名族は結城の地から去った。
10:01
上段曲輪から空堀を経て南は本丸、二の丸、三の丸だが工事中で封鎖されていた。
本丸との間の空堀の隙間から思川と観晃橋をみる。
川に守られた高台であり、敵が来る関東平野を遠くまで見渡せたと思われる。
10:04
上段曲輪の北は塚田曲輪
塚田曲輪にある大銀杏

塚田曲輪の北の空堀は急峻で深い。
10:07
この角度で、よく300年の風雨に崩れなかったものだと感心する。
粘土質なのか、地中に竹など何か補強材でも入れているのか、説明板などは一切なく、よく分からない。石垣がないと城址というより市街地に近い山林という風情である。
10:08
橋を渡って本祇園曲輪に入る。
思川から大分高い丘陵なので、水を蓄えることは難しく、すべて空堀だったと思われる。
10:10
本祇園曲輪
祇園城の名は小山氏の守護神である祇園社を城内に祀ったことによる。京都の祇園牛頭天王(八坂神社)を勧進したのは藤原秀郷で、小山氏が中久喜からこの城内に移したという。
その祇園社は、いま市役所の南の須賀神社のことだが、本多正純が現在の位置に移したらしい。
10:11
江戸時代の絵図に本祇園曲輪はあるが、神社はない。
本多正純以前、祇園社はこの曲輪にあったのかもしれない。

本多正純は父・正信とともに家康の知恵袋、側近として仕えた。1608年に小山藩3万3千石のち5万3千石となり、1619年には宇都宮藩15万石に加増移封された。しかし宇都宮城の無断修築や吊り天井事件(実際はなかった)などを理由に改易された。実際は秀忠に疎まれ、台頭してきた秀忠側近の土井利勝らの謀略という話もある。
10:17
中曲輪。
塚田曲輪の一部が空堀で独立しているが、どういう機能があったか分からない。

小山市教育委員会の地図では、塚田曲輪の南を本丸、二の丸、三の丸としているが、3つは空堀で隔てられておらず、空堀が郭の境ならば、この中曲輪が本丸で、それを囲むような塚田曲輪が二の丸、その南の(本丸とされている)一角が三の丸となるだろう。
(あとで市役所でもらった地図だと、南の本丸のある郭には空堀があったようだ)

一つ一つの曲輪が小さく、空堀も深いが狭く、いかにも鉄砲のなかった中世の城という縄張りである。
10:22
塚田曲輪と本丸の間の空堀の底を通って思川に出る。
思川を下れば渡良瀬川に入り栗橋に出る。そこから利根川、江戸川を使えば江戸に出られる。鉄道、自動車がなく水運が盛んだった時代は、交通便利な城であっただろう。

本多正純の改易、廃城後、小山には将軍の日光参拝用の御殿ができ、日光・奥州街道の宿場町(小山宿、間々田宿)さらには東照宮のための資材の船下ろし場でもあるなど、思川の舟運によって栄え、明治を迎えた。

この城址公園は「ここは犬の散歩ができる公園です」と、飼い主マナーを詳しく箇条書きで述べた看板ばかりが目立ち、城に関する歴史説明板はまったくない。曲輪の名を書いた、風で飛びそうな立て看板が照明の柱に立てかけてあるだけである。歴史資料館とか土産物店とか一切なく、小さな東屋以外ベンチすらないところは観光地化されておらず好ましい点ではあるが、長居することもなく、御殿広場まで戻ってきた。

広場の前に真新しい小山市役所があったので入ってみた。
人口16万人、新幹線も止まる栃木県第二の都市である。両毛線、水戸線で結ばれる西の栃木市、東の茨城県結城市と合併し中核都市となる構想もある。
10:30
広報などが置いてある場所に観光案内のパンフレットがあるかと思ってきたが、何もなかった。総合受付の女性に祇園城のことを書いたパンフレットがないか聞くと、4階の商工観光課を案内された。
4階に上がり、商工課のカウンターで尋ねると、どんどん集まり4人の人が探してくれて、昔のパンフレットの白黒コピーを出してくださった。しかし小さな字がよく読めない。現物が残っていないことを詫びられたがとても親切だった。

借りたトイレもとてもきれいだった。
あまりきれいなので調べたら2021年新築だった。

正面玄関から出ると史跡小山評定跡の立派な柱石が立っていた。
10:37
繰り返すが、小山評定などという歴史好きな人以外は知らないものを、わざわざ市の一番の場所に顕彰することもないと思う。 すぐそばに祇園城、御殿広場があるのだから、何も立てなくても小山は十分良いところだ。

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