2023年8月15日火曜日

立ヶ花、橋と藤沢製麺所と中学の同級生

8月10日、お盆を前に長野の実家に日帰りで行ってきた。
ふつうは家のそばの長野電鉄信州中野駅から歩く(550メートル、8分)。

しかし、飯山線立ヶ花駅から歩こうと思った。
千曲川を渡って岩船の実家まで5.3キロメートル、歩いたら66分と出た。
(グーグルマップの距離時間計算はどうなっているか知らないが、まあ10倍は遠い)
10:54 立ヶ花駅
大宮発9:09の「はくたか」は長野着10:17、越後川口行き長野発10:29

飯山線は1921年(大正10)、 飯山鉄道 として豊野 - 飯山駅間が開通、1944年国有化した。
立ヶ花駅は1958(昭和33)、請願駅としてできた。
場所は長野市豊野町蟹沢だが、駅名が対岸の中野市立ヶ花であるのは、請願運動の主体が立ヶ花集落だったのだろうか。

今は全国多くが無人駅となったが、ここは最初から無人だった。

この駅は、いまから50年前、1972(昭和47)年から3年間の高校時代、通学に使った。
高2、高3時代の定期券。
立ヶ花からの国鉄2枚(6か月券)
長野電鉄6枚(1か月券、3か月券)

実家は中学校の通学区域の東端にあり、信州中野駅のすぐ裏である。その駅を使わず、わざわざ立ヶ花まで自転車で出たのは、運賃が格段に違ったから。
信州中野から本郷まで1か月3,520円、3か月で13,770円だったのに対し、立ヶ花₋北長野は6か月でわずか4,040円だった。ざっと6分の1である。
しかも中学の同級生で長野方面に通うものは一人残らず全員立ヶ花だったから、遠くても立ヶ花に行くのは自然だった。
(ただし、秋から冬にかけては寒く、雪の日もあるので、私だけ6倍高くても信州中野を使った。)

だから立ヶ花は特別な駅だ。
帰省したときは父や弟がここまで迎えに来てくれたり、送ってくれたり、よく立ヶ花にくる。しかし、ひとりでじっくり懐かしむことは、この48年間一度もなかった。

48年一度もなかったことは、このままだと死ぬまでないことを意味する。
これはまずい、と猛暑日続くにもかかわらず、実家には内緒で、一人立ヶ花駅から歩くことを決めた。
10:54
駅は変わらないが、景色が変わった。

前の道路つまり線路と千曲川の崖に挟まれた道は、交通量がとても多かった。
かつて東京、長野市方面から国道18号を経て中野市、山之内(志賀高原)、飯山・野沢温泉に行く車のほとんどは、この大して広くない、というよりかなり細い、目の前の道を通っていた。そしてすぐ右折し立ヶ花橋を渡っていった。

しかし、交通量が限界に達し1995年に立ヶ花橋が立て替えられ、駅の裏山のほうに新たな広い道ができた。そのため、列車を待つ間、ホームからぼんやり車の流れを見ていた道路に、今や全く車がいない。

立替前の初代立ヶ花橋(1926年竣工、トラス橋)は、写真の踏切のあたりにかかっていた。川沿いの道(飯山のほうへいく国道117号)と橋がつくるT字路の角には、家が一軒あった。廃屋のようで、壁には湯田中温泉などの旅館の宣伝看板が並んでいた。

たまに車で送ってきてくれた父親は、橋を渡ってUターンし、電車が来るまで、その廃屋の前で時間つぶしに付き合ってくれた。あるとき、橋の前で右折する一台が曲がり切れず、我々の車の横に突っ込んだことがある。

その家なり、橋なり、何か遺構が残っていないかと探したが、夏草が茂っていることもあり、何一つ見つからなかった。
10:57
かつて乗降客全員が渡った踏切は、今やほとんど意味がなくなったが、まだ残っている。
現在、新しい橋を歩いてきた人は屋根付きの階段を下りてくる。
そこを初めて上がって橋の上に出た。
10:59
2代目立ヶ花橋を初めて歩いて渡る。1988年着工、1995年(平成7年)8月竣工。
親柱には中野市出身の中山晋平作曲、童謡「肩たたき」が彫ってある。
しかしここは川の西岸だから、中野でなく、まだ豊野である。
駅だけでなく橋まで中野のもののようだ。
橋はほんのわずか北(下流)に架けられた。
飯山線、国道117号の旧道(さきほどのホームの前の道)をまたぎ、すぐ裏山に上がるため、元の橋よりかなり高い。
11:01
橋の完成と同じ1995年、川の向こうに信州中野ICができたから、橋自体の交通量も減っている。
上流の川面を見ても旧橋の遺構はみえない。
遠くに新幹線の橋がみえた。
11:02
橋から見る立ヶ花の集落。
対岸の、豊野地籍にある駅の名前にもなったが、大きな部落ではない。
11:04
橋を渡り切り、初代立ヶ花橋の東詰めにきた。
旧道は橋がなくなり、行き止まりになっている。ここにも橋の遺構はない。
積んである土嚢は、新幹線基地が水没した2019年以降に置かれたものだろうか?
11:05
対岸をみれば、立ヶ花の駅は木々に埋まり見えず、その裏山にあるガソリンスタンドの赤い屋根が見えた。
11:05
行き止まりになった旧道は、まっすぐ東に伸びているが誰一人いない。
1990年代まで長野、東京と中野、志賀、野沢などを結んでいた幹線道路だったのに、信じられないほどの狭さと静かさ。

この左側の角に芋川自転車店があった。
立ヶ花駅を使う人々は、近くの立ヶ花、牛出地区の人々を除き、ほとんどが東のほうから自転車に乗ってきた。川向こうの駅に自転車置き場はないから、芋川自転車店の前に自転車を止め、歩いて橋を渡る。
店の前は、販売用の新車はわずかで、修理をまつ中古車が少々と、ほとんどは駅利用者の自転車ばかりだった。駐輪代は誰も払っていなかった。お願いすらせずに、黙って勝手においていった気がする。
11:06
芋川自転車店はなくなっていた。その場所に立つ住宅の表札は芋川。
50年前の当時から売り上げはなさそうで、とっくに廃業されたのだろう。

当時はサドルに架けるレジ袋もないから、雨が降ったら濡れた自転車にまたがる。芋川さんは雨が降ると段ボールをかけてくれたような気がする。50年前のお礼を申し上げたいくらいだが、そのまま立ち去った。

11:07
旧道を東に歩くと交差点がある。
北は牛出への道。中学の同級生だった鈴木京子が歩いてくるのを一度見たことがある。
彼女は美人で頭がよく、長野西高に進学した。
11:07 
反対の南は立ヶ花の集落に入っていく。

この交差点から中学まで3.7キロ、46分。
しかし牛出はここから900メートル、立ヶ花は700メートルくらいあるから、斜めに近道しても、かれらは毎日片道4キロメートル以上通っていた。

立ヶ花の部落に入っていく。
少し歩くと千曲川の堤防に出た。まだ新しい。立ヶ花は崖の上にあるから、かつて堤防はなかった気がする。
11:10
この堤防をずっと行き、篠井川との合流点を越えると景色のいいところがある。
中学3年の秋だったか、丸谷仁子と自転車で行った。他にも誰かいた気がするが、はっきり覚えていない。千曲川の対岸は森の中にポツンとモーテルが1軒だけ見えた。その夕方の景色と彼女の一言二言だけ、甘く切ない記憶としてある。

もっと思い出すと、その1か月くらい前か、夏休みが終わって鈴木京子から誰もいない放課後の図書室に呼び出された。
私は彼女に密かに思いを寄せていたのだが、そこには彼女と吉見邦夫がいた。葉鶏頭の鉢がある大机に座り、初めて彼らが両思いであることを知った。

中学の3年間一緒に過ごした我々のクラスは男子も女子もいいやつばかりで、楽しい思い出がたくさんある。

丸谷は美人で頭も良く、男子に人気があった。
しかし私はこの自転車の遠乗り一回しただけで何もしなかった。彼女は女子高の長野西ではなく、男子の多い進学校の須坂高校に進んだ。何年か経ちクラス会があったとき、彼女はさらにきれいになっていた。もっと積極的であったら私の人生も変わっていたかもしれない。

さて、この立ヶ花には藤沢新浩(よしひろ)がいた。ひょうきんもので明るかった。
彼の家を探してみようと村中を歩いてみた。
11:13
家は古くないが誰も住んでいないようす。
藁ぶき屋根にトタンをかけた家。
かつて、この地方に多かった家屋だがめっきり減った。
建て替えずに修理されている。
11:13
よく手入れされた家の中庭で、草取をしているおばあさんがいた。
「50年前、一度遊びに来た家を探しているんですが。藤沢製麺所という家で、私はその家の藤沢ヨシヒロ君と中学の同級生なんですが。」と聞いてみた。

このあたりほとんど農家ばかりで製麺所など珍しいこともあり、彼女はすぐ分かった。
「家はこの向こう(と東のほうを差し)だね。いま、川の向こうの新しい道と昔の道の合わさった角でラーメン屋をやってらっしゃる。たしか光陽軒といったかやぁ」と教えてくださった。
11:16
ブドウとリンゴ
立ヶ花は千曲川に接する高丘丘陵にあるため、集落内に水田はなく、果樹園が並ぶ。

11:18
立ヶ花の北の端、高架になっている県道が見えた。

たしか藤沢製麺所は道路の西側にあった。西への斜面にあり、道路側の入口は二階だったような記憶がある。しかし、そのような家は見つからず、また本人はラーメン屋のほうに行っていて家にいないことも分かっているので、早々に諦めた。
11:20
再び県道29号にでた。振り返り、立ヶ花橋方面を見る。
行きどまりの狭い旧道(左、まっすぐ)と広い新道(右)の分岐点。
11:20
立ヶ花から東(中学、実家、中野市街)に向かう道。
かつては両側に何もなかったが、いろんなものが建った。

緩やかな上り坂が続く。
このあたり何キロも自転車をこぎ続ける脚力は、今や、ない。
バスは1日4本あることが分かった。
50年前からバスの利用者はほとんどいなかったが。
11:24
家が建ち景色が変わったが、一番変えた高速道路が見えてきた。
11:25
長野オリンピック(1998)が決定したのが1991年。
北陸新幹線(当面は長野止まり)がミニ新幹線からフル規格に変更になったのはオリンピックの影響だが、高速道路や立ヶ花橋はオリンピック決定前から決まっていた。
11:26
上信越道、信州中野IC入口(1995年11月に供用開始)
これは大きく立ヶ花周辺の景色を変えた。

つまり、高速道路の料金所を出ると立ヶ花―中野を結ぶ県道と交差する形で、北へ新しい道ができた。志賀中野有料道路である。七瀬、江部の交差点を避けるように、丘陵、農地を開いて平成元(1989)年着工、1995年3月完成だから、新立ヶ花橋、高速道路と同時である。
通行料は300円だったが誰も利用しないため100円に値下げしたという。それでも、やはり観光客以外あまり利用はない。
11:26
その交差点の有料道路側にセブンイレブンがあった。
駐車場が高速道路のサービスエリアほど広い。
11:27
この交差点を越えるには地下道しかない。
中に降りると自転車を押すスロープもあった。

今の高校生も真面目にここで自転車を降りて地下を通るのかな?
ふと、女子の同級生なら孫が高校生になっているかもしれない、と思った。

(炎天下の歩きは続く)

7年前に書いた立ヶ花駅のブログ

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