2025年9月21日日曜日

飯山北、飯山南、飯山照丘高の統合とスキー

 お盆の8月14日、日帰りで帰省した。

長野から久しぶりに飯山線に乗ったが、最寄り駅の立ヶ花で降りずに北飯山まで来た。
ここには飯山城がある。
9:30
北飯山駅

上り列車は 10:03 の次は2時間空いて 12:03 だから、お城まで行って30分で戻ってこなくてはならない。

北飯山は高校時代に1度降りたことがある。
剣道の大会が近くの飯山北高であったからだ。
9:31
飯山高校。
融雪パイプが埋まっている雪国の道路はサビで赤くなっている。

52年前、体育館はこの道路沿いにあった気がする。低い石垣の上の道路際には樹木が植えてあった。
木陰を作っていた木々はなくなり、校舎はすべて新しく、コンクリートばかりが目立つ学校になっていた。
9:32
新しい体育館に垂れ幕が飾ってあった。
「あっぱれ! 全国高等学校スキー大会 男子総合優勝 女子総合優勝」
そうか、飯山北高は2014年飯山南高(女子高)と合併して飯山高校になったんだ。

両校は昔からスキーが強かった。
飯山北では富井澄博、片桐幹雄などが、私が中学のころ信濃毎日新聞スポーツ面に全国的な活躍が大きく出ていた。片桐と野沢温泉中学の同級生で確か山本姓の選手がいて、片桐を抑えて中学生日本一になった。このとき野沢温泉中学から転任してこられた国語の内田全立先生が「ゴン」と「みき坊」と呼んでいたが、そのゴンが誰だったか、今調べたが分からない。

あと児玉修は私と同学年だが、地元飯山の小賀坂スキーを履いてワールドカップ回転入賞の快挙を成したことで知られる。(他の選手はほとんど海外製スキー)。
(小賀坂スキーは明治45年(1912)仏壇町・飯山の家具職人・小賀坂濱太郎が、国内初のスキーメーカーとして創業した。)

女子の飯山南のほうは(最近は知らないが)私が中学の頃は圧倒的に強くて、個々の選手の記憶はないのだが、インターハイ(全国高等学校総合体育大会/全国高校スキー大会)で1966年から1972年まで女子総合で7連勝した。その後、私は長野を離れ信濃毎日新聞の見出しを見ることもなくなり、飯山南のスキーについても関心がなくなった。

ところで、飯山南は制度上は戦後共学となったが、もともと女学校で近くに飯山北があったことから実際はずっと女子だけだった。ところが私が高2から高3になる1974年、長野県は中学区制を導入、長野市を3分割するほど細かく分けた。それと同時に(学区内に普通高校定員が不足するところもあり)、中学のほうで指導でもしたのか「女子高」に男子が入るようになった。男子トイレの完成を待ったわけではないだろうが、中野高校(1974)、飯山南(1975)、須坂東(1976)など順次男子を受け入れた。

1975年4月に飯山南に入った男子は54人。その後、男子が増えていったのか、20年後の1995年に男子がインターハイのスキーで初優勝、1999年からは3年連続して男女アベック優勝した。
ということは、北信濃のスキー選手は飯山北ではなく、飯山南に進むようになったのだろうか? 中学3年の冬にスキーをしていたら進学校の飯山北より偏差値的に入りやすかったか?

・・・
東のほうに飯山北の正門が残っていた。
9:33
旧飯山北高校正門

1903年(明治36)県立長野中学校飯山分校として開校。
1906年  独立して長野県立飯山中学校。
1920年 大正9年長野県令38号により、長野県飯山中学校に改称。
長野県の学校は法令によって「長野県立」でなく「長野県」なのである。

一方、同じ北信で
1923年 長野県上高井中学校として開校、
1925年 長野県須坂中学校に改称した須坂高校より古い。

そして戦後の1948年長野県飯山北高校となった。
長野高校に次ぐ長い歴史を持つ城下町の旧制中学だから宮崎市定ら多くの人材を輩出したが、近年は(我々が中学のころでさえ)、偏差値は須坂のほうが高かった。
中野北部から飯山は4キロ進むごとに積雪が30センチ増える「一里一尺」という豪雪地帯で、人々は進学、就職にあたって、雪の少ない「上(かみ)のほう」を目指した。上というのは千曲川の上流、列車の上り、すなわち善光寺平の中野、須坂、長野方面である。
柳沢の同じ年の従兄弟は須坂に行けたが敢えて「下(しも)の」飯山北を選んだが。

さて、城下町飯山には高等女学校もあった。
1921年 郡立下水内高等女学校として開校。
1922年 県に移管、長野県飯山高等女学校となる。
これが戦後1948年、女子高の飯山南高となった。

同時に飯山南高校は、豊田村など近隣各地に定時制の分校を開設した。
1962年、各分校は統廃合され、照丘分校になる。
1967年、飯山南高照丘分校は定時制から全日制に転換。
(私の高校入学5年前である。このころはまだ戦後ベビーブームの余波が残っていた)。
1974年、照丘分校は独立し、長野県飯山照丘高等学校となった。私が高校3年になった年である。

その後、豪雪地帯、飯山の人口は減り続けた。
私が生まれる前年(1955)に40,089人いたのが、
1975年、30,796人
1995年、27,423人
2020年、19,539人。これは軽井沢町より少ない。

この規模で県立高校3つは多い。(中野も3つ、須坂は4つあった)
飯山の高校3つを統合することとなり、
2007年、飯山照丘と飯山南が統合され、「飯山高校」が飯山南高校の校舎で開校した。
そして2014年、さらに飯山北が統合され、校舎は飯山北の敷地に新築された。
9:35
飯山高校から歩いて2分、飯山城の北西についた。
城跡の一部がグラウンドになっていて、お盆というのに野球部が真面目に練習していた。
スキー部員が夏のあいだ野球をやっていると言われても信じてしまうほどの高校だが、2019年、なんと夏の県大会で優勝した。松商学園や佐久長聖などと違って、過疎の豪雪地帯の飯山など誰も予想しなかった。このこと自体が長野県の野球のレベルの低さを表すようで、もちろん甲子園では初戦敗退した。

ノックを受ける練習を見るのは好きだが、そんな時間はなく、城の坂を上がっていく。
9:36
城内で高校生たちが弓道の練習をしていた。
ここも飯山高校の付属施設かと思ったが市営の弓道場だった。10人立て、貸し切り午前中2100円というから安い。

とにかく忙しいから彼らの腕前は見ず、左の坂を上がり本丸を目指した。

9:39
本丸の中心に葵神社
9:42
飯山城については別ブログで書く。

西曲輪の端に飯山城址公園交流展示館「城terrace」があり、入ると市内の地図があった。
9:45
飯山市の地図

本丸の南で木々の間から見下ろすと学校らしきものが見えたが、この地図によれば飯山小学校のようだ。
しかし小学校にしては名前が大きすぎる。飯山高校のように統合されたものだろうか?
と思って調べたら、予想に反し、明治6年飯山学校、明治22年飯山尋常小学校、とずっとこの名前だった。

さらに地図を見れば飯山駅の西南(飯山市飯山414)に廃校になったような広い敷地がある。ここが統合前の飯山南高校だろうか? と思って調べると旧・城南中学校の跡地だった。それでは城南中学はどうなったかと調べたら、さらに1.5キロほど南西(静間1088)に移転していて、そこが飯山南高校の敷地だったようだ。

城テラスをでて坂を西におりた。
9:47
左:飯山城の城門(移築)と七賢人の像
右:「長野県スキー発祥の地」

日本のスキーは明治44年(1911)、オーストリアのレルヒ少佐が高田で軍人相手に教えたのが始まりという。(高田には日露戦争後に新設された第13師団司令部と第58連隊があった。)

その翌1912年、高田のスキー講習会に出席した飯山中学の教師、市川達譲が飯山中学の生徒にスキーを教えたのがこの城山の斜面だった。当時は日本にリフトはもちろんスキー場すらなかったから、城内の坂だけでなく、絶壁も格好の練習場になったらしい。

旧制飯山中学は各地から生徒が集まっていたが、彼らが郷里にスキーを伝えたという。近くの野沢温泉はもちろん、群馬草津、乗鞍高原などのスキー事始めをみると、飯山中学の卒業生が関わっている。

わずか13分で飯山城の見物を終えた。
9:51
鉄さびで赤くなった道を北飯山駅に向かう。
左に信濃毎日新聞の看板、踏切の向こうの赤い屋根は日蓮宗本光寺。

このあたりは飯山市街地の北のはずれである。
飯山は島崎藤村が雪国の小京都と呼んだそうで、(映画は見ていないが)「阿弥陀堂だより」のロケにも使われた正受庵など、歩ける範囲の市内には20余りの寺がある。いつか歩いてみたい気もするが、実現するかどうか。

飯山高校の前は通らず、違う道で北飯山駅には10:00前に到着、上りの列車に乗った。
来てよかった。
もう飯山は来ないような気がする。

前のブログ

0 件のコメント:

コメントを投稿