2021年10月30日土曜日

谷中墓地8 徳川一門長老だった松平斉民と津山松平家

   10月25日、徳川慶喜、徳川厚の墓を見たあと、すぐ東に塀に囲まれた一角があった。

南の平櫛田中旧宅の裏の道から入れば参道のようにまっすぐ通路が伸びている。
しかし徳川厚のあとなので、西北の裏から墓石の間を回り込んだ。

左上の木々は徳川厚、左下の円墳は勝精の墓
西側の塀に沿って、新しい墓がびっしり並んでいた(写真中央)。
谷中墓地の中でも、寛永寺の管理地は近年盛んに売り出しており、わずかな隙間でも造成して区画分譲する。

塀を西から南に回り込むと、御三卿や慶喜家の墓所と違って、正面が開いていた。
初めて入ってみると、周りとは全く違う空間が広がっている。
葵の御門が目立つ。
文定院殿成誉寂然確堂大居士
誰のことか分からないが、周りを見たら津山松平家の墓所とすぐわかった。

この正面の墓石戒名をメモしてきて調べたら、松平斉民(なりたみ・1814-1891)のようだ。
美作国津山藩10万石、第8代藩主。
斉の字が示すように11代将軍家斉の15男である。すなわち12代将軍家慶の異母弟。
明治24年、78歳で死去した。家斉の53人の子(そのうち男子は26人)や孫の多くが夭折した中、例外的に長命であった。
ちなみに現在まで残っている父・家斉の男系子孫は、斉民の子孫のみである。

それにしても墓は大きい。

松平斉民はまともな人物だったようだ。
安政5年(1858年)、甥にあたる13代将軍家定の後継問題が持ち上がると、やはり甥にあたる紀州慶福(のち家茂)や一橋慶喜と並んで、一部では斉民を次期14代将軍に推する動きがあった。斉民は、家斉の子という血筋からすると慶福や慶喜よりも宗家に近い。年齢も妥当。しかし南紀派や一橋派といった大きな派閥の後押しがなかったことから、実現しなかった。

戊辰戦争では津山の藩論を勤皇に統一。
新政府から、慶喜のあと徳川宗家をついだ16代家達の後見人を頼まれた。
また、維新後は徳川一門の長老として、慶喜はじめ、皆から信頼された。それがこの墓の大きさになっているのではあるまいか。

2021-10-24
墓所の左側に真新しい墓が二つ建っていた。
手前は松平家先祖代々之霊位と書いてある。
その墓誌をみれば
津山松平家谷中墓地内整理ニ従イ旧唐櫃ノ右代々様始メ五十余ノ諸仏ヲ新唐櫃に改葬
平成二十三年九月 康 誌 とあった。

唐櫃は、かろうとと読み、墓のこと。
50以上の墓を整理、廃棄したらしい。
その「整理」された「右代々様」を墓誌の写真から解読すれば、代々の当主である。
 第3代 光長
 第5代 浅五郎
 第6代 長熙 
 第7代 長孝
 第8代 康哉
 第9代 康乂(やすはる)「乂」は草を刈る意味。読みはガイ、ゲ、おさ(める)、か(る)
 第13代 康倫

ちなみに津山松平家は、家康の次男・結城秀康を祖とする越前松平家の分家である。
つい最近、平成時代になって谷中のお墓が整理された第3代松平光長 (1616-1707)というのは、秀康の孫だった。
本来福井藩を相続するはずが、高田藩を立てた。(子細省略、だから単純な分家ではなく、結城(松平)秀康を初代にしている)。のち改易されるも、姫路松平家から養子にいれた松平宣富が津山藩初代藩主となった。

秀康から数えて13代目の松平康倫(松平斉民の子、藩主家としては10代目)は明治11年に没し、弟の康民(1861-1921)が子爵家を継いだ。
そのあと康春、康(1926-、元NHKプロデューサー)と続いている。

なんでこんなに丁寧に書くかというと、津山松平家は千駄木と縁があるからである。
わが家のそば、高村光太郎や宮本百合子の旧居あとの向かいに警視庁のアパートがある。
2018-10-11
ここは明治のころ津山藩松平家の14代当主、子爵、松平康民の屋敷だった。
4000坪あったが、大正時代には空き地となる。
(ちなみに観潮楼鴎外邸は300坪。)
その後、越後の豪農、市嶋家の地所になった。
松平康民の息女隆子は、市嶋宗家当主市嶋徳厚に嫁いでいる。
市島家の千駄木屋敷はこのすぐ裏に地続きであったが、昨年日本家屋と森は更地となり、2021年10月現在、老人ホームを建設中である。

 
 別ブログ

2021年10月28日木曜日

谷中墓地7 渋沢栄一、墓所の縮小と二人の妻

 

2021年現在のグーグル
阿部家墓所と渋沢家墓所

渋沢栄一の墓は分かりやすい。
言問通り上野桜木、浄名院よこから入ってもいい。
JRの跨線橋をわたり、御隠殿坂からきてもいい。
阿部家墓所、寛永寺墓地管理事務所の裏でもある。
要するに、広い通路に面してかつ大きいから目立つ。

初めて来たのはいつだろう?
40年前の谷中にいた時か、20年前ダンスで日暮里に来たときか、あるいは10年前に千駄木の家を買ってからか。
いずれにしろ、目指してきたわけではない。歩いていて大きいから誰だろう、とみて渋沢と気づいたのである。
そのころは誰もいなかった。
2021‐10‐24 11:59
ところが、青天を衝けの影響だろうか。
コロナが下火になった日曜ということもあり、見物人が次から次へと来る。
以前はなかった花も供えられている。
写真右の年配男性は巻き尺で墓石を図りながらメモしていた。

深谷市と北区のお役所は大河ドラマにとびついた。
北区などは飛鳥山を中心としたお散歩マップを何種類も作り、イベントを開催、たいして関係ないものにも渋沢を結び付ける。
例えば、田端文士村の芥川龍之介展のパンフレットに栄一の顔がある。なんだと思ったら、龍之介の実父、新原敏三が勤めた牛乳製造販売業「耕牧舎」の設立者(出資者)4人の一人が栄一だったというのだが・・・・。

さて、墓石より目立つのは西側の工事である。
つい最近までここも渋沢家の墓所だった。
数年前からの工事がまだ続いている。

ここは谷中墓地あるいは御隠殿坂から上野桜木に抜けるときは必ず通らねばならない。
通るたびに見ていた。中央の大木を移動していたのを覚えている。
すなわち、墓石は整理して3基だけ東に集められたのである。
国土地理院 2009‐04‐28撮影
渋沢家墓は大きな樹木で覆われている。
中央十字の左上が墓所。
2014
大木の移植が終わっている。
このころ東側は樹木が伐採され、墓石が移されたが、まだ切り株や根っこが残っていた。

2017‐08‐25
ほぼ今の形に近い。

私の散歩は全体の雰囲気を見て誰の墓か分かれば満足してしまう。
つまり一、二度は渋沢家墓所に足を入れているのに、墓石の文字を見たことがなかった。
周りの熱心な見物人に連れられて今回初めて見る。

左から大きな墓石が三つ、きれいに等間隔で並んでいる。
移転整理後はこの三基しか残されなかった。
左から、澁澤孺人伊藤氏之墓、
青淵澁澤榮一墓、
澁澤孺人尾高氏之墓
尾高氏の石の裏には、明治十六年澁澤篤二謹建 とある。

孺人(じゅじん)は幼い人のことだが、大夫(たいふ、官位)の妻の意味もある。
転じて「夫人」と同じように使われる。
ちなみに芥川龍之介「侏儒の言葉」の侏儒はニンベンで小人である。
女偏だったら良かったのに子ども偏とは。

さて、栄一は武州血洗島村で1840年に生まれた。
安政5年(1858年)、従兄の尾高惇忠の妹、尾高千代(1841-1882)と結婚する。
千代は2男3女をもうけ、二人は夭逝、歌子、琴子、篤二が成人した。
彼女は1882年コレラで死亡。

翌1883年、豪商伊藤八兵衛の娘、兼子(1852- 1934)と再婚した。
兼子は婿を取って家業を継いだが、没落、夫と離縁、当時、芸妓をしていた。
武之助、正雄、愛子、秀雄を産む。

妾もいた。
大内くに(1853- ?)である。
栄一が大蔵省にいた時(1870~1873)、大阪造幣局へ出張中に三野村利左衛門が設けた宴席でたまたま女中として働いていたため出会った。栄一は血気盛んな30代前半。しかし血洗島にずっと千代といたら妾をとっただろうか。
くにがもうけた2人の娘、文子と照子は尾高家縁者の尾高次郎と大川平三郎に嫁いだ。
尾高次郎は尾高惇忠の子。青天を衝けのテーマ音楽を指揮した尾高忠明氏(73)は、次郎の孫、すなわち、栄一と尾高惇忠のひ孫になる。
また大川の母みち子は惇忠の妹、千代の姉である。製紙王、大川の墓は子規と同じ田端の大龍寺にあり、以前書いた。

ウィキペディアによれば、栄一が生涯になした子は20人近くにのぼるといわれ(佐野眞一『渋沢家三代』)、歴史研究家の河合敦は、栄一が花柳界でも知られた存在だった点を挙げ、一説には50人いたと記している。

澁澤登喜子・澁澤敬三之墓
榮一と夫人尾高氏のあいだに立っている。
これは新しい。初めてみた。グーグルの航空写真にも写っていない。

渋沢敬三(1896- 1963)は篤二の長男、つまり尾高千代の孫だから、この場所に立てたのだろう。東大経済を出て大蔵大臣、日銀総裁を務めた。

ふと、他の墓石はどこに行ったのだろうと思った。
まず、敬三の父であり栄一の嫡男渋沢篤二(1872- 1932)である。

1911年、篤二と芸者玉蝶のスキャンダルが表面化すると、精神的、肉体的に問題あったこともあり1912年、篤二の廃嫡方針が決定された。栄一は嫡孫とした敬三を男爵家(のち子爵)の後継者とした。

墓域縮小前は、篤二、敬三だけでなく、渋沢平九郎の墓もあったらしい。それらは処分、廃棄してしまったのだろうか。平九郎は千代の弟で、20歳のとき飯能戦争で自害したが、栄一がパリに行くとき家督を残すため養子としたから立派な家族である。
いちばん通路に近いところに「澁澤」とだけ書かれた新しい墓石が置かれた。
脇に墓誌がある。
見れば、栄一の最初の子供、夭逝した市太郎から始まって、三男三郎、四男敬三郎、九男忠雄の名につづき、次男篤二の名前もあった。平九郎の名はない。

栄一による渋沢篤二の廃嫡は、嫡子庶子をふくめ大勢の異母兄弟が争わないように生きているうちに孫の敬三と決めたかったのであろう。篤二は栄一が死んだ翌年の1932年、60歳で没した。栄一の嫡男、敬三の父でありながら独立した墓がないのは寂しい。

なお、後妻、兼子との子、渋沢武之助(栄一五男、石川島飛行機製作所2代目社長)、渋沢秀雄(栄一七男、田園都市開発取締役、東京宝塚劇場会長)らは東隣の塀の中にあるらしい。

ふと、澁澤孺人伊藤氏之墓の前でうしろをみたら、西側の工事現場に穴が掘ってコンクリートが流し込まれていた。
建物の基礎工事にしては簡単すぎる。藤棚か、あるいはブランコ、鉄棒か。

本当に公園になるようだ。
渋沢家墓所は都立霊園としては破格の広さだった。
寛永寺の大名家墓所に匹敵した。
遺族が恐縮して都に返還したのだろうか?
もちろんNHKドラマのずっと前のことである。



2021年10月24日日曜日

谷中墓地6 慶喜の子供たち、勝精、徳川厚、徳川誠

 谷中墓地は何回歩いたか分からない。

1978年1月から81年3月まで、3年3か月、谷中に住んだ。
もちろん若かった。散歩も歴史も興味なかったから二、三度、通り抜けただけだったと思う。

その後、埼玉に住んだが、ダンスを始めて2000年ごろから日暮里サニーホールのダンスパーティに通うようになる。墓地は日暮里駅のすぐそばだから、20年ぶりに懐かしくて何回か中を歩いた。
年を取った分だけ、墓石の名前に反応できるようになっていた。

都立谷中霊園の地図
天王寺墓地、寛永寺墓地は空白になっている。
これら3つを合わせて谷中墓地という。
ときに南西の了俒寺墓地も加える。

そして2011年、千駄木の家を買い、2013年引っ越した。
友人を新居に呼ぶときは日暮里駅南口で待ち合わせた。
谷中墓地を突っ切って、有名人の墓を案内してから連れてきた。

一番有名なのは徳川慶喜あたりだろうか。
今まで谷中墓地を何回か書いてきたが、慶喜の墓を案内していたのはブログを始める前だったから書いていない。写真すら撮っていなかった。

今回、日暮里ラングウッドホテルでランチしようと出かけたので写真を撮ってきた。

慶喜の墓へ行くに、一番わかりやすいのは言問い通り、上野桜木二丁目の交差点から入ればよい。浄名院、イナムラショウゾウ旧店舗を左に見ながら、墓域に入ったらすぐ左に入っていけば分かりやすい。平櫛田中旧居の裏の道である。
2021‐10‐24 12:05
千駄木から行くときは蛍坂を上がり墓地中央の交番のほうから行く。
でも墓地の中はまっすぐ行けなくて、結局回り込んでこの道から入る。
左の錆びたトタンの家は平櫛田中の旧宅・アトリエ。
平櫛は小平に転居する昭和45年まで暮らしていた。その後故郷の井原市に寄付される。非公開だが、たいとう歴史都市研究会、東京芸大などの有志により掃除・修繕が行われ、たまに公開される。2013年10月、中を見せてもらった。
この日は部屋に明かりがついていた。催し物でもあるのかな?

一橋家墓所を見てからその手前を右に入る。
12:11
何人か観光客が来ていて、ボランチアの人が説明していた。
台東区に頼まれたのか、自主的に(趣味で)なさっているのか、分からない。

柵の隙間から写真を撮る。
初めてみたのは1978年の頃だろうか?
当時は谷根千や谷中墓地は観光地でなく、ここも柵はなかったような気もするが、記憶はあいまい。

びっくりしたのは、慶喜墓所の東の通路を挟んで脇にあった勝精の墓。

12:15
勝精(かつ くわし、1888-1932昭和7)
慶喜の墓に来たときは必ず見る墓。
2013年12月に2回来ているが、そのときは鬱蒼とした小さな森になっていた。
木々の奥に神道の土饅頭型の墓がひっそり見えたのだが、今や2つの切り株を残し、明るい墓になっていた。
切り株は新しくなく、ずいぶんご無沙汰していたようだ。

勝精は形式上は勝海舟(1823- 1899)の養子である。また、慶喜の十男でもある。
海舟は妻のほかに妾5人が知られ、子も何人かいた。しかし嫡男の小鹿(ころく、1852 - 1892)が39歳で逝去、伯爵の爵位が途絶えてしまう。そこで孫娘の伊代子を養子にして、慶喜の息子を婿養子に迎えた。

2014(国土地理院公式サイトから) 
左下に徳川慶喜墓所、一橋家墓所があり、勝精の墓はこんもり樹木が写っている。

2017
それが3年後には勝精のこんもり樹木が消えている。
墓地の樹木は大変だが、少し寂しい。

このあと、日暮里駅のラングウッドホテルにいった。
ワクチン接種済みの人は1600円のランチが800円で食べられる。

食後、帰宅するのに再び慶喜の前を通るともっと人がいた。
大河ドラマ青天を衝け、草彅剛の影響だろうか。
説明するボランチアの人もうれしそう。
13:51
慶喜は水戸にいるときからその英邁さは有名だった。
12代将軍・徳川家慶も「御三卿・一橋家の世嗣としたい」との意向を老中・阿部正弘を通じて弘化4年(1847年)に水戸藩へ伝達。
幼名・七郎麻呂は父・斉昭から偏諱を賜り、松平昭致と名乗っていたが、一橋家を相続してから家慶から偏諱をいただき徳川慶喜と名乗った。

家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけ。
その家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。
そのため、家慶は慶喜を自分のあとの13代に考えていた。
しかし阿部正弘の反対で、将軍は家定に。
しかし14代目としては、阿部も一橋慶喜擁立に動く。
阿部、水戸斉昭、島津斉彬らの一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。
しかし歴史は慶福が14代家茂になっている。

慶喜は正室一条美賀との間に女児が生まれるもすぐ死亡。
側室二人(新村信、中根幸)との間に、21人の子女をもうけた。
成人した男子は5人、
四男・厚は分家に出し(男爵)、
五男・博は鳥取藩池田家へ養子に入り第14代当主・池田仲博となる。
七男・慶久が慶喜家を継ぎ(公爵)、
九男・誠も分家(男爵)、
十男・精は勝海舟の養子となり伯爵をついだ。

さて、ランチのあと再び、ここを通ったのは、慶喜の長子、徳川厚(1874年- 1930昭和5)の墓を思い出したから。
13:52
厚の墓は、慶喜と勝精の間の道を少し行って右側の木陰にある。
こちらは誰も来ない。
控えめな良い感じの墓である。
13:53
二つ目の墓誌には厚の三男・喜好、次女・喜和子、
また厚五男・德川喜堅の次男・喜昭の名があった。

帰宅後、段ボールを探した。
別冊歴史読本・徳川十五代将軍総覧(1977、古本)が出てきた。
写真を撮ろうと思って広げたら数十年ぶりだったからか、糊が劣化していて本が割れてしまった。

(追記 10月29日)

本を見て9男徳川誠(1887明治20- 1968昭和43)も書くべきだと思い、朝、ぱっと写真をとってきた。先日は人がいっぱいいたから撮り忘れた。
2021‐10‐29
厚、精と比べ墓が新しく小さい。
81歳、昭和43年まで長生きしたからだろうか。
でもそのおかげで父の一番近くに眠っている。

墓誌を見れば、誠の前に南太平洋で戦死した長男、海軍少佐・徳川熙の名があった。


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2021年10月20日水曜日

白菜の種まき、育苗、信州の記憶

野菜はなるべく種から育てている。
苗はいくら安くても78円プラス消費税で85円する。20本買えば1700円。
種なら安い。ダイソーで2袋110円、余ったら冷蔵庫に保管し何年も使える。
問題は、なかなか育たないこと。

2021‐09‐15
 白菜(左上)8月21日まいたもの。
 レタス(手前、9月8日1鉢に4粒ずつまく)、
 玉ねぎ(右上に9月8日まく)も芽が出てきた。

白菜は1か月近くたつのに、本葉は4,5枚、とても小さい。

なぜ小さいか?
成長は直線ではなく、シグモイドになる。
つまり、葉っぱの量をVとすれば成長速度 dV/dt は一定ではなく、光合成量、葉っぱ量に比例する。すなわち、
 dV/dt = a・V
 V= exp (a・t)
つまり立ち上がりは指数関数的。
だから実生の場合、夏野菜なら梅雨までに、冬野菜なら寒くなる前にある程度の大きさにならないと、成長はうんと遅れる。

夏のナス、シシトウ、トウモロコシ、枝豆などに苦労したことは以前書いた。
苗業者は温度など管理しているのだろう。

2021-10-02
白菜は虫に食われたりしたため、追加で2回まき、大きさもバラバラ。

2021‐10‐02
レタスも本葉が出てきたが、白菜ともども小さいまま。
我が家は場所がないので大根の隙間でポットに種をまき育苗している。
ところが大根が育ち始め、日陰になってきた。

どこかに移さねばならない。
先日、パプリカを無理やり移して空けたスペースに移動させた。
また、ポットに何粒もまいているから、それに先立ち一鉢一株にした。
この個別化が大変。朝6時前から2時間半かかった。
土地がないと余計な作業が増える。

2021-10-10 移動して8日後。
大根の葉陰から元パプリカの場所に移したものの、隣にシシトウ、サツマイモがある。
まだ窮屈。
ちっとも成長しない。
それどころか(白菜もレタスも)枯れるものも出てきた。

10月は暑い日があった。
白菜は冷涼な気候を好み、生育温度は20℃前後、葉が巻き始める結球期の気温は、15-17℃前後が最適。
2021‐10‐18
しかし涼しくなってきたからだろうか、1週間でだいぶ育ってきた。
そろそろ定植しないとまずい。
この場所に40センチx40センチの間隔で植える予定。
しかし、まだシシトウが頑張っている(写真、奥)。
ああ、土地がない。


大根の間に残してきた白菜苗はもっと大きくなっている。
かわいそうだがシシトウを抜いた。

2021-10-18
本当は植え付けの2週間くらい前に石灰と元肥を入れてよく耕して畝を作る、と書いてあるが、そんな余裕はなく、シシトウ抜いてすぐ耕して定植した。18株。
ダイソーで買った「60日白菜」の袋を見れば、8月中旬から9月下旬にまいて、10月中旬から翌年1月下旬まで収穫とある。しかし、もう10月中旬。
2016年以降、6回目の白菜。我が家は例年通りの遅さ。

・・・・

以前「アブラナ科の属と種」で書いたが、白菜は大根とは属が違う。
キャベツとは属は同じだが種が違う。
そして野沢菜、小松菜、カブなどとは種も同じ。つまり、小松菜とは栽培品種の違いしかない。

今回追記しておく。
アブラナ科の植物は自家受精せず、また近縁他種と交配しやすい。
子のF1が一見白菜でも、劣性遺伝子が隠れていればF1同士の交配でも先祖返りがでてくる。すなわち、変異しやすく安定品種を維持しにくい。

アブラナ属アブラナ種Brassica rapaの原産は西アジア、地中海のようだが、紀元前に中国に伝わったという。結球性の品種は16‐18世紀にできたらしい。日本にも江戸時代以前に伝わったが、安定品種とならなかった。明治になって政府が結球性白菜を中国から本格導入したが、系統維持はことごとく失敗した。

ようやく明治末期から大正にかけて、松島湾の馬放島という小島で隔離育種に成功、仙台白菜の名で出荷した。同時期に名古屋市郊外で野崎徳四郎が中国から来た山東白菜の改良を進め、現在のように結球するハクサイができたといわれている。昭和に入って石川県でも栽培が軌道に乗り、これで現在の主要系統である松島群、野崎群、加賀群という三大品種群が作り出されたという(ウィキペディア)。

長野で食べていた白菜は何だったのだろう?
信州の冬は毎日大根(煮物、沢庵)、白菜(みそ汁、漬物)、野沢菜(漬物)がでた。
昭和34年正月? 2歳5か月とリンゴの木
左はヤギの小屋、右は分家のもこのうち(向こうの家)
「もこのち」との間には細い道があり、道路拡張で小さな竹藪と、並んでいた柿の木(何本か写っている)がすべて切られた。

信州では、雪が降る前に、畑からひと冬分の大根、白菜、人参を屋敷地にもってくる。
白菜はリンゴの木の下に同心円上に立ててびっしり並べ、藁をかぶせた。
冬になると1玉づつ、雪をかき分けて取り出すのである。
漬物はもちろん、みそ汁はほぼ毎日白菜だった気がする。
雑煮の具も白菜と油揚げ。年始客の吸い物にはホウレン草が入っていたが特別だった。


シナノ薬品の恒叔父と
あまり記憶ははっきりしないのだが、この藁は保存大根の山だったのではなかろうか?

土蔵(右)の前にインドリンゴの木がみえる。
一本だけあったインドリンゴは出荷せず、白菜漬けに入れたりした。
キムチほどではないが、昆布、トウガラシ、みかんの皮とかいろんなものが入った。

しかし子どもの頃は、大根も白菜も野沢菜もそれほど好きではなかった。
今は大好き。
作るのはもっと好きかもしれない。



2021年10月15日金曜日

落花生がコガネムシに食われ、駆除薬を調べた


2021-10-09
数年ぶりに柿が生った。
しかし次々と自然落下し、2つだけ残った。
色が濃くならないうちに、ひとつがジュクジュクになってしまったので、もう一つは硬いまま取った。2つとも渋くはなかった。
色がつかないのは温暖化の影響だろうか。

2021-10-09
シャチホコガ
柿の隣のサクラの下に来たら虫の糞が敷石の上に落ちていたので見上げた。
枯れ葉のような虫が桜の葉をむしゃむしゃ食べていた。
「枯れ葉のような芋虫」で検索したらシャチホコガ科の幼虫とわかった。
この科は世界で3800種、日本でも123種あるというから、その世界の人には人気がある虫なのだろう。尾(腹部)を鋭角に曲げてまさに鯱鉾。
名前が成虫でなく幼虫の形から決まっているのが面白い。
ちなみに鯱は頭がトラ、姿は魚で尾を常に天に向ける空想の動物。
シャチと書けば、マイルカ科シャチ属の海獣。

2021-10-10
アケビコノハ
その夜、サツマイモの芋虫(エビガラスズメ幼虫)を捕まえるため夜回りしていたら、枯れ葉そっくりの蛾がいた。初めてみた。葉脈まである。割りばしでつかむと羽を広げた。内側は対照的に鮮やかな羽だった。そのまま箸に力をこめ殺した。
てっきりエビガラスズメ(スズメガ科)の一種かと思ったが、ネットで調べたらヤガ科のアケビコノハだった。こうなると芋虫はエビガラスズメの幼虫だと思っていたが一部はアケビコノハの幼虫だったのだろうか? サツマイモは蔓、葉が密集しているから虫の天国だ。

・・・・・
10月になっても晴れると夏日になるなど今年も変な天気だ。
8月、9月はどうだったか忘れてしまった。
落花生を毎朝見ている。
いつ収穫するか難しい。
早すぎると熟していないし、遅すぎると株を抜いたときに子房柄から実が切れて地中に残ってしまう。

2021‐10‐15
歩くのに邪魔なところの落花生を抜くことにした。

春先に豆をまいた。さらに昨年取り残した豆が地中から発芽したりして、苗が余った。
苗を捨てるのももったいないので、少しでも場所が空いていれば植えた。
例えば敷石の間、歩くとき踏まないはずだから、と植えた。
それが石を隠すほど繁茂して歩けなくなっていた。
歩道の確保と試し堀ということで、例年より早いけど掘った。
ちなみに過去の収穫日は
 2016 10・26
 2017 10・31
 2018 10・29
 2019 11・4
 2020 11・3
である。 

全部でこれだけ。
まあ、本来の畑でないところに植えたのだから贅沢言えない。
気になるのはコガネムシに食われた豆が多いこと。
また、子房柄が切れた豆も多かった。
そこで、畑のほうの落花生もとることにした。

本来はサツマイモ(左)と落花生の間に通路があったのだが、完全に埋もれてしまった。

畑のほうをすべて取ったが、収量は思ったより少なかった。
今年の特徴は
1.掘っていてコガネムシが多い。
2.切れて地中に残る豆が多い

2021‐10‐15
今回捕らえたコガネムシと食われた落花生。
食われると殻の中に土が入るから豆が発芽する。写真では3つが発芽している。

・・・・・

今年は落花生を例年より多く植え、期待していただけに、例年以上のコガネムシの害にショックを受けた。

駆除法をネットで調べてみた。

1.フォース粒剤を0.9kg/1アール
 3㎏で3000円程度

1アールは10メートルx10メートルだから我が家の庭くらいか。
成分はテフルトリン
Tefluthrin
イギリスのゼネカが開発したピレスロイド系
Naチャネルを開いて脱分極させる神経毒。鳥や哺乳類には毒性が低い。

ヨトウムシ用にもっているベニカ(ペルメトリン)もピレスロイド系なので使えるかもしれない。しかし量が全然足りない。

スミチオンが成虫には効くが幼虫に効かないのは、有機リン系は水で分解するから地中では使えないからかと思っていた。しかし以下に示すように有機リン系でもいいようだ。


2.ダイアジノン3%粒剤
0.5-1.0㎏/1アール
700グラム・1200円
Diazinon チバガイギーが開発

うちの庭にコガネムシが多いのは、
1.落ち葉や生ごみを肥料として入れている。
桜の大量の落ち葉をすべてゴミに出すのは、毎回となり面倒だったのと、庭土の栄養がどんどん流出する気がしたから。
2.周囲にカキ、桜、フキ、庭木、生垣などの、より広い非耕作地があって、畑だけ駆除してもすぐ周囲から侵入してくる。

農薬は、地上の虫は効きが分かるから気持ちいいが、地中に入れても効いたのかどうかわからない。効かない場合、足りないのか元々効かないのか分からず面白くない。値段も高いし。

実は駆除は半分諦めている。


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2021年10月9日土曜日

田端文士村と鹿島龍蔵、芥川旧居跡

外でランチしようと動坂を降りて田端駅まで来た。

2021‐10‐02 13:05
文士村記念館と江戸坂

ふと田端文士村記念館が目に入った。
ここはいい。何がいいかというと一番は入場無料なことだ。
北区としては良いお金の使い方をしていると思う。
給付金などは飲み食いで消えてしまうが、こういうものは区民の頭に残るだけでなく、よそから見て区の品格を上げる。
区民が自分の街を誇りに思うような事業が良い。

撮影禁止なので入り口の外から1枚だけ撮った。
昔はこの右側が事務室だった気がするのだが、この日から始まった芥川龍之介企画展のスペースになっていた。
北区は近年、芥川の旧宅の敷地の一部を買い取った。
そこに記念館を作る予定で、発掘調査したらしい。
出土品の薬瓶や牛乳瓶が展示されていた。

この記念館は無料というだけでなく、さらに良いことには、地図や年表などが充実していて、情報が多い。壺や絵画など室内芸術品より地形や歴史に興味のある私にとってありがたい。
明治大正、昭和の初めまでは徒歩が中心だったから、友人たち、似た人々は同じところに住む。しかしきっかけ、核となる人がいないと集まらない。
田端は上野の芸大から尾根続きの高台だったから、初めは板谷波山、香取秀真、吉田三郎など美術家が集まった。

当初、作家はほとんどいなかった。核となったのは芥川龍之介と室生犀星である。
龍之介は、京橋で牛乳製造販売業「耕牧舎」の支配人、新原敏三の長男として生まれた。耕牧舎は渋沢栄一らが箱根仙石原ではじめたもので、龍之介が生まれたころ(すなわち1892年ころ)には京橋本店のほか支店も中根岸(日暮里)、芝、四谷とふえた。
龍之介が生まれてすぐ母が発狂したため母の実家芥川家に預けられ、母の死後、芥川道章の養子となった。芥川家は本所にいたが、明治43年の水害のあと内藤新宿二丁目の耕牧舎牧場の横にあった新原敏三の持ち家を借りて住み、大正3年、龍之介が東大在学中に田端に新築、転居した。そのあとすぐ龍之介が「鼻」で文壇の寵児となり、それに引き寄せられるように多数の新進作家、作家志望者も集まり住んだ。本郷、谷根千にも近いから田端以外の文化人も往来した。

芥川は田端文士芸術家村の人物録ではたいてい最初に来る。「あ」で始まるからだが、実際中心人物だった。江戸っ子らしく交際好き、世話好きで、作家たちの中心となっただけでなく、芸術家と文士たちを結び付けた。

犀星は金沢で同年だった吉田三郎と親しかったこともあり大正5年、千駄木から田端に転居、萩原朔太郎、堀辰雄、中野重治らの中心にいた。また動坂、千駄木の北原白秋、高村光太郎、佐藤春夫もよく訪ねた。

・・・・
初めてこの記念館に来たのは1997年5月。
埼玉からはるばる古地図の忠敬堂に来たら懐かしい江戸坂に大きなアスカタワーができていてびっくり(竣工1993年)、その1階に田端文士村記念館ができていた。

左、アスカタワー建設地、国鉄田端病院を壊したのは1990年ごろ? 
更地になって駅前から高台通りが見える。
右、戦前の江戸坂

田端文士村という言葉はそれまで知らなかったかもしれない。
1977年、大学3年生、本駒込の不忍通り近くに住んでいたころ、山手線は駒込駅、京浜東北線は田端駅、と使い分けていた。江戸坂を上り下りし、板谷と表札のある家の前を通っていたのだが、板谷波山も知らず、20代は文学や歴史に興味がなかった。

しかし、その20年後は古本や地図など人文科学が面白くなっていた。
文士村記念館は、アスカタワー竣工の年、1993年11月に開館した。

北区の偉いところは、建物だけでなく区立田端図書館が「田端文士村」という小冊子を発行したことである。
1997年に記念館に来たときは、以下のバックナンバーが置かれていてもらって帰った。
 第6集 犀星と私 (1987年3月)
 第7集 大衆に愛された作家・趣味人たち (1987年12月)
 第8集 女流5人、今は昔:田端周辺を偲ぶ 
その後は縦書きになっていて、
 第10集 よみがえる田端のありし日 (1990年3月)
 第11集 実業家・鹿島龍蔵と文士・芸術家たち (1991年3月)
 第12集 田端文士・芸術家村探訪(資料編) (1992年3月)

帰宅後、近藤富枝「田端文士村」(中公文庫、1983)もアマゾンで買った。
単行本としては講談社から1975年に出た。名著だと思う。
その後、2013年に千駄木に引っ越したとき、バックナンバーを団子坂の本郷図書館でみつけ、コピーして揃えた。
 第1集 古い田端を語る会 (1985年3月)
 第2集 田端ゆかりの文化人(1985年7月)
 第3集 田端の思い出 (1986年2月)
 第4集 芥川龍之介入門 (1986年4月)
 第5集 父を語る (1986年12月)
 第9集 室生犀星生誕百年特集(1989年3月)
子孫の方のエッセイ、座談会などが多い。

二度目に文士村記念館に来たのは家を探しに来たときだろうか、2010年か2011年。

50歳を過ぎて、終の棲家を考え始めた。
土地勘のある赤羽や王子など北区の、坂道のある高台が好きだった。
中でも田端に強くひかれた。
学生時代を思い出して懐かしいし、田端文士村で得た知識も後押しした。
さらにかつての文士村に相当する地域は、京浜東北線の西の高台、山手線の内側にありながら、世間から忘れられたような不思議な、田舎じみた雰囲気があった。

与楽寺坂 2017年
上の坂 2011年
田端では二軒、終の棲家の候補となった。
与楽寺坂の物件はそのまま住めたが、2010年9月、迷っているうちにタッチの差で買われてしまった。
上の坂の物件は2011年4月に内見した。我が5人家族には狭くて古かったので建て替えねばならなかった。いい味を出していた祠のある石垣もセットバックで取り除かねばならず、また急斜面で土台工事が大掛かりになりそうで断念した。二軒とも南側が樹木のしげる崖で、見晴らしもよく私好みだった。
この上の坂の家から3か月後に千駄木の家を見つけ、結局、田端の住民にはならなかった。

左、たぶん「上の坂」(2015年ころまでこんな感じ)
この石垣の家を買おうとしていた。
右、上の坂を下りて少し先、在りし日の天然自笑軒と、その敷地に建つ浅賀邸

・・・

さて先日、文士村記念館にいった翌10月3日の夕方、出かけるついでに北区が購入した芥川邸跡地を見に行った。
芥川が毎日のように上り下りしたであろう上の坂から行く。
上の坂 2021‐10‐03 17:13
私が買おうとしていた古家はアパートに建て替えられ(写真右)、樹木も石垣もきれいになくなった。その手前の古アパートもマンションになるのか更地に工事中だった。

坂を上がって左に曲がってすぐ、この角が芥川龍之介旧居跡
他の文士(作家志望者たち)の多くが借家、借間を転々としていたのに対し、ここは370坪もあった。

北区管理地 
(仮称)芥川龍之介記念館建設予定地

北区は敷地の一部、西側部分を買った。
先ごろ行われた発掘調査では防空壕跡が2つ見つかったという。
戦時中家族が疎開しているうちに家は20年4月の空襲で焼失した。
戦後、土地は3軒に分割されている。

発掘では友人で主治医だった下島勲の楽天堂医院(上の坂を下り、天然自笑軒の向かい)の薬瓶や丸善のインキ瓶、耕牧舎の牛乳瓶も出てきた。

昭和2年に芥川は自殺、その翌年、同じく田端の中心人物だった室生犀星が馬込に去り、田端文士村の最盛期は過ぎた。さらに空襲で田端は壊滅し、転居していた文士芸術家たちの多くはこの地に戻らなかった。
芥川のいたころ、この切通し(昭和8年開通)はなかった。

高台通りの東台橋から西南の歩道橋(童橋)をみる。

家を探した2011年、千駄木に引っ越してきた2013年でも童橋の左(東、芥川邸跡のほう)には板塀の家なども残っていた。しかし、いまや細分化され3階建ての新築住宅になったり、アパートが建てられた。

滝野川第一小学校(2014年から田端小学校)あたりの一部分だけ完成していた補助92号線が東覚寺の境内を削り、田端駅前通りにつながった。それにともない区画整理も行われた。
1977年の学生時代いつも通っていた道で上品な「板谷」という家が文士村記念館で板谷波山の家と知ったが、2011年ころの区画整理で跡形もなくなった。
もう今の田端には終の棲家にしたいほど魅力がない。

田端の道という道は、ほとんど歩いた。
しかし10月2日、記念館で地図を見ていて高台通りの北(線路側)だけ歩いていないのに気付いた。田端6丁目になる。いってみよう。
いまの6丁目には鹿島龍蔵(1880‐1954)の屋敷があった。

鹿島組(現鹿島建設)の総帥、鹿島岩蔵の長男として生まれる。一高在学中遊びすぎて2度落第し、グラスゴー大学に留学(造船学)。鹿島組は姉の夫、精一が組長となり、龍蔵は重役として助けた。
1912(明治45年)、田端650番地、筑波の見える高台に屋敷を構えた。多趣味な文化人として田端の作家、芸術家、その卵たちと交流し、とくに資金面でその面倒をよく見た。
「田端文士村」第11集
「田端文士村」の編集者たちは、1990年長男の鹿島次郎氏(早大名誉教授)を浦和市領家に訪ね、昔の田端邸と文士、芸術家たちについてインタビューしている。

2021‐10‐02 田端6丁目6番地
写真の左あたりが鹿島邸の場所だと思うのだが、よくわからなかった。
空襲で一面焼けたあと無秩序に家が建ち、道も当時と少し違っている。

芥川の随筆「東京田端」に
「門内に広い芝生のあるのは長者鹿島龍蔵の家、」
と書かれた景色は、影も形もなかった。