2021年11月8日月曜日

谷中墓地10 一橋、田安、清水家墓所

谷中墓地で一番人気は徳川慶喜で、昔から観光客がいるのはここだけだった。

今年は大河ドラマの影響で、渋沢栄一も賑わっている。
その人気コース、渋沢家墓所から慶喜のところに来る途中、塀に囲まれた一角がある。
どこよりも立派だが、観光客は立ち寄らない。

その塀には慶喜公墓所への矢印案内板があり、皆ここで右折する。

しかし、そのまま進めば
2021‐10‐24 一橋家墓所
何も案内板がないが、なぜか以前から一橋家と思っていた。
あれ? 本当に一橋かな?
正面の一段高いところに二つの塔があり、左のほうに葵の御門が見える。

植木などもよく手入れされているが、
墓石の文字は見えない。
慶喜墓所のほうへ回り込むと木々の間から、大きなほうの墓石が読めた。
慧光院殿超達道観大居士 
側面には、昭和十九年十二月二十九日

帰宅して調べると徳川達道(とくがわさとみち)/慧光院 明治5年~昭和19年12月29日(1872-1944)  一橋徳川家第11代当主・伯爵。
一橋家第10代徳川茂徳の四男。
一橋11代の達道には後継者がなく、水戸家の当主徳川篤敬(あつよし)の次男・徳川宗敬(むねよし:1897-1989)を養子とした。72歳で没。

一橋12代の宗敬については本郷学園(校長)や染井霊園松戸徳川家のところでも書いた。

父の一橋10代、徳川茂徳はもちながと読む。14代将軍家茂から偏諱を受けたからである。
茂徳は尾張高須藩主であったが、本家尾張家の兄、慶勝が安政の大獄で謹慎処分となり、代わりに尾張家を継いだ。しかし慶勝が復帰すると、茂徳は隠居。その後、一橋家から将軍となった慶喜のあと、請われて一橋家に入った。

左側の傘に葵の御門がある塔は、達道の室、鉄子である。
慶喜の四女で、明治23年に結婚した。

別冊歴史読本・徳川十五代将軍総覧(1977、古本)
写真を撮ろうと思って広げたら数十年ぶりだったからか、糊が劣化していて本が割れてしまった。一橋家祖は吉宗四男。

御三卿の他の墓も見てみよう。
いずれも寛永寺管理の墓地にある。

以前清水家の墓所についても書いた。
一橋家と違ってわかりにくい。
通路にも面していない。
非常に目立つ伊達宗城の墓の後ろ(北東)あたりにある。

2017‐05‐27
4年前、偶然、古い墓石が気になり、見たら葵の御門。
刻まれた俊徳院の文字をメモして帰宅、調べると清水家祖、徳川重好のことだった。
重好は9代将軍家重(吉宗長男)の次男。(別ブログ)

明治になって清水家7代当主徳川篤守(1856- 1924)は水戸家から養子に入ったが、遊びすぎて経済的に行き詰まり、伯爵を返上した。
しかし長男・好敏(1884- 1963)は1910年陸軍大尉のとき代々木練兵場で日本初の飛行に成功。その功労により、新たに男爵を授けられた。

徳川好敏の墓は府中カトリック墓地にあるらしく、それが清水家谷中墓地の小ささと関係あるかもしれない。すぐ後ろは寛永寺の新規分譲墓地である。削られてしまったのだろうか?

田安家祖は吉宗の次男、

これだけ谷中墓地に来ていながら、田安家墓所は気にしたことがなかった。
いい機会なので探した。
割とよく通る阿部家墓所の横の広い道に面した寛永寺墓地に、塀で囲まれた箇所がある。
ここが怪しい。
門は閉じられていて入れない。
塀は低いから乗り越えられるけれども、そんなことはいけない。

塀から一番近い墓石の側面が見えた。
侯爵徳川頼倫生母八重子
澤井宗篤長女
と刻まれている。

徳川頼倫は、明治5年(1872)- 大正14年(1925年)
田安徳川家第5代、徳川慶頼の六男として生まれ、明治13年、紀州徳川家第14代当主・徳川茂承の養子になり頼倫と改名した。するとこの墓石は田安徳川家・徳川慶頼の室。

以前、この一角を通るときは将軍の側室や夭折した子らの墓所かと思っていた。
しかし、たぶん、ここが田安徳川家と思われる。

この墓石の婦人の夫であった徳川慶頼(1828‐1876)について少し書く。
彼は、田安家3代・徳川斉匡の九男として生まれた。松平慶永(春嶽)の異母弟である。田安家5代目を継ぐ。
しかし慶喜が14代将軍家茂の後見職となることに反対したため、降格、隠居し、幼い長男に家督を譲った。しかし6代目となる長男は夭折、三男の亀之助(家達)が7代目となる。
慶喜が寛永寺に蟄居した後は徳川家をまとめ、新政府に協力した。明治新政府は息子の7代家達に慶喜のあとの徳川宗家の16代家督相続を許可したため、慶頼はふたたび田安家の家督を継いだ(第8代)

次の9代目は慶頼4男の達孝(1865 -1941)

10代目は達孝長男の徳川達成(1899-1961)
墓は、ここ田安家墓地に向かって、右から10基目の顕光院殿成徳陽葵大居士。
(見ていないけど)
夫人・澄光院と合祀。

11代目は達成長男の徳川宗英(1929 - )
海軍兵学校在学中に終戦、慶應工学部を出て、石川島重工業に勤めた。退職して2004年以降、徳川関係の著書を多数出されている。

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