2023年2月28日火曜日

エンドウ凍傷と春のホウレンソウ

今年の冬は寒かった。
特に1月にきた寒波は、ここ10年で最強という。
1月24日から26日まで最低気温はマイナスとなった。
北の丸公園で-0.8、-2.9、-3.4度。

葛飾柴又のアルバイト農園では水道が凍結したが、千駄木は大丈夫だった。
しかし、伸びていたスナップエンドウが寒さで先端が萎れてしまった。
一方葛飾柴又のエンドウは不織布で回りを覆い、凍傷を免れていた。
2023‐01‐27
エンドウは2017年秋に種まきから育てて以来、6回目だが、今まで冬の低温を甘く見ていた。今回初めて凍傷を受けた。

あれから1か月、季節はちゃんと巡るものだ。
本日2月28日は反対に4月並みの暖かさ。日中は19.4度まで上がった。
フキノトウは花が満開。
2023‐02‐28
そら豆とイチゴ
サニーレタスはまだ小さい。

春菊は落花生の後だったので種まきが遅れ、出来は今一つ。

2023‐02‐28
ホウレンソウはこの日初収穫した。
春菊同様、種まきが遅れたため、成長を速めようとビニールで保温していたが、暖かったせいか、アブラムシがたかっていた。この日、ビニールをはがし、代わりに防虫ネットを張った。

色んな野菜が春を感じて成長を始めるなか、エンドウはまだ回復していない。
凍傷は思ったより深かった。
2023‐02‐28
実は先月の寒波のとき、右手の人差し指と薬指、それから左耳が凍傷になった。
しもやけは、中学生以来である。
ただ、耳は寒波かもしれないが、右手指はスーパーの品出しバイトのせいかもしれない。
ブロッコリーは氷に漬けられて搬入される。それを並べると軍手が冷水でぬれ、その状態のまま仕事を続けたせいかもしれない。
そのため指先、すなわち爪の根元がやられ、正常な爪が作られず、へこんでしまった。

あれから1か月、エンドウのように回復しなかったら困るな。


2023年2月27日月曜日

佐倉道の小岩市川の渡しと墨田区役所

最近、東京23区の無料地図を集め始め、2月21日、葛飾シェア畑でアルバイトの日に城東4区を回ることにした。
10時からのバイトの前に町屋で荒川区の、堀切で葛飾区の地図を入手。
3時間働いて午後から江戸川区、墨田区の地図を求める。

京成電鉄の都内乗り降り自由「下町日和きっぷ」510円を買ったので、江戸川駅に向かった。
2023‐02‐21 13:41
江戸川駅
初めて降りる。
13:43
駅から南に歩くとすぐに御番所町跡の説明版
ここは千住から新宿(にいじゅく)、小岩を通って佐倉までいく佐倉道が通っていた。
房総の大名の参勤交代道でもあり、五街道に匹敵する重要な道とされていた。
以前、北千住の日光街道にある分岐点で石柱を見たけれど、日本橋からはだいぶ北に膨らむ遠回りである。幕府が東日本諸国からの流入を千住に絞りたかったのか、よく分からない。
しかし、成田参詣を含め、庶民は船で行徳まで行くか浅草橋から東に向かう元佐倉道を使った。参勤交代も帰国は元佐倉道を使ったらしい。

ここは北西からの佐倉道と南西からの元佐倉道の合流点である。
ここで江戸川を対岸の市川にわたるため、関所もあったらしい。
御番所町とは関所の周辺の町ということである。
すぐ西には北上する岩槻街道も通っていた。
川を前にした交通の要衝だから料理屋を兼ねた旅館が並び町になった。
右上が伊予田村(小岩)の佐倉道合流点、手前が市川である。
(佐倉学入門講座2019 蕨由美氏のサイトから)

この角から東を見ると、すぐ近くに江戸川の堤防が見えた。
中世のころは北から利根川はじめ、東京湾に流れこむ川の流路は一定しなかったが、(関所がここということは)江戸初期の利根川東遷以降の川筋は今と同じだったようだ。
13:45 江戸川
名前からして対岸千葉の人が付けた川名だろうか。
あるいは両岸流域の人が、下流に江戸があるとして付けたのか。

対岸は市川の国府台。茶色いビルは和洋女子大のようだ。あのあたりは東京医科歯科大や千葉商科大学もある。2013年11月、国府台の体育館でダンスの競技会があり、休み時間に医科歯科大のキャンパスを歩いた。

写真の鉄橋は京成本線。
昔は橋がなく、代わりに小岩・市川の渡しがあったとはなかなか想像できない。
明治38年(1905)に江戸川橋が架けられるまで、渡船は続けられた。
13:47 日蓮宗 晴立山 本藏寺
御番所町跡の説明版のすぐそばに六地蔵があった。
東京23区とは思えない景色。

南に歩くとすぐ東に向かう国道14号にぶつかる。
この国道は日本橋から出て浅草橋で6号(水戸街道)から分かれ東に向かう。すなわち元佐倉道に近いが、佐倉には行かず、途中で南下して佐倉藩の外港であった千葉市で終わる。
13:52
本蔵寺から4分、300メートル、「一里塚」の交差点

13:52
通り過ぎた総武線ガード下に「小岩の一里塚」跡の説明版があった。
ここは岩槻街道との分岐点でもあったらしい。
ちなみにここから西北の水戸街道新宿まで4.9キロ、千住まで11.7キロメートルである。

一里塚交差点からサンロードという商店街みたいな名前の道を西に歩くと目的地の江戸川区役所小岩事務所があった。

中に入ると確定申告やマイナカード申請のため区民が大勢うろうろしている。
ロビーで彼らの間を歩き案内している役所の人がいたので、
「江戸川区全体の一枚地図が欲しいのですが・・・」というと
「地図だけお渡しするわけにいかないのですが、この中に入っています」とすぐ出してくれた。電話帳のような「暮らしの便利帳」に「資源とゴミの出し方ルール」「江戸川区水害ハザードマップ」と一緒に地図が挟まっていて、転入者に渡すものだった。ハザードマップの表紙には「ここにいてはダメです」と書いてあった。
14:01
区民事務所をあとに、京成小岩駅に速足で向かう。

14:13
京成小岩駅。
バスが止まっていて、京成線では珍しく広場があった。

ちょうど来た電車が青砥経由の押上行きだった。
京成小岩を出るとすぐ葛飾区に入り、立石、四つ木を過ぎて荒川を渡ると墨田区。八広、曳舟、押上と名前がよい。

墨田区の地図がもらえるところを京成線沿線で探すと、墨田区役所が京成終点の押上から遠くない。
14:30
押上駅到着
京成の他の駅と違って、ここは都心の地下鉄と同じ景色。
乗ってきた電車は西馬込にいく都営浅草線に乗り入れている。
14:31
押上駅
14:35
地上に出ればスカイツリーが見えるはずと探すも見えず。
真上のビルに隠れていた。

14:36
北十間川にそって西に歩く。

墨田区役所はさすがに立派だった。
郡部の荒川、葛飾、江戸川と違い、明治22年から東京市本所区であった風格があった。
14:55
地図をもらった後、裏の隅田川沿いに勝海舟像があったことを思い出したが、風が冷たかったので行かず。吾妻橋からアサヒビール、区役所一帯は二、三度きたことがある。

14:57
区役所前の枕橋から。
左は浅草から来る東武伊勢崎線。あ、スカイツリー線というのかな?
14:59
区立隅田公園
北十間川の北側は水戸家下屋敷だった。
関東大震災のあと昭和6年に開園した。
川を挟んで区役所とつながっていて、防災拠点として理想的である。

この日はバイトの前後で荒川、葛飾、江戸川、墨田、4区の地図を入手した。
効率よかったが、そのぶん、どの区もほんのわずか歩いただけ。
しかし、地図集めがなかったら行かなかったところばかり(墨田区役所ソラマチ周辺以外)。行かなかったら家でごろごろしていただけだから、良い一日だった。


2023年2月25日土曜日

堀切菖蒲園の冬は何もない

最近、東京23区の地図を集め始めた。

2月21日の朝、シェア畑のアルバイトに行く途中、町屋で下車して荒川区の地図を入手した。
(別ブログ)
京成町屋駅に戻ると9:02。
京成高砂でのアルバイトは10:00からなので、途中の堀切菖蒲園で降りれば、葛飾区の地図も得られるかもしれない。
運よく各駅停車の電車は9:05に来た。
町屋を出て隅田川を渡るとすぐ足立区。ところが千住大橋駅で特急の通過待ち合わせがあり、次の京成関谷を過ぎ、荒川を渡って堀切菖蒲園駅に着いたのは9:14。 バイト時間を気にしなくてはならない。
9:16 堀切菖蒲園駅
初めて降りるが、他の京成の駅と同様、駅前広場はない。
駅の真ん前で青果店が野菜の積み下ろし、陳列をしていた。
調べておいた堀切区民事務所を急いで探す。
9:18 堀切地区センター
ここでも入って最初に目のあった職員の方から地図はすぐもらえた。

この年齢になると初めてきた場所は、ほとんどもう二度と来ないだろう。
せっかく堀切菖蒲園に降りたのだから菖蒲園に向かって歩いてみる。
道の曲がり具合から川を暗渠にした遊歩道であることがわかる。
9:21
赤札堂がある。谷中にいた学生時代、根津の赤札堂で食料品を買った。
さきほどの町屋のコモディイイダといい、京成沿線は懐かしいものが残っている。

大通りに出た。
9:22
隅田川西岸を台東、荒川区を経由し、隅田川、荒川を渡って足立区まで行く都道314号線、川の手通りというらしい。
なるほど、向こうに荒川と並行する首都高が見えた。
その前の焼肉ホルモンも目立つ。

川の手通りをわたると右手に神社がある。
堀切地区センターの東にある旧堀切村総鎮守の天祖神社の末社というか分社である。
9:23
神社の前に真新しい菖蒲七福神が並ぶ。
ふつう神社仏閣に1体ずつある古い七福神を集めて○○七福神とするのだが、ここは全員が並んで通りに向いている。
ここには大正期に埋められた毛無池があり、そこに弁財天が祀られていたらしい。それに6体を加え1994年に建立された。

七福神に向かっていくつも並ぶベンチには、老人がすることもなく座っていらした。
一人はホームレスの人に見えた。

9:24
毛無池橋
かつてこの道は川だったわけだから、ところどころ橋の跡がある。
七福神の前には魚道橋の石標があり、ほかにもあった。
9:25
暗渠道とせず、川を残したほうが景観はよかったような気もするが、これだけ宅地となっては無理だな。

9:25
「強くなりたい 子ども~大人まで」
目を引かれたが空手の塾だった。

暗渠道が荒川沿いの道路で終わってしまい、困って左を見ると堀切菖蒲園。平日朝のせいか、管理棟窓口は開いていなかった。
無料というのがうれしい。
9:28
首都高がすぐ西を通る。景観はよくない。
誰もいない。と思ったら他に一人、暇そうな若者がぼんやり歩いていた。
9:29
意外だったのは菖蒲の池は水がなくカラカラだったこと。
季節になれは咲き誇る菖蒲も今は土の中に眠っている。
番号と名前の札がさしてあり、墓地のようだ。

菖蒲のにおいは好きで、風呂に入れたくて実家の田んぼから苗を千駄木にもってきた。
しかし土地がないし湿ったところがいいだろうと、裏に植えたが日が当たらず絶えてしまった。

ところで、菖蒲園に生えているのは生物学的なショウブ(芳香あり。ショウブ科ショウブ属)ではなく、アヤメ科アヤメ属のハナショウブである。
アヤメも漢字では菖蒲と書くからややこしい。
さらに言えば「いずれがアヤメかカキツバタ」という言葉があるが、アヤメ、カキツバタ、ハナショウブはどれもアヤメ属(Iris)で種だけ違う。そして3種のうちアヤメだけ乾いたところに育つ。
花菖蒲は毎年どんどん増えるから、このように整然と並んでいるのは毎年掘り出し、増えた分は廃棄して植え替えているのだろう。
さて、窓口にあったパンフレットによると堀切菖蒲園の始まりには二人の人物が出てくる。
一人は江戸時代後期、文化年代(1804~1818)の旗本で、老中松平定信の遠縁、松平左金吾定友。自らを菖翁と称し、父の遺志を継いで60年にわたり花菖蒲の品種改良、新品種の作製に精を出した。

もう一人は同時期の堀切村の農民、小高伊左衛門。彼も花菖蒲の栽培を始め、菖翁からも苗を譲り受け、江戸時代末期に小高園を開園した。
堀切村では続いて武蔵園も開園、明治以降は吉野園、観花園、堀切園、四ツ木園、山岸菖蒲園などが開園、レジャー施設のなかった時代、江戸、東京市中から日帰りで楽しめた。

しかし第二次大戦中の食糧不足で菖蒲園は水田となり閉園、戦後は堀切園のみ復興した。
その堀切園の一部を東京都が入手、1960年に都立公園として開園した。1975年には葛飾区に移管、現在に至る。

ちなみに堀切菖蒲園駅は京成が日暮里―青砥間を開通させた1931年に開業している。
9:30
200種類、6000株ほどあるようで、すべてに番号がついている。葵祭、紅葉の滝、千歳、神代の昔、五胡の遊、とかいろいろ名がついているが、命名に基準はなさそうで、入れ替わっても誰も気づかないだろう。

あれ? 夏になって茎、葉が伸びたら名札は見えなくなるが?
9:30
管理棟の向こうのマンションは季節になると眺めがいいだろうな。
マンションの向こうは歩いてきた暗渠の遊歩道である。
以前は畑、あるいはその昔は堀切園の一部だったのだろうか。葛飾区あるいは東京都が先に買ってしまえば駅から続く遊歩道と菖蒲園が一体化して良い市民財産になったと思うのだが。

1分を争う事態だから急いで駅に戻り、9:40の電車に乗る。
わずか25分の当駅周辺滞在だったが、バイト先についたのは9:53。悠々間に合った。

葛飾区は40年くらい前、20代で埼玉県に接する水元公園に一度行ったきり、40代でダンスを始めてから亀有駅リリオに2度行ったことがあるくらい、最も知らない区の一つだった。

ようやく4年前に柴又帝釈天を歩き、一昨年は自転車でさだまさしの木根川橋、白髭神社まできた。そして昨年からバイトで葛飾区の真ん中、高砂に通うようになった。
もらった地図を眺めながら、次に歩く場所を探したい。


別ブログ

2023年2月24日金曜日

町屋の葬祭場、Ward と City

 最近、東京23区の地図を集め始めた。

区役所などに行くと誰でも無料でもらえる1枚の全体地図である。
(集めたきっかけは、そのうち書く)

先月から始めて豊島、新宿、文京、台東、北、渋谷、板橋と入手した。
地図をもらうには区役所のほか支所や出張所でもよいが、平日、窓口の空いている時間に行かなくてはならない。
平日でもたっぷり時間はあるけれど、もらうためだけに行くのも芸がないので用事があるついでに行きたい。しかし退職老人は住んでいる区以外に用事などない。

唯一、葛飾区は不定期だがシェア畑でアルバイトをしているのでそちら方面に行く機会はある。
2月21日、アルバイトの日に城東4区を回って地図を集めることにした。
各区の区役所、支所、出張所のうち行きやすい鉄道沿線をさがす。

これらを回るのに便利、お得な切符がある。
京成電鉄の「下町日和きっぷ」である。京成線の都内部分、すなわち京成本線の上野から江戸川駅、それから金町線、押上線が一日乗り放題になる。もちろんアルバイト先の京成高砂も含まれている。
2023‐02‐21 8:14
「下町日和きっぷ」は車内広告でも大々的に宣伝している。
東京東部を周れて510円。

アルバイトは10:00からなので、その前に役所に立ち寄り地図を集めるつもりで家を早く出た。

まず荒川区。
家を出て不忍通りを渡って道灌山通をJR西日暮里駅方面に向かえばすぐ荒川区になる。千駄木に隣接する谷中の台東区、田端の北区より身近であるが、荒川区の施設はJRの西側になく地図集めは後回しになっていた。

日暮里から京成に乗れば、日暮里、三河島、町屋とすべて荒川区の駅。
8:17
京成町屋で降りる。すぐ都電荒川線が下を通る。
さらにその下に千代田線町屋駅があり、交通の要衝、最も商店、飲食店が集中している。
日暮里、西日暮里が区の端であることから、ここが荒川区の中心ともいえる。

ここから歩いて数分のところに荒川区の町屋区民事務所があるが、窓口は8:30からなので周辺を歩いてみる。

近くに町屋葬祭場がある。
つい数日前、2月18日にきた。
東大名誉教授、橋梁工学の権威、伊藤學先生のお通夜だった。お隣さんであり、旅行に行かれるときは植木鉢の水やりを頼まれたりする関係。そして伊藤家も我が家も老夫婦二人だったので、頂き物が食べきれないときは御裾分けし合ったりする。だから妻と一緒に焼香に来た。
先生とは根津神社のラジオ体操からのお帰りとか、ゴミ出しのときなどよくお会いし、亡くなる1週間前にも妻がお話ししたらしい。引っ越してきた10年前と比べると小さくなられた気もするが、頭脳はずっと明晰で、笑顔が上品な方だった。
 
8:20 町屋斎場
銀髪女性の自転車が通り過ぎた。
荷台にチャイルドシートがついていた。
ヤンママという人だろうか。子供を送り届けてきた帰りかな。

町屋葬祭場は東京博善株式会社が経営する。この会社は落合、桐ヶ谷、堀ノ内、町屋、四ツ木、代々幡の6斎場で、東京23区の7割の火葬を請け負う。
1887年(明治20)、実業家で政治家の木村荘平が日暮里村につくられた火葬場を運営するために創業。その後江戸時代から続く桐ケ谷など都内の斎場を次々と吸収合併していった。

ここは明治22年、三河島村町屋に東京博善とは別会社による火葬場が新設されたものが始まり。明治26年には東京博善に吸収合併された。
明治37年、日暮里火葬場が廃止され、町屋火葬場の隣地に移転、現在に至る。

ちなみに青山葬儀場は東京都が所有、日比谷花壇が運営しているが、火葬施設はない。

さて、町屋斎場に入ったのは今回が初めてだったが、この道を50メートルくらい先の区立町屋ふれあい館はダンスの練習で何回か来ている。

町屋駅前に戻る。
8:25
尾竹橋通りの町屋駅前

区民事務所に8:28につくと未だ空かぬドアの前におばさんが一人立って待っていた。
8:29
区民事務所のすぐそばの風景。

入口ドアは8:30ぴったりに開いた。
入ってすぐ立っていらした案内の人に一枚地図のことを尋ねるとすぐ下さった。
8:32
小さな郵便局のような3階建て区民事務所。
立派な建物の多い公共施設のなかで、古いものをずっと使っていることが好ましく思われた。

町屋というと学生時代に短期間だが小学生の家庭教師をしたことがあった。
79年ころだから45年近く前、谷中から自転車で通った。
そこに行ってみる。
8:44
スーパーマーケット「コモディイイダ」
驚いたことにまだあった。
45年前、食料品の買い物は根津赤札堂であったが、ここに来たときはスーパー「イイダ」で買い物をして谷中に帰った。しめ鯖を買ったことを覚えている。
コモディイイダの名称は1997年かららしい。
8:48
うろうろしながら家庭教師宅を発見。昔ここは砂利道だった。
外階段を上がって住居階に行った。
8:49
当時1階は経営される会社の作業場だったような気がするが、40年以上たってアパートになっていた。バイトをやめて以後40年以上音信不通となったので今本人、ご家族がどうされているか知らない。

再び町屋駅前に戻る。
ここはターミナル駅ではないから、多くの商店はこの近所の住民のためにあるが、その割に多い。
町屋の住民は飲食、買い物が旺盛のようだ。
8:58
目立つのは焼肉屋。写真でも3軒写っている。
この通りに薬局が多いのは手前にメディカルセンター「Medium町屋」があるから。

8:59
京成線高架下、住宅と飲食店が混在する町屋らしい風景。
9:02京成町屋駅に戻った。

荒川区は山手線の内側を除くとずっと平地で、面積も狭いから(23区中22位)、自転車で動きやすい。
尾竹橋通りのほか、ダンス関連施設の多い日暮里、西日暮里駅周辺、歴史的名所のある南千住や区役所周辺も今まで散策してきた。
千駄木からは谷と山をいくつも越えないと目白台、小日向や小石川に行けない文京区よりも荒川区はずっと身近に感じてきた。

ひとつ気がついたことがある。
家から道灌山通を西日暮里駅に向かうと荒川区の入り口に表示板がある。
「荒川区 Arakawa Ward」
立っている場所は台東区谷中だが、反対の西側を見ると

「文京区 Bukyo City」
WardとCity
都道の上にあり形式も同じことから都が設置したのだろうか?
詳しい使い分けは知らないが、あえて区別する意味は何か?
ちなみに荒川区の公式サイトはArakawa City である。

(追記 2023‐05‐23)
先日、動坂下でふと上を見たら、道灌山通りと同じようにBunkyo Cityとあった。
2023‐05‐14
動坂下交差点、動坂上方面、Bunkyo City
振り向くと、
2023‐05‐14
田端駅方面、Kita Ward
北区も荒川区同様Wardであった。
これは明治時代に小石川区、本郷区として東京市であった文京区と、北豊島郡の農村部が昭和になって東京市に編入された北区、荒川区の差が出ているのではないか?
この説が正しいなら、やはり明治から東京市だった下谷区、浅草区が戦後合併した台東区もCityとなるはずである。
調べに行こうと思ったが、面倒なのでグーグルで見てみた。
都道306号明治通り
やはり、台東区はTaito Cityである。

23区は平等ではなく、旧東京市と周辺部は差があった。
個々の住民の中には自己満足のようなプライドをもつ人がいるのは分かるが、23区全体を見る行政が差をつけているのは不思議である。


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