2021年8月14日土曜日

彰義隊の円通寺へ4年ぶりに来た

8月5日、運転免許更新のため、台東区の下谷警察署にきた。

自転車だったので終了後、そばを通る国道4号(昭和通り、日光街道)を千住のほうに走ってみる。

この夏一番の暑さという中、明治通りをこえ、常磐線をくぐる。

少し行くと円通寺。
ここは2017年5月5日に来た。
あのときは千駄木から自転車でいったん日本橋まで行き、浅草から吉原の土手通りを北上してきた。(別ブログ)
食事した木曽路も、昔と同じように道路の向かいにあった。

2021‐08‐05 10:59 
通過しようとするも黒門がみえた。
上野戦争のあと移設されたものだ。

この日、北上したのは少し先の東京球場跡地を見るのが目的であり、立ち寄る予定はなかったが、黒門に惹かれるように自転車を止め、何枚か写真を撮った。

4年前のブログはあまり説明文を書いてなかったので、自分の整理のためにも書いておく。
11:00
ここは上野戦争で亡くなった彰義隊士の墓、追弔碑が林立している。
入り口にすぐ目立つのは「松平太郎君墓」
戊辰戦争では榎本、大鳥らとともに動き、蝦夷共和国の副総裁を務めた。
釈放された後は開拓使に出仕した。

上の写真中央に目立つ石は、正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑である。
彼は函館政権の陸軍奉行(最高責任者)であったが、有能だったのだろう、降伏、入牢、釈放後は明治政府に仕官し大いに出世した。墓は青山霊園にある。

奥に入り、左側にも石碑がいっぱい。
11:03
左から
荒井郁之助君追弔碑
高松凌雲君追弔碑
正二位勲一等子爵榎本公追弔碑

荒井は航海術・測量術および数学にも通じ、函館政権の海軍奉行だった。
明治政府では開拓使に出仕、内務省地理局、のち中央気象台の初代所長となった。
1877年の東京数学会社(のちの日本数学会)の創立時の社員でもある。

高松は適塾出身、有能な人材を広く集めていた一橋家の専属医師となる。福岡の片田舎から出てきた農家(庄屋)の厄介者の3男が、わずか7年で将軍家のお抱え医師となった。徳川昭武、渋沢栄一らとパリ万博に出張、そのままオテル・デュウ(HOTEL-DIEU:神の家)に留学した。函館戦争には幕府への恩義から医師として参加、しかし敵味方の区別なく手当した。維新後は新政府から誘われたが断り、上野寛永寺所有の土地に「鶯渓病院」を新築し、貧民には無料で治療した。墓は谷中墓地にあるはずだが、まだ探していない。

榎本は有名なので略。
吉祥寺の墓については以前書いた。 

ほかに永井尚志君 永井岩之丞君追弔碑など、幕臣の追弔碑が並び立つ。
永井尚志は幕末の外国奉行、軍艦奉行。蝦夷共和国の箱館奉行に就任したが、弁天台場の守備に当っていて早くに降伏した。墓は日暮里本行寺にあるからこのブログにも書いた。岩之丞は養子、五稜郭に立てこもって戦った。
11:03
右奥が彰義隊後藤鉄次郎君追弔碑
彼は上野戦争で戦死している。

右手前は彰義隊八番隊長木下福治郎の文字が見える。

真ん中の石、「合同舩」(合同慰霊碑)には彰義隊の山田八郎、松本義房ら8人の名が刻まれている。小林一知は咸臨丸の最後の艦長(榎本艦隊とはぐれ西軍に拿捕される)、第2代中央気象台長。

左の石は樵村丸毛君碑(題字は榎本武揚)。
本名は丸毛利恒、樵村は雅号。

上野戦争が終わっても死体は上野山に放置されたままになっていた。西軍の目をはばかり誰も手を出さなかったからである。円通寺の住職であった仏磨和尚と寛永寺御用商人の三河屋幸三郎が、野ざらしになっていた遺体を収容しようとして一度は捕らえられ、のちに許可を得た。266体を数えた遺体は、いまの西郷像の裏辺りで荼毘に付し、遺骨は円通寺に埋葬され、残る遺体は上野の山に埋められた。

この写真だけ2017‐05‐05
彼らの合同墓は入り口の右側にあるが、新政府軍の目をはばかったか「賊軍」である彰義隊の文字はなく戦死墓とだけ刻まれている。
(明治10年の内務省地理局の地図には隣の真正寺はあるのに円通寺がないのはそのことが関係しているか?)

それ以後、円通寺は彰義隊の墓所として知られ、激戦の弾痕が残る黒門も下付されたわけだが、いま目立つのは彼らの墓ではなく、幕臣でありながら明治後に出世した人の追弔碑であった。
立てたのは本人でなく周囲の者としても、ただの売名行為にみえてしまう。
ここでなくても良い気がした。


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