2023年2月24日金曜日

町屋の葬祭場、Ward と City

 最近、東京23区の地図を集め始めた。

区役所などに行くと誰でも無料でもらえる1枚の全体地図である。
(集めたきっかけは、そのうち書く)

先月から始めて豊島、新宿、文京、台東、北、渋谷、板橋と入手した。
地図をもらうには区役所のほか支所や出張所でもよいが、平日、窓口の空いている時間に行かなくてはならない。
平日でもたっぷり時間はあるけれど、もらうためだけに行くのも芸がないので用事があるついでに行きたい。しかし退職老人は住んでいる区以外に用事などない。

唯一、葛飾区は不定期だがシェア畑でアルバイトをしているのでそちら方面に行く機会はある。
2月21日、アルバイトの日に城東4区を回って地図を集めることにした。
各区の区役所、支所、出張所のうち行きやすい鉄道沿線をさがす。

これらを回るのに便利、お得な切符がある。
京成電鉄の「下町日和きっぷ」である。京成線の都内部分、すなわち京成本線の上野から江戸川駅、それから金町線、押上線が一日乗り放題になる。もちろんアルバイト先の京成高砂も含まれている。
2023‐02‐21 8:14
「下町日和きっぷ」は車内広告でも大々的に宣伝している。
東京東部を周れて510円。

アルバイトは10:00からなので、その前に役所に立ち寄り地図を集めるつもりで家を早く出た。

まず荒川区。
家を出て不忍通りを渡って道灌山通をJR西日暮里駅方面に向かえばすぐ荒川区になる。千駄木に隣接する谷中の台東区、田端の北区より身近であるが、荒川区の施設はJRの西側になく地図集めは後回しになっていた。

日暮里から京成に乗れば、日暮里、三河島、町屋とすべて荒川区の駅。
8:17
京成町屋で降りる。すぐ都電荒川線が下を通る。
さらにその下に千代田線町屋駅があり、交通の要衝、最も商店、飲食店が集中している。
日暮里、西日暮里が区の端であることから、ここが荒川区の中心ともいえる。

ここから歩いて数分のところに荒川区の町屋区民事務所があるが、窓口は8:30からなので周辺を歩いてみる。

近くに町屋葬祭場がある。
つい数日前、2月18日にきた。
東大名誉教授、橋梁工学の権威、伊藤學先生のお通夜だった。お隣さんであり、旅行に行かれるときは植木鉢の水やりを頼まれたりする関係。そして伊藤家も我が家も老夫婦二人だったので、頂き物が食べきれないときは御裾分けし合ったりする。だから妻と一緒に焼香に来た。
先生とは根津神社のラジオ体操からのお帰りとか、ゴミ出しのときなどよくお会いし、亡くなる1週間前にも妻がお話ししたらしい。引っ越してきた10年前と比べると小さくなられた気もするが、頭脳はずっと明晰で、笑顔が上品な方だった。
 
8:20 町屋斎場
銀髪女性の自転車が通り過ぎた。
荷台にチャイルドシートがついていた。
ヤンママという人だろうか。子供を送り届けてきた帰りかな。

町屋葬祭場は東京博善株式会社が経営する。この会社は落合、桐ヶ谷、堀ノ内、町屋、四ツ木、代々幡の6斎場で、東京23区の7割の火葬を請け負う。
1887年(明治20)、実業家で政治家の木村荘平が日暮里村につくられた火葬場を運営するために創業。その後江戸時代から続く桐ケ谷など都内の斎場を次々と吸収合併していった。

ここは明治22年、三河島村町屋に東京博善とは別会社による火葬場が新設されたものが始まり。明治26年には東京博善に吸収合併された。
明治37年、日暮里火葬場が廃止され、町屋火葬場の隣地に移転、現在に至る。

ちなみに青山葬儀場は東京都が所有、日比谷花壇が運営しているが、火葬施設はない。

さて、町屋斎場に入ったのは今回が初めてだったが、この道を50メートルくらい先の区立町屋ふれあい館はダンスの練習で何回か来ている。

町屋駅前に戻る。
8:25
尾竹橋通りの町屋駅前

区民事務所に8:28につくと未だ空かぬドアの前におばさんが一人立って待っていた。
8:29
区民事務所のすぐそばの風景。

入口ドアは8:30ぴったりに開いた。
入ってすぐ立っていらした案内の人に一枚地図のことを尋ねるとすぐ下さった。
8:32
小さな郵便局のような3階建て区民事務所。
立派な建物の多い公共施設のなかで、古いものをずっと使っていることが好ましく思われた。

町屋というと学生時代に短期間だが小学生の家庭教師をしたことがあった。
79年ころだから45年近く前、谷中から自転車で通った。
そこに行ってみる。
8:44
スーパーマーケット「コモディイイダ」
驚いたことにまだあった。
45年前、食料品の買い物は根津赤札堂であったが、ここに来たときはスーパー「イイダ」で買い物をして谷中に帰った。しめ鯖を買ったことを覚えている。
コモディイイダの名称は1997年かららしい。
8:48
うろうろしながら家庭教師宅を発見。昔ここは砂利道だった。
外階段を上がって住居階に行った。
8:49
当時1階は経営される会社の作業場だったような気がするが、40年以上たってアパートになっていた。バイトをやめて以後40年以上音信不通となったので今本人、ご家族がどうされているか知らない。

再び町屋駅前に戻る。
ここはターミナル駅ではないから、多くの商店はこの近所の住民のためにあるが、その割に多い。
町屋の住民は飲食、買い物が旺盛のようだ。
8:58
目立つのは焼肉屋。写真でも3軒写っている。
この通りに薬局が多いのは手前にメディカルセンター「Medium町屋」があるから。

8:59
京成線高架下、住宅と飲食店が混在する町屋らしい風景。
9:02京成町屋駅に戻った。

荒川区は山手線の内側を除くとずっと平地で、面積も狭いから(23区中22位)、自転車で動きやすい。
尾竹橋通りのほか、ダンス関連施設の多い日暮里、西日暮里駅周辺、歴史的名所のある南千住や区役所周辺も今まで散策してきた。
千駄木からは谷と山をいくつも越えないと目白台、小日向や小石川に行けない文京区よりも荒川区はずっと身近に感じてきた。

ひとつ気がついたことがある。
家から道灌山通を西日暮里駅に向かうと荒川区の入り口に表示板がある。
「荒川区 Arakawa Ward」
立っている場所は台東区谷中だが、反対の西側を見ると

「文京区 Bukyo City」
WardとCity
都道の上にあり形式も同じことから都が設置したのだろうか?
詳しい使い分けは知らないが、あえて区別する意味は何か?
ちなみに荒川区の公式サイトはArakawa City である。

(追記 2023‐05‐23)
先日、動坂下でふと上を見たら、道灌山通りと同じようにBunkyo Cityとあった。
2023‐05‐14
動坂下交差点、動坂上方面、Bunkyo City
振り向くと、
2023‐05‐14
田端駅方面、Kita Ward
北区も荒川区同様Wardであった。
これは明治時代に小石川区、本郷区として東京市であった文京区と、北豊島郡の農村部が昭和になって東京市に編入された北区、荒川区の差が出ているのではないか?
この説が正しいなら、やはり明治から東京市だった下谷区、浅草区が戦後合併した台東区もCityとなるはずである。
調べに行こうと思ったが、面倒なのでグーグルで見てみた。
都道306号明治通り
やはり、台東区はTaito Cityである。

23区は平等ではなく、旧東京市と周辺部は差があった。
個々の住民の中には自己満足のようなプライドをもつ人がいるのは分かるが、23区全体を見る行政が差をつけているのは不思議である。


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