4月25日、秋葉原にきた。
2021‐04‐25 10:58
ホームから万世橋が見えないかな、と南端まできたら橋の北詰がみえた。
手前の「大人のデパート・エムズ」はすっきりとした看板。
「選ばれて20年。皆様のエロをもっと応援します」という。
6階建てのデパートにはどんなものがあるのだろう?
秋葉原は3週間前の4月4日にも来た。
その時は万世橋から神田川を西に遡りお茶の水に行ったので、(別ブログ)
今回は川を東に下って墨田川まで行く。
電気街南口改札から出て大人のデパートを横に見ながら駅前南通りを渡る。
JRのガードをくぐって東側に出るとすぐ細い路地がある。
11:05
JRの東を通る歩行者専用の橋。
南岸に柳森神社(柳森稲荷)がみえた。
江戸時代、烏森神社・椙森神社とともに江戸三森の一つとして崇敬された。
1457年、太田道灌による江戸城築城の際、鬼門除けとして旧神田川のほとりに京都伏見稲荷を勧請し、土堤に柳の木を多数植えたことから柳森の名ができたという。
1659年、仙台藩がいまの神田川を掘削して、現在地へ遷座した。絵図を見れば当時も土手と川の間にあった。
東の川下を見ると和泉橋
国道4号と首都高1号線が通っている。流れはほとんどないが、汚いわけではない。
渡り切って親柱を見ると神田ふれあい橋と書いてあった。
11:08 道から見下ろす柳森神社
さして広くない境内には冨士信仰の浅間神社(写真右)、金比羅宮(正面)、明徳稲荷神社など摂社、末社が多い。
一番有名なのは「おたぬさん」の呼び名で親しまれている福寿神。
本来は、桂昌院が江戸城内にまつった福寿稲荷が起源らしいが、こちらに来てからは彼女を祭っているようである。
桂昌院は八百屋の娘であったが春日局に見込まれ、家光の側室になり綱吉を産んだ。彼女はお玉という名前であったことから玉の輿という言葉が生まれたとか。
しかしふつうは金銀宝石で飾った高価な輿をさすと思う。
他を抜いて(たぬき)出世したことから、タヌキの石像が作られ桂昌院の幸運にあやかりたいと大奥の女中たちはこぞってお狸様を崇拝したと言われる。これはいかにも江戸っ子らしいしゃれだ。
ここはお稲荷さんの狐像もあるが、タヌキ像が目立つ。上の写真の左に見える石像は、たぬきが巨大な睾丸を抱えているように見える。
玉に乗っているから玉の輿を表しているというのは考えすぎか。
11:11 和泉橋
この橋を北に渡ると東側に伊勢の津藩30万石、藤堂和泉守の上屋敷があった。
和泉橋を渡った西側は秋葉原駅の東口。
ここもだいぶきれいになった。
1868年討幕軍が江戸に入り、戦線が会津、東北に移ると討幕軍に属していたウィリアム・ウィリスの軍陣病院(横浜野毛山にあった)が藤堂家上屋敷に進出し、「大病院」と称した。
また、幕府直轄の西洋医学校「医学所」は明治政府に接収され、改元後の翌年2月、「医学校」と改称、下谷御徒町から大病院のあるこの和泉守上屋敷に移転、統合され、大学東校と称した。東大医学部の前身である。
ちなみに、種痘所が作られた神田お玉が池は、和泉橋の南、岩本町2丁目5番地辺りである。しかし池は江戸期に埋め立てられて幕末にはほんの小さな水面とお玉イナリが切絵図にある。
大学東校が本郷に移転したあとも和泉橋の病院は東大第二病院として機能していたが、明治34年の火災で全焼し、その後は東大の運動場として使われていた。
以前このブログ(薬学昔々)にも書いたが、
明治中頃以降、南と北の鉄道起点であった新橋と上野を結び、途中に中央停車場(のちの東京駅)をつくる計画が進んでいた。
駅の建設にあたり、予定地にあった永楽病院を移転させる必要がある。移転先候補地は東大第二病院がなくなって空き地になった、ここ神田和泉町。
ところが、戊辰戦争以来、我が国の最先端の西洋医学病院が置かれてきたこの地に、三井財閥は慈善病院を作ろうとした。明治40年、三井は小石川区雑司ヶ谷の土地を無償で提供、建物も寄付し、永楽病院は移転、のち東大分院となった。(別ブログ)
2021‐04‐25 11:20 三井記念病院
明治42(1909)年、三井総領家である北家第8代当主(三井八郎右衞門としては15代目)、三井高棟は三井従業員の福利厚生のためではなく、貧困者のための無料慈善病院を建てた。
診療は我が国最高と言われた東大病院の医師が担当したため、金持ちもぼろ着をまとって来院したという。
初めて見物に来たのは11年前の2010年6月2日。
このときは5年間にわたる全面建て替えの最中だったが、医療活動を続けながらであり、工事現場という記憶はない。工事終了は2011年。19階建て、482床。
前回は公園に面したこの入り口から病院に入り廊下を通りぬけられたが、この日は日曜だからか、閉まっていた。
明治40年
三井記念病院ができる直前の秋葉原駅周辺。
藤堂家上屋敷の西半分は一般私有地となり、東半分は東大第二病院が閉鎖された後、東京衛生試験所だけ残っている。
明治の初め、粗悪な輸入医薬品を検査、取り締まるための機関であった。
東京衛生試験所は、戦災にあって1946年世田谷に移転した。
1949年、国立衛生試験所と改称。
1997年、改組され、国立医薬品食品衛生研究所というらしい。昔は国立衛試と略せたが、今は何と呼ぶのだろう?
前身の東京司薬場所長の長井長義、次の田原良純(東京衛生試験所初代所長)は我が国最初の薬学博士である。
古い所長は名前を見てもわからないが、21世紀になってからの歴代所長をみると
首藤紘一 2000年4月~2002年3月
長尾拓 2002年4月~2006年6月
外口崇 2006年7月~2006年8月
西島正弘 2006年9月~2011年3月
大野泰雄 2011年4月~2013年3月
川西徹 2013年4月~?
奥田晴宏 ~2020年3月
合田幸広 2020年4月~
(wikiから)
1か月だけ(仮に?)勤められた外口崇氏以外は全員東大薬学部。
このうちかつての上司を含め5人は親しくさせていただいた。
官庁というのは面白い。民間と比べ、とにかく前例を大事にするところかもしれない。
11:26
11年前、藤堂家上屋敷地の東の通り、清洲橋通りに東京衛生試験所跡の標柱が1本あったことを思い出した。行ってみると、きちんとした説明パネルになっていた。
長らく用賀にあった国立衛生試験所は、2018年川崎市、多摩川河口に移転したことを今、書き終わってから知った。
別ブログ
20210412 万世橋と昌平橋から聖橋まで歩く
20210410 秋葉原2 ラジオセンターと秋葉神社
20170814 第31 永楽病院と東大分院
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