2021年4月14日水曜日

御茶ノ水3 明大通りを歩く。杏雲堂、日大、中央大

4月4日、秋葉原から神田川にかかる万世橋、昌平橋、聖橋を見ながら歩いてきた。
(別ブログ)

 2021‐04‐04 
駅前の御茶ノ水橋から北を見ると建て替えられた東京医科歯科大、順天堂大の巨大病院ビル。すっかり景観が変わった。

14:16
スクランブル交差点ときくとなぜかここが浮かぶ。
さだまさしの檸檬の歌詞にもあり。
そのころは若者であふれていたのに、今ここは薬局だらけになってしまった(別ブログ)。
 あまり多いと儲かりすぎているのではないかと勘繰ってしまう。
医薬分業というのは必要なのだろうか?
医薬品が粗悪だった時代は医師に任せると不安だったが、今や書いてある用法用量を守ればたいてい事故はない。

黒沢楽器、石橋楽器、お茶の水楽器、オーディオユニオン、下倉楽器、谷口楽器と、お茶の水らしい店がまだ残っていてまだ残っていて、ほっとする。

14:18
御茶ノ水橋から駿河台下に降りる通りは明大通りというらしい。
通りの西側に並んでいた明大校舎もすべてビルになってしまった。
駿河台下から西側を上がってくると、ヒマラヤスギ?のある古い本館?と立て看板など乱雑に並ぶ汚い校舎があったが、すっかり新しいビルになっている。

下倉楽器をすぎると左の角に佐々木研究所・杏雲堂病院。
佐倉順天堂で佐藤泰然らに、その後長崎でポンペについてオランダ医学を学んだ佐々木東洋が、大学東校病院院長を経て、1882年(明治15年)、ここに杏雲堂医院を設立した。
この界隈では済安堂・井上眼科に次いで二番目に古い。戦前まで、本郷の南から駿河台にかけては医師の邸宅と病院の集積地だった。

佐々木研究所は、東洋の養嗣子である佐々木政吉の養嗣子佐々木隆興が、政吉の自宅内研究所を発展させて1939年設立した。彼は吉田富三(第2代所長)とともに実験腫瘍学で学士院賞受賞、ノーベル賞候補にもなった。杏雲堂は今でもがん治療で知られている。

植え込みに大久保彦左衛門の屋敷跡という石碑があり、その向こうに銅像の後ろ姿が見えた。もちろん大久保ではなく、佐々木家三代の誰かであろう。

杏雲堂病院の東は日大の歯学部や理工学部などがニコライ堂の南、本郷通りまで広がっている。理工学部何号館だったか、CBI学会で来たことがある。

杏雲堂病院の横の歩道に法政大学発祥の地という説明板。
杏雲堂病院の東隣、旧日大病院の場所に明治13年東京法学社が設立されたとある。
社というのは有志による勉強会のようなものだろうか。
それが学会になることもあれば学校になることもあった。
駿河台はそういう土地柄である。

通りの西側は明大駿河台12号館(写真左、1994竣工12階)とアカデミーコモン(右、2004年竣工11階)。地下の明大博物館は以前入った。

14:24
さて通りの東側、杏雲堂病院の次の区画は主婦の友社があったところだが、日大病院になっていた。

この一帯は主婦の友社の子会社、御茶ノ水スクエア社がバブルのころ1987年開発しA館、B館、C館ができた。しかし経営が苦しく2001年日大が一帯を買収、北側のB館、C館は壊されて、すぐ北にあった1963年築の日大病院が2014年新築移転した。
カザルスホールなどもあったA館は残り、日大法科大学院となったが、2014年日大法学部のある神田三崎町に移転し、そのあとに理工学部の図書館が移転してきた。
日大公式サイトから
日大は6,9号館が2018年竣工18階建ての高層ビル、「タワー・スコラ」になった。
2014年の計画では5号館の敷地まで入る設計であったが、縮小された。

さて明大通りを続いて南下する。
日大理工図書館の南は明大紫紺館。2006年竣工、校友会館である。
学生時代このあたりでおいしい学食は中央大学と聞いたが見つからず、まだ古かったここに入った気がするが記憶はおぼろ。

14:26
明大紫紺館のとなりは内外地図があったはず。
中2階の店舗は楽器店になっていた。
昔はここがショールームのようになっていて全国の5万分の1地図が売っており、登山者などが買いに来た。私も地図が好きだったからたまにのぞいた。
1997年10月21日、ここで明治大正昭和の東京5枚地図セット「地図で見る東京の変遷」を買った。泉麻人が明治の原宿で渋谷川の水車を見つけたとエッセイで書いていた地図である。
当時私は東京の歴史より地形に興味があった。今のようにネットでデジタル標高地図が見れる時代ではなかった。明治初期の実測地図は建物や文字が少ないため都心でも等高線が書いてあり、それを赤鉛筆でなぞったりした。

ここは内外地図の自社ビルであり、店舗は6階に移動していた。
エレベーターで上がったら閉まっていた。

14:30 駿河台下交差点
辞書は三省堂 辞書はコンサイスという看板は意外だった。

交差点を渡り振り向くと明治大学リバティータワー23階建てがそびえていた。

以前この辺りはスポーツ用品店が集まっていた。
今でもビクトリア、石井スポーツなどはあるが、減った気がする。
昔はスキーやアウトドア製品も買うのにお茶の水まで来たものだが、いまはネットや家の近所のホームセンターで買う時代になった。

帰宅して、日大理工学部のキャンパス地図を見ていて、新しい日大「タワー・スコラ」18階建ての西隣に中大駿河台記念館があることに気づいた。
中央大学は私が大学3年生だった1977年に多摩キャンパス(八王子)が完成し、M2になった1980年、駿河台キャンパスを閉鎖、跡地は大正海上火災に売却、いま三井住友海上駿河台新館(22階建て)となっている。
中大記念館は1988年、創立100周年記念館として7階建てで竣工したが、周りに合わせて20階のビルに建て替えるらしい。2023年完成予定。
都心回帰の一環として中央の看板、法学部は茗荷谷に来るようだが、20階というのは学生も来るのかな?

かつてお茶の水、駿河台は若者の街だった。
日本のカルチエ・ラタンと言われ、たしかに中大、明大、日大、その他予備校、専門学校の学生が喧騒の中をたむろし、飲食店、書店、楽器、など若者文化の中心だった。ほかの大学の学食や校舎にも入れたから、一つのキャンパスのようだった。他大学の異性と出会うこともあったのではないか。

しかし中大が移転、周囲の商業ビルも高層化され景色は変わった。
近年大学にも都心回帰の流れがある。しかし校舎を高層ビルにしてキャンパスの収容学生数をむりやり増やしても、まるでビジネス街のようで、とてもカルチエラタンとは言えない。閉鎖的な箱に閉じこめられたようで、他の大学の学生と出会うこともないだろう。

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