薬学雑誌1907年度1454頁など
明治40年12月号の薬誌,東京通信にわずか4行の記事がある.
麹町区永楽町の当病院が,移転先予定地の神田和泉町(大学東校のあった場所)の土地を,三井家に譲った.三井から代わりに小石川の土地をもらったが,移転経費が不足する。費用負担について国と三井との交渉は不調に終わり,政府は追加予算を出すはずが,三井,その後不足額を建物として寄付することになったという話.
なぜこういう記事が薬学雑誌に出るか?
永楽病院とはなにか?
永楽病院は,正式名称,東京医術開業試験付属病院といわれた.
日本の医術開業試験は,明治16年10月に規則が公布,翌17年1月より実施された.逐次改正され,試験場も諸所を移転し,明治32年4月に,麹町永楽町におかれた.
つまり、かつて,医師は医学校を出なくとも試験に受かりさえすれば免許が取れた時代があったのである.漢方医や独学のものを医師として認定するには実際の患者を使った試験が必要だったのかもしれない.
ちなみに明治40年秋期の薬剤師国家試験は2日間の学科試験のあと10月7日から30日まで,正味15日間にわたる実地試験がここであった(薬誌1325頁).
つまり,永楽病院は内務省所管,医師,歯科医師,薬剤師の試験のための病院であり,患者の診療費は無料であった.
一方、東海道線は新橋どまりであったが、これを北に延ばし、中央ステーション(現東京駅)を作る話が持ち上がっていた。永楽病院の場所である。
当然病院はどこかに行かねばならない。その最初の予定地が神田和泉町だった。
最初の移転候補先には東京衛生試験所が見える(明治40)。
秋葉原周辺、万世橋あたりも面白い。広瀬中佐銅像は1910(M44)である。
永楽町旧跡地では,皇居接近地なるより土地清浄のため,また明治30年創立以来の入院死没者800余名のため,6月20日,追吊会(ついちょうえ)が開かれ,法要が営まれた.
南禅寺派前管長大導師勝峰大徹師以下,臨済宗の僧侶30余名参列,石黒男爵,後藤男爵,板垣伯爵代理など来賓,内務省衛生局,文部省専門局,病院職員,遺族などが参集するや,荘厳なる式が始まり,(以下略,薬誌1908年度749頁).
雑司ケ谷に移った永楽病院だが、しかし,法改正で医科大,医専を出ねば免許が取れなくなり,大正の初め頃から旧制度での受験者は急減した.
もはや医術開業試験のために病院を持つ必要がなくなり,1917年(大正6年)永楽病院は廃止され,土地と建物の大部分が東大に無償で交付された.
「そうか!」なぜ東大付属病院の分院が,東大の歴史に関係ない目白台にあったのか,私はこの薬学雑誌の記事で初めて理解した.しかし分院は2001年に廃止され,今は国際交流センターとか、留学生宿舎とか、なんかそんな施設になってしまって、
この話ももはや意味がない.
ただ、神田和泉町には、いまも三井記念病院がある。
1909年、東大第2病院の跡に三井従業員のためではなく、貧困者のための慈善病院として建てられた。東隣の東京衛生試験所は、戦災にあって1946年世田谷の現在地に移転、49年に国立衛生試験所と改称した。
千駄木菜園 総目次
0 件のコメント:
コメントを投稿